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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

王妃メアリーとエリザベス1世 =22=

2016-04-26 19:19:06 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

 

◇◆ メアリーの身辺に危機が迫る ◆◇

 1570年、ローマ教皇ピウス5世は「レグナンス・イン・エクスケルシス」と呼ばれる教皇勅書を発し、「イングランド女王を僭称し、犯罪の僕であるエリザベス」は異端であり、全ての彼女の臣下を忠誠の義務から解放すると宣言した。これによって、イングランドのカトリックはメアリー・ステュアートをイングランドの真の統治者と期待する更なる動機を持つようになった。

 メアリーの存在は、エリザベスとプロテスタント勢力とっては、あまりにも危険なものとなってきた。 「メアリーがいるかぎり陰謀は絶えない」と、枢密顧問官たちはエリザベスにメアリーを処刑するように迫った。 しかしエリザベス1世は、それをためらっていた。 その理由は、メアリーは廃位されたとはいえスコットランドの女王であり、外国の首長をイングランドがかってに裁いて処刑できるのか、ということだった。 それを許せば、いずれはそれがエリザベス自身にも跳ね返ってくるかもしれないからである。 

 メアリーを処刑するには、それに値するだけの理由が必要だったのである。 しかし、エリザベスが処刑をためらった最大の理由は、彼女にとってメアリーが数少ない血のつながった存在だったからだ、とも言われている。 エリザベス1世の忠実な部下で、かつ彼女の秘密警護隊長でもあったフランシス・ウォルシンガムは、警戒を怠らなかった。 彼は、カトリック勢力に手を貸していそうな貴族とメアリーの監視を強化していった。 そして、メアリーに少しでも不審な動きが見られたときには、彼女を反逆罪で裁判にかけるようにと、エリザベスを説得していた。しかしそれには、彼女が納得するだけの確かな証拠が必要だった。

 1585年になると、反カトリック法が強化され、カトリックにたいする弾圧がさらに激しくなった。 カトリックの司祭には、それだけの理由で火刑が待っていた。 また、彼等をかくまった者も反逆罪で処刑されるようになった。 そしてカトリックの信者には、多額の罰金が科せられるようになったのである。 エリザベスが統治した45年間に、イングランドに渡ったカトリックの司祭の半数以上が逮捕され、180人以上が処刑されたという。 それでも、彼女の時代に火刑に処せられたカトリックの司祭や信者の数は、年に4人程度で、5年間で3百人以上のプロテスタントを処刑したメアリー1世の時代にくらべれば、はるかにすくなかった。

 1586年7月、メアリーの運命にかかわる最大の陰謀「バビントン事件」が発覚した。 首謀者は、熱心なカトリックの家系で育ったサー・アンソニー・バビントンという、24、5歳の青年だった。 1536年から37年にかけて、ヨークシャーのカトリック勢力がヘンリー8世の宗教改革に反発して「恩寵の巡礼」とよばれる反乱を起こしたことがあったが、バビントンの曽祖父になるダーシー卿トマス・ダーシーはこの反乱に加わっていて、反乱が鎮圧されたとき、反逆罪に問われてロンドンのタワー・ヒルで斬首刑になっていた。

 バビントンの体には、先祖から受け継がれてきたカトリックの熱い血が流れていた。 彼は陽気な性格で、ロンドンでもよく知られていた好青年だったというが、胸のうちには、プロテスタントにたいする深い恨みをもっていたのである。 バビントンの背後には、スペインと通じていたジョン・バーナードというカトリックの司祭がいて、彼が陰謀の筋書きを書いていたとされている。 また、バビントンには6人の仲間がいて、1586年の3月ごろから、たがいの家に集まっては計画を練っていたという。

 その計画とは、まずエリザベス1世を暗殺し、それと同時に国内のカトリック勢力が反乱を起こし、それをスペイン軍がイングランドに侵攻して支援する、その間にメアリーを幽閉先から救出する――というものだった。
 計画を遂行するにあたっては、事前にメアリーの承諾を得ておく必要があるということになった。 そこでバビントンは、7月6日、メアリーに承諾をもとめる手紙を、いつものように暗号で書き、それをギルバート・ギフォードというカトリックの男に託した。

