その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に
○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった” ◎○
◇◆ カーネーション事件と脱出の失敗・・・ ◇◆
コンシェルジェリー(獄中)のマリー・アントワネットのもとには、いつも見知らぬ面会人がやって来た。 守衛にお金を払うと、誰でもアントワネットと面会ができた。 どれも見知らぬ人なので、アントワネットはいつも無視を決め込んでいた。 が、ある時、監視責任者のミショニが連れてきた面会人は見覚えがあった。 聖ルイ騎士団のルージュヴィルというこの人物は、民衆がテュイルリー宮殿に乱入したところを助けてくれた人物である。 彼は初対面を装っていたが、ボタンホールにさしたカーネーションを抜き取ると、床に捨てて目配せをした。
あとで拾ってみると、花の中には手紙が入っていて、救出の計画があること、しかるべき味方がいること、ミショニもその1人であること、買収用のお金が用意されていることなどが書かれていた。 2日後、再びルージュヴィルがやってきて、買収用の資金、金貨400万ルイ、紙幣1万リーブルを渡し、脱出は2日後であることを告げた。
アントワネットは、手渡された軍用金で監視兵を買収することに成功。 決行の夜、ミショニとルージュヴィルが独房に来て、マリー・アントワネットをタンプル塔に移すことになったと牢番や監視兵に告げた。 監視兵に付き添われ、いくつもの扉をくぐり、最後の扉を潜り抜けると、そこには逃走用の馬車が用意されているというときに、監視兵がアントワネットを外に出すことに反対しだし、騒ぎになって計画が失敗に終わる。
脱走計画が露見してしまい、関係者に対する尋問を保安委員会が始まった。 ルージュヴィルはうまく逃走することができたのですが、ミショニは逮捕され、翌年6月に処刑されることとなる。 この事件をきかっけに、それまでマリー・アントワネットに対する裁判に積極的ではなかった革命推進の穏健派の中も、一変して裁判への動きが強くなって行く。
一昨年(1793年)の1月、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑に処していた。 息子である王位継承者のルイ17世(ルイ・シャルル)はジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、下僕以上のぞんざいな扱いを受けていた。 1794年8月2日にコンシェルジュリー監獄に移送された王妃マリー・アントワネットが息子の王太子に会ったのは昨年の10月、獄舎の管理は厳しくなかったが、脱走計画が露呈してからは自由が束縛され、革命裁判の被告席に立たされることに成った。 その裁判の結果は初めから決まっていた。 急進化する革命裁判所は多数の反革命分子を処刑するため、王妃のアントワネットを最初の生贄として、急進派は欲していた。
しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。 業を煮やした裁判所は息子のルイ17世の非公開尋問をおこない、「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させた。 しかし、この汚い企みに対しアントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼んだ。 その裁判の経緯は・・・・・
元々、マリー・アントワネットを裁判にかける動きは革命当初にはなかった。 外国との交渉時の大事な人質だったからであり、ルイ16世の裁判は、国家の裁判所を自任していた国民公会で、正当な裁判を実施して王権を覆す正統性を論証するプロセスであった。 民衆は政権がブルボン家には無いことを認証できた。 一方、マリー・アントワネットの裁判は、不公平で形だけのものと成った。 裁判をする前から、マリー・アントワネットの運命は決められていたのである。
マリー・アントワネットを裁判にかけることを強く望んだのが、パリ市の幹部エベール(前節イラスト参照)と、革命裁判所検事総長のフーキエ・タンヴィルだった。 革命政府の中には、外国との交渉の道具にマリー・アントワネットを使おうと言う意見も相変わらず根強かったのだが、肝心の相手国が交渉に乗ってくる気配もなく、仮に逃亡されたら反革命派の勢いが再燃すると恐れていた。
民衆もアントワネットの裁判を強く望んだために、国民公会は裁判にかけることを決定した。 そのためには有罪判決がでるようにしなければならない。 フーキエ・タンヴィルが革命裁判所の組織強化に取り掛かりる。 判事と陪審員を筋金入りの革命派で固める策に出た。
第1回目の尋問がコンシェルジュリーで行われた。 1793年9月3日16時頃から翌朝7時半まで、休憩を含めて15時間も行われたと言う。 罪を問われるのは『敵国との共謀』と『国家の安全に対する陰謀』であり、この設問について審問された。 しかし、マリー・アントワネットがフランスを裏切っているという、有罪になるだけの証拠は揃えらなかった。
強引な尋問は、タンプル塔にいる義妹エリザベート(前節イラスト参照)と娘マリー・テレーズ、息子ルイ・シャルルにも行われた。 エリザベートとマリー・テレーズは、何を聞かれても否定を通した。 しかし、息子ルイ・シャルルは尋問の中で、マリー・アントワネットが何かしらの方法を使い、外部の協力者と情報を交換していたこと、塔に派遣されたパリ市の役員に、共犯者がいるのではないかという嫌疑を全部認めてしった。
母が監視の役人達と1時間半ほど何か相談をしていたとか、毎晩22時半になると、窓の外から行商人が情報を叫んでいたなどと証言した。 しかし、エリザベートとテレーズの証言の一問一答が記録されているにもかかわらず、シャルルの証言は、あとからまとめて書かれたものであった。
8歳の子供が証言するには詳細すぎて具体的すぎ、信憑性に欠けているが、どんな手を使ってでもマリー・アントワネットを有罪にしなければいけなかったのだ。 何故なら、裁判は見せ掛けだけのものであり、判決はとっくの前に決まっていたのだから・・・・・・。
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