☆★ 日光街道沿いに鉄道/現伊勢崎線が開通する(1889年)。その後、『らき☆すた』や『クレヨンしんちゃん』でお馴染みの路線となる。☆★ 1階をスカスカにしてその上に規格化された建材を組み立てた上に屋上に広場を造るという安易さ極まりないモダニズム建築の巨匠として有名なル・コルビュジエが死亡する(1965年)。☆★ 5か月前にハブに噛まれて死んだ筈の車寅次郎が、突然柴又の団子屋に現れる(1969年)。
本日記載附録(ブログ)
公営バスの車中、白人に席を譲るジム・クロウ法違反の容疑で逮捕され収監された
この事件が契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発、公民権運動の導火線となった
市内のすべての黒人がバス・ボイコット運動に呼応、ローザは文化的象徴と見なされて渦中に
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
公民権闘争の重要な節目に、「公民権運動の母」と呼ばれたローザ・パークスの…
◇◆ 人種差別の渦の中、席を立つのを拒みバス席を譲らぬパークス =3/3= ◆◇
バス乗車ボイコット運動
ローザ・パークスは訴訟を進めることを決意する。黒人コミュニティーは、彼女が出廷する12月5日の月曜日に合わせて公共バスの乗車ボイコットを計画し、ほとんど全員がこれに参加した。裁判はわずか5分で終了。パークスは人種隔離に関する都市条例違反で有罪を宣告され、罰金10ドルと訴訟費用4ドルの支払いを命ぜられた。
その日の夜、黒人コミュニティーのリーダーたちが一堂に会し、ボイコットの期間延長とモンゴメリー改善協会の設立を決定する。この新たな組織の会長に投票で選ばれたのが、ジョージア州アトランタ出身でバプテスト派の26歳の牧師、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアだった。
このバス乗車ボイコット運動は381日間続き、公民権の名の下での多くの抗議活動や不服従行動に、州を越えて影響を与えた。そしてついに連邦最高裁判所は、モンゴメリーでローザ・パークスとほぼ同じ仕打ちを受けた女性オーレリア・ブラウダーの裁判で、彼女を擁護する判決を下す。
バス車内での人種隔離を憲法違反とし、市とアラバマ州に交通機関での人種隔離の撤廃を命じた。そして最高裁判所は本件以外にも、根強く残るジム・クロウ法に対して起こされた一連の訴えを審理した。
我慢には限界がある。われわれが今夜ここに集まったのは、われわれを長きにわたり虐待してきた者たちに、もう我慢の限界だと言うためだ。差別され、自尊心を傷つけられ、抑圧という名の無慈悲な足に蹴り回されるのはもうたくさんだと。
─モンゴメリーでのバス乗車ボイコット運動が始まった1955年12月5日に、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアがおこなった演説より─
公民権法
翌年、公民権法が成立し、あらゆる種類の差別が違法となった。さらに、1965年には投票権法が成立する。いかなる生い立ちの人々に対しても、有権者登録を妨害する行為は一切禁止された。そのころ、ローザ・パークスはデトロイトに住んでおり、ミシガン州選出の連邦議会議員ジョン・コニャーズのもとで、1988年まで働いた。
彼女が2005年にこの世を去ると、その遺体はワシントンの連邦議会議事堂で2日間にわたり公開安置された。この建物には、1968年に暗殺されたマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの胸像も置かれている。あの日モンゴメリーでパークスが乗ったバスは現在、デトロイトのヘンリー・フォード博物館にあり、2012年4月には、アメリカ初の黒人大統領バラク・オバマがここを訪れた。
私には夢がある
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、モンゴメリー改善協会の会長に選出される前にこの街へ移り住み、その天賦の弁論術でNAACPの集会に興奮を巻き起こしていた。ローザ・パークスの一件で公民権運動の重要人物となり、暴力によらない市民的不服従の方針を取ったことで世界から注目を浴びるようになる。
キングが聴衆を魅了する弁舌力を発揮した最も有名な例は、抗議デモ「ワシントン大行進」の一環で1963年8月28日におこなった、「私には夢がある」という演説だ。
・・次回は“キング牧師とローザ・パークス”に続く・・・
⨁⨂参考資料: ローザ・パークス (3/3) ⨂⨁
ローザ逮捕の知らせが伝わると、モンゴメリーのデクスター街バプテスト教会で牧師に着任したばかりで当時26歳だったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアやラルフ・アバーナシー(Ralph Abernathy)牧師らが抗議運動に立ち上がり、モンゴメリーのすべての黒人にバス・ボイコット運動を呼びかけた。
以前にも黒人が同様に逮捕されていたが素行の悪い者が多く、運動としては盛り上がらなかった。ローザの場合はまともな職業婦人であり、NAACP書記でもあったため関係者が迅速に動いたとされる。
当時貧しい黒人にとってバスは必須の交通機関であった。利用者の75%以上を占めていた黒人たちがバスを利用せず、黒人の車に同乗したりどこへ行くにも歩いたりしたため、バス路線を運営するモンゴメリー市は経済的に大きな打撃を被った。ローザ側は市条例違反の判決に対し、バス車内の人種分離の条例は違憲であるとして控訴。
1956年11月、連邦最高裁判所は違憲判決を出し、公共交通機関における人種差別は禁止された。ボイコット運動は381日間続き、最高裁の違憲判決の翌日に収束した。
キング牧師はこの運動の勝利を契機として全米各地での公民権運動を指導し、非暴力直接行動と市民的不服従を掲げて1963年8月28日にワシントン大行進で25万人を集めた抗議集会を開催する。アメリカの黒人運動は最高潮に達し、1964年公民権法成立につながった。
この一連の運動に対応して、当時のジョン・F・ケネディ政権は次々と南部諸州における差別制度を禁止する立法を行った。またケネディ政権を継承したリンドン・ジョンソン政権は「偉大な社会」の実現を唱え、積極的に黒人の社会的・経済的地位を向上させるためのアファーマティブ・アクション立法にまで進んでいる。
ローザもキング牧師の公民権運動に参加し著名な活動家となるが、地元には居辛くなり、1957年にデトロイト市に引っ越した。ローザはその後もさまざまな職業を転々としているが、やがて自分がアメリカ史上の人物として学校の教科書でも教えられていることに気付く。
著名人として職業的な地位も向上し、1965年から1988年にかけてミシガン州選出民主党下院議員ジョン・コンヤーズ(John Conyers)のスタッフを務めた。なおこの間、1977年に夫レイモンドがデトロイトで亡くなっている。
1987年にはローザ・レイモンド・パークス自己開発教育センターを創設して青少年の人権教育に尽力した。1999年、アメリカ連邦議会が議会名誉黄金勲章を贈った。これは最も偉大なアメリカ市民に贈られるメダルである。またアラバマ州モンゴメリーにはローザ博物館も設立された。
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= Rosa Parks Story | Stories for Kids =
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