 ところがこのギフォードは、エリザベスのスパイ組織のリーダー・フランシス・ウォルシンガムとも通じていた二重スパイだった。

 彼は、少し前までは、カトリックの司祭になるべく、ローマの神学校にかよって勉強していた。 しかし、あまり熱心な学生ではなかった。 そのうちに、かれは自分の経歴と身分が、エリザベスにたいする陰謀の仲間に潜り込むのに格好の隠れ蓑になることに気がついた。 そうして彼は、信仰よりも、危険なスパイゲームにとりつかれてゆくようになったのである。 それだけ当時は、カトリックとプロテスタントとのあいだで、激しい諜報戦があったということなのだろう。 ギフォードは、自分の考えを試してみたかったのか、ウォルシンガムに連絡をとり、自分を売り込んでいった。

 

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森のなかえ

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王妃メアリーとエリザベス1世 =20=

2016-04-22 16:19:56 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ メアリーと相次ぐ陰謀事件 ③ ◆◇

 1569年9月23日にノーフォーク公がノーフォークの居城ケニングホールへ移ったことで、エリザベス女王は反乱準備と疑い、防衛向きのウインザー城へ移った。 しかしノーフォーク公に反乱の意思はなく、彼はウェストモアランド伯爵に使者を送って反乱を思いとどまるよう説得にあたっていた。 もともと結婚計画に関心がなかったカトリック北部諸侯はこれを無視し、11月にも「北部諸侯の乱」を起こしたが、急造の烏合の衆だったので政府軍がやってくる前に解散してしまい、蜂起は失敗に終わった。

 一方ノーフォーク公の方は9月30日にウィンザー城へ向かい、女王の慈悲を乞おうとしたが、逮捕されてロンドンの屋敷で謹慎処分となった。 12月には北部諸侯と自分が無関係である旨の誓約書を書いたが、結局1570年1月にロンドン塔に投獄される。 エリザベス女王はノーフォーク公爵を処刑すると鼻息を荒くしたが、宰相のウィリアム・セシルからメアリーとの結婚を計画しただけで処刑にはできないと説得された。 

 エリザベス女王の怒りが収まらぬ状況下の1570年6月、ノーフォーク公爵は今後二度とメアリーに近づかないという誓約書を書き、8月に至ってロンドン塔から釈放され、ロンドンの屋敷で謹慎生活に入った。 しかし この後もノーフォーク公爵はメアリーとの接触を続けた。

 他方、カトリック教会において北部諸侯の乱鎮圧に激怒したローマ教皇は1570年2月にエリザベス女王を「王位僭称者、悪魔の召使」と認定し破門した。 そして、1571年1月には教皇に忠実なフィレンツェのの銀行家ロベルト・ディ・リドルフィがイングランドへやって来てメアリーと接触した。 メアリーはリドルフィを仲介役にスペイン王やローマ教皇の援助を取り付けて、自分が王位に就くことを期待するようになり、ノーフォーク公にもその計画を伝えた。

 リドルフィは3月にもノーフォーク公の下を訪れ、スペイン王やローマ教皇に援助を求める手紙を書くよう迫ったが、ノーフォーク公はこれを拒否している。 だがリドルフィは自分で手紙を書いてスペイン大使館に提出し、「ノーフォーク公は署名をしなかったが、趣旨には賛同している」旨を報告した。 そしてリドルフィはメアリーとノーフォーク公の使者としてスペインへ向かった。 リドルフィの報告を受けたスペイン王フェリペ2世(前節参照)もイングランド侵攻に前向きになった。

 だが、リドルフィとスペインの動きはセシルやウォルシンガムらエリザベス近臣たちに逐一掴まれていた。 彼らは関係者に対して行った拷問や通報などからノーフォーク公の関与を確信する。 そして、1571年9月7日にノーフォーク公は逮捕され、厳しい取り調べを受けた。 その中でノーフォーク公は、自分はリドルフィの活動に関与していないことを主張し続ける。 そのうえでノーフォーク公は次のような上奏文を書いて女王の慈悲を乞うた。

 “私は我が身を振り返り、素晴らしき陛下の臣下としての義務をなんと大きく逸脱したことかと恥じ入っております。陛下の御慈悲を期待したり、望む立場にないと痛感しております。私は御慈悲に値しない人間であります。しかし陛下が慈愛にあふれ哀れみ深い方であられ、御即位以来、御繁栄がいや増す治世において、御慈悲をふんだんに下されてきたのを鑑み、後悔と悲しみに満ちる胸を抱えながらも、意を決して震える手で筆を持ち、つまらぬ我が身を低くし、服従を誓います。こうする以外に私の心が安らぐ道はありません。我が罪、我が不服従をお赦しくださいますよう。聖書にはこう書かれています。扉を叩け、されば開かれん。陛下の足元に膝まづき、我が身、我が子、我が持つ全てを投げ出しひれ伏し、陛下の高貴な御慈悲におすがりいたします。”

