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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 08月22日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-22 05:10:26 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 千島列島全部が日本の領土になる(1875年=樺太・千島交換条約批准)が、現在ではそのうち日本に近いほんの一部分さえも相手に実効支配を許している有様。 ◆ 世界の美術館に飾られている名画にとっての厄日。謎の微笑みをたたえた婦人(1911年=「モナ・リザ」が盗難)も絶叫するおっさんや磔された女(2004年=「叫び」と「マドンナ」が盗まれる)もこの日にご難。 ◆ アメリカの空襲に心配する必要が無くなったため、日本に於ける地球大気の情報公開が再開される(1945年=天気予報のラジオ放送復活)。

◎ ◎ 第5回 美しい山を求めて登り続ける(2/2)/ G・カルテンブルンナー ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー G・カルテンブルンナー / 文=西野淑子/写真=的野弘路 - - -

==== 8000m峰14座、全てを無酸素で登頂した史上初の女性登山家がゲルリンデ・カルテンブルンナー。46歳。「シンデレラ・ブルドーザー」と称され、今も山を深く愛し、登りたい山に自然体でチャレンジし続けている。(インタビュー・文=西野淑子/写真=的野弘路) =====

――世界トップクラスの登山家であるゲルリンデさんに憧れる女性は多いと思います。女性の登山家と一緒に登山をするような計画はないのでしょうか?

 世界各国から、声はかけてもらっているのですが、現在、高所登山をする女性は少なく、なかなか機会がないですね。高所登山では何カ月も出掛けることになってしまうので、女性の場合はとくに家庭の問題が難しいと思います。また、多くの女性は寒さに弱く、女性特有の体調の変化もありますから、高所にトライする人には、体や心の状態を感じ取って、自分のペースで登ることを意識してほしいですね。

――よりよいコンディションで山に向かうために、どのようなトレーニングをしていますか?

体力をキープするのに、毎日のトレーニングは欠かせません。クライミング、マウンテンランニング、アイスクライミング、バックカントリースキー、さらに室内でできる体幹トレーニングも。子供の頃からスポーツには親しんでいますし、スポーツをするのは私のライフスタイルなのです。

――これから山に登ってみたいと思う人に、アドバイスをお願いします。

最も大切なのは、心から「山に登りたい」と思う純粋な気持ちを持つことです。有名になりたいとか、記録を作るとかではなく、山を愛し、向かい合うこと。いきなり高い山を目指すのでなく、ステップアップし、準備していくこと。そしていざ山に向かうことになったら、登らなくてはならないという義務感や強制ではなく、登りたいと思う気持ちを大切にしながら、山とよい関係を持ち、楽しむことです。

――山とよい関係を持つ。山を愛するゲルリンデさんならではの考えですね。

大きく、圧倒的な力を持つ自然に人間が逆らうことはできません。自然の中で、人間はとても小さいものです。自然への敬意を持ってください。たとえ登頂できなかったとしても、登山で得られたすべてのものが自然からのプレゼントなのです。

・・・・・・・・・・おわり

==== 追記/ゲルリンデ・カルテンブルンナーの登山歴 ====

ゲルリンデの住む村の教会の神父は登山好きであった。ゲルリンデが彼に連れられてハイキングに出かけたのは7歳のときであった。13歳のときはロープを使用した本格的な登山を始めたが、これも神父の指南によるものであった。

1985年両親が離婚し当時14歳だったゲルリンデは10歳上の看護師をしている姉と一緒に暮らすようになる。ゲルリンデも看護師となり20歳の時に故郷から24kmほど離れたロッテンマンの病院に就職した。看護師になってからも登山は趣味となっており、1994年、24歳のときにカラコルム山脈のブロード・ピーク(世界で12番目に高い山:8051m)に挑戦し、天候の悪化により登頂は断念したものの、頂上から20m下まで到達した。

このときにブロードピークの横に位置するK2を見て、ゲルリンデは強い衝撃を受けたとされるが、自分が将来その頂上に至るとは夢にも思っていなかった。父親は彼女の登山の趣味に強く反対していたが、彼女は働いて資金を貯めては海外に遠征するという生活を続け、結婚して子供を作るという選択肢を明快に否定した。

登山中に遭難者の遺体を目にすることも多く、ゲルリンデは「幸せと喜びがこれほど密接に結びつくことが他にあるだろうか」と日誌に書き残している。看護婦をしていたために、人の死に接することも多く、姉は3回夫に先立たれていたので、死は生の一部なのだという考え方を持っていた。 

1998年中国とネパールの国境に位置するチョー・オユーの登頂に成功。2002年にはネパールのマナスル(8163m)にも挑戦している。このとき山麓のベースキャンプで出会ったのが当時40歳のラルフ・ドゥイモビッツであり、その後2人は一緒に登山をするようになる。2003年オーストリア女性として初めてナンガ・パルバットへの登頂を成功させ、このことはオーストリアのメディアで大きく報道された。

ゲルリンデはスポンサーの援助が得られるようになったので看護婦を辞めて登山家に専念して活動するようになった。スポンサーの受けも良く、講演会も毎回盛況でプロの登山家としても成功をおさめた。2006年1月、ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』は「デスゾーンの女王」の称号をゲルリンデに贈った。2006年までに8000m級14座のうち8座に登頂成功した。

2006年にローツェにもアタックしたが、この時は途中で登頂を断念した(2009年に再アタックして成功)。標高7250mのキャンプでは一足先に登頂を断念して引き返したラルフ・ドゥイモビッツがゲルリンデを待っており、その晩にラルフがゲルリンデにプロポーズをした。2007年にはかつて登頂を断念したブロード・ピークにも登頂成功している。

2007年5月、ゲルリンデはダウラギリ(8167m)に挑戦した。1998年にフランスのシャンタル・モーデュイは同じ場所で雪崩に巻き込まれて頚骨を骨折して死亡しているので、入念に場所を検討してテントを設営したが5月13日午前9時、彼女のテントは雪崩に飲み込まれて30m流され絶壁の手前で止まった。

ゲルリンデはナイフを使ってテントを切り裂き、1時間かけて雪から脱出した。隣にはスペイン人パーティー3人が設営していたが、サンティアゴ・サガステとリカルド・バレンシアの2人が雪崩に飲み込まれ1時間後にゲルリンデらによって掘り出されたが既に死亡していた。装備品を雪崩で失ったこともあり下山せざるをえなくなったが、翌年ゲルリンデはダウラギリへの登頂を成功させている。

・・・・・・・・明日 (ゲルリンデ・カルテンブルンナーの記録 / K2への無酸素登頂) に続く・・・・・ 

K2: SIREN OF THE HIMALAYAS - Official Trailer (2014) HD

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 08月21日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-21 05:10:15 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 現人神が山形、宮城、群馬、栃木、埼玉、長野、静岡、岐阜、京都、兵庫、福岡、大分の国々をお産みになられた。しかし、不逞な輩が蔓延っていた諸国の大半は抹殺され、鳥取の国は神の国に編入され、庄内の国は沿岸との交流を妨碍され、浜通りの国は窮乏と核災難を確約された(1876年= 第2次府県統合) ◆ 人やら馬やら路面電車・自動車やら、おまわりさんの手に負えないくらい交通量が多くなった東京の34地点で3色灯自動信号機が取り付けられる(1930年)。見物人が屯することになり益々混乱。 ◆ 夏の高校野球の優勝旗が、阿蘇山はおろか桜島をも越えて沖縄県のものに(2010年)。因みに、第92回目の快挙であるも 以降 この時期の報道は野球に染まる偏向報道。

◎ ◎ 第4回 私が酸素を必要としない理由(2/2)/ G・カルテンブルンナー ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー G・カルテンブルンナー / 文=西野淑子/写真=的野弘路 - - -

==== 8000m峰14座、全てを無酸素で登頂した史上初の女性登山家がゲルリンデ・カルテンブルンナー。46歳。「シンデレラ・ブルドーザー」と称され、今も山を深く愛し、登りたい山に自然体でチャレンジし続けている。(インタビュー・文=西野淑子/写真=的野弘路) =====

――つまり、酸素ありのほうが楽だし安全ということ?

 必ずしもそうとはいえません。たとえば8000m以上の地点で酸素ボンベにトラブルが発生したとき、それまで酸素を吸いながら登っていた状態からマスクをはずすと、一気に危険になります。無酸素の場合は、登り続けていることでその場に合わせた高度順応ができています。しかし酸素ありのときはそうではありません。

――8000m地点でいきなり酸素なしになるということは、非常にリスクが高いですね。

 私は登りながら、自分の体がどういう状態であるかを注意深く観察しています。頭は痛くないか、吐き気はないか、指先の感覚は問題ないか。そして、少しでもおかしいと感じたら、すぐに下のキャンプあるいはベースキャンプまで下山して様子を見て、体調を整えます。自分の感覚を知って、判断することが登山では大切です。自分の体調を的確に判断するのは、看護師だったときの経験も生きていると思います。

――ほかに看護師の経験が登山に役立っていることはありますか?

 高所では遭難の現場に遭遇したり、死体が登山道にあったりと、ときどき登山者の死に直面し、ショックを受けますが、私は他の人より心のダメージから立ち直るのが早いかもしれません。それは、人の生と死を間近で見る機会の多い看護師であった経験が助けになっているのではないかと思います。

ゲルリンデさんの挑戦は、すばらしい仲間の存在と、自分の体に対する的確なケアがあって成り立っていたのですね。次は、ゲルリンデさんの現在、そして今後の登山について教えてください。

第5回 美しい山を求めて登り続ける(1/2)

――ゲルリンデさんが現在行っている登山について教えてください。直近ですと(2016年11月)ブータンにいらしたそうですね。

 ええ。プライベートで3週間ほど滞在して、標高5000mぐらいの山々のトレッキングを楽しみました。初めて訪れましたが、とても美しく、魅力的な景色でしたね。ブータンには美しく急峻な、登りたいと思う7000m級の山もあるのですが、現在は6000mを超える山への登山が法律で禁止されているのです。

――14座全山の登頂を成し遂げてから、高所登山は?

