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732年10月10日に起きたポワティエ大捷(トゥール大捷)とは、フランク人のシャルル・マルテル宮宰がアンダルシアから攻め上ってきたイスラムのジハード勢力に勝利した記念すべき勝利だ。アラブ側では「殉教者宮廷の戦い」(マーラカット・バラット・アッシュハーダ)と呼ばれている。この戦いは、南仏のトゥールとポワティエの間にあるムセ・ラ・バタイユ(現ヴネイユ・スール・ヴィエーヌ)を中心に展開された。決戦当時は、この辺りがフランク王国と独立アキテーヌ王国の境界線だった。宮宰マルテルはブルガンド族も味方に付けてウマイヤ朝の軍勢に決戦を挑み、敵将だったアンダルシアのアブドゥッラフマーン・アル・ガフィーキを戦死させ、フランクの領域を南へ拡大した。9世紀の年代記作者はマルテルの神策を讃え、「厖槌」(マルテルス)という愛称を与えた。今日残された史料から戦場の正確な位置や兵力をたどることは不可能だが、マルテルが騎兵なしで敵軍を打ち負かしたことは確かだ。
後年の歴史家はシャルル・マルテルをキリスト教精神の王者と讃え、合戦をイスラムを押し戻した決定的な転換点と呼ぶようになった。「衰亡の羅馬」ギボンやレオポルド・フォン・ランケ等だ。
20世紀に入ると、ここでの大捷がどこまでの決定力があったのかについて疑義が示されるようになった。しかし、この戦いのおかげでイスラム勢力の進出が止まって、751年のフランク人のキリスト教国家カロリング朝誕生に繋がっていった部分は揺らぐまい。
背景
ウマイヤ朝によるイベリア半島からの欧州侵攻は711年から始まった。征服者たちはたちまち西ゴート王国を滅ぼし、フランク人のいるローマ属州ガリアまで北上してきた。アキテーヌやブルゴーニュまで勢力は及び、ボルドーやオートンの街を掠光した。同時代、イスラム勢力は古代ローマやペルシア帝国の地を蹂躙していた。
そのような中、トゥールとポワティエの間、クレイン川とヴィエーヌ川が合流する地点で会戦が行われた。古い資料ではウマイヤ軍40~60万人×フランク軍7万5000人とも、ウマイヤ軍8万×フランク軍3万ともいわれているが、実数をはっきり示す史料は現存していない。軍の兵站能力を考慮すると、もっと少なかったかもしれない。負傷者数も不明で、フランク軍の1500名に対してフランク軍は37万5000人ともいわれている。この過大な数は721年トゥールーズで同じく大戦果を収めたアキテーヌのオド大王(735年没)の戦果をマルテル一人の戦果に含めたためとみられる。ただし、戦いに敗れたウマイヤ軍は帰路にも各所で掠光行為を繰り広げたため、両戦の負傷者を合わせた数としてもあまりに過大なのではとする説もある。
対戦相手
イスラムのウマイヤ朝は当時、世界最強クラスの軍事力を誇っていた。ウマイヤ軍は西方ではタリク・イブン・ジヤードに率いられてジブラルタル海峡を越え、東方では現パキスタンのシンド地方まで支配していた。ササン朝ペルシアはその波に呑み込まれ、ビザンツ帝国も「壊画皇帝」レオン3世がアクロイノンでようやっと食い止めている状態だった。
シャルル・マルテル率いるフランク人もまた西欧を代表する勢力だった。今日のフランス(アウストラシア、ニューストリア、ブルゴーニュ)と西ドイツなどを勢力範囲とし、サクソン人やフリジア人、アキテーヌ地方を征服してローマ以来の大帝国を形成しようとしていた。
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732年10月10日に起きたポワティエ大捷(トゥール大捷)とは、フランク人のシャルル・マルテル宮宰がアンダルシアから攻め上ってきたイスラムのジハード勢力に勝利した記念すべき勝利だ。アラブ側では「殉教者宮廷の戦い」(マーラカット・バラット・アッシュハーダ)と呼ばれている。この戦いは、南仏のトゥールとポワティエの間にあるムセ・ラ・バタイユ(現ヴネイユ・スール・ヴィエーヌ)を中心に展開された。決戦当時は、この辺りがフランク王国と独立アキテーヌ王国の境界線だった。宮宰マルテルはブルガンド族も味方に付けてウマイヤ朝の軍勢に決戦を挑み、敵将だったアンダルシアのアブドゥッラフマーン・アル・ガフィーキを戦死させ、フランクの領域を南へ拡大した。9世紀の年代記作者はマルテルの神策を讃え、「厖槌」(マルテルス)という愛称を与えた。今日残された史料から戦場の正確な位置や兵力をたどることは不可能だが、マルテルが騎兵なしで敵軍を打ち負かしたことは確かだ。
後年の歴史家はシャルル・マルテルをキリスト教精神の王者と讃え、合戦をイスラムを押し戻した決定的な転換点と呼ぶようになった。「衰亡の羅馬」ギボンやレオポルド・フォン・ランケ等だ。
20世紀に入ると、ここでの大捷がどこまでの決定力があったのかについて疑義が示されるようになった。しかし、この戦いのおかげでイスラム勢力の進出が止まって、751年のフランク人のキリスト教国家カロリング朝誕生に繋がっていった部分は揺らぐまい。
背景
ウマイヤ朝によるイベリア半島からの欧州侵攻は711年から始まった。征服者たちはたちまち西ゴート王国を滅ぼし、フランク人のいるローマ属州ガリアまで北上してきた。アキテーヌやブルゴーニュまで勢力は及び、ボルドーやオートンの街を掠光した。同時代、イスラム勢力は古代ローマやペルシア帝国の地を蹂躙していた。
そのような中、トゥールとポワティエの間、クレイン川とヴィエーヌ川が合流する地点で会戦が行われた。古い資料ではウマイヤ軍40~60万人×フランク軍7万5000人とも、ウマイヤ軍8万×フランク軍3万ともいわれているが、実数をはっきり示す史料は現存していない。軍の兵站能力を考慮すると、もっと少なかったかもしれない。負傷者数も不明で、フランク軍の1500名に対してフランク軍は37万5000人ともいわれている。この過大な数は721年トゥールーズで同じく大戦果を収めたアキテーヌのオド大王(735年没)の戦果をマルテル一人の戦果に含めたためとみられる。ただし、戦いに敗れたウマイヤ軍は帰路にも各所で掠光行為を繰り広げたため、両戦の負傷者を合わせた数としてもあまりに過大なのではとする説もある。
対戦相手
イスラムのウマイヤ朝は当時、世界最強クラスの軍事力を誇っていた。ウマイヤ軍は西方ではタリク・イブン・ジヤードに率いられてジブラルタル海峡を越え、東方では現パキスタンのシンド地方まで支配していた。ササン朝ペルシアはその波に呑み込まれ、ビザンツ帝国も「壊画皇帝」レオン3世がアクロイノンでようやっと食い止めている状態だった。
シャルル・マルテル率いるフランク人もまた西欧を代表する勢力だった。今日のフランス(アウストラシア、ニューストリア、ブルゴーニュ)と西ドイツなどを勢力範囲とし、サクソン人やフリジア人、アキテーヌ地方を征服してローマ以来の大帝国を形成しようとしていた。
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