 しかし乍ら 1572年1月15日、ノーフォーク公はウェストミンスター宮殿星室庁裁判所にかけられ、「勅許を得ずにメアリーと結婚しようとした」「外国軍を招き入れて反乱を起こそうとした」「リドルフィの陰謀に加担し、大逆者たちにお金をばらまいた」とされて大逆罪で起訴された。

 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =19=

2016-04-20 20:16:54 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ メアリーと相次ぐ陰謀事件 ② ◆◇

  このころローマ教皇は、スコットランド女王メアリー・スチュアートとボスウェル伯ジェイムズ・ヘバーンとの離婚を認めていた。 裏でそれを働きかけていたのは、メアリーと結婚したがっていたノーフォーク公だったと言われている。 彼とローマの利害は一致していた。 ローマはローマで、メアリーとノーフォーク公を結婚させ、エリザベス1世を排除したあとにメアリーを女王とし、イングランドにカトリックを復活させる――という筋書きを書いていたのである。

 ところが、イングランド第一の名門貴族のおごりもあったのか、4代ノーフォーク公の大胆な目論見は、エリザベス1世の忠実な側近サー・ウィリアム・セシルの知るところとなり、彼女の耳にも入ってしまった。 ノーフォーク公は女王に呼び出されて詰問され、「そのような行為は反逆罪に問われる」と厳重な警告をうけた。 すると彼は、「そのようなことは考えたこともない」とその場を言い繕い、さらにそのあと、エリザベスに「メアリーとの結婚はあきらめた」などと偽りの手紙を書き送っていた。 しかしその裏では、着々と陰謀の準備を進めていた。

 その大胆不敵な行動は、ふたたびセシルの知るところとなり、1569年、ついにかれは反逆罪の疑いで逮捕されるのだった。 しかしこのときは、証拠不十分で、処罰されるまでにはいたらなかった。 一度は逮捕されたノーフォーク公だったが、かれはそれで簡単にあきらめるような男ではなかった。 彼は、メアリーと結婚し、彼女をイングランド女王に据えたあとには、いずれは自分が国王になる気でいた、とも言われている。 すぐにメアリーは反乱の焦点となった。 “北部諸侯の反乱”の首謀者たちは彼女の解放とノーフォーク公トマス・ハワードとの婚姻を策動した。 反乱は鎮圧され、エリザベスはノーフォーク公を断頭台へ送った。

 この経緯を窺えば、当時の政局で蠢く貴族たちの姿が浮かび上がる。 1568年5月にカトリックのスコットランド前女王メアリー(プロテスタント貴族たちに王位を追われていた)がスコットランドを脱出してイングランドへ亡命し、エリザベスに援助を乞うたが、そのままイングランドで軟禁状態に置かれていた。 また同年12月にはネーデルランドでプロテスタント反乱の鎮圧に当たるアルバ公への軍資金を乗せたスペイン船がイングランドに漂着するも拿捕される事件があった。

 こうした政治情勢から宮廷内ではレスター伯爵を中心に宰相ウィリアム・セシルを排除しようという動きが活発化し、また第7代ノーサンバーランド伯爵や第6代ウェストモアランド伯爵らカトリック北部諸侯の間ではメアリーをイングランド王位に付ける計画が推進されるようになった。 メアリーもその計画に前向きであり、彼女は自分とノーフォーク公の結婚計画を積極的に推進し、北部諸侯=彼らは結婚計画にはあまり乗り気ではなかった=の同意を得た。

 ノーフォーク公爵は自分はカトリックではないと主張していたが、最終的にはメアリーと結婚する決意を固めた。ただしノーフォーク公にとってこの結婚計画は大逆のためではなくイングランドの国益を考えてのことであった。 エリザベスがメアリーをスコットランド女王に復位させた時、イングランド貴族が夫になっている方がスコットランドとイングランドの関係が好転させやすいし、またメアリーをカトリックの陰謀から引き離すことができるからである。 しかしエリザベスがそのように捉える保証はなく、エリザベスが自分への大逆罪と認定した場合はノーフォーク公以下推進者は全員処刑されてしまうので、ノーフォーク公にとってもこの計画は博打だった。

