【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

断頭台の露と消えた王妃 =28=

2016-06-29 12:33:16 | 浪漫紀行・漫遊之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットの評価 =その一= ◇◆

 パリ・コンコルド広場(革命広場)、1798年10月16日12時15分、ギロチンの刃が落下した。 通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が当時流れたと言う。 これは真実ではない。 しかしこのような噂話が実しやかに語られるほど、彼女に対するフランス国民の憎悪の念が激しかったという証拠であろう。 この風説が王妃マリー・アントワネットの評価を歪にしていったようである。

 遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られた。 後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。 その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。 発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世と共に改葬された。

 その後、マリー・アントワネットの名誉回復には、結局死後30年以上を要した。 現在では、後述の「パンがなければ」の発言をはじめとする彼女に対する悪評は、そのほとんどが中傷やデマだということが判明している。 ただし、彼女が一部の寵臣のみ偏愛したために不要な反発や、ヴェルサイユの品位の低下を招いたこと、また無類の浪費家でギャンブルにふけったことは事実であり、彼女個人や王権そのものへの反対者たちによって、それらの失態が多大に誇張されてパリに意図的に流され、彼女や王権に対する悪意と憎悪がことさら生み出された。

 しかしながら、マリー・アントワネットの浪費だけでフランス一国の財政が傾いた訳ではない。 1778年の場合を例に取ると、王室および特権貴族の出費は3600万リーブルであり国全体の6%程度に過ぎず、彼女の支出はさらにその一部である。 フランスのシンボルたる王妃としての体裁を繕うための出費が含まれると考えれば、「彼女がフランス財政を崩壊させた」ということはあり得ないと言える。 既にフランスの財政は先代ルイ15世の時代から傾いていた。 過去の王達が愛人を多数囲っていたのと戦争により巨額の支出が最大の原因と言われているのであり、当時の貴族は免税の特権があった。 また、アントワネットが所有したと言われる「60万リーブルのドレス」「50万リーブルの耳飾り」と言った豪華な品々も現在では誇張が含まれていたとされ、信憑性が疑問視されている。

 マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。 彼女はフランスの情報を実家であるオーストリア皇室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わって反革命の立場を取り、あえて旧体制を守ろうとしたのである。 このことがフランスの国益を外国に売った裏切り行為ととられ、それだけでも死に値する罪状となったのである。 彼女自身は王政を維持する為に良かれと思ってした行為が、逆に大革命に火を付け、さらに燃え上がらせる結果となってしまうのである。

 このように、不幸な王妃の代表格といわれることも多い。 しかし、夫ルイ16世は彼女以外に寵姫や愛人を持つこともなく、断頭台に登る間際まで彼女を案じる手紙=彼女には何の落ち度も無いことを訴える内容のもの=を残すなど、王政廃止から二人が処刑される間のほんの短い間であったとしても、妻としては幸福な一生だったとも言えるだろう。 民衆は、王妃の政治的無知さや、その結果としての民衆への配慮の欠如や、国費の浪費などに対して死刑という判決を下したとも考えられる。 しかし、「不幸になって初めて、人は本当の自分が何者であるかを知るものです」という自戒の言葉のように、晩年は置かれた現実を把握をしていたのであろうとも言える。

 「パンがなければ…」の発言

 マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある。 原文は、 “Qu'ils mangent de la brioche”、直訳すると「彼らはブリオッシュ(菓子パン)を食べるように」となる。 ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、当時の原料はパン材料よりも非常に安価な小麦粉・塩・水・イーストだけのパン生地に、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。 確かに、庶民は安価な菓子パンのみの食生活だったかもしれない。

 しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないこと (ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある)が判明している。  歴史学者アルフォンス・カーは、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書いている。

 実際には、1780年代 マリー・アントワネットを妬んだ他の貴族達の作り話で、アントワネット自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。 トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父であるフランツ1世(前節イラスト参照)が所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になった、ともされる。

 

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