【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

“難民の父”/ フラム号で北極点へ=07=

2017-12-19 06:05:17 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 19世紀末 探検家ナンセンは大胆な企てに乗り出した =フラム号の軌跡= ◎○

= Webナショジオ_“北極探検 この物語”に転載・補講 & 世界のスーパーアルピニスト =

流氷の流れを利用して北極点への到達する冒険を開始_氷の世界の1,000日_

◇◆ 一回目の漂流、流氷に乗って北極点へ◆◇

  ノルウェーの祝日を祝った2日後の5月19日、フラム号は北緯81度を通過し、北向きの速度はやや速くなっているが、それでもやっと1日1マイル (1.6 km) に過ぎなかった。 北極点に達するには橇の旅が必要になるという考えが確信になってきて、9月には隊員全員に1日2時間、スキーの練習をするようにナンセンは命じた。 11月16日、北緯83度を過ぎれば、自分と隊員の1人が船を離れて北極点に向かう行軍を始めるという意図を隊員に明かした。

  計画によれば、その2人は北極点に達した後にゼムリャフランツァヨシファに向かい、その後にスピッツベルゲンに渡って、故郷へ連れ帰ってくれる船を見つけることを期待していた。 その3日後、ナンセンは、隊員のなかでも最も犬橇の経験を積んでいたイェルマー・ヨハンセンに、極点への旅の同行を求めた。 目標を達成するためには、ナンセンは船を降りて、犬ぞりで氷上を進むしかないとその決意を語っている。

  他方、乗組員はその後の数か月間で、北極点に向かって突き進む旅の準備をした。 荒い地形でも早く進むことができるような橇を作り、海上を渡ることも予測されたので、イヌイットのものをモデルにしてカヤックを作った。 特別の衣類やその他の装置については、終わりの無い試験が行われた。 1895年1月3日、激しく長い振動が船を震わせるようになり、2日後には船が潰される可能性を考えて、隊員が下船した。 しかし、圧力が弱まり、隊員は船に戻ってナンセンの旅の準備を再開した。 フラム号はアドルフ・グリーリーが作っていた最北端の記録北緯83度24分を越え、1月8日には北緯83度34分に達していた。

  1895年2月17日、ナンセンは妻のエヴァに別れの手紙を書き始め、もし自分が災難に遭った場合は、「貴女のイメージが私の最後に見るものになることを知ることになるだろう」と記していた。 また、北極点の後で目標にするゼムリャフランツァヨシファに関するものは何でも読んで勉強していた。 この多島海は1873年にジュリアス・ペイアーによって発見され、まだ地図化も不十分だった。 しかし、無数のクマやアザラシが生息しているのが明らかであり、文明世界に戻る旅で優れた食糧源だと見ていた。

  ナンセンは同行者としてヒャルマー・ヨハンセンを選び、3月14日、フラム号を後にした。 船は北緯84度4分に達していた。 フラム号が前途の無事を祈って祝砲を撃ち鳴らすなか、ナンセンとヨハンセンはスキーを履いて3台のそりを引き、2艘のカヤックを運びながら、28頭の犬とともに北を目指した。 ナンセンとヨハンセンは遂に北極点行を始めた。

  これは船を離れようとしたことでは3度目であり、2月26日と28日にも試みていたが、短い距離を動いた後に橇が損傷して、戻って来ていた。 これらの失敗の後でナンセンはその装備を完全に点検し直し、旅の物資を最小にし、重量を再計算して橇を3台に減らし、再度出発命令を出した。 最初の夜は支援隊が着いて行ってキャンプを共にした。 翌日ナンセンとヨハンセンだけが進んだ。

  二人は初めには主に平坦な雪原を進んだ。 ナンセンは北極点まで356海里(660 km)を50日で進むことにしており、1日の平均進度は7海里(13 km) にしていた。 3月22日、六分儀の観測で北極点に向かって65海里(120 km)来ており、1日平均では9海里(17 km)以上を進んでいた。 これは-40°F (−40°C)前後と大変低い気温にも拘わらず、また進んだ距離を記録した橇の記録計が無くなるなど小さなトラブルがあったにも拘わらず成し遂げられていた。

  しかし、雪の表面が平らではなくなり、スキーでの移動が難しくなると、その速度が落ちた。 3月29日の六分儀による読みは北緯85度56分まで来ており、1週間で47海里(87 km)北極点に近づいたが、1日当たり平均進度が落ちていることも示していた。 さらに心配になったのはその日の経緯儀の読みでまだ北緯85度15分にしか来ていないことになり、どちらが正しいのか知る術がなかったことだった。

  二人は南への漂流と戦っているのであり、進んだ距離が必ずしも北向きの進度にはなっていないことを理解した。 ヨハンセンの日記では、「私の指はすべて潰れている。ミトンが硬く凍っている。...だんだんと悪くなる。...これから我々に何が起こるかは神のみぞ知る」と沈みがちな心を示していた。

  出発して間もなく、二人は数々の困難に直面している。 複雑に入り組んだ氷原に行く手を阻まれ、装備は不具合を起こし、流れが速く不安定な氷により、思うように前進できなかった。 食料が乏しくなると、体力の衰えた犬を殺してほかの犬の餌にした。 ナンセンは妻のエヴァに生還を約束していた。 彼にとって、命がけで北極点に到達して名声を獲得するよりも、生きて故国に戻ることの方がはるかに重要だった。

4月3日、進むのが難しかった日の後で、ナンセンは一人で、北極点が到達できる範囲にはないのではないかと疑い始めた。 雪原の状態が改善されなければ、北極点とその後のゼムリャフランツァヨシファに達するまでに食料が絶えることになってしまう。 翌日、その位置を計算して、北緯86度3分にしかなっておらず、落胆した。 ナンセンはその日記に「私は次第に早めに戻るべきだと確信するようになってきた」と心情を吐露していた。

4月7日にキャンプを設営した後で、ナンセンは前方に伸びる道をスノーシューズで偵察したが、「地平線まで伸びる氷の塊の本物の混沌」を見ただけだった。 ナンセンはそれ以上北には進まないことを決め、ゼムリャフランツァヨシファのフリゲリ岬を目指すことにした。 ナンセンは最北端となったキャンプの位置を北緯86度13.6分と記録した。 グリーリーの最北端記録を約3度(169.6海里、314 km)更新していた。 北極点まではまだ364キロも離れていたが、そこは、それまで誰も足を踏み入れたことのない地だった。

 ナンセンは妻のエヴァに生還を約束していた。 彼にとって、命がけで北極点に到達して名声を獲得するよりも、生きて故国に戻ることの方がはるかに重要だった。 慎重に考慮した末、ナンセンは引き返す決断を下した。 二人が目指したのは、すでに遠くまで漂流しているであろうフラム号ではなく、1000キロ南にあるフランツ・ヨシフ諸島だった。 ナンセンとヨハンセンは不安定な氷の上を移動することとなる。 危険をきわめた二人の旅は、極地探検の歴史上、最も悲惨で厳しいものであっただろう。 その後、何カ月にもわたって、二人は犬を次々と殺して、食料とした。 時には、犬の血を煮詰めたものをすすり、飢えをしのいだという。

動画資料 : クリック➡

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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