 エリザベス女王にいつ、どのような形で結婚計画を上奏するか思案しているうちに噂が宮廷中に広まり、1569年9月頃には宮廷内の緊張が高まった。 計画から手を引いたレスター伯爵の告白を聞いた女王は「ノーフォーク公爵とメアリーが結婚すれば、私は4か月以内にロンドン塔送りとなるであろう」と激怒した。 女王の召還を受けたノーフォーク公は、やむなく計画の一部始終を女王に上奏したが、女王から凄まじい叱責を受けた。 これにより宮廷に居づらくなったノーフォーク公は1569年9月16日に女王の許可を得ることなく独断で宮廷を退去し、ロンドンの屋敷に引きこもり、病気を理由にして参内を拒否するようになった。

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王妃メアリーとエリザベス1世 =18=

2016-04-18 17:38:24 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ メアリーと相次ぐ陰謀事件 ① ◆◇

 1569年、カトリックの信仰が根強かったイングランド北部で、7代ノーサンバランド伯トマス・パーシーや6代ウェストモーランド伯チャールズ・ネヴィルが中心となった反乱があった。 この反乱は、エリザベス体制をささえるプロテスタントの新勢力に反発して起こされたもので、「北部の反乱」または「諸伯の反乱」と呼ばれている。
 これにつづいて翌年には、デイカー家の起こした反乱もあった。

 「北部の反乱」は、エリザベス体制をささえ、彼女の忠実な側近で首席枢密顧問官にして国務大臣だったサー・ウィリアム・セシル――のちのバーリー卿――のやり方に反発し、かれとその仲間を追い落とそうとした陰謀に端を発したものだった。 この陰謀を見抜いたのは、なんとエリザベス自身だったというが、これには、プロテスタントでエリザベスの寵愛をうけていたレスター伯ロバート・ダドリーも加担していたという。
 陰謀のにおいを嗅ぎとったエリザベスは、これにかかわっているとにらんだカトリックの大物貴族である4代ノーフォーク公トマス・ハワードを呼び出して問いつめた。 すると彼は、これをあっさりと認め、自領にもどって蟄居してしまった。

 次にエリザベスは、北部の所領にいたノーサンバランド伯とウェストモーランド伯を召喚して問いただそうとした。ところがかれらは、これに武装蜂起で応えたのである。 こうして起こったのが、「北部の反乱」だった。 反乱軍は、スコットランド女王メアリーをイングランド女王にしようと、イングランド北東部のダラムを拠点にして気勢をあげた。 しかし、かれらはメアリーの救出に失敗し、さらに反乱も期待したほどには広がりを見せず、失敗に終わった。 そして、反乱の首謀者らはスコットランドに逃亡したが、かれらに追随した者が6百人も逮捕され、皆、絞首刑にされたのである。

 話はわき道にそれるが、イングランド北東部に勢力をもっていたノーサンバランド伯パーシー家は、この時代は悲運つづきだった。 6代伯ヘンリーの年長の弟トマスは、ヘンリー8世の宗教改革に反対し、1536年の反乱「恩寵の巡礼」に加わり、1537年に処刑されていた。 7代伯トマスは、6代伯の甥だったが、ここに記した「北部の反乱」に失敗し、スコットランドに逃亡したあと、1572年にイングランドに引き渡され、ヨークで処刑されてしまった。 その弟で8代伯となったヘンリーは、スコットランド女王メアリーに通じていたとして、1571年と1583年の2度にわたって逮捕され、85年にロンドン塔で獄死した。 彼の死は、自殺だったとも他殺だったともいわれている。
 そしてその息子9代伯ヘンリーは、1605年のガイ・フォークスの「火薬陰謀事件」にかかわったとして、16年間近くもロンドン塔に監禁されたのだった。 それでいてパーシー家は、現在もつづく名門貴族なのである。


 話をもとにもどすと、4代ノーフォーク公は、イングランドの筆頭公爵でありながら、カトリックであることを公言してはばからず、反乱を起こした北部のカトリック貴族たちとも通じていた。 ハワード家は、姻戚関係でジョン王、エドワード3世、エドワード1世につながるイングランド随一の名門貴族だった。野心的で権力志向がつよく、これまでにも問題を起こしてきた家系である。

 ヘンリー8世の時代には、4代ノーフォーク公の父サリー伯ヘンリー・ハワードが、反逆罪で処刑されていた。その後、祖父の3代ノーフォーク公トマス・ハワードも、反逆罪を問われて処刑を待つ身だった。 しかしその前日にヘンリー8世が他界したことで、刑の執行が停止され、命拾いをしていた。 エリザベス1世の祖母エリザベスは、3代ノーフォーク公トマス・ハワードの妹で、4代ノーフォーク公とエリザベス1世は、又従兄妹の関係にあった。 野心的だった4代ノーフォーク公は、この関係を利用して以前から王室の問題に介入し、エリザベス後の王位にメアリーを据えることや、さらには彼女と結婚することまで目論んでいた。