 8000m峰は、2011年にK2を登頂してからは登っていません。すべての8000m峰を登るという夢は実現できましたから。今は6000m、7000m級の山々への登山を計画していて、2012年にはネパールにあるヌプツェ(7861m)に登頂しましたよ。

――6000m、7000mといっても高峰ですね。これらの山にはどのような魅力が?

そうですね、一番は景色の美しさ。8000m峰に比べて登山者が少ないことも魅力です。すばらしい景色を、自分たちだけで楽しめるのですから。また、8000m峰に比べるとチームの規模が小さく済みます。持って行く装備も8000m峰に比べれば少なく、7000m峰なら約6週間、6000m峰ならさらに少ない日数で挑戦できます。

 今、登りたいと思っているのはガッシャブルムⅣ峰。K2やブロード・ピークのすぐそばにある山で、標高は7925m。非常に美しい山ですが、技術的な難易度が高く、登っている人も少ないと思います。

――8000m峰の挑戦を終えて、山への思いや好みに変化はありましたか?

 いえ、何も変わっていないです。8000m峰14座を登り終えたというだけのこと。初めて山に登ったときからずっと、私は美しい山、美しい景色に魅力を感じて登り続けています。山頂を目指して山を登り、達成感とともに、山頂から眺める白く美しい山々の連なり、澄み渡った空、景色のすばらしさに心を奪われる……。そのとき私は自然からすばらしいプレゼントをもらっている、宇宙とつながっていると感じるのです。

――プロの登山家として、現在はどのような活動をしていますか?

 主な仕事は、私のこれまでの登山の経験をもとにしたプレゼンテーション(講演)です。14座挑戦やK2登山の体験談を通じて、登山のすばらしさ、目的達成の方法やリスク管理、モチベーションを保つことの重要性などを伝えています。また、ネパールの学校、病院、老人施設などの支援活動を行うNepalhilfe Beilngriesという団体とパートナーシップを持っていて、現在は2015年の地震によって壊れてしまった学校を再建する資金を集めるための講演やイベント活動を行っています。

 ・・・・・・・・明日 (第5回 美しい山を求めて登り続ける2/2) に続く・・・・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 08月20日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-20 05:10:26 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 日本で小学校令が改正。授業料が無料化、それをきっかけに子を小学校に行かせる親が急増。その日に500万人の子供が自由を奪われ、胡乱になったとか(1900年)。 ◆ 人やら馬やら路面電車・自動車やら、おまわりさんの手に負えないくらい交通量が多くなった東京の34地点で3色灯自動信号機が取り付けられる(1930年)。見物人が屯することになり益々混乱。 ◆ プラハでソ連主催による5,000輛の戦車による戦車道のデモンストレーションが始まる(1968年= プラハの春: チェコ事件)。

◎ ◎ 第4回 私が酸素を必要としない理由(1/2)/ G・カルテンブルンナー ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー G・カルテンブルンナー / 文=西野淑子/写真=的野弘路 - - -

  ==== 8000m峰14座、全てを無酸素で登頂した史上初の女性登山家がゲルリンデ・カルテンブルンナー。46歳。「シンデレラ・ブルドーザー」と称され、今も山を深く愛し、登りたい山に自然体でチャレンジし続けている。(インタビュー・文=西野淑子/写真=的野弘路) =====

――ゲルリンデさんの登山に影響を与えた人たちのことを教えてください。

 まずは、私を山に導いてくれた村の神父さんですね。私の両親も、5人の兄弟姉妹も、登山を趣味にはしていませんでしたので、彼との出会いが全てだったと思います。2002年に登頂したマナスル以降は、ラルフとヒロタカと山に行くことが多くなりました。

――ドイツの登山家、ラルフ・ドゥイモビッツさんと、日本人で初めて8000m峰14座すべてを登頂した登山家の竹内洋岳(たけうち ひろたか)さんですね。

 はい。3人で何度も8000m峰を登りました。ヒロとは、彼がラルフの公募登山に参加したことがきっかけで、一緒に山に登るようになったのです。みんなとてもタフなクライマーであり、私たちはバランスのとれたよいチームでした。

――以前、 竹内さんにインタビューをしたとき(前記参照)。彼はゲルリンデさんのことを嬉しそうに話してくれました。

  彼は素晴らしいクライマーです。体力だけでなく、メンタルもとても強い。いつも落ち着いて、8000mの地点でも、街中にいるときと同じように穏やかに平常心で過ごしていました。彼とはフィーリングがぴったり合うんです。2カ月近くずっと行動をともにする高所登山では、一緒にいるときの関係性はとても重要。彼との登山では、トラブルもストレスもなく、私も心地よく過ごせたのです。

――ゲルリンデさんが高所登山のパートナー、チームメートに求めることは?

「登りたい、登るんだ」というモチベーションを保ち続けられることですね。普段とは違う環境でも、悪天候などで思うような条件で登れなかったとしても、気持ちを切らさずに我慢強く山に向き合える忍耐力も必要。また、正直に何でも話せることです。たとえば「今日は調子が悪い」と思ったときに、それを正直に伝え合うことができるか。

――逆に、チームメートにいたら困るタイプは?

「こんな条件では行けるか分からないな……」などと、すぐにマイナスなことを考えたり、口に出してしまうような、ネガティブ・シンキングな人は、一緒に山を登る仲間としては好ましくないです。体力や技術があったとしてもメンタルが弱く、モチベーションが保てない人は、チームの中で不安要素になってしまいます。そして、もし条件が悪く登頂できなかったとしても、それも高所登山なのであり、そのことを受け入れられる人でなくてはなりません。

――当時夫であったラルフさんとは、何でも言い合える間柄、ベストなパートナーだったのでは?

 彼はすばらしいクライマーですし、今も親しい間柄です。しかし夫婦という非常に近い間柄ならではの難しさがあったかもしれません。私たちは標高8000mという厳しい環境の中でずっと行動をともにしていて、気持ちを共有していました。友達なら理解し許せることでも、夫婦だからこそ受け入れられないこともあったと思います。

――K2のとき、ラルフさんは途中でベースキャンプに戻ったとうかがいましたが、それも夫婦だったことが関係していたのでしょうか。

 私たちの間では、仮に一方が途中で引き返す決断をしても、もう一方が登山を続けたいと思ったら、止めずに続ける、というルールを設けていました。ラルフが戻ったのは、彼自身が既にK2を登頂していたから、無理をしなくてもよかったんです。私は気力も充実していたし、行けると思ったから進みましたが、彼が私と同じ気持ち、モチベーションでなかったことが残念で割り切れないとそのときは思ってしまったんです……。もっとも、ベースキャンプから無線で天気予報などの報告をしてくれたことが、私たちの登頂には大きな助けになりました。

――ところで、ゲルリンデさんは8000峰14座を「無酸素で」登頂しているのですね。

 はい。今までの登山で、酸素を使って登ったことはありません。私の登山のポリシーとして、無酸素で登ること、荷物を持ってくれるシェルパに頼らない、ということがあります。自分の持っている力だけを使って登りたい、と思っているのです。

――私たちがイメージする高所登山では、大きな酸素ボンベを背負って歩く姿が一般的なように思いますが、無酸素と有酸素では何が違うのでしょうか?

 得られる酸素の量が大きく違います。酸素を使って8000m地点にいるのは、無酸素で6000m地点にいるのと同じと考えてよいと思います。一般的に、5000mの地点では酸素の量が平地の1/2、8000m地点では1/3になります。8000m地点の酸素量では,人間は生命を維持するのが非常に難しいと言われています。

 

・・・・・・・・明日に続く・・・・・ ・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 08月19日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-19 05:10:19 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 中京商業が準決勝で5時間近くも甲子園で粘りながらやっと1点差で勝利(1933年)。この結果同校はこの年の甲子園で栄えある日本一となるが、81年後には同じ中京と名のつく高校が硬式と軟式の違いとは言え同様に準優勝で3日連続も粘った挙句日本一の座を手にした。 ◆ 在日米軍が戦車7台・飛行機3機などを投入し、東宝砧撮影所に空と陸から攻撃(1948年=第3次東宝争議)、しかし全力を挙げて見逃す失態を犯したため6年後にゴジラが首都圏を破壊することに。 ◆ 中日球場での名古屋対巨人の試合中、観客の捨てたタバコの吸い殻が紙屑に引火し火災が発生。瞬く間に火は燃え広がり球場は全焼、4人の死者を出す大惨事に(1951年)。

◎ ◎ 第3回 K2登頂は“第六感”に導かれて/ G・カルテンブルンナー ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー G・カルテンブルンナー / 文=西野淑子/写真=的野弘路 - - -

  ==== 8000m峰14座、全てを無酸素で登頂した史上初の女性登山家がゲルリンデ・カルテンブルンナー。46歳。「シンデレラ・ブルドーザー」と称され、今も山を深く愛し、登りたい山に自然体でチャレンジし続けている。(インタビュー・文=西野淑子/写真=的野弘路) =====

――「8000m峰14座すべてに登頂する」と思ったきっかけはいつですか?

 9峰目に登頂した、2006年のカンチェンジュンガ(8586m)のときだと思います。このときは天候が非常に悪く、登ったルートも技術的難易度が高いもので、とくに山頂直下で難しいクライミングを強いられました。それでも登頂し、ベースキャンプに戻ってくることができたのです。とても厳しい登山で、疲労困憊でした。

 でも、本当に幸せな気持ちに満ちあふれていたんですよね。そのとき、こんなに困難な挑戦をやり遂げた私には、K2(8611m)も、エベレスト(8850m)も登れるはずだ、14ある8000m峰すべてを登りたいという思いがわき上がってきたのです。

――その後も8000m峰の登頂を続け、2010年はエベレストに、そして2011年のK2で14座登頂を成し遂げましたね。その時の様子はナショジオ本誌の 2012年4月号でもお伝えしています。

 K2の山頂に立ったときはもう、嬉しくて、登ってくるパートナーたちを待ちながら喜びをかみしめていました。雲ひとつない青空が広がり、眼下に山々が広がっていて……。K2に登頂できたこと、そして山頂からのすばらしい眺めが、宇宙からの大きな贈り物に思えました。

――登頂した8000m峰14座の中で、最も印象深いのは……やはりK2ですか?

