【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

王妃メアリーとエリザベス1世 =10=

2016-04-02 18:55:09 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ ボスウェル伯との再々婚そして廃位 ◆◇

 ボスウェル伯はやはり強引だった。 1567年4月23日にボスウェル伯によるメアリー誘拐事件が起こる。 彼はすでに結婚していたが、メアリーとの結婚を決意したときから離婚の手続きを進めていた。 そして、その離婚が5月3日に認められると、5月15日にメアリーと再婚をしたのである。 メアリーにとっては、3度目の結婚だった。 メアリーはカトリックだったが、ボスウェル伯がプロテスタントだったので、結婚式はプロテスタントのしきたりでおこなわれた。 しかし、このメアリーとボスウェル伯との結婚は、スキャンダラスだった。 だれの目にも、ダーンリー卿暗殺事件の首謀者がボスウェル伯だったことはあきらかで、その陰謀にはメアリーも加わっていたのではないか、と噂されたなかでの結婚だったからである。

 ふたりの結婚には、カトリックもプロテスタントも反対した。 ボスウェル伯の王国乗っ取りは明白で、貴族たちは、ボスウェル伯がこれ以上、強大な権力を手にすることに警戒したからである。 スコットランドの貴族たちは、フランスの支配下にあった時代も、私利私欲で権力闘争をくりかえしてきた。 それは、伝統的にスコットランドでは、ひとりの人間に権力が集中することを嫌ってきたからである。 それがいま、ボスウェル伯ひとりが権力をにぎろうとしていた。 そこで貴族たちは、同盟をむすんで反乱を起こした。 6月15日の事である。

 この反乱は強力だった。 なぜならば、ボスウェル伯に味方する者がいなかったからである。 6月15日、ボスウェル軍は、エディンバラの東約13キロメートルのところであった「カーバリー・ヒルの戦い」で、貴族同盟軍にあっさりと負けてしまった。 そしてメアリーは、降伏して捕らえられたのだった。 一方ボスウェル伯は、戦場から逃走する。 メアリーは、いったんホリールードハウスの宮殿に連れていかれたが、7月、サー・ウィリアム・ダグラスのロッホリーヴン城に軟禁されてしまった。 この城はリーヴン湖のなかの離れ小島にあり、脱出は不可能といわれていたところだった。

 ボスウェル伯は逃走後、ダンバー城に向かい、そこで以前からマリ伯の行動に不審を抱いていた貴族と合流し、小規模な軍隊ができあがった。 しかし、枢密院では彼ら全員を反逆者とみなし、これによってボスウェル伯に味方した貴族も姿を消してしまった。 その後、かつての味方で義兄弟のハントリー伯を訪ねたが協力を断られ、養父でもある大叔父のマリー司教の援助で、6隻の商船と漁船を率いて、領地であるオークニー島とシェトランド諸島に向かった後、2隻の船でマリ伯の捜索の手から逃れ、ノールウェーへ漂着した。 その後はデンマークのコペンハーゲンに移され、そこで身柄を拘束された。

 デンマーク王フレゼリク2世は、ボスウェルの身柄と引き換えに、スウェーデンとの戦争の際にスコットランドが2000人の兵を提供することを条件として、マリ伯に取引を持ちかけた。 マリ伯は、兵力の提供は承諾したが、ボスウェルをデンマークで処刑するよう求めた。 フレゼリク2世は迷った末、姉婿や叔父の3人に相談した。 結果、事件を徹底的に調査し、ボスウェルの国王暗殺に関する有罪・無罪のあらゆる証拠を検討した上でデンマークの裁判所に任せるべきという結論に至った。 その結果、ボスウェル伯は引き続きデンマークで拘束されることになった。

 7月26日、ロッホリーヴン城に幽閉されたメアリーの元へ数名の貴族がやってきた。 彼らは、息子ジェームズ王子のために退位すること、ジェームズの教育を数名の貴族に任せること、マリ伯を摂政に任命すること、という3つの条件が記された文書に署名を要求した。 彼らの一人、リッチオ殺害の実行犯の一人だったルースベンは、署名しないと命の保証はしないと脅迫する。 メアリーの署名はこのような脅迫を伴った強制であった。 署名させられたメアリーは退位した。 1歳になったばかりの息子ジェイムズへの譲位を余儀なくされた。 

 しかし、不本意に女王の座を追われたメアリーは、その後も女王であると主張し、「スコットランド女王」の称号を使いつづけた。 ジェイムズ6世(在位1567-1625)として即位した息子の摂政には、ジェームズ5世の庶子でメアリーの異母兄になるマリ伯ジェイムズ・ステュアート(前節イラスト参照、メアリーの政敵)が成った。 今度は、貴族同盟が幼児を国王に戴いて、スコットランドの実権をにぎったのである。 

 徹底的なマリ伯の勝利だった。 メアリーを完全な敗北に追い込んだとマリ伯はほくそ笑んだ。 一時はメアリーを抹殺しようとして、ボスゥエルの裏切りによって挫折したマリ伯であったが、ふたを開けてみると、自分の手を汚す必要はなかった。 メアリーは勝手に破滅してくれた。 しかも自分も加担したダーンリー暗殺の罪を、ボスゥエル一人に押し付けて。 そしてメアリーは湖の孤島ロッホリーヴン城に幽閉されて一月後の7月25日、ついに王位を幼いジェームス王子に譲るとの書類と、マリ伯の摂政任命の書類にサインしたのである。 ボスゥエルの人生もまた終わっていた。 彼は追われてデンマークまで逃げ、そこで幽閉されて、狂死したという。

 

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森のなかえ

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