都の西 香山の近く、城郭からは騎馬にて小一時間 森に囲まれた大きな屋敷に石抹胡呂(セキマコロ)は住んでいた。 両親も別棟の建屋で暮らしている。 乗馬姿の安禄明に気付いた門衛は 直ちに 大きな門を内側に開いた。 安禄明は笑みをその門衛に送り、騎馬のまま母屋に向かって行く。 その後を楚詞が屋敷内の静けさを壊すまいと静かな歩みで馬を進めて行った。
母屋への小さな内門で 馬を預け 安禄明は勝手知ったる我が家然と母屋に進み、庭に踏み入った。 木剣を交わす音が聞こえ、「さぁー 今一度」 と 叱たする女性の声がする。 進むにつれ、生垣越しに鉢巻を絞めた女性の後ろ姿の上半身が見え、幼女と対面しているようだ。 その向こうに巨漢の姿が見えてきた。
「・・・ おおー これは義兄さん」と 声高に しかし その声には落ち付がある。 巨体が歩みを始め、 黒髪を大きく空に舞わせて 鉢巻き姿の女性が振り向いた。
「こちらから出向くものを・・・・」と 巨体が 身を小さくするように生垣を回って近づいてきて、 頭礼し 頭をあげ、 訝しげに 「で、義兄さん こちらの方は・・・・」
「 立ち話では・・・ ご両親は 在宅かな 部屋にて話そう、 オヤジ殿のご意見も聞きたい用事で 二人して早駆けしてきたが春風が心地よかったぞ 」
「して 鳥賦呂(トブロ)は 剣の稽古はいかがじゃ まだ六歳の幼女、チムギどのがお相手では ちと可哀そうだ。 チムギどのが連れ出すのであろうが、鳥賦呂には剣より筆を持たすのが よろしの では・・・・ 」 「父が いつも 小言を言うのですが、あの気性、義兄さからも・・・・」
「それよ、 それ 今日は 格別の天狗殿に 同行願っての早駆と言う次第でのぉー 」 いぶかる抹胡呂に話す禄明の目は、笑みをたたえている。 傍で聞いている楚詞には軽やかな兄弟の会話が羨ましく聞こえていた。 抹胡呂が簡素な庭を横切り奥の吾妻屋に二人を導いていった。 東屋には老夫婦が・・・・・・
「これは、これは むさい当吾妻によくぞ 下馬下されました 」 巨体の石抹言(セキマゲン)は驚き、息子の抹胡呂を横目で見て、言葉をついだ。 抹胡呂は敬愛の眼差しで耶律楚詞と義兄・安禄明を見ている。 母屋の書斎の中である。
「覗えば覗うほど、慙愧にも 今は 姿を隠された王記様に 似ておられる 」石抹言は巨体とは思えぬ身のこなし、隠者を思わせる落ち着き、異邦の目鼻立ちがくっきりする顔で まじまじと楚詞に慈愛あふれた眼差しを注ぎながら言った。
「母を 知っておられますか 」
「はい 晋王・耶律敖盧斡閣下の王庭に ご依頼の書物をお届けに参りました折、 二三度 お会いいたしております。 遼国一の美貌と謳われた御尊顔 忘れるものではございません 」
「・・・・ では、父 にも 会われていましたか 」 「はい、もともとは こちらの明殿がご尊父・安禄衝殿に連れて行かれ、 何かの話の折に、 『孟子』が話題に上りした。 後日 手前の書を持って上がりました。 それ以降 時刻が許す限り お目見え叶っておりました。 ・・・・・・・しかし・・・・ 悔やんでも致し方ございません。 普王閣下は性善説をよく用いられた王、仁義による王道政治を貫かれました。 誠に 残念でなりません・・・ 」
「王子のことは 大石殿から 文にて聞いておりました。 また 安禄衝さまからも、 嵩山少林寺にて慧樹大師の教えを受けられたことも、 さらには 普王閣下がみまかれて以降 自らを王子とは言わせぬ事をも・・・・ 礼を失するかも知れませぬが、感服いたしておりました 」 石抹言・抹胡呂親子は 青き髭ぞり跡が映える貴公子を 目を細めて見詰め その凛とした立振舞に感嘆している。
「して、義兄殿 お話とは・・・・」 抹胡呂が話の先を 急ぐ。
「先般、 父が楚詞殿に西夏への所要を依頼されて、 楚詞殿は 快くお引き受け下された 」
「なんと、 王子・・・いや 楚詞様が 西夏の中興府に向かわれるか、 して 御出立は・・・」
「私は 慧樹大師の下を離れて一年瀬半 耶律大石様の下で五原と燕京を行き来する 天狗です 御出立などと・・・・一人で いついかなる時でも・・・・」
何らの気負いもせずに言う楚詞に 巨体を進めた石抹胡呂が安禄明義兄に顔を向けるや 「なれば、 同行者が居ても 差しさわりはないでしょうか・・・」と問いかけている。