 そうですね。私にとってK2はとても美しく、そしてとても困難な山でした。それまでも、一度で登れなかった山はあります。ローツェ(8516m)やカンチェンジュンガは2回目の挑戦で登頂できましたが、K2は3回登頂を試みて到達できず、2011年が4回目の挑戦でした。  

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  ――3回目の挑戦のときは、一緒に登っていた親しい友人であるフレドリック・エリクソンさんが滑落事故で亡くなっています。

  ごく親しい友人を山で亡くすのは初めてのことで、このときは本当に落ち込みました。もうK2には戻れないかもしれないと、初めて思いましたし、深い悲しみから気持ちが回復するのに何カ月もかかりました。でもインドネシアでクライミングをしたりして過ごすうちに、K2への情熱が戻ってきました。もう一度K2に向かいたい……と強く思ったのです。

 ――4回目のトライは、過去3回と違うルートから登ったと聞きました。

  3回目まではパキスタン側から南側斜面のルートを登りましたが、4回目は中国側から登りました。中国側からのルートはベースキャンプからのアプローチが長く、パキスタン側のルートに比べると技術的な難易度も高いです。急峻で、8000m以上でクライミングの技術が必要な場面が現れます。また、登っている人がほとんどいないルートでもありました。

 ――より困難なルートへ。それは何か理由があったのですか? 

 家族や友人からは「なんで難しいほうのルートに行くんだ?」と驚かれました。しかし、第六感というか……、中国側からのルートのほうがよいのではないかという直感、ひらめきがあったのです。このとき登ろうと計画した北稜は、技術的には困難ではあったものの、南側のルートに比べて雪崩のリスクが低いということもありました。

――そして2011年8月。思うように回復しない天候、8000mを越えて胸までの深い雪をかき分けての苦しい登り、過酷な高所での一夜を乗り越えて、ゲルリンデさんはK2の頂に立ちました。

  悪天候でメインテントが壊れたり、モチベーションが下がるような出来事もたくさんありましたが、仲間たちとお互いを信じ合い、気持ちを立て直して山頂への挑戦を続けることができました。途中で引き返し、ベースキャンプから無線で的確なアドバイスを出し続けてくれた当時の夫、ラルフの存在も大きかったですね。登頂したのは私だけの力ではありません。すばらしい仲間たち、たくさんの人のサポートなしには成り立たなかったのです。

 ――悪条件が重なったとき、ゲルリンデさんはどのように気持ちを立て直すのでしょうか?

  嵐に遭ってとても寒いとか、危険であるとか、そのような悪条件は、高所登山ではある程度想定できることです。山に入る前にさまざまなリスクを想定して気持ちの準備をしておくことで、動揺せず、気持ちを穏やかに保つことを意識しています。毎朝のメディテーション(瞑想)の時間も私には大切です。

 ――メディテーション、具体的にはどんなことを?

 20〜30分間、ただ座って静かに、何も考えずに時間を過ごします。テントの外がひどい嵐でも、心を穏やかにして平常心を保ち、山に向かうために心を整えていくのです。高所にいるときだけでなく、毎日行っています。今朝もしてきましたよ。

 困難な挑戦を乗り越えて14座すべての頂に立ったゲルリンデさん。次は、ゲルリンデさんの登山に影響を与えた人たちの話を聞かせてください。  

・・・・・・・・明日  (第4回 私が酸素を必要としない理由 ) )に続く・・・・・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 08月18日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳 

2024-08-18 05:10:27 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 1928年 - 三井財閥の大番頭・中上川彦次郎の娘・あきがにテノール歌手・藤原義江を追って2児を残してミラノへ出発。 そして、翌年のこの日 谷崎潤一郎と妻・千代子が離婚し谷崎の友人・佐藤春夫が千代子と再婚することを3人連名で発表。 ◆ 尋常じゃないくらいのドシャ降りでバス2台が巻き込まれてしまい、飛騨川に100人以上もの乗客ごと押し流すことに(1968年)。結果的にダムを〆切って川底まで浚う手間にまでなったとか。 ◆ インスタントラーメンで安藤さんとこに煮え湯を飲まされたマルちゃんが、赤狐と緑狸を使い魔として召喚しうどんとそばでリベンジを図る(1978年)。

◎ ◎ 第2回 生きている以上、リスクはいつどこにでもある/ G・カルテンブルンナー ◎ ◎

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  ==== 8000m峰14座、全てを無酸素で登頂した史上初の女性登山家がゲルリンデ・カルテンブルンナー。46歳。「シンデレラ・ブルドーザー」と称され、今も山を深く愛し、登りたい山に自然体でチャレンジし続けている。(インタビュー・文=西野淑子/写真=的野弘路) =====

 ――人生2度目の8000m峰登山は1998年、ネパールと中国チベット自治区の境にそびえる標高8201mのチョー・オユー。このときは1回で登頂を成し遂げましたね。

 とても寒かったですが、山頂からは見たことのない絶景が広がっていました。エベレストが間近に眺められ、幸福感で満たされたんです。すばらしい登山ができたことに興奮し、下山をしながら「次はどこの山を登ろうかしら」と考えていました(笑)。

 ――登頂したばかりなのに、もう次の山のことを?

 ええ。チョー・オユーの山頂からは、中国チベット自治区にある、8000m峰のひとつであるシシャパンマ(8027m)も見ることができたのです。美しい山姿を見たとき、ああ、次はシシャパンマに登りたいな……と思いました。  

  ――チョー・オユーはどのようなメンバーで登ったのですか?

  親しい仲間たちと登りました。このときに限らず、それまでも、その後も、私の登山はいつも友人、親しい仲間と行っていますね。公募隊や旅行会社の主催するツアー登山で登ったことはないのです。

 ――仲間と登るゲルリンデさんのようなスタイルは、8000m峰登山では普通なのでしょうか。

  いいえ、一般的には公募隊での登山や、ツアー登山で8000m峰を登る人のほうが多いと思いますよ。どんなスタイルで登っても、その人たちの自由です。  しかし、私たちはすべて自分たちで準備をし、山に向かいます。同じ目的を持って準備を進め、行動し、気持ちを通じ合わせていく。そういうスタイルの登山を私は好むのです。

 ――チョー・オユーの登頂から、毎年のように8000m峰への挑戦を続けていきますね。2000年にシシャパンマ中央峰(8008m)、2001年には同じくヒマラヤ山脈にあるマカルー(8485m)、2002年にはマナスル(8163m)へ。

  困難を乗り越えて登り、山頂に立ったときに得られる、8000m峰ならではの美しい景色や達成感。登れば登るほど、どんどん山への気持ちが強くなっていきましたね。

――そして2003年、ゲルリンデさんはプロの登山家に。

 チョー・オユーを登頂した頃から、大好きな登山を職業にできたら……と思っていましたが、転機は2003年のナンガ・パルバット(8126m)への挑戦でした。  オーストリアの登山家、ヘルマン・ブールがナンガ・パルバットを初登頂してから50年という節目の年に、私はオーストリア女性として初の登頂者となったんです。非常に話題となり、講演に呼ばれる機会が増え、スポンサーも付き始める中、プロになるなら今だと思い、看護師の仕事を辞め、登山家に転身したのです。

――晴れて念願のプロ登山家となり、以後も8000m峰への挑戦を続けていきますが、命の危険を感じたことはありますか?

  あります。2007年のダウラギリⅠ峰(8167m)で大きな雪崩に遭ったことですね。テントごと30m流された後、絶壁の手前でかろうじて止まったんです。でも近くにテントを張っていた別の登山家は、この雪崩に巻き込まれて亡くなって……私が助かったのは、とてもラッキーなことでした。

 ――恐ろしい体験を経て、もう山に登りたくないとは思わなかったのですか?

  それは思いません。生きている以上、リスクはいつ、誰にでも、どこにでもあるものです。今回はそれが山で、雪崩だったというだけのことですから。  雪崩に遭って一度オーストリアに戻った当初は気分が優れなかったのですが、山に登り、クライミングをしているうちに、いつもの自分を取り戻していきました。その翌年に再びダウラギリⅠ峰を目指し、登頂しています。

 私は雪崩に対して今まで以上に注意深くなりました。山で起きる雪崩のことを正しく知ることができ、以後の私の登山に生かされることになったのです。決してよい経験ではないですが、私にとっては重要な経験でした。

 一歩ずつキャリアを積み、8000m峰を登り続けるゲルリンデさん。彼女の前に最後に立ちはだかったのは、「非情の山」の異名を持つ、世界第2位の高峰、K2でした。  

・・・・・・・・明日 ( 第3回 K2登頂は“第六感”に導かれて )に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 08月17日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-17 05:10:27 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 源頼朝が、以仁王/ 後白河法皇の令旨を受けて「めんどくせー」と言いながら挙兵(1180年)。 ◆ 昼間の軍務の最中じゃ生でプロ野球が観られねぇ!!との米軍の不満に応える格好で、横浜ゲーリック球場で照明に照らされながら野球選手が残業をすることに(1948年)。 ◆ ビルがモニカとの不適切な関係を認め、スキャンダルによる政治の混乱を打開しようとする(1998年)。さりとて、ビルはヒラリー夫人の尻に敷かれたが、J.F.K.とM.Monroeの不適切な関係はFBIにして強権に封印された。

◎ ◎ 第1回 登れば登るほど山に魅了されて/ G・カルテンブルンナー ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー G・カルテンブルンナー / 文=西野淑子/写真=的野弘路 - - -

  ==== 8000m峰14座、全てを無酸素で登頂した史上初の女性登山家がゲルリンデ・カルテンブルンナー。46歳。「シンデレラ・ブルドーザー」と称され、今も山を深く愛し、登りたい山に自然体でチャレンジし続けている。(インタビュー・文=西野淑子/写真=的野弘路) =====

 ――ゲルリンデさんが無酸素で8000m峰14座の完登を果たしたのは2011年(当時40歳)のことでしたね。ゲルリンデさんが登山を始めたきっかけを教えてください。

  私はオーストリアの山あいの村で生まれ、山が間近にある環境に育ちました。初めて山を歩いたのは7歳のとき。村の神父さんが、ミサの後に山に連れていってくれたのです。それからは毎週日曜日、ミサの後に神父さんや村の人たちと山へ向かうようになったのです。私は登山靴をザックに入れてミサに行きましたし、神父さんはガウンの下に登山服を着ていました(笑)。 ○◎ ――そこから登山にのめり込むようになったのですね。

  初めてのロッククライミングは13歳のときでした。神父さんに連れていってもらったのですが、岩に向かい、よじ登っていると、集中して他のことをすべて忘れて没頭できる感覚にすばらしさを覚えたんです。アイスクライミングやバックカントリースキーもするようになったのは、その後ですね。  

  ――当時のゲルリンデさんには、山のどんなところが魅力だったのでしょうか。

  神父さんと初めて山に登ったときから楽しくて、もっと登りたい、いろいろな山に行きたいという願望がムクムクとわいてきたんですよ。 最初は高いところに登って、山頂から見える美しい景色に感動していましたが、ロッククライミングを始めるようになってからは、困難を乗り越えて登っていく過程にも気持ちの高まりを感じるようになったんです。集中したクライミングをして、すばらしい景色にたどり着く。私にとってそのコンビネーションが魅力的でした。

 ――初めての8000m峰登山はいつ、どの山に?

