【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =062=

2017-12-05 06:00:54 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己 :12pt太字 黒

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 = :10ptグレー

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠

◇◆ マッキンリーの氷雪に消えた _終章_ =5/5=  ◇◆

 大谷映芳氏はチーフ・レンジャーのグリフィスとともに4200m地点に下り立ち、雪洞を発見。装備と日記があった。近くにテントを設営、天候が回復した25日、2人はウェスト・バットレスを登って、4900m地点の雪洞を発見、食べ残しの食糧、装備の一部を見つけた。

 以上の事実から推定されるのは、4900mの雪洞からウェスト・バットレスを下りてくる途中で、何らかの理由で植村が遭難した、ということである。あるいはクレバスに落ちたのかもしれない。

 しかし、橋本清氏が率いる明治大学第一次救援隊は、さらに執拗に植村を捜し求めた。

 2月25日に、マッキンリー登山の基地タルキートナについた一行5名は、悪天とたたかいながら登はんを続け、4900mの雪洞のさらに上、5200m地点に新たな雪洞を発見した。隊員たちは緊張しながら中に入ったが、そこに植村の姿はなかった。

 きちんと整理された装備と食糧があり、吹き込んだ雪がその上に積もっていた。装備はまぎれもなく植村のものであり、全部で35点あった。隊員たちは、それをすべて橇にのせて下山した。

 救援隊メンバーの名前を挙げておくと、松田研一、中西紀夫、高野剛、米山芳樹の各氏。みな植村の若い後輩たちである。

 5200m地点の雪洞の発見によって、植村遭難の謎が残った。

(1)もし下山途中、5200m地点の雪洞を見失って4900mの雪洞にたどりついたのだとしたら、ウェスト・バットレス下降中の事故はあり得る。

(2)しかし、5200m地点の雪洞はわかりにくいところに作られてはいない。見失ったとは考えにくいとすれば、この雪洞までの下山途中で植村は事故にあったことになる。とすれば、13日午前11時に「2万フィート」(約6000m)地点にいると交信した植村は、いったいどこにいたのか。

(3)そしてさらに、ダグとトーマスが16日に4900m地点の雪洞で植村らしき影を見た、と証言しているのは、何かの錯覚だったのか。

 私は無理にこの謎を解く必要はない、と思っている。にもかかわらず、冬期マッキンリー登頂と遭難の行程をこまごまと追ったのは理由がある。冬期マッキンリーはすさまじい悪天候が支配していて、一瞬の油断もゆるされない山だった。植村はそれを十分に承知していて、その上で「何が何でもマッキンレー、登るぞ」と自らを励ましていたのだ。その彼の心情に少しでも近づくために、この凄絶ともいえる登山を追ってみたのである。

 なお、同級生の廣江研氏らをメンバーとする第二次捜索隊が4月17日に日本を出発した。一行は実に徹底的に一帯をさがしたが植村は見つからなかった。

 植村直己という男の軌跡を、長々とたどってきた。そのことが何のためなのか、あるいは何かのためになるのか、私にはわからない。

 ただ一つはっきりしているのは、植村直己とは結局こういう男だったのだ、というふうな思考を極力避けようとして、このような長い話になったことである。

 という前置きをしていうならば、やはり植村は類稀な一種の天才だった。一種の、とことわるのは、冒険とかサバイバルということにおいても、他の分野と同じように天才というしかない才能があるのだ。それを私は長いつきあいのなかで存分に知らされたように思う。

 その天才をまっとうに生きようとすれば、冒険のなかで死ぬことだってある。「冒険とは生きて帰ること」と彼が呪文のように唱えつづけたのは、自分の天才性に(あるい並はずれた欲望に)詢じて生きることの危うさを彼は直感的に知っていたからではないか。 

 植村がマッキンリーの氷雪のなかに消えてから28年が過ぎた。その歳月が経過して、私はいよいよそのことを痛感している。彼は43歳で死んだのだが、そのときもなお青春の輝かしさのなかにあった。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ= マルコ・プレゼリ & マリオ・パンツェーリ

 マルコ・プレゼリ : クルティカと並ぶ90年代最強の一角。盟友アンドレイ・シュトレムフェリと共にアルパインスタイルで数々の未踏壁、新ルートを開拓したビッグウォールクライマー。

1か月のあいだに、マルコはリュブリャナ大学で化学工業学の学位を取得し、カチャと結婚し、父親になった。このめまぐるしい出来事はマルコがアルパインクライマーとして何年もかけて学んだこと、つまり限界とは自己の頭の中にあるものだということを裏付けた。マルコが山に惹かれるのは、日々の結果が神秘であるからだ。

ネパール、チョー・オユーの北壁の新ルート登攀 / ネパール、カンチェンジェンガの南稜の新ルート登攀 / ネパール、マカルーII峰の新ルート登攀 / チベット、メンルンツェ主峰の初登 / カリフォルニア州ヨセミテ、エル・キャピタンの「ワイオミング・シープ・ランチ」第5登 / パタゴニア、パイネの北塔北壁の「ボーン・アンダー・ザ・ワンダリング・スター」初登 / ネパール、ギャチュンカンの北壁初登 / カナダ、ノース・ツインの北壁の新ルート開拓 / パタゴニア、セロ・トーレの「ロング・ラン」登攀 / パタゴニア、セロ・スタンダルトの「エクストリーム・エモーションズ」登攀 / パキスタン、カラコラムのK7ウエストの初登 / イラン、ビソトゥーン・ウォールの「ペルシャン・キャット」初登 / アラスカ、デナリの「ライト・トラベラー」初登 / インド・ヒマラヤのバギラティIV峰、III峰、II峰にて初登

マリオ・パンツェーリ :  イタリア人4人目の8000峰全14座登頂(全て無酸素)。エベレストは重廣・尾崎隊のルートを無酸素で二度挑んだが敗退。3度目の南東稜でようやく登頂という努力と根性の人。 2012年のダウラギリでは悪天候続きで多数の登山隊が登頂を諦めて撤退する中、数少ない好天を衝いて見事登頂。この年に登頂できたのは竹内洋岳ら僅か9人だった。

動画資料: Gaston Rébuffat : Etoile et tempête =クリック➡

https://youtu.be/hBjbkCNbvJk

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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