禄明が口を開こうとする前に 、 「私には 西夏に向かう旅は、五山に向かうより長き道中 話し相手の道連はありがたいことでしょう 」 「なれば、 女性でも かまいませぬか 」
「今朝ほど、安禄明様から お話を伺い、 ここに来ております 」と答える楚詞に、一時の ある種の 安堵の静寂が室内に流れる中 石抹言と抹胡呂親子は目と目で合図を交わしている。
「尊父殿、 大石殿には 文にて了解を頂けましょう、 父の所要とて 急ぐものでなし、 話の先は お判りになられた事と 思われますが・・・・」 と 石抹言に 端正な顔を向けた禄明が静かに口を開き、抹言が言葉を継いだ。
「禄明殿、 金の阿骨打は大軍を擁して 迫っております。 耶律大石軍事統師は五原で天祚皇帝に足止めされているとも 聞き及びます。 都は長くは持ちますまい。 先般来、愚息が話しております事、 老父の憂い お耳に入っていると思われますが・・・・・」と 安禄明に向けられていた彫の深い顔の石抹言には立派で白い顎鬚が美しい。 彼は、楚詞を直視して言葉を続ける。
「耶律楚詞殿、 この老父の願い 聞き届けて頂けましょうか 」 「いや、それよりも ご息女の意が・・・・・」と 楚詞は即答を避け、先ほどから静かに同席する老母に声を掛けた。 その声は静かに 明朗に流れ、初対面の堅苦しい雰囲気を和ませた。
「・・・・これ、お湯を 運ばせよ、 お茶が冷えておるわ・・・・ 」 と 抹胡呂が戸外に叫ぶ、時を移さずに、お湯を運んできたのは 艶やかな黒髪に白い鉢巻を巻いている 稽古衣裳の女性であった。 「これ、チムギ なんだ、その姿は 」 抹言・抹胡呂親子が同時に言った。
「だって、 鳥賦呂が離さないし、禄明兄様に気を使うことは無いでしょう、それに 兄様の・・・・」と、父兄に抗する石抹言の娘のチムギが抗弁の口を開き、言葉を濁した。 だが、彼女の視線は楚詞から目を離すことが出来ないでいた。
その夜、 明け離された窓から春の風が流れ入る部屋には 石抹言老夫婦が 耶律楚詞を挟み、石抹胡呂夫妻と彼らの長子・鳥賦呂と長女・チチカ 妹のチムギ 安禄明たちが円卓を囲み 夕餉の時を楽しんでいた。 チムギは楚詞の対面に座り、見事な矢絣の紬衣服に身を包み、 黒髪の上には刺繡が綺麗に映える濃紺の帽子を載せていた。 ウイグルの民族衣装であろう。 彼女の視線は楚詞の明快な挙動 一つ一つから離れなかった。
石抹言氏は代々 契丹貴族蕭氏として 遼の皇后を出して来たウイグルの王族、 その血がチムギを自由闊達にしているのであろう。 庭先で奏でられる民族音楽・ムカムに楚詞は 話に聞く異郷を思っていた。 耶律楚詞は北方から南進した騎馬遊牧民、内モンゴルを中心に中国北辺を支配した耶律氏が皇族である。 また、安禄明の遠祖は康国(サマルカンド)のソグド人である。 ソグド人と突厥の混血である安禄山と血のつながりがある。 華北を経済的に収握するソグド人、政治的に運営するウイグル族、軍事的政権の保有者である耶律氏一族。 それぞれを代表する若き駒が 今宵 一堂に座し杯を交わしていた。 もともと、ウイグル族はゴビ砂漠北方のモンゴル高原に覇を唱え、南下した。 シルクロードを西方から交易を求めてソグドの民は東進してきた。 ウイグルはソグドと手を組んで漢中の軍事政権の中枢に入り込み、政治と経済の執行者として 各時代を生き延びてきた。 マニ教はユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教1などの流れを汲んでおり、サマルカンドを中心に北アフリカ、イベリア半島から中国にかけてユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教であった。
ソグドの民がマニ教を中華に持ち込み、仏教に感化されなかった歴代王朝の高位者の心を掴んだ。 石抹言氏は漢中のマニ教団を取り仕切る有力者でもあった。 耶律一族の駿馬である耶律大石は、遼帝国内に於いて マニ教の最高位者であった。 漢南は梁山泊の宋江がマニ教信者を束ねていた。 耶律大石の連絡を受けた宋江が、北上する宋軍の背後を攪乱し脅かした水滸伝の猛者たちを指揮していた。
・・・・・続く・・・・・・
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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