  1994年、23歳のときに、中国とパキスタンの国境にある、標高8051mのブロード・ピークを目指しました。それまでにも、モンブランなどヨーロッパの4000m級の高峰には登っていましたが、ブロード・ピークは8000m峰の中では技術的な難易度が低く、比較的登りやすい山で、初めての挑戦にはよいと思ったのです。

  8000m峰を登ることにはずっと興味を持っていました。その大きなきっかけは16歳のとき、K2に登頂した登山家の講演を聞いたことでした。「私も高所登山がしてみたい、すばらしい景色が見てみたい」という強い思いを抱くようになったんです。

――「目指した」とおっしゃったのは、そのときは登頂できなかったのでしょうか。

  ブロード・ピークにはふたつのピークがあります。天気が急変し、ブロード・ピークの本峰にはたどり着けませんでした。標高8027mの、もうひとつのピークがそのときの最高到達点です。本峰までは標高差わずか20m。でも、風雪が吹き荒れる中、その先へ進むのはとても難しく、断念したんです。

 ――まさに、目の前で引き返したのですね。とても悔しかったのでは?

  いいえ、そのときの私はとても幸せでした。8000mを超えるピークのひとつに登るという大きなチャレンジをなしとげることができたのですから。初めてでも自分の体が8000m峰にうまく適応していることがわかったのも収穫でした。メインの山頂には届かなかったけど、また次に行けばいいと思ったのです。その後、ブロード・ピークの本峰には2007年に登頂しています。

 ――初めての8000m峰、ブロード・ピークへの挑戦を終えてどんなことを感じましたか?

本当にすばらしい体験をして「ここが自分のいる世界だ、自分のいる場所だ」と強く思いました。とはいえ、8000mの高峰にトライするには、登山の基地となるベースキャンプへの移動も長く、登山自体にも日数がかかるために約2カ月の期間が必要です。

  私は当時、看護師として働いていましたから、その間は仕事を休まなくてはなりません。時間を作るのが難しかったですが、その後も資金をため、比較的に短期間で済むアマダブラム(ネパール・6856m)や、ムスターグ・アタ(中国・7546m)などの高峰に登り続けていました。

8000m峰の扉を開き、その世界に魅了されたゲルリンデさん。14座制覇に向けて動き出した彼女の挑戦についてうかがいましょう。 (第2回 生きている以上、リスクはいつどこにでもある)  

・・・・・・・明日 新企画に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 08月16日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-16 05:10:39 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 前の日にユダヤ人が騒いでいた嘆きの壁をアラブ人が大掃除。ユダヤ教の祈りの書までゴミ扱いしたことからユダヤ人が当局に抗議する事態に(1929年)。 ◆ イタリアはミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会が連合国の空襲で徹底的に破壊されるも、最後の晩餐は主の恩寵故に奇跡的に残った(1943年)。 ◆ 松井秀喜が高校生にしては度を越える強さ故に、試合相手の明徳義塾から徹底的にスルーされる。これで明徳義塾は試合での勝利を手にしたのに、日本中からブーイングの雨霰を浴びる破目に(1992年)。

◎ ◎ 第5回 登りたい山があれば何をすべきか自ずとわかる (1/1) ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー 竹内洋岳 / 文=西野淑子/写真=田中良知 - - -

  ====日本人初の14座完登者となったのが、プロ登山家の竹内洋岳さん。さまざまな困難を乗り越えて成し遂げた偉業を振り返りつつ、山にかける思いを聞いた。(インタビュー・文=西野淑子/写真=田中良知) =====

 ――いただいた竹内さんのお名刺、肩書きに「プロ登山家」とありますね。

  2006年に「プロ宣言」をしました。それまでは登山は「趣味」として、好きな山に登っていました。当時専属だった石井スポーツでの契約が変わり、登山に専念できる環境が整い、趣味でなく山に向かう覚悟を決めたのです。

 ――だったら普通に「登山家」でよかったのでは?

 「家」のつく職業には共通することがひとつあるんですよ。それは「資格が要らない」こと。自称でいいんです。私は「自称」登山家にはなりたくなかった。自称だったら、うまくいけなければ、他に面白いことが見つかれば辞めていい。そうではなく、私はずっと、出来る限り登山の世界で生きていくんだという覚悟を、「プロ」という言葉に込めました。登山に専念できるためにスポンサーもついていますが、お金を得る・得ないがプロではなく、「覚悟」のあるなしがプロだと思っています。

  そして、プロ宣言と同時に8000m峰14座を登る「14project」を立ち上げました。14座はプロとして絶対に登る。途中で辞めたりしないと宣言したのです。  

  ――プロ登山家として、竹内さんの仕事は何でしょうか。

 「山に登って、伝えること」だと思っています。日本にも登山家がいるということ、14座の山々は地図上の図形ではなく地球上に確かに存在し、そびえていること。ヒマラヤはただのカタカナ4文字の言葉ではなく、雪と氷と岩のある山であること。8000mという数字でもなく、居るだけでとても苦しい場所であること。そしてそんな山に魅せられて登るような人が本当にいるのかなぁ、と思っている人に、ここにいます!ということを伝えたいのです。自分が登って来た山のことを人前で説明し、その魅力を伝える。それは自分にとっては仕事というより「役割」なのだと思っています。

 ――これから山登りを始めたい、高所登山に興味を持った人へのアドバイスをお願いします。

  そうですね……。「登りたい山」を見つけることでしょうか。登りたい山に登ってみたらいい。登れないかもしれないけど、そしたら帰ってきて、何が足りなかったのか考えて、また登ってみればいいんです。 「8000m峰に登りたい」ではなく「マカルーに登りたい」「カンチェンジュンガに登りたい」などと具体的に思うことですよね。標高ではなく山の個性に魅力を感じて、登りたい山を見つけることです。登りたい山が見つかれば、何をするべきかは自ずと分かってくるのだと思います。

 ――今後の登山のパートナーについて、考えていますか?

  今後も、いろいろな人と登っていきたいと思っています。ラルフ、ガリンダと登る機会もあるでしょうし、チョー・オユー、ダウラギリ登山のパートナーである中島ケンロウさんとも行ってみたいです。また、メンバーを公募して登ることもあると思います。

――行き先はやっぱりヒマラヤですか?

  行きたいですねえ。まだまだ行きたい山、登りたい山がいっぱいあるんですよ。14座なんて、地球上にある山のたった14個。いっぱいある登りたい山のまだ14つしか登っていませんから。まだ行ったことのない山がたくさんありますし、過去に行ったことがあっても、違うルートから登ってみたい山もあります。きっと同じルートでさえ、違う人と行ったら面白いんだと思います。

  まずは「山頂が遠い」ことですね。何カ月もまとめて山登りが続けられるというのは、ヒマラヤ独特ですよ。山を登るだけでなく、山の中で生活をするんですよね。そして山麓の町……、ネパール、チベット、パキスタンなど、非常に独特な文化や習慣、宗教のあるエリアに入って行くことがとても興味深いです。山の魅力だけでなく、人が集まる場所としての魅力もあります。ネパールだったら、カトマンズに入るだけでも面白いですよ。登山者やハイカー、旅行者などさまざまな人がいて、日本より格段に国際都市なんです。

  ヒマラヤはラルフやガリンダにとっても、私にとってもホームではない、「アウェイ」な場所。全員がイーブンな状態で山に向かえるのが魅力的です。世界中から人が集まっていて、一緒に登山をスタートすることができる。そのことがラルフたちと私を結びつけた理由のひとつでもあると思います。

 ――14projectも無事完結しました。今考えていることは?

  終わったとか一区切りとかあまり考えていなくて、これからも今までと変わらず、好きな人と好きな山へ、好きなルートで登っていくと思います。登山のプランや高所の滞在日数など、改善して行くところはいろいろありますね。そうやって、山で起きることの一瞬一瞬を楽しみながら、いつまで山を登り続けることができるか、挑戦していきたいです。

 おわり ・・・・・・・・明日 新企画に続く・・・・・  

西野淑子(にしの としこ) 1969年、山口県生まれ。大学卒業後、旅行ガイドブックを多く手がける出版社を経て、1999年よりフリーランスライター&編集者として独立。趣味は登山と茶道。登山は1999年からはじめ、現在は関東近郊の低山歩きから、アルパインクライミング、冬山登山など、オールラウンドに楽しみつつ、専門誌『岳人』(東京新聞出版部)などでも活躍している。主な著書に『東京近郊ゆる登山 (ブルーガイド)』 (実業之日本社)、『女子のための!週末登山』 (大和書房)、『もっと行きたい! 東京近郊ゆる登山 (ブルーガイド)』 (実業之日本社)などがある。 ・

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今日(狂)の狂言 : 08月15日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-15 05:10:14 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 不景気の憂さを踊って晴らそう!という趣旨で、この日から五日間日比谷公園で盆踊り(1932年)。この時流れた音楽がやがて全国津々浦々の盆踊りで流れる流行歌に。 ◆ ヒトラーもムッソリーニも既に死んでいるのに神州不滅を信じて日本列島での地上戦をもやり兼ねなかったのが、突然白旗を挙げたことで連合国の兵士も市民も戦争が終わった!と狂喜乱舞(1945年)。 ◆ 第二次世界大戦の勝利を享受した若者たちが、ニューヨーク州の広い野っ原にて3日連荘でロックを大音量で流して大騒ぎ(1969年=ウッドストック・フェスティバルが開幕)。

◎ ◎ 第4回「体育」はまったくダメでした (2/2) ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー 竹内洋岳 / 文=西野淑子/写真=田中良知) - - -

  ====日本人初の14座完登者となったのが、プロ登山家の竹内洋岳さん。さまざまな困難を乗り越えて成し遂げた偉業を振り返りつつ、山にかける思いを聞いた。(インタビュー・文=西野淑子/写真=田中良知) =====

 ――「アルパインスタイル」がすぐれた登り方ということですか?

