【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

断頭台の露と消えた王妃 =43=

2016-07-29 18:26:29 | 浪漫紀行・漫遊之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ 敬愛する国王の突然の死 / フランス革命戦争 ;

ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =6/7= ◇◆

 国王一家がパリのテュイルリー宮殿に軟禁されると、他の貴族は亡命下にもかかわらず、ハンス・アクセル・フォン・フェルセ伯爵もヴェルサイユを引き払って、テュイルリー宮殿の近くに間借りをする。 そして、ルイ16世一家をテュイルリー宮殿から導き出している。 綿密な計画を立てた王家の国外脱出の手引きをした。 私財を投げ打った支援であった。

 しかし、太陽が登る前、パリ郊外に至った折にルイ16世の私憤で以降の同行を拒否される。綿密な計画を立てたにもかかわらず、その後の王家一行は数多くの手違いや国王一家の危機感のなさで、この逃亡は失敗に終わり、再び国王一家はパリに連れ戻された。 俗に言う「ヴァレンヌ事件」の顛末である。

 逃亡事件失敗の後、フェルセンは、ある晩に国王一家が幽閉されているテュイルリー宮殿に変装して忍び込み、国王と王妃に新たな亡命計画を進言するが、パリに留まることを決意した国王から拒否されてしまう。 そして、革命政府によって裁判にかけられるため、国王一家がタンプル塔に移送されると、フェルセンはこれを救うためあらゆる手を尽くしたが、全て失敗に終わった。 タンプル塔は死刑を宣告される囚人を収監する獄舎であった。

 フェルセンはこれを救うためあらゆる手を尽くしたが、全て失敗に終わった。 革命が激しくなると、フェルセン伯爵はブリュッセルに亡命しますが、このブリュッセルでもグスタフ3世や、オーストリア駐仏大使と救出のために奔走する。 革命政府によって裁判にかけられるため、国王一家がタンプル塔に移送されると、フェルセンはこれを救うためあらゆる手を尽くしたが、全て失敗に終わった。革命が激しくなると、フェルセンはブリュッセルに亡命し、ここでグスタフ3世やオーストリア駐仏大使と共に王妃救出のために奔走した。

 しかし、1792年3月にグスタフ3世が暗殺される。 グスタフ3世は母の影響で演劇に興味があった。 自分で劇を手がけ、それを演出したこともあったという。 特に彼のお気に入りだった離宮ドロットニングホルム宮殿で、で華やかな舞踏会や演劇が毎年開かれ、北欧のヴェルサイユ宮殿とまで賞賛される様になっていた。

 グスタフ3世は1792年3月16日、ストックホルムのオペラ座で開かれた仮面舞踏会の最中、背後から拳銃で撃たれた。 手術を受けたが2週間しか持たず、合併症を併発して、46歳でこの世を去った。 グスタフ3世の暗殺は、欧州諸国に衝撃を与える。 フランス革命の脅威と重なり、欧州各国は、保守色を強め国内の統制を強めていった。

 

 定かではないが、この暗殺の裏にはスェーデン貴族らからの反発があった。 グスタフ3世は国の大きな柱にした軍隊にかかる費用をまかなうために貴族らに増税を強制していた。 暗殺の黒幕として、フレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵(ハンス・アクセル・フォン・フェルセンの父)が噂された。 実行犯ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯爵は地所と特権剥奪の上、3日間鞭打ちを受け、右手を切断された上で4月27日に斬首刑に処せられた。

 スウェーデンは革命から手を引き、フェルセンは政治的に失脚する。 そして愛するマリー・アントワネットが革命政府によって処刑=1793年10月16日=される。 ギロチン刑が実行されたことを知ったフェルセンは、嘆き悲しみ、愛想のない暗い人間になってしまう。 救い出せなかった後悔の念に支配されて生きていくことになる。 マリー・アントワネットを殺した民衆を憎むようになった。

 マリー・アントワネットなきあと、フェルセン伯爵は多くの女性と関係を持ちますが、『あの方の代わりにはならない』と書き残している。 スウェーデンでグスタフ4世が親政を始めると、フェルセン伯爵も復権し、栄達の道を進み始める。 復権して外交顧問に任じられた彼は、1798年にフランス革命戦争の講和条約としてのラシュタット会議にスウェーデン代表として参加。 ここでナポレオン・ボナパルトに会っている。 この席でフェルセンは、ナポレオンにマリー・アントワネットとの関係を聞かれたという逸話がある。

 その後、フェルセンは1789年に元師にまで出世昇進し、スウェーデン国政に携って行くこととなった。 しかし、フェルセンの中の絶望感は消えることなく、フランス民衆を憎むようになっていて、更には自国の民衆への不信を抱くようにも成っていた。 その結果、民衆に対して強圧的な振る舞いが目につくようになる。 それは憎悪の連鎖を呼び起こすことになる。 民衆から反感を買うことにもなり、民衆も彼を激しく憎むようになった。

 ただ、 マリー・アントワネットなきあと、フェルセン伯爵は多くの女性と関係を持ちますが、『あの方の代わりにはならない』と書き残している。

 1809年、グスタフ4世は失脚し、新しくカール13世が戴冠し、スウェーデンの王になった。 カール13世には世継ぎがなかったために、アウグステンブルグ家のクリスチャン・アウグストが王太子として指名されましたが、1810年に王太子がなくなる。 当時のスウェーデンは、フランス革命の余波で、政治的危機に直面していた。 そこで、王太子の死は、王位を狙った事件であると囁かれ、その首謀者がフェルセン伯爵だと噂される・・・・・。 

 

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森のなかえ

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