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王妃メアリーとエリザベス1世 =17=

2016-04-16 18:49:11 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 俘虜の旅路・メアリー ◆◇

 1568年5月、エリザベスに援軍を期待してスコットランドを脱出してきたメアリーだったが、そのままイングランドに留め置かれることになった。 カーライル城は、メアリーの、イングランドでの最初の監獄となった。 しかしそこはスコットランドに近く、メアリー支持者が彼女を奪還しにくる恐れがあった。 だが、そのようなことがもしあれば、イングランドとスコットランドの関係はますます複雑になる。 そこで2カ月ほどすると、メアリーはひとまず、ヨークシャーのボルトン城に移送された。

 メアリーはそこに半年間あまり幽閉されたあと、彼女の監視役となった6代シュルーズべりー伯ジョージ・トールバットの領地へと送られていった。 そして、タツベリー、チャッツワース、シェフィールド城、シェフィールド・マナー、バックストン、ウィングフィールド・マナー、ワークソプ・マナー、コヴェントリー、チャートリーと、伯爵領内の城や館を転々とさせられたのである。 もっとも長く幽閉されていたところはシェフィールド城で、彼女はそこで14年間ないし15年間の囚われの身の生活を送ったという。

 イングランドに亡命してみれば、メアリーを待っていたのは、囚われの身の生活だった。 しかしそれでも初めのころは、彼女はまだエリザベスに期待するものがあった。 血がつながっているふたりが会えば、かならず親しくなれる、と信じていたのである。 ところがエリザベスは、メアリーと会うことを拒否しつづけた。 なぜならば、メアリーには夫殺しの疑いも取りざたされていたからである。

 エリザベスは、恋人を作っても、イングランドと結婚したと宣言して独身をとおしてきた。 その彼女は、メアリーの夫殺しの疑いに、嫌悪感をもっていたのである。 エリザベスは、「真相が明らかにされないうちは、メアリーには会いたくない」とも言ったという。 それともう一つ、彼女がメアリーに会いたくない理由があった。 人づてに聞く9歳年下のメアリーは、背が高く、燃えるような美しい赤毛をしているという。 そして、フランスの宮廷で育てられた彼女の身のこなし方は、まわりの者を圧倒するほど洗練されているという話だった。

 それにひきかえてエリザベスは、偉大な国王ヘンリー8世を父にもちながら、私生児と罵られて育ってきた。 何度も権力闘争や宗教抗争に巻き込まれてきた。 身の危険さえ感じることもあった。 彼女が自分を守るために自然と身につけてきた方法は、たとえ味方だと思っても絶対に本心をあかさないこと、まわりのおだてや誘いにのらないことだった。 それは、若い娘のとる態度や愛嬌とは、ほど遠いものだった。

 エリザベスも美しい金髪をしていて、子供のころはそれが自慢だった。 しかし、三十も半ばを過ぎたいまは、痩せぎすで女性としての魅力に自信がもてなかった。 そんな女ごころも、エリザベスにメアリーと会うことをためらわせていたのである。 

 国内のプロテスタント勢力は、カトリック勢力が「メアリーをイングランド女王に」と、いつ担ぎだすかわからないと、エリザベスに彼女を処刑するように迫った。 しかし、メアリーの処遇と運命については、ヨーロッパ中のカトリック勢力が注目していた。廃位されたとはいえ、スコットランド女王にしてイングランド王位の継承者、母方はフランスの大貴族、そしてカトリック。 メアリーのうしろには、ローマ教皇とカトリックの大国であるフランスとスペインが控えていた。

 それでなくともフランスとスペインは、プロテスタントのエリザベスを追い落とし、そのあとにメアリーを据え、あわよくばイングランドを属国化すべく、互いに牽制しながら、虎視眈々と狙っていた。 イングランド国内でも、エリザベス体制を転覆すべく、カトリック勢力の陰謀が渦を巻いていた。 海外からは過激なイエズス会の僧侶が潜入し、反プロテスタント活動を扇動していた。 彼等は、カトリックの地方領主がマナー・ハウスのなかに作った隠し部屋――僧侶の穴――にかくまわれながら、地下活動をつづけていた。