  いや、そういうことではないです。ラルフとの出会いにつながったのは、極地法で山頂を目指したマカルーをはじめとする、私のそれまでの登山があったからこそ。大規模な組織登山も楽しいですし、機会があればまたやってみたら面白いと思っています。

 ――ところで、竹内さんは、高所登山のためにどんなトレーニングをしているのでしょうか?

  筋力トレーニングなどはまったくしていません。むしろ筋量を少なく保っています。筋肉は酸素の消費量が多く、そして重いんです。低酸素の中に入っていくのに不要な筋肉をつけることは、余分な荷物を持って行くのと同じようなもの。

 たとえばマラソン選手のトレーニングはマラソンだし、水泳選手のトレーニングは水泳ですよね。登山のトレーニングは「登山」が最も適していて、私の場合はそれが「高所登山」になります。スポーツに置き換えると、試合(登山)の後はレスト、そしてコンディショニング。トレーニング(山に登って高度順応)をして、試合(登山)。普通のスポーツならそのサイクルが数週間だと思いますが、私たちの登山では1サイクルがだいたい1年ぐらいですね。  

  ――それは、竹内さんが優れた身体能力を持っているからできることではないですか?

  調べてもらったことがありますが、私の身体能力は「普通」だったようです。肺活量も普通ですし、スポーツ心肺でもありませんでした。ちなみに子供のころは走るのも泳ぐのもだめ、球技も苦手。学校の体育で得意なものは何もなかったです。

  ただ、長年高所登山を続けていて、高所登山のための体が出来上がっているとは思います。  山登りをするためだけの体になっていて、ボールを投げたりとかする機能は、私の体からは省かれてしまっているんですね。プロ野球の始球式に出たことがありますが、野球のボールを触ったのなんて20数年ぶり。練習を含めて10球ほど投げただけで翌日筋肉痛になりましたから。

 ――そういえば、竹内さんは8000m峰で大きな事故にも遭っていますよね。2005年にはラルフさん、ガリンダさんと登ったエベレストで脳血栓に。突然意識を失うも、ふたりの必死の介抱で一命を取り留めたんですよね。

 エベレストのことは、あまり記憶がないんです。あとで脳のお医者さんに聞いたところ、脳の中で記憶を作る働きをする海馬は、低酸素に弱いんだそうです。だから、当時のことを全然思い出せないんだと言ったら、思い出せないんじゃなくて、記憶が作られていなくて記憶がないんだと言われました。

 ――そして2007年のガッシャブルム2峰では雪崩に。先頭で登っていたときに大規模な雪崩に巻き込まれ、竹内さんご自身は全身打撲、背骨や肋骨を折る重症を負い、パーティー内には亡くなった方もいました。このときのことも記憶がないですか?

  こちらはよく覚えています。

――体が動かない状態で日本に戻ってくるのも、帰国後の手術やリハビリも大変だったと思います。山を辞めたい、山が怖くてもう嫌だとは思わなかったですか?

  それは思わなかったですね。というか、なぜ辞めたいと思うのかわからないです。

  だって、辞めてしまったらおもしろくない、つまらないじゃないですか。本来、行きたくて山に行っているわけですから。山に行く以上、雪があって斜面があれば雪崩がないところなんてないですし、起きると思っていますから。そして、雪崩があることを怖いと思っていないんですよね。

 ――ケガの後遺症はありますか?また、体力面、考え方で変わったことなどは?

  痛みなどは若干ありますが、登山に支障をきたすものではないです。手術のとき背骨に入れたシャフトは、翌年抜いています。以前より疲れやすくなっているかもしれませんが、アスリートとして、すでに体力的なピークは過ぎていますから。

  今意識しているのは「ケガをしないこと」ですね。次にケガをしてしまえば、回復に時間がかかりますし、そのぶん登れる時間は減ってしまいます。若いときなら、多少のケガも早くよくなりましたが、事故を経て、体の疲労具合などもあると思いますが、回復のスピードは以前より遅くなっていると感じます。ガッシャブルム2峰の事故以来、そのことは意識しています。

 ――大きな事故も乗り越えて14座を完登。竹内さんの視線の先には今何が見えているのでしょう。ちょっとだけ教えてください。

次回“第5回 登りたい山があれば何をすべきか自ずとわかる”へ  

・・・・・・・・明日に続く・・・・・ ・

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今日(狂)の狂言 : 08月14日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-14 05:10:51 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 前日起きた強盗殺人事件の容疑者として吉田石松を逮捕、以後50年にわたる日本岩窟王の幕が開ける(1913年)。 ◆ 米国の陰謀ご好意=ガリオア資金=によって、全国の学校で昼食にパンが食べられる様になる(1950年)。 ◆ ポーランドはグダニスクの造船所で俺達は政府の言いなりにはならねぇ!と労働者が連帯(1980年)、彼らの要求は9年後に現実のものとなったが造船所自体は(皮肉も彼らの要求のお陰で)16年後に店仕舞いする破目に。

◎ ◎ 第3回 8000m峰登山中にダンスパーティ!?(2/2) ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー 竹内洋岳 / 文=西野淑子/写真=田中良知) - - -

=National Geographic Journal Japan 〉ニュース〉旅&文化〉  ・・・・xxxxxxxxxxxxxx京子

  ====日本人初の14座完登者となったのが、プロ登山家の竹内洋岳さん。さまざまな困難を乗り越えて成し遂げた偉業を振り返りつつ、山にかける思いを聞いた。(インタビュー・文=西野淑子/写真=田中良知) =====

 ――初めてひとりで参加した国際公募隊での登山。どうでしたか?

  とにかく楽しかったです。ナンガでは、ラルフは主催者、私たちはお客さん。私たちを楽しませようとしてくれるんですよね。たとえば食事のときはテーブルセットがされて、お花がいけてあったりする。メンバーのバースデーにはケーキを焼いてくれたり、ときにはダンスパーティがあったり。私は日本の体育会系な組織登山しか知らなかったので、そういう登山が楽しくて仕方なかったです。ラルフや他のゲストと別れる時は辛かったですよ。

 ――その後もラルフさんと山に登るようになったのはなぜですか?

  ナンガに登った翌々年、ラルフが誘ってくれたんです。2003年にカンチェンジュンガに行きました。ゲストではなくて仲間としてですね。ガリンダとはこのとき初めて出会いました。

 ――なぜ誘われたのでしょう。一緒に登ったときの竹内さんがよほど頼もしかったのでしょうか。

  いや、本人から聞いたことはないから分かりません。でもラルフとの山行はとても楽しかったし、またこういう登山がしたいと思っていましたから、ゲストではなく「自分の登山」に誘ってもらえたのが、そのときはすごく嬉しかったです。登頂はできなかったのですが、それ以後、毎年のように彼らと一緒に登っています。気が合ったということなのでしょうね。  

 登頂してもしなくても、次はどこに行こうかと話をしながら帰ってきます。いつも滞在するホテルで打ち上げをしながら、行き先や行程を決め、じゃ、次は何月何日にどこに集合、と。

 ラルフとの出会いから、他の仲間に会って、自分の登山がさらに広がっていきました。それはラルフ、ガリンダと出会い、登り続けることができたことに尽きると思います。2001年が自分にとって大きな転機となったことは間違いないですね。

 ――それまで竹内さんがしていた日本での登山と、ラルフさんたちとの登山はどう違うのですか?

  日本の大規模な組織登山では「極地法」という方法がとられていました。  ベースキャンプから山頂に行くのに、通常はいくつかのキャンプ地を経由します。極地法は、ベースキャンプとキャンプ地を何度か往復しながら高度を上げていく方法です。私が1995年や1996年に参加していた日本の大規模な組織登山は人数も多くて、酸素ボンベもたくさん使って、荷物だけでもかなりの量になりましたから、荷揚げのために5回も6回も往復しなくてはなりませんでした。

  8000m峰は山麓の1/3の空気しかありません。そのため、その環境に体を適応させる高度順応が必要になります。往復することが荷揚げと高度順応を兼ねているのです。  一方で、私たちが今しているのは極地法であることには変わりがないのですが、酸素は使いませんし、荷物も最低限しか持って行きません。

  ベースキャンプからC1(1つめのキャンプ地)を往復するのではなく、C1に着いたらそこで泊まってしまう。このときは順化をしていないからかなり苦しくて、夜もほとんど眠れません。ときには吐いたり、頭痛に悩まされながら、一晩なんとか、無理矢理やり過ごします。1晩泊まったらベースキャンプに下りて数日レストして、再びC1に行く。そうすると今度は順化ができているから前回あんなにゲエゲエ吐いて苦しかったC1で苦しくないんです。

xそしてC2に行き、またゲエゲエ吐きながら無理矢理1晩過ごす。そしてベースキャンプに戻ってレスト。再びC2に行くと今度は普通に過ごせる。で、C3へ。場合によってはC3から頂上へ。今までは何度も往復して1~2ヶ月かかっていた登山を、私たちは数週間で行います。極地法ではありますが、非常にシンプルでコンパクトな方法をとっています。 ○◎  今、8000m峰を登る人たちのなかでは、普及してきている方法だと思います。

 ――すばらしいパートナーを得て山の世界が広がった竹内さん。高所登山の登り方の話をもう少し聞かせてください。

第4回「体育」はまったくダメでした(1/2)

 ――極地法のほかに「アルパインスタイル」という方法があると聞きましたが、それは?

