【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 11月03日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-11-03 05:10:21 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 小林旭が演歌のネタにした見世物がニューヨークで初開催(1900年=世界初の自動車ショー)。 ☆ ヴィルヘルム2世自らUボートにエクストリーム・カミカゼを命令したところ、水兵がブチ切れたばかりかあっという間にドイツ全土を巻き込む吊し上げに(1918年=キール軍港で水兵が叛乱。ドイツ革命が始まる)。 ☆ 東宝の大型新人ゴジラが銀幕デビューを飾る(1954年)。帝都縦断パレードにてファンクラブ自衛隊の熱烈な歓迎を受け全域が焦土と化した。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 19回= ◎ ◎

1921-1956期 «エベレスト初登頂の手記で腰が引ける »

= Webナショジオ そうだったのか! 『ナショナル ジオグラフィック』 =

……National Geographic Journal Japan 〉/ 2012年10月24日 / (Web編集部) ……

 以前、紹介した原子力もアクアラングも、戦争によって大きく発展したものでした。このように戦争はテクノロジーを飛躍させましたが、その一方で、歩みを止めたり後退したりした物事もたくさんあります。

 ナショジオが力を入れてきた冒険・探検活動もそのひとつ。なかでも北極、南極につぐ未踏の地、世界最高峰エベレストへの挑戦は筆頭にあげられるでしょう。  でも残念なことに、エベレストの初登頂にナショジオは関係ありません。

 協会がエベレストに興味がなかったはずはありません。何しろ世界でいちばん高い山ですからね。それに1933年8月号には「エベレストを空から征服(The Aerial Conquest of Everest)」という記事を掲載しています。イギリスの軍人である著者のブラッカー中佐は、空撮した写真をたくさん並べつつ、エベレストの山頂を飛び越えたときの様子をこんなふうに書いています。

「時が始まって以来、人類が目にしたことのないものを私は床の窓から目にしていた。その光景の恐ろしさは決して言葉にできないだろう……」

 ナショジオを含めて、アメリカがエベレストに関われなかった理由のひとつに外交上のハードルがありました。

 ヒマラヤはチベットとネパールに挟まれています。周辺のインドも含めて、このあたりはずっとイギリスの影響力の強いエリアであり、また、距離が遠いこともあって、アメリカはなかなか入っていけませんでした。

 戦前にイギリスがチベットからエベレスト登頂の許可を得られたのはダライ・ラマとのパイプがあったおかげです(ダライ・ラマとナショジオの関係は古くて長い)。戦後はネパールが外国に許可を出すものの、結局、初登頂以前にイギリス以外の国で正式にチャレンジできたのはスイス隊のみ。そのスイス隊でさえ当初はイギリスと合同チームを組む手はずでした。

「あなたはなぜ山に登るのですか?」という質問に対する「そこに山があるからだ(Because it is there.)」という有名な答えは、1921、22、24年とエベレストに3度チャレンジをしたイギリス人、ジョージ・マロリーの言葉です。本来の質問は「あなたはなぜ山に登るのですか」ではなく「あなたはなぜエベレストに登りたかったのですか(Why did you want to climb Mount Everest?)」でした。

 1924年の3回目のチャレンジで、マロリーはアタック中に行方不明になり、はたして山頂にたどりついたのかどうかが謎として残されます。そんなこともあってイギリスはエベレストに挑戦しつづけ、戦前だけでも遠征は計8回。エベレストへのチャレンジはいわばイギリスの威信をかけた国家的事業でした。

 イギリス隊がエベレストに初登頂したのは1953年5月29日のこと。ニュージーランド人の養蜂家であるエドモンド・ヒラリーと、シェルパのテンジン・ノルゲイが山頂に到達します。

 おかげで登山隊隊長のジョン・ハントとヒラリーは女王になったばかりのエリザベス2世からすぐナイト(騎士)に叙せられました。2人は講演や取材に引っ張りだこで、ハントは1953年のうちに著書『エベレスト登頂』を刊行。2人の体験はまたたく間に世間に広く知れ渡ります。

 にもかかわらず、初登頂から1年以上が過ぎた1954年7月号の「エベレストの勝利(Triumph on Everest)」という特集で、『ナショナル ジオグラフィック』はハントの「包囲と猛攻(Siege and Assault)」とヒラリーの「頂上征服(The Conquest of the Summit)」という手記を掲載しました。

 ハントもヒラリーも著書を出していますし、その翻訳書もあるので、ここでは中身を紹介しませんが、全64ページの手記はとてもドラマチックでよくまとまっています。写真も相変わらず見ごたえたっぷり。その意味では面白い記事ですけれど、すでに有名な話だったことを考えると、『ナショナル ジオグラフィック』としてはインパクトが弱い気がします。おそらく編集部もそれはわかっていたのではないでしょうか。きっと地理学の雑誌として、それでも掲載すべきと考えたのでしょうね。

 おまけに、この記事は『ナショナル ジオグラフィック』としては珍しく腰が引けていました。  ヒラリーが頂上を征服してから下山中、サウス・コルのキャンプに着く前に、迎えにきた親友のジョージ・ロウに喜びの声をあげるくだりです。

「そうだよ、俺たちはついにこいつをやっつけたんだ!(Well, we knocked the blighter off!)」 『ナショナル ジオグラフィック』ではこうなっていますが、ヒラリーが実際に発した言葉は「そうだよ、ジョージ、俺たちはついにこん畜生をやっつけたんだ!(Well, George, we knocked the bastard off!)」でした。ヒラリーは著書でも素直にこう書いていて、いまではよく知られた表現です。

「bastard」は(当時は特に)非常に汚い言葉なので「blighter(「嫌なヤツ」ぐらいの意味)」に変えたのでしょう。けれど、事実を伝えることを信条とする『ナショナル ジオグラフィック』としては変えなくてもよかったのでは、という気もします。その後、この表現が有名になったから、なおさらそんなふうに思うのかもしれませんが。

 今回はちょっとバツの悪い話ではありますが、この時代のトピックスとして、エベレスト初登頂はやはりハズみません。ということで、中の人もあえて紹介してみました。ちなみに、1954年、ナショナル ジオグラフィック協会はイギリスのエベレスト登山隊に戦後初となるハバード・メダルを授与しています。また、ヒラリーの偉業とエベレストについて興味ある記事や魅力的な写真を多数記載・紹介していますい。

小生の別紙ブログ 【壺公夢想;如水自講】 =Daily Archives: 2015/10/20:https://thubokou.wordpress.com/2015/10/20/=にて、登山家ジョージ・マロリーの横顔(9節)を記載済み、御参照下さい。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ « 世界をアッと驚かせた大スクープ「バウンティ号発見」 » “ を記載、続きます・・・・・

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上部記載文中、文字色が異なる下線部位を右クリックにて“参考記事”を開示

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森のなかえ

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