 メアリーはしだいに、亡命したころには思いもつかなかったような、陰謀の渦に巻き込まれていったのである。

 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =16=

2016-04-14 17:03:26 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ エリザベス1世の治世 ◆◇

 エリザベス1世が即位した後、結婚に踏み込まず処女王と呼ばれることに甘んじたのは、少女期から運命に翻弄されたて形成されたエリザベスの慎重な性格に追うところが多いのではないか。 統治のための男性の助けを必要とせず、いや 退けた感がある。 また、姉のメアリーに起きたように、結婚によって外国の干渉を招く危険もあったが、未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にあったという政治的な理由や母アン・ブーリンおよび母の従姉妹キャサリン・ハワードが父ヘンリー8世によって処刑され、また最初の求婚者トマス・シーモアも斬首されたことから結婚と「斧による死」が結びつけられた心理的な要因とする説もある。

 一方で、結婚は後継者をもうけ王家を安泰にする機会でもあったのだが。 彼女は50歳になるまで、幾人かの求婚者に対して考慮し、最後の求婚者は22歳年下のアンジュー公フランソワである。

 また、彼女の宗教政策は現実主義であった。 大きな理由の一つとして彼女自身の嫡出性の問題があった。プロテスタントおよびカトリックの法に基づけば彼女は厳密には庶子であったが、イングランド国教会派(英国王を最高位の指導者とするがカトリック的な宗教的信条を保持する人々)によって遡及して庶子であると宣言される危険性はローマ派に比べれば深刻な問題ではなかった。 彼女にとって恐らく最も危惧することは、イングランド国教会派の支持を失い嫡出性を否定されることであった。 この理由で、エリザベスがたとえ名目上だけでもプロテスタント主義を受け入れることについて、真剣な疑いは持たれなかった。

 エリザベスの最初の対スコットランド政策は駐留フランス軍への対抗であった。 彼女はフランスがイングランドへ侵攻し、スコットランド女王メアリーをイングランド王位に据えようと企てることを恐れていた。 エリザベスはスコットランド・プロテスタントの反乱を援助するようバーリー卿らから説得され、女王自身は消極的だったが、1559年末に出兵を認めた。 イングランド軍はリース城を落とせず苦戦したが、1560年に和議が成立し、フランスの脅威を北方から除くことに西航している。 しかし、スコットランド王・メアリーは条約の批准を拒否している。 そして、1560年末にフランス王フランソワ2世が死去し、メアリーは帰国することになった。 翌1561年に彼女がスコットランドへ帰国した時、国内にはプロテスタントの教会が設立され、エリザベスに支援されたプロテスタント貴族によって国政が運営されていたのである。 

 1563年、エリザベスは彼女自身の愛人ロバート・ダドリーを、本人の意思を確かめることなく、メアリーの夫に提案した。 この縁談はメアリー、ダドリーともに熱心にはならず、1565年にメアリーは自身と同じくマーガレット・テューダーの孫でイングランド王位継承権を持つ従弟のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚した。 この結婚はメアリーの没落をもたらす一連の失策の端緒となったことは前節で触れている。

メアリーとダーンリー卿はすぐに不仲になる。 そして、ダーンリー卿がメアリーの愛人と疑ったイタリア人秘書ダヴィッド・リッツィオが惨殺されると、彼はその関与を疑われ、スコットランド国内において急速に不人気になった。 しかし、 1566年6月19日、メアリーは王子ジェームズ(後のスコットランド王ジェームズ6世/イングランド王ジェームズ1世)を出産。 翌年の2月10日、ダーンリー卿が病気療養していた屋敷が爆破されて彼の絞殺死体が発見され、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンが強く疑われた。 それからほどない5月15日に、メアリーはボスウェル伯と結婚し、彼女自身が夫殺しに関わっていたとの疑惑を呼び起こしたのであった。

これらの出来事はメアリーの急速な失脚とリーヴン湖城への幽閉という事態を招く。 スコットランド貴族は彼女に退位とジェームズ王子への譲位を強いた。 そして、ジェームズはプロテスタントとして育てるためにスターリング城へ移された。 1568年、メアリーは脱出不可能と言われているリーヴン湖城 から逃亡したが、戦いに敗れ、国境を越えてイングランドへ亡命した。 当初、エリザベスはメアリーを復位させようと考えたが、結局、彼女と枢密院は安全策を選ぶ。 イングランド軍とともにメアリーをスコットランドへ帰国させる、もしくはフランスやイングランド内のカトリック敵対勢力の手に渡す危険を冒すより、エリザベス1世とイングランド枢密院は彼女をイングランドに抑留することにし、亡命したメアリー・ステュアート女王はこの地で19年間幽閉されることになる。