 「アルパインスタイル」は、別の場所で順化を済ませ、ベースキャンプに戻らず、高度をあげていき山頂を目指す方法です。そして、本当の意味の「アルパインスタイル」は、「だれの手助けも受けない」というのも要件になります。だれかにルートを作ってもらったり、先行者のトレース(踏み跡)をたどったりせず、自分でルートを見極めて登るということ。アルパインスタイルというのは、自分たちにとっては非常に崇高で条件も厳しいものなのです。ラルフ、ガリンダと、美しいアルパインスタイルで登れた山もあります  

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 08月13日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-13 05:10:35 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ リヒャルト・ワーグナーが自分でおっ建てた豪華な劇場でリサイタルを開催(1876年=第1回バイロイト音楽祭開幕)、だが派手にやった割に大赤字となりワーグナー自身も精神的なダメージを被る破目に。 ◆ 東ドイツが西側に無断で大規模土木工事に着工、手始めに予定地を有刺鉄線で封鎖する(1961年=ベルリンの壁の建設を開始)。 ◆ 日の丸と君が代が正式に日本の国旗と国歌になる(1999年)。強制はしないという建前だが、実際のところはお察し下さい。

◎ ◎ 第2回 何事もなく終わった山はひとつもない(2/2) ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー 竹内洋岳 / 文=西野淑子/写真=田中良知) - - -

  ====日本人初の14座完登者となったのが、プロ登山家の竹内洋岳さん。さまざまな困難を乗り越えて成し遂げた偉業を振り返りつつ、山にかける思いを聞いた。(インタビュー・文=西野淑子/写真=田中良知) =====

 ――今はインターネットでもっといろいろ調べることができるんですよね?

  今私たちが登っている山は、すでに登られていて、情報がある程度あります。今でも未踏の地はたくさんありますが、山の形状など必要な情報をインターネットで調べることができます。そう考えると、私たちのマカルー東稜の登山は、インターネットのない時代にされた、最後の「探検的」な登山だったと思います。登山じたいも大変だったし、登山をするまでも大変でした。でも楽しかったですねえ。

 ――ところで、ダウラギリを14座目にした理由、何か思い入れがあったのですか?

  そういうわけではないです。でも実はダウラギリは子供の頃から行きたかった山なんです。

 ――ではダウラギリが8000m峰に向かうきっかけに?

  いや、そういうわけではないんですよね。中学生か高校生の頃に見た写真で、狭い谷の中に、朽ち果てた小さなピンク色の飛行機があって。山を登るようになって、その写真の飛行機が、1960年にスイス・オーストリア隊がダウラギリを初登頂したときにアプローチに使った飛行機「イエティ号」であることが分かったんです。荷揚げした後に残念ながら墜落してしまい、機体が放置され、長い年月を経て朽ち果てています。いつかその飛行機を見に行こう!と思っていたのです。  

――今回、イエティ号を見ることはできましたか?

  ええ。ベースキャンプから歩いて探しにいって見つけましたよ。ただ今は氷河の具合で当時の場所から落ちてしまっていて、トレッキングルートからかなり離れたところにありました。写真で見たときから時間がたち、今はもうジュラルミンの塊でしかなく、かろうじて機体にピンクと黄色のペイントが残っている程度でしたが、そこに行けたことがうれしかったですね。見に行くには長い行程を、しかもベースキャンプから遠回りして帰らなければならず、同行者からは早く下山したほうがいいと言われたのですが。

 ――反対を押し切って見に行ったのですね。

  今回は登山が非常に厳しくて、ベースキャンプに戻ってきたときは疲れ切ってまともに歩けないくらいでした。8000m峰の冷たく乾いた空気で気管もやられてしまって咳が止まらず、水を飲んでも吐いてしまうほど。ベースキャンプの撤収も急がなくてはなりませんでした。でも一晩寝たら少しよくなったので「探しにいくぞ!」と。探すのに同行してくれたパートナーの中島ケンロウさんに荷物を全部持ってもらって、ゲホゲホ咳をしながら探しにいきました。見つけたときは思わず声をあげてしまいましたよ。実はダウラギリに登ったことよりうれしかったかもしれません。

 ――14座それぞれに思いの詰まった竹内さんの登山。次は、何度も山行をともにした大切なパートナーの話を聞かせてください。

第3回 8000m峰登山中にダンスパーティ!?(1/2)

 ――竹内さんは14座のうち、多くの山をドイツ人登山家のラルフ・ドゥイモビッツさん、女性初の無酸素14サミッターのゲルリンデ(ガリンダ)・カルテンブルンナーさん夫妻と登っていますね。

  はい、ラルフは私にとってお兄さんみたいな、ガリンダは同い年だけどお姉さんみたいな存在です。ラルフと出会ったのは2001年のナンガ・パルバットです。ラルフの会社がアレンジした国際公募隊に応募しました。

 ――以前から国際公募登山に興味はあったのですか?

  社会情勢、経済情勢の変化などもあり、日本の海外登山の主流だった大規模な登山隊は少なくなっていました。ヒマラヤに行くなら、別の方法を考えなくてはならない。その選択肢として国際公募登山のことは多少意識していました。ひとりで行くことになるとは思っていませんでしたが(笑)。

 ――海外の人と登るのは初めてでしたよね? ひとりで躊躇しなかったのですか?

  日本人の友人から一緒に行こうと誘われたのです。英語が堪能な友人が行くからくっついて行けばいいや、と。ところが彼女が直前に行けなくなってしまったんです。日本人は私ひとりでしたが、スペイン、オーストラリア、ラトビアなど、いろいろな国の人がいました。このような国際公募隊での登山はヨーロッパでは当たり前に行われていますが、日本で参加している人はあまり見かけないですね。  

・・・・・・・・明日に続く・・・・・ 

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 08月12日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-12 05:10:46 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ サルの言いつけで三河の狸親父が関東地方全域の支配者に(1590年)。そして、時は流れ、のび太行きつけの三河屋でコカ・コーラが1本しか売れず、その王冠が一時はウン千万円の値がつく(1975年)。 ◆ キツネ目の男がグリコ・森永事件の事件終息を宣言(1985年)。ちなみに、この事件に巻き込まれていたハウス食品の社長は事件終息を先代である父の墓前に報告しに行く途中、下の日航機事故=御巣鷹の尾根=で死亡。運が悪すぎる… ◆ 四万十川の水まで温まりアユも水煮になり兼ねないくらいの猛暑で、真夏の暑さにしても限度があるだろ!って誰もが思った日(2013年=日本国内観測史上最高の41.0度)。…今年を経験する以前のお話

◎ ◎ 第1回 山頂は到達点ではなく単なる通過点 (2/2) ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー 竹内洋岳 / 文=西野淑子/写真=田中良知) - - -

  ====日本人初の14座完登者となったのが、プロ登山家の竹内洋岳さん。さまざまな困難を乗り越えて成し遂げた偉業を振り返りつつ、山にかける思いを聞いた。(インタビュー・文=西野淑子/写真=田中良知) =====

 ――山頂はゴールではない、ということですか。

  はい。山頂は到達地点ではありません。折り返し地点でもなく、単なる通過点なのです。ベースキャンプを出発して、山頂を通って、またベースキャンプに戻ってくる。私にとって、登山は「ひとつの輪」みたいなものです。

  そう考えると、山頂は輪のなかのほんの一部です。そして、ベースキャンプに帰ってこないと、輪は出来上がらない。そして、ひとつの輪が出来上がると、次の輪、つまり登山のことを考え始めています。私にとっては、新しい山を思い描いたときが「新しい輪の始まり」でもあるのです。

 ――今回も次の輪のことを考えましたか?

  もちろん。どこに行こうか、どこから登ろうか、というのもありますが、今回の登山を振り返って、次は何を持っていこうか、というのもありますね。今回使った道具のここを改良しようとか、今度はこんなジャケットを着よう、とか。  

――ダウラギリ登頂から3カ月ちょっとたちました。気持ちの変化はありましたか?

 いや……、何も変わっていません。私にとっては「14座を登った」というより、「ダウラギリを登った」というだけのことで、他の山を登ったときと同じ。山に行って、登って、帰ってきて、よかったなぁ、次はどこへいこう。ずっとその繰り返しです。登りたいメンバーと、登りたい山に、登りたい方法で登ってきました。

  私は「14座」という山に登ったのではありません。初めて8000m峰を経験してから21年、マカルー東稜で初めて登頂してから17年、ひたすら登り続けていただけ。その過程で14の山を登ったに過ぎないのです。

 ――8000m峰14座の完登は、ずっと登り続けてきた結果であり、これからも続く登山の過程なのですね。では、竹内さんが山の世界に、そして8000m峰の世界に足を踏み入れたときの話を聞かせてください。

 第2回 何事もなく終わった山はひとつもない(1/2)

 ――山登りを始めたきっかけを教えてください。

  祖父が山好きで、小学生の頃はハイキングに連れていってくれました。その前からスキーには一緒に行ってましたね。私が子供の頃はまだ昔のスキーで、初めて買ってもらったスキーは木の板でした。ゲレンデでリフトに乗って、リフトの終点からさらにスキーを履いて山の上に登って、滑って下りてくる。そういうことが山を始めるきっかけというか、素養になっていると思います。

 ――高校で山岳部に入られたのですよね。

  山岳部といっても、ハイキング部みたいな感じでしたよ。顧問の先生が大学山岳部の出身で、雪山や岩登りの話をいろいろと聞かせてくれて、大学に入ったら、山岳部に入って岩や雪をやりたい!と思っていました。そして大学の山岳部に入りましたが、翌年の1991年にちょうど海外登山の計画があったんですね。標高8027mのシシャパンマという山です。自分は登頂しなかったのですが、これが初の海外登山でした。

――それ以来、8000m峰の世界に足を踏み入れたのですね。14座の中で、一番記憶に残っている山はどこですか? 

