☆ 明治神宮外苑に国立競技場が竣工(1924年)。この時、揉めに揉めて森林を大量に伐採し酷暑でも寒風でも吹き曝しという代物が計画建設中。 ☆ 和田アキ子が芸能界に実戦配備、「星空の孤独作戦」が開始される(1968年)。 ☆ 台湾に捨てられた中華人民共和国が世論の同情をかって国連に入れてもらえる(1971年)。尚、中華民国(台湾)は国連を脱退。新参の中国は常任理事国に・・・・・
◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 17回= ◎ ◎
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2012年8月8日 / (Web編集部)
ロシアの文豪 / チベット仏教の最高指導者 / アメリカの地理の月刊誌。 一見すると「何つながり?」という感じですが、これが実はさほどおかしな組み合わせではありません。
まず、ダライ・ラマは『ナショナル ジオグラフィック』にたびたび登場しています。 新しいところでは2002年4月号の特集「チベット 新時代の息吹と仏教」 =古都ラサやチベット高原各地を訪れる6500キロの旅。1965年に中国の自治区となったチベットではいま、大きな変革が進んでいる。サングラスをかけ袈裟姿でオートバイに乗る若い仏教僧。伝統を守りつつ、人々は新たな時代の波に乗ろうとしている。文/ルイス・M・サイモンズ 写真/スティーブ・マッカリー=。
さらに2004年1月号の特集「チベット仏教の聖地、インド・ラダック地方」 =インド北部ラダック地方は中印国境紛争のせいで、外部の人間の立ち入りは認められていない。写真家マティアス・クルムは、この地方の中心地レーから四輪駆動車で12時間かかってハンレという集落にたどり着いた。17世紀に建造されたハンレのゴンパ(寺院)を訪れたが、あれこれ許可を得るのに2年もかかったのだ。/ナショナル ジオグラフィック誌の写真家がチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマの協力を得て、外部の人間の立ち入りが厳しく制限されているインド・ラダック地方のハンレ・バレーの寺院を訪れる。=
では、中国との国境紛争のもとになりかねないため、現地の人間以外の立ち入りをインド政府が厳しく制限していた「ハンレ」という谷に取材陣が入る許可をとりつけてくれました。この地方にジャーナリストが入ったのは世界ではじめてのことでした。
また、例の「アフガンの少女」を撮影した写真家のスティーブ・マッカリーがダライ・ラマの講演に行ったときのこと。マッカリーを見つけるとダライ・ラマは自ら近寄り、「もしかして、ナショナル ジオグラフィックの番組に出られていませんでしたか? アフガニスタンの難民の少女の写真を撮った方なのでは?」と聞きました。マッカリーが「そうです」と答えると、その場で俳優のリチャード・ギアを紹介してくれた、なんてエピソードもあったりします。
それから、トルストイ。
文豪として有名なレフ・トルストイですが、歳をとるにつれて次第に道徳的、宗教的な傾向が強まります。晩年はインドのマハトマ・ガンジーと手紙をやりとりしたこともあり、魯迅などの思想家にも影響を与えましたから、平和を重んじるダライ・ラマと通じるところはあるでしょう。
ただし、ナショジオと関係があるのは文豪のトルストイではありません。孫のイリヤ・トルストイです。『父トルストイの思い出』を書いた三男をはじめ、ロシア革命や第一次世界大戦の時期に子孫の多くがアメリカに亡命していました。
「なんだ孫か!」 とか思いました?
でも、トルストイの孫であることに意味はあった、と中の人は思います。 なぜなら、イリヤ・トルストイこそアメリカ人としてはじめてチベットに入ることを許され、ダライ・ラマに謁見できた人物だからです。
当時、トルストイはアメリカ自然史博物館の大きな遠征にも参加したこともある軍人、つまり適任者でしたが、特使でもありましたから、ダライ・ラマのような平和を重んじる指導者にとって「トルストイ」という名前にも意味がないとは中の人には思えないのです。だから選ばれたともいいませんけどね。
前置きが長くなりましたけれど、トルストイがダライ・ラマに会った紀行文「チベットを越えてインドから中国へ(Across Tibet from India to China)」が掲載されたのは1946年8月号でした。“トルストイの紀行文”と聞けば、ほら、孫でもちょっとはありがたみがあると思いませんか?(笑)
トルストイがチベットに行ったのは1942年から43年。まだ戦争中でした。
目的は中国を支援する補給路の開拓です。1942年5月までに日本がビルマルートを制圧して中国への補給路が断たれ、アメリカは代わりのルートを探していました。そのひとつがチベット越えだったのです。
・・・・・・・・明日に続く・・・・・
次回は “ « トルストイとダライ・ラマとナショジオの意外な縁 後節 » “ に続く・・・・・
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