【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

小説・耶律大石=第一章_02節=

2015-03-15 18:58:08 | 歴史小説・躬行之譜
 

 燕京の動向を怜悧な刺眼で見詰めている友安禄明に連絡を取らねばと 大石は襟元からさし込む寒さに 一度身を震わせ、何時も身近に控える耶律時に声をかけた。 二人は乾燥した羊の糞を小枝を火種にして燃やす焚き火を見詰めている。

 「明日も 苦労を掛けるな」   「めっそうもない、耶律楚詞さまが・・・・」

 だが、大石の胸裏には耶律楚詞は 今 存在しなかった。 

 満天の空、月は冴え 星は個性を競いう。 流れ星が走ったが その流星に二人は気が付かなかった。 会話は途絶えている。 月明かりが その光を増しようだ。  牛車を仮のねぐらにして、秦王・耶律定皇太子が蕭徳妃に抱きかかえられるように眠っている。 炎を見詰める二人を円陣で囲むように三十数余の将兵が羊の皮に身を包んで蹲っている。 遅秋とは言え、砂漠縁辺の夜は寒い。 耶律時はこれから信服する耶律大石が会いに行こうとする遼帝国が天祚皇帝の甥である耶律楚詞を思っていた。 耶律大石は燕京の動向をおもっていたのであろうか・・・・・・・ 

 

 宋の第8代皇帝徽宗は文人・画人としての才能を持ち、絵画・建築・造園などに優れていた。 百官の宮廷人は彼の絶対的な権力と才能に畏怖していた。 また、後世の文人・博識地人は彼をして芸術面では北宋最高の1人と言わしめているのである。

 皇帝徽宗(キソウ)は、自己の宮庭に 造園に必要な珍花・名木・奇石、特に太湖石を全土より集めた。 そのため、童貫(ドウカン)や蔡京(サイキョウ)、後には蔡京の推挙した朱勔(シュキン)らを収集の責任者に任じ、集めさせた。 皇帝の意向は絶対であった。 調達させた珍花・名木・奇石などは花石綱(カセキコウ)とよばれ、国政的な重要事業として扱われた。 その調達は、主に中国南部の江南地方で行われた。 目に留まった花石綱は強制的に買い上げ、あるいは強奪し、運河や陸路を利用して首都・開封へ運ばせた。

その方法たるや、
・ 陸路で輸送する際は、邪魔になる民家を取り壊す。
・ 運河で輸送する際は、邪魔になる橋を取り壊す。
・ 運搬に際しては、原型を留めるため、大小に関わりなく 丁寧な梱包が義務づけ行われた。

 このような強引な調達方法や、運搬にも多額の費用・労働力がかかったことから民衆の恨みを買った。その結果、「朱勔を誅せよ」と掲げた方臘の乱(ホウロウノラン)を初めとする民衆蜂起が、江南地方一帯で発生する。  宋の圧政に反旗を翻した民衆の指導者たちは、何時しか 江南の梁山泊に屯し、徒党を組んだ。 天魁星と呼ばれる英雄の宋江(ソウコウ)が彼らを束ねていた。

 1120年、中国の江南地方 花石綱収集を直接の原因とし徽宗が行った種々の苛政を背景にして、漆園の経営者で“喫菜事魔(マニ教)の徒”である方臘(ホウロウ)の主導によって 民衆蜂起が発生した。 反徒は役所や寺、道観、学校を襲撃して官吏を殺害し、一時期は江南の13州53県が反乱軍の手に落ちた。 方臘は自らを聖公と名乗り、永楽という年号を定めた。

 折りしも北宋では、海上の盟に則り、遼攻撃に備えて禁軍遠征部隊を編成していた。 そこから15万を割き、童貫(ドウカン)を総司令官として南征軍を編成し、方臘討伐を開始した。 童貫は去勢され男性機能を失ったはずの宦官でありながら、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした体躯で顎鬚まで生えていたという怪人物であり、将軍として南下した。 


