さぁ、今日も元気で、行ってきま~す!

息子2人もそろそろ独立間近。親たちの介護もだけど自分の老後も考えねば!今年こそはワンコ飼いたい!毎日体力増強ちうデス

突然の・・・

2005-10-17 23:08:21 | ひとりごと
前回のブログを書いた日の翌朝7時過ぎに電話が鳴った。

「おばあちゃん(姑さん)の容態が急変したって知らせが今入った。今から大宮へ向かう。」
横浜に単身赴任中の父さんからだった。
その前の週の金曜日の夜に、軽い風邪を引いているので、用心のために入院させるとの連絡が入っていた。
そして、8時前に「さっき亡くなったと連絡が来た」と再度電話。

阪神大震災の直後、私達は与野(現さいたま市)に住んでいた。
父さんの姉も浦和(現さいたま市)に住んでいた。
その少し前より、おばあちゃんは自分の妹2人と3人で住んではいたけれど、高齢者ばかりの共同生活の中で、独り身に近い心細さを、始終訴えるようになっていた。
自分にとっては異郷の地ではあるけれど、自分の娘・息子が住む関東で生活しようと決意をしたのは、地震直後のことだった。
そうしておばあちゃんはサリン事件の前日に浦和に住む娘の家を終の棲家とすべく上京した。
しばらくは穏やかな日々が続いていた。
私達家族も車で30分とかからない所にいたので、よく行き来していた。
それが、1年半後にはなんという事か、私たち家族に大阪転勤と言う大事件が起こった。
私達が大阪へ引っ越した直後から、おばあちゃんの様子がおかしくなった。
明らかに今で言う、認知症の症状が出始めた。
それでも、お義姉さんは出来るところまで、自分の手で面倒みたいと、3年ほど頑張ってくれた。

おばあちゃんにとっては、自分の認識が混乱していくこの時期が一番かわいそうだったんじゃないかと思う。
そんな経緯があり、お義姉さん自身の精神状態にもかなりの影響を及ぼすようになってきた。
2000年夏。東京青梅市にある、療養型の施設(いや病院かな)に入所することが出来た。
ここでは本当によくしてもらった。可愛いおばあちゃんだった。
青梅にいた4年間におばあちゃんの妹が2回、お見舞いに行ったが、2度目はもう完全に妹であると言う認識は得られなかった。
月に一度は尋ねる父さん(自分の息子)はもちろん、月のうちに何度か尋ねるお義姉さんの家族すら、判らなくなっていたのだから無理ないが。
それでもここでの4年間はおばあちゃんにとっては、本当に穏やかな日々だったと思う。
今年8月に、もう少し近くならば、もっと頻繁に様子を見に行ってやれるのにとのお義姉さんの希望から、大宮に新しく出来た介護施設へ転院させ、新しい生活にやっと慣れてきたところだった。
9月の最初の連休前に、軽い咳が出て用心のために入院したのだが、時期だったのか風邪がきっかけだったのか、本当にあっけなく旅立ってしまった。85歳になったばかりだった。安らかな旅立ちだったのがせめてもの慰みか。
十数年はなれて生活していたし、姑と言う特別の立場の人なので、自分の親ほどの辛さはなかったけれど、元気でいてくれたらなと言う気持ちは大きかった。

そしてその数日後に、その与野にいたときの、私の最も信頼していた友達が、53歳で亡くなったという知らせが入った。
知らせを聞いたとき一瞬、時間が凍りついたような気がした。
こんな形で、親しい人たちとの別れが、こんなに突然にやってくるなんて・・・

正直言って、9月終わりから10月はじめは、落ち込みました。
私も、そういう別れが段々増えていく年代になってしまったんやなぁ・・・

どういっても否めるものではないけれど、歳はとりたくない・・・ですね。