【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

探検家・冒険家 シリーズ 22-⑦

2013-06-05 12:48:48 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の冒険家 = オスカー・ワイルド / “早すぎた美の殉教者” =

~ 才気溢れる世紀末のダンディ ~

  ワイルドは1891年、16歳年下の文筆家、アルフレッド・ダグラス卿と親しくなった。 ・・・・ そして、すぐに恋に落ちた。        ・・・・・・・ 《視点をダグラスに移して表記すれば》  

 ワイルドの死後、ダグラスは彼との間にはソドミー罪に当たる行為はしていないと主張したが、様々な証拠は関係があったことを示している。 ダグラスはこの年上の男性の恋人になることに同意し、彼の若い青年たちへの性的関心を共有するようになった。 しかし、2人の性的な好みは微妙にずれていたと言われる。  

 1894年に出版されたロバート・スミス・ヒチェンズの小説『緑のカーネーション』は、ダグラスとワイルドとの関係をモデルにした物語で、1895年のワイルドに対する裁判《以下に詳細》の時に参考文書の一つになっている。  

 2人の恋愛関係は激しいもので、仲間内では「ボジー」と呼ばれていたダグラスは、我儘で無茶なことも平気、傲慢で浪費家という性格だったと言われ、ダグラスは少年たちとの逢瀬やギャンブルに金を使いワイルドにその付けを払わせていた。 

 

  2人はしばしば口論し、喧嘩別れと仲直りを繰り返していた。 ブライトンに滞在中、ダグラスがインフルエンザに罹患すると、ワイルドは彼が快癒するまで献身的に看病したのです。 しかしワイルドが病気になった時は、ダグラスが彼を看病することは無かった。  

 後年に病気のワイルドをおいて、ダグラスはグランド・ホテルに宿泊し、ワイルドの40歳の誕生日には彼のもとに請求書を支払ってくれるよう頼む手紙を送っている。 また、ダグラスが着古した服を男娼にやったりしていたが、服のポケットに入っていたワイルドからのラブレターを抜いておくのを忘れたために、脅迫のネタに使われることもあったと言う。  

 ダグラスの凶暴な父親ジョンは、二人の関係が友情以上のものではないかと早くから疑うようになった。 

 ジョンは息子アルフレッドに手紙を送り、学位を取得しないままオックスフォードを中退して、公務員や弁護士といった貴族の末子が進むべきキャリアを台無しにしたことを責めた。 ジョンはアルフレッドに「勘当して仕送りをやめる」と脅したが、息子から帰ってきた返信には「あなたは実に嗤うべき小人物ですね」と書かれていたのです。 

 父親ジョンは息子の無礼に激怒し、次に送った手紙では「鞭でぶちのめ」して「息子は気が狂った」と届け出るぞ、そしてワイルドとの関係をこれ以上続ければ「思いもしないような恐ろしいスキャンダルにしてやる」と息子に宣言する険悪さに至っている。 

 父子の関係に僅かながら残っていた愛情はここへきて壊れた。 ジョンは怒りっぽく、よく乗馬用の鞭で人をぶつと嚇してまわる野蛮な人物として有名だった。 アルフレッドは父親に「あなたなんか大嫌いだ」と書いた葉書を送り、「弾を込めたリボルバーを握りしめて」、父と対決するワイルドの側につくことを明らかにした。  

 ジョンからアルフレッドへの返信(宛名には「哀れな生き物へ」とあった)には、彼の母親であるシビルと離婚したのは「これ以上お前のような生き物を生ませる危険を冒す」ことを恐れたからで、アルフレッドが子供だった頃、「私はお前を思って苦い涙を流したものだ、こんな生き物をこの世に送り出すという罪を、心ならずも犯してしまったことをな…お前は怒るだろうがな」とあるほどです。  

 アルフレッドの長兄でクイーンズベリー侯爵家の跡継ぎであるラムランリグ子爵及びケルヘッド男爵フランシスは、1894年10月に狩猟中の不審な事故で死んだが、生前フランシスには首相の第5代ローズベリー伯爵アーチボルドと同性愛関係にあるという噂があった。  

 ジョンは他の息子たちの名誉を守るための(と自らは信じている)行動に乗り出し、手始めに三男アルフレッドに手を出したワイルドへの嫌がらせを開始した。 ジョンは秘書(拳闘家)を引連れて劇作家ワイルドの家にまで押し掛けている。   

 更には、ジョンは公然と彼を侮辱するため、彼のクラブに押し掛けた際「男色家を気取るオスカー・ワイルドへ(For Oscar Wilde posing as a somdomite)」と書いた名刺を送ったのだ。 《男色家(sodomite)という言葉のスペルを間違えている》 

1895年の裁判 

 ロバート・ロスフランク・ハリスジョージ・バーナード・ショーといった友人達には反対されたにもかかわらず、ワイルドはダグラスの熱心な説得を受けて、名刺による侮辱を行ったクイーンズベリー侯ジョンを文書誹毀罪で告訴した。 

 しかしジョンが私立探偵を雇ってワイルドとアルフレッドのホモセクシュアル関係を立証させたことで、この裁判は一転して不利なものに変わった。 幾人かの男娼がジョン側の弁護団に協力してワイルドに不利な証言を行うに至り、ワイルドは自身の弁護士の勧めで告訴を取り下げた。 しかしこの時の審理で明かされた証拠を元に、男性に対する強制猥褻罪で告発されることになった。 

 この告発は公私にわたる全ての同性愛行為に対してなされたものであった。 1892年にダグラスが書いた詩「二つの愛」は、ホモセクシュアリティについて「あえて口にすることの出来ぬ愛」と表現した有名な最後の行で知られるが、この詩はワイルドを告発した裁判において証拠物件として使われた。 同年、裁判を争っている最中のワイルドは、ダグラスの又従弟ショルトー・ジョンストン・ダグラスを保証人として500ポンドの保釈金を支払ったおかげで、保釈を認められた。 

 再審理の結果、1895年5月25日にオスカー・ワイルドは有罪判決を受け、2年の懲役刑を言い渡された。彼はペントンヴィル、ワンズワース、そしてリーディング監獄と収監先を転々としながら刑に服している。 

 一方、ダグラスはヨーロッパでの避難生活を余儀なくされ、服役中、ワイルドはダグラスに対して彼を非難する非常に長い手紙「深き淵より(De Profundis)」をしたため、自分の彼に対する気持ちを正直にぶつけている。

 そして、ワイルドが1897年5月19日に釈放されると、2人はルーアンで再会するが すれ違いの重なりや周囲からの重圧に負ける形で、数か月間一緒に暮らしただけであった。

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

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