 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =15=

2016-04-12 19:01:57 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 処女王・エリザベス1世 ◆◇

 1558年11月に、ハットフィールド・ハウスでエリザベスは姉の死を知らされた。 姉とは・・・・イングランド国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害から、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた母違いの姉である。 見せかけだけの姉妹であった。 イングランドに君臨する女王であった。 前節で記述したように、イングランド国内に急速に不満が広まり、多くの人々がメアリー1世の宗教政策に対抗する存在としてエリザベスに注目していた。 時に、1554年1月から2月にかけてイングランドとウェールズの各地でトマス・ワイアットに率いられた反乱が発生した。 しかし、ワイアットの反乱は短時間の内にメアリー1世の強権で鎮圧された。

 しかしながら、反乱が鎮圧されるとエリザベスは宮廷に召喚されて訊問を受け、ロンドン塔に収監された。 当時、ロンドン塔に投獄されて生還した者は皆無で、死を宣告されたに等しい。 恐怖したエリザベスは必死に無実を訴えた。 召喚の理由は反乱幇助であった。 エリザベスが反乱者たちと陰謀を企てたことはありそうにないが、反乱者側の一部が彼女に近づいたことは知られていた。 メアリー1世の信頼厚いカール5世の大使シモン・ルナール はエリザベスが生きている限り王座は安泰ではないと主張し、大法官 はエリザベスを裁判にかけるべく動いたのである。 

他方、宮廷内のエリザベス支持者たちはメアリー1世に対して容疑に対する明確な証拠がないとして、エリザベスを助命するよう説得した。 そして、1554年5月22日にエリザベスはロンドン塔からウッドストックのブレナム宮殿 へ移され、その後 およそ1年間、幽閉状態に置かれた。 移送される彼女に対して群衆が声援を送ったと記録されている。 因みに、この年の7月10日、メアリーはスペインのフェリペ2世と結婚していた。 メアリー38歳、フェリペ27歳である。 この結婚を機に、メアリーは異端排斥法を復活してプロテスタントに対する過酷な弾圧を行う。 その結果、彼女は「血まみれのメアリー/ Bloody Mary」 と呼ばれるようになったのだが・・・・・。

 また、1555年4月17日、エリザベスはメアリーの出産に立ち会うために宮廷に召喚された。 当時 彼女はヘンリー8世の子供たちの宮殿として使用されていたハットフィールド・ハウスに住んでいた。 もしも、メアリー1世と彼女の生まれる子が死ねば、エリザベスは女王となる。 一方で、もしも、メアリー1世が健康な子を生めばエリザベスが女王となる機会は大きく後退することになる。

  結局、メアリーが妊娠していないことが明らかになり、もはや彼女が子を産むと信じる者はいなくなった。 エリザベスの王位継承は確実になったかに見られ、メアリーの夫のフェリペでさえ、新たな政治的現実を認識するようになり、この頃から彼はエリザベスと積極的に交わるようになった。 彼はもう一人の王位継承候補者であるスコットランド女王メアリーよりもエリザベスが好ましいと考えていたのである。

 そして、1558年11月20日に姉・メアリー1世の死が伝えられた。 忠誠を誓うべくハットフィールドへやって来た枢密院やその他の貴族たちに対してエリザベスは所信を宣言した。 この演説は彼女がしばしば用いることになる“二つの肉体”のメタファーの最初の記録と言われるが、国王への就任宣言であった。 

≪ 我が諸侯よ、姉の死を悼み、我が身に課せられた責務に驚愕させられるのが自然の理です。 しかしながら、私は神の被造物であることを思い致し、神の定められた任命に従いましょう。 また、私は心の底から神の恩恵の助けを得ていることを望みつつ、私に委ねられた神の素晴らしい御意志の代理人たる地位をお受けします。 自然に考えれば私の肉体は一つですが、神の赦しにより、統治のための政治的肉体を持ちます、それ故に私は貴方たち全てに私を助けるよう望みます。 そして、私の統治と貴方がたの奉仕が全能の神によき報告をなし、私たちの子孫に幾らかの慰めを残すことになるでしょう。 私はよき助言と忠告によって全ての私の行動を律するつもりです。 ≫