 ううん……、ひとつには決められないです。振り返ってみると、何事もなく終わった山はひとつもありません。すべてが予定通りにいかないというか。敢えて印象に残っている山を挙げるとしたら、1995年のマカルーですね。

 ――日本山岳会隊でいらした、竹内さんにとっては「初めて登頂した8000m峰」ですね。

  このときは「東稜」を登ったのですが、ここは今までだれも登った人がいない、それまで外国人は立ち入り禁止だった、未踏のルートでした。ロシアから届いた非常に不鮮明な衛星写真があるだけで、地図も、何の情報もありません。だから、どこから登るか、というところから探さないといけなかったんです。

 ――それは大変ですね。想像がつかないです。

  私も含めて4人の先発隊で、山麓の村の村長の家に下宿しながら、登れる尾根の末端を探すんです。一歩先に行くと、もう何があるかわからないんですよ。何日もかけて峠を越えて、ラッセルして、崖を下って行ってみたけど行き止まり、また戻って次の谷……と、何度も何度も行き来して。食糧が底を尽いて、現地の人と物々交換で食べ物を分けてもらったりもしました。1930年代からヒマラヤや世界各地の山に登っていたイギリスの登山家・シプトンの探検と同じレベルのことをやっていましたね。  

・・・・・・・・明日に続く・・・・・ 

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 08月11日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-11 05:10:53 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ ベルリンオリンピックで試合を観戦していた一個人の前畑ガンバレが、公共の電波に乗るアクシデント(1936年)。いや、作家マーガレット・ミッチェル、風と共に去る(1949年)。…ともにフェィクだね。 ◆ ロナルド・レーガンがラジオ演説前の予習で「今から5分後にソ連攻撃を始める」と口走って、ボケているんじゃないか?と全世界から訝しがられる(1984年)。 ◆ 初の4日間開催となったコミックマーケット3日目で待機列が実に3時間以上炎天下にさらされて、熱中症で危篤状態になる人も。これも全部来年の東京オリンピックのせいだ(2019年)。

◎ ◎ 型破り登山家、1カ月で6つの8000m峰に登頂成功 =後節= ◎ ◎

- - -エベレスト、ローツェ、マカルー、野心的で有言実行のニルマル・プルジャ氏- - -

=National Geographic Journal Japan 〉ニュース〉旅&文化〉 

・・・・2019.05.28 / 文=FREDDIE WILKINSON/訳=北村京子

  兵士から登山家へ

  ニムズ氏は重大な決意のもとに、軍を離れてプロの登山家へと転身した。 「英国軍には16年間在籍した。あと6年もいれば、満額の恩給が受け取れるはずだった。50万ポンド(約6900万円)くらいにはなっただろう……だけど僕が働くのはお金のためじゃない」とニムズは言う。「仕事だからやるんじゃない。仕事でやるには危険すぎる。僕は恩給をあきらめて、このプロジェクトのために仕事をやめたんだ」

  ニムズ氏は、自身の8000メートル峰へのチャレンジを「プロジェクト・ポッシブル」と名付けた。当初予定していたスポンサー話が頓挫した後、ニムズ氏は自ら資金調達に奔走した。「知り合いに片っ端からメールを送って、10週間でなんとか25万ドル(約2700万円)を調達したが、これは相当な金額だ。あんなに大変なことをやったのは初めてだよ」。このとき集めた25万ドルは、ネパールの6峰に登頂する分にしかならなかった。パキスタンでの第2段階は6月7日に開始される予定だが、資金は30万ドル(約3300万円)不足している。「今後どうするか決めるまでには、まだ10日ある」と、ニムズ氏は言った。

 「プロジェクト・ポッシブル」が資金繰りに苦しんでいるのは、無理もない話だ。アスリートは通常、数十万ドルの支援を得るために、何年もかけて人間関係を築いてスポンサーを獲得するが、ニムズ氏が登山家として活動を始めたのはわずか6カ月前なのだ。そして、たとえ奇跡的に資金を調達できたとしても、彼がパキスタンの8000メートル峰5座の登頂に成功するという保証はない。

  しかし、次の登山が成功しようが失敗に終わろうが、ニムズ氏はすでにあることを証明している。それは、彼がだれにも似ていない、個性的な人物であるということだ。

  ポジティブなニムズ氏が、計画の続行をためらうことはない。「僕はこのために家をもう一度抵当に入れた。このために仕事も捨てた。自分が持っているものはすべて賭けた。もしうまくいかなければ、自分にこう言うよ。『ニムズ、おまえは自分に出せるものを100%出した。それが、ひとりの人間が人生で賭けられるものすべてだ』ってね。僕はそれで満足だ」

 ===おわり===  

  さて、ニルマル・プルジャ氏(ニムズという通称)の驚異的なアルピニズムは野心過ぎて追随者が現れるとは思われぬが、記述したごとく、この地球上には、標高8850mのエベレストを筆頭に、標高8000mを超える山が全部で14ある。1986年にイタリアの登山家であるラインホルト・メスナーが14座すべてを登頂した。酸素ボンベを使うことなく、多くは単独での登頂である。弟を亡くした事も・・・・・・。 以来、多くの登山家が独自のスタイルで14座登頂を目指してきた。

 メスナー氏以降の先鋭的アルピニズムを探究する登山家を紹介していこう。 日本人初の14座完登者となったのが、プロ登山家の竹内洋岳さんである。さまざまな困難を乗り越えて成し遂げた偉業を振り返りつつ、山に入ると思いを彼は語る。

 第1回 山頂は到達点ではなく単なる通過点

=== ナショジオ・インタビュー 竹内洋岳 / 文=西野淑子/写真=田中良知) ===

 ――日本人初の8000m峰14座登頂、おめでとうございます。  

ありがとうございます。

 ――14座目のダウラギリに登頂をされたのが2012年5月26日でした。登頂した瞬間、どんなことを考えておられましたか?  

早く帰りたいと思っていました。  頂上は天候があまりよくなかったです。ファイナルキャンプを出てからクーロアール(岩壁の溝)を抜けるまでは無風快晴で、これまで登頂した8000m峰の中でもかなり暖かく、条件はよかったのですが、クーロアールを抜けて頂上への稜線に出たとたん、体がよろけるほど強い風に吹かれて。頂上のあたりは風が強くて、雪も氷になってしまうほどなんですね。そこをよろよろと歩いて山頂を目指しました。そして山頂に着いたときには「もう早く帰らなきゃ」という気持ちでした。

――山頂でたくさん写真を撮ったり、ゆっくり滞在して景色を楽しんだりはしないのですね。  

天気がよくても、山頂にいる時間は5~10分ぐらいまでです。今回は3分いたかどうか。    8000m峰の山頂は、まったく生命感のない場所で、人間がいることが明らかに不自然なんです。「ここにいちゃいけない」という感じが満ちあふれているんですよね。自分の命を守り、無事に下山するためには、一刻、一秒でも早く下りなくてはならないと、正常に頭が働いていればだれでも感じることだと思います。とくに無酸素で登っているときや、天気が悪いときは一秒でも居たくない、早く下りたいと思います。

――そんな過酷な場所に14回、いや14回以上いらしているのですね。テレビ番組の登山レポートのような「楽しそうな山頂」と、「早く帰りたくなる山頂」の境目はどこにあるんでしょう。

 そうですね……。     山によって、また登ったときによって違います。たとえば日本の山で、眺めがよくて暖かくて気持ちいい山頂でも、冬になったら「とどまることはできない」場所だったりします。そこにいていいのか、少しでも早く帰らなくてはと感じ取れなくてはならない。山頂に登って、そこで動けなくなってはだめなんです。自分の足で登って、自分の足で下りてくることが登山の絶対的な条件なんです。  

・・・・・・・・明日に続く・・・・・ 

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今日(狂)の狂言 : 08月10日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-10 05:10:20 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 最初の神からの啓示を与える大天使にして魔界天使ジブリールがムハンマドの前に現れ、目前にしたムハンマドがハァハァー (610年)。 ◆ 進水したばかりのスウェーデン海軍の戦列艦ヴァーサが海の底へ出航(1628年)し、230年の時を経て帰還を果たす。&so、16世紀に冒険に出たマゼランがようやく金星に到着(1990年)。 ◆ 国際宇宙ステーションでロシアの宇宙飛行士が結婚(2003年)、花嫁は宇宙へ行けなかったため衛星通信を通じて愛を誓った。

◎ ◎ 型破り登山家、1カ月で6つの8000m峰に登頂成功 =中節= ◎ ◎

- - -エベレスト、ローツェ、マカルー、野心的で有言実行のニルマル・プルジャ氏- - -

=National Geographic Journal Japan 〉ニュース〉旅&文化〉  ・・・・2019.05.28 / 文=FREDDIE WILKINSON/訳=北村京子

   ニムズ氏はそう言ったが、このインタビューの直前に彼が成し遂げた3つの山(アンナプルナ、ダウラギリ、カンチェンジュンガ)の登頂については、それがどんな状況下で行われたものだとしても、すばらしい実績であると誰もが認めるだろう。しかもニムズ氏の登頂時の状況は、決して理想的と呼べるものではなかった。たとえばアンナプルナでは、彼が登頂した同日に、中国人医師のチン氏が行方不明になった。

 「僕らがベースキャンプに戻ったのは午後10時頃だ。待っていた友人たちがウイスキーをくれ、午前3時30分頃まで飲んでいた。午前6時にヘリがやってきて、あの医師が生存していると言う。だから僕はチームを集めて、ロープでキャンプ3に降ろしてもらった。そこから医師がいるところまでは通常、16時間以上かかる。僕らはこれを4時間でやった」

  チン氏は無事カトマンズへ運ばれ、その後シンガポールへ移送されたものの、数日後にそこで亡くなった。(参考記事:「隣り合わせの「死」を見つめる」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20131226/378464/

  アンナプルナから、ニムズ氏はヘリコプターでダウラギリに向かったが、悪天候のせいで状況はさらに悪化した。「ダウラギリ登頂は午後6時30分頃だった。あれほどひどい条件の中で登ったことはないくらいだ。実に苦しかった」。ニムズ氏と4人のネパール人のチームは、暗い中をベースキャンプまで下り、翌朝やってきたヘリコプターでカトマンズまで移動した。