 童貫が長江を渡渉すると、方臘は銭塘江流域の睦州清渓に移動し童貫軍の攻撃に備えた。 反乱勢力の抵抗は長引き、童貫軍は反乱勢力下に住まわるマニ教信徒数十万人を殺し尽すという過酷な戦の末に、王淵(オウエン)麾下の将校の韓世忠の活躍などにより 1121年4月、方臘を捕え 開封府にてこれを処刑した。

 

しかし、 方臘の反乱と、童貫軍の激しい略奪もあいまって、江南の疲弊は大きなものとなった。 この乱の平定に加わった将軍の中に、先に反乱を起こした梁山泊の天魁星将軍宋江(ソウコウ)が参加していた。 宋江は率いる反乱軍を河朔(黄河北岸)に興し、1121年に淮南の諸地方を荒らした後、官軍の追討を受けて京東(北宋の首都開封の東、現在の山東省西部)、江北(長江北岸)を転戦し十郡を攻略していた。

 宋江は、もともと地主の次男坊で県の胥吏(小役人)を務めていた。 風采のあがらない小男だが、義を重んじ困窮する者には援助を惜しみなく与えることから世間の好漢に慕われていた。 天賦の指導者・宋江の勢いを恐れた北宋朝廷は彼の罪を赦して将軍に取り立て同時期に江南を席巻していた方臘の乱の反乱軍討伐に彼を遠征させていた。 

 宋江は、方臘配下の反乱軍討伐に活躍する。 しかし、事が成った後 朝廷の腐敗した高官により無実の罪に陥れられた。 朝廷は毒にての刑死を彼に計が、九天玄女が遣わした彼によく似た保義郎が毒を仰いで宋江を梁山泊に逃がした。 時に三十歳の宋江は、紆余曲折の末に 山東省済寧市梁山県に屯する梁山泊軍の総首領に納まり、燕京の大商人・盧俊義(ロ・シュンギ)を副頭領として朝廷に戦いを挑んでゆく。 盧俊義は北遼帝国の耶律大石統帥の親友安禄明の父親安禄衝の配下であった。 

 

 耶律大石統帥が目指す陰山・五原には帝都を放り出した天祚帝が逃避していた。 天祚帝は遼帝国の第9代皇帝。 第8代皇帝・道宗の子 聡明な皇太子・耶魯斡(梁王濬/ヤリツシュン)の長男として生まれている。 幼名は阿果。 しかし 太康元年(1075年)11月 父・梁王濬(皇太子)が政争に巻き込まれ、無実の罪に陥れられた。 誣告の虚言を信じた皇帝・道宗は皇太子・梁王濬を幽閉する。 誣告者・耶律乙辛は幽閉先で皇太子を暗殺してしまう。 

 幼くして父を失った阿果と妹の秦晋国梁王濬長公主は、これを哀れに思った祖父の道宗によってとともに養われ、梁王に冊封された。 皇太子・梁王濬が早逝した後、皇帝道宗は甥の涅里を一時的に皇太甥に定めるも、周囲の諫めを受けて孫の阿果を皇太孫と定めて政権を安定させた。  

 しかし、道宗の治世は、皇帝の暗愚と奸臣の専権によって忠臣が迫害されたり、貴顕間の軋轢が続いたりして、朝政は乱れに乱れた。 また、土地の兼併が進むにつれて民衆の不満が募り、ことに圧迫を受けた東北の女真は反抗に立ち上がった。 

 女真の反乱は、道宗の没後25年目に遼を滅ぼす烈火となるのであった。 従って 次代に災禍の種を存分に蒔いた道宗の47年に及ぶ治世は、遼を全盛から衰亡へ導いた半世紀と言っても過言ではない。 乾統元年(1101年2月12日)、第8代皇帝・道宗の崩御により 梁王・阿果が遼の第9代の皇帝・天祚帝として即位した。

 

・・・・・続く・・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

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