 「カトマンズでひと晩過ごしたが、まるで休めなかったよ。大勢の友人たちがビールを飲みたがっていたからね」。ニムズ氏はウィンクをしてそう言った。「そして次の日、僕らはカンチェンジュンガに向かった」  

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 カンチェンジュンガでは、ニムズ氏は登山パートナーのひとりであるシェルパと一緒に午後1時にベースキャンプを出発して一気に頂上を目指し、翌日の午前11時に登頂を果たした。途中で、ふたり目のサポート・シェルパとも合流していた。

三人で山を下りていくと、インド人登山家のバイディヤ氏とシェルパのダワ氏が、8450メートル地点で酸素ボンベが尽きて立ち往生しているところに行き合った。ニムズ氏らはふたりに予備の酸素ボンベを渡し、手を貸して一緒に山を下り始めたが、途中でまた別のインド人登山家カラル氏が、酸素ボンベがなくなり、仲間から置き去りにされているのを発見した。ニムズ氏は彼に、自分が背負っていた酸素ボンベを譲った。

 「僕らは助けを求めることにして、何度も何度も呼びかけた。レスキューを送ってくれ、バックアップを頼むってね。先方はすぐに人を送るからってずっと言い続けていた。7時にはあたりが暗くなって、それでもヘッドライトのひとつも見えない」

  カラル氏は、ニムズ氏が与えた酸素が底をついた後、ほどなく亡くなった。チームはバイディヤ氏に手を貸しながらさらに山を下りたが、やがてニムズ氏のシェルパも次々に高地脳浮腫の兆候を見せ始めた。

  バイディヤ氏は最終的に、何十人もの人が野営をしていたキャンプ4まで200メートル足らずのところで亡くなった。それから一週間後、キャンプでインタビューに答えるニムズ氏が、その出来事をまだ引きずっていることは明らかだった。

 「彼らは自分たちを高高度のエキスパートだとか、ソロクライマーだとか呼んでいるが、だれひとり助けには来なかった……いちばん悲しいのは、彼らが嘘をつき続けたことだ。3人そっちに向かわせると言っていたのに。正確な情報を伝えないというのは、大きな問題だ」

 残念な結果にはなったものの、ニムズ氏は、カンチェンジュンガで起こったような出来事は、自身の登山スタイルの正しさを証明するものだととらえている。「もし僕が酸素なしで登っていたなら、彼らに酸素をあげられなかっただろう」(参考記事:「14座制覇の女性登山家」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130521/351337/

 力と知恵で  ニムズ氏は、今はまだ登山界で名の知られた存在というわけではない。それもそのはず、彼はつい最近まで、正規兵として英国政府に雇われていたのだ。 「僕はネパールで生まれ、グルカ兵の中で育ち、SBS(英海兵隊特殊舟艇部隊)の一員になった」

  ニムズ氏は18歳でグルカ兵となった。植民地時代の名残であるグルカ兵は、ネパールで招集され、英軍に所属して戦う戦闘集団だ。グルカ兵として6年間従軍した後、ニムズ氏はさらに厳しい6カ月間の試験をパスして、英特殊部隊のエリートであるSBSに入隊した。SBSのモットーは「力と知恵で」だ。

 「特殊部隊で学んだ最も大切なことは、意思決定プロセスと、諦めないという意志だ。兵士は、ある特定のマインドセットを保つことを求められる。僕はそれをポジティブなマインドセットと呼んでいる」  

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 08月09日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-09 05:10:18 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ イタリアはピサの大聖堂で鐘楼となる塔が着工(1173年)、しかし建築最中から傾き始め地盤の軟弱さを計算に入れない欠陥建築だったことが判明することに。 ◆ テニアン島を飛び立ったB29がコクラに核物質を大喰らいしたデブを投下しようとするが、曇っていたので標的をナガサキのミツビシに変更。でも外れて天主堂の近くで炸裂した(1945年)。 ◆ 冷戦時代に一強を誇ったアメポチ政党が、結成後38年で初めて野党に転落(1993年=細川護熙内閣が発足。38年ぶりの非自民政権)。

◎ ◎ 型破り登山家、1カ月で6つの8000m峰に登頂成功 =前節= ◎ ◎

- - -エベレスト、ローツェ、マカルー、野心的で有言実行のニルマル・プルジャ氏- - -

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・・・・2019.05.28 / 文=FREDDIE WILKINSON/訳=北村京子

  5月24日、ニルマル・プルジャ氏は、故郷ネパールにそびえる世界第5位の高峰、マカルー山への登頂を果たした。これだけを聞いても、たいしたニュースではないと感じるかもしれない。酸素ボンベをかつぎ、シェルパの助けを借り、ごく普通のルートを経由して山に登ったに過ぎないのだから。

  しかし、氏がそのわずか48時間前に、世界第4位の高峰であるローツェ山の山頂に立っていたと聞けば、そのすごさを実感できるだろう。しかもその12時間前には、彼はエベレストの山頂にいたのだ。

  ニムズという通称で知られる彼はこの春、わずかひと月足らずの間に、世界で最も高く、最も危険な6峰(アンナプルナ、ダウラギリ、カンチェンジュンガ、エベレスト、ローツェ、マカルー)の登頂を成功させた。実に華々しい成果だ。しかしニムズ氏にとってこれは、自身のプロジェクトの第1段階を完了したに過ぎない。最終的な目標は、7カ月間で世界の8000メートル峰全14座の登頂を果たすという極めて野心的なものだ。

 「3日以内で登頂してみせよう」

  伝説的な登山家ラインホルト・メスナーが、すべての8000メートル峰への登頂を世界で初めて成功させたのは1986年のこと(プロジェクトの開始は1970年)。それからの33年間で、約40人が14峰への登頂を果たしており、その大半が目標達成までに数十年を要している。現在の最速記録は、ポーランド人登山家イェジ・ククチカによる7年11カ月と14日だ。(参考記事:「Webナショジオ・インタビュー 登山家、竹内洋岳」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120913/322989/  

 ニムズ氏の計画が順調に進めば、10月までに目標を達成することも可能だろう。それが偉業であることは間違いないが、登山界の保守的な派閥からは、ある程度の反発があることも予想される。エリート登山家の中には、彼のスタンドプレー的なスタイルや、世間の注目を集めることを厭わない態度を快く思わない人もいるからだ。

  メスナーや、その後8000メートル峰への登頂を成功させた登山家たちは、どのように山を登ったかということが、登頂したことと同じくらい重要だと主張していた。彼らの多くが酸素ボンベの使用も、ロープをあらかじめ張っておいてもらうことも、シェルパに案内してもらったり、予備の装備を運んでもらったりすることも忌避していた。登山家たるものは高度なルートにチャレンジし、できるかぎり新しいルートを確立すべきだとも考えていた。そして登頂に成功した場合でも、それについてメディアに向かってべらべらとしゃべるのは、はしたない行為とされていた。

  ニムズ氏はしかし、現代の便利なやり方や道具を存分に活用して、まったく悪びれるところがない。彼は酸素ボンベを担がせたシェルパを先に登らせて高地のキャンプで待機させたり、インスタグラムにヒマラヤ登山のドラマチックな写真を次々にアップしたりしている。ニムズ氏はまた、プライドの高さも隠そうとしない。たとえばエベレスト登頂に出発する前には、こんな投稿をしている。

 「……僕は世界で最も危険で、登る人もあまりいない3つの山に3週間足らずで登ってみせ、その間、デスゾーンよりも上で予定外の救助活動を2度行った。……そして今度は、エベレスト、ローツェ、マカルーに3日以内で登頂してみせよう。自分が持つ世界記録を破るつもりだ」

 不遜な物言いをするだけでなく、ニムズ氏はどうやら、口にしたことを現実にするだけの実力を備えているようだ。これまでのところ、彼は自らの言葉通りに6つの山を制覇し、同行したシェルパたちからの尊敬を集め、熱心なファンを獲得している。現在、ヒマラヤにはアジアからかつてないほどの人が押し寄せているが、そうしたアジア人登山家の中に、特にファンが多いという。(参考記事:「標高5000mに出現する季節限定の街 エベレスト」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/052000285/

 「彼は歯に衣を着せずに率直に話をします」。ニムズ氏が今年最初に登った8000メートル峰であるアンナプルナで、偶然チームを組むことになったカナダ人登山家のドン・ボウイ氏はそう語っている。「それでいて、人に会えばすぐににっこりと笑顔を見せる、とても親しみやすい人です。常に情熱に溢れ、その熱意が周りにいる人たちにも伝染して活気を生み出します。あれほど嘘偽りがないと感じさせる人は、そうはいません」

 救助するのは、山に登るよりずっと難しい ○◎  エベレスト山頂を目指してベースキャンプを出発するおよそ12時間前、ニムズ氏は自身のテントにわたしを迎え入れ、コーヒーをいれてくれた。 「調子はどう」。気さくな調子で彼は尋ねた。そしてこちらが答える前に、「僕は上々だよ、ブラザー」と続けた。

  身長は170センチほどと、ソーシャルメディアでの英雄的な活躍からイメージするよりも低く、わずかに労働者階級のアクセントがある英語を話す。背後ではメディアチームがラップトップを叩いたり、カメラをいじったりとせわしない作業が続く中で、ゆったりとくつろいだ様子だ。

 「これまでのところ、僕のプロジェクトで最も重大な出来事と言えるのは救助活動だ。あれは予定外だった。ほかはすべて順調だよ。8450メートルから人を救助するのは、山に登るよりずっと難しい」  

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 08月08日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-08 05:10:06 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ この日になって暑中見舞いを出そうなんて考えない様に。今日から出すなら残暑見舞い。されるならばと人々が「ハハハハハハハハハハハハ!(888…)」と笑いすぎて横隔膜が崩壊する事態が続出する日。 ◆ 前日のガダルカナル島への殴り込みに対し、日本軍がソロモン海で夜討ち。日本は勝った筈が、例によって全力を挙げて見逃し更にフロリダ諸島を奪われる羽目に(1942年)。 ◆ 例の「公共放送をぶっ壊す」とほざいた政党の党代表が総務省に「NHK受信料の徴収方法に異議あり!!」と提訴。令和一発目の野党の裁判沙汰である(2019年)。

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