 戴冠式の前日に市内を練り歩く勝利の行進) で、彼女は市民たちから心を込めて歓迎され、式辞や野外劇で迎えられた。 エリザベスの開放的で思いやりのある応対は「驚くほど心を奪われた」観衆たちから慕われた。 翌1559年1月15日、エリザベスはウェストミンスター寺院で戴冠し、カトリックのカーライル司教によって聖別された。 それから彼女は耳を聾するようなオルガンやトランペット、太鼓そして鐘の騒音の中で群衆の前にその姿を現した。 処女王・エリザベス1世の誕生である。

 因みに、エリザベス1世の治世の初めから彼女の結婚が待望されたが、誰と結婚するかが問題となっていた。 数多くの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、その生涯を終える。 その理由は明らかではない。 ただ、母を亡くしたエリザベスを引き取ったトマス・シーモアが想春期を迎えようとするエリザベスに性的関係を厭わせ事件=後に彼は女王になった彼女に求婚している=の精神的な後遺症、もしくは自身が不妊体質であると知っていたのかも知れないが・・・・・・・。 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =14=

2016-04-10 18:59:35 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 亡命者・スコットランド女王メアリー ◆◇

 1558年11月20日、ハットフィールド・ハウスにいたエリザベスは姉・ネアリー1世死を知る。 メアリー1世死去の証拠として彼女の婚約指輪を携えたロンドンからの使者がハットフィールドに到着したのだ。 こうして誕生したのが、エリザベス1世処女王=だった。 カトリックを装いながらプロテスタントとして育った彼女は、イングランドを、敬愛する父ヘンリー8世のプロテスタントにもどした。 しかしエリザベスのとった宗教政策は、慎重かつ現実的で、妥協的なものだった。 彼女は、宗教に深入りすることを避け、政治的な安定をめざしたのである。

 それというのも、彼女の王権はかならずしも安泰ではなかったからである。 有力貴族のなかには、カトリックであることを公言してはばからない者もいた。 そしてカトリックにしてみれば、エリザベスは庶子であり、正統な女王としては認められなかった。 カトリックから見た正統な女王は、ヘンリー8世の姉でスコットランド王ジェイムズ4世の王妃となったマーガレット・テューダーの孫になる、カトリックのスコットランド女王メアリー・ステュアートだった。 そこでカトリック勢力は、ローマ教皇やスペインと手をむすび、反乱やエリザベス1世の暗殺を策謀したのである。

  スコットランド女王メアリー・ステュアートがイングランドに亡命してきたときのイングランドとエリザベス1世を取り巻く状況は、このようなものだった。 ところが、フランスの宮廷で世間知らずで育ったメアリーは、こうした状況も、また自分の置かれている状況もまったくわかっていなかった。 「血のつながった父の従妹なら、かならず助けてくれる」としか思っていなかった。 そして、メアリーはエリザベスに援軍をたのみ、スコットランドの反対勢力を一掃するつもりでいたのである。

 これにたいしてエリザベスは、子供のときから宗教抗争と権力闘争の渦のなかに身を置き、現実の世界というものを身をもって学んできた。 そのエリザベスのメアリーへの対応は、冷静で冷たかった。 なぜならば、メアリーはカトリックだったからである。 従兄の娘とはいえ、プロテスタントのエリザベスが、スコットランドの反メアリーの貴族たちを討つ手助けをするわけにはいかなかった。 彼等も、エリザベスと同じプロテスタントだったからである。

 メアリーがイングランドに亡命してきたころ、エリザベス1世を悩ませていたもう一つのことがあった。 後継者問題である。 エリザベスは独身をとおしたので、当然のこと、世継ぎはいなかった。 カトリックからみれば、メアリー1世のあとの正統なイングランド王は、エリザベスではなくメアリー・ステュアートだった。 そして子供のいないエリザベス1世の王位継承者は、血統から見ても当然、メアリーだった。 いずれにしても、次のイングランド王は彼女だった。

  メアリー・ステュアートが亡命してきたことで、イングランド国内のカトリック勢力は活気づいた。 しかしプロテスタント側から見れば、メアリー・ステュアートが王位につけば、ふたたびカトリックの復活だった。 そして、血生臭い宗教裁判の再開だった。

 エリザベスにしてみれば、メアリーと国内のカトリック勢力が手をむすぶと、自分の地位が危うくなる。 カトリック勢力が期待したのはそこだったし、エリザベスが警戒したものそこだった。 結局、エリザベスにとって、亡命してきたメアリーは、危険な存在であり、疫病神以外の何ものでもなかった。 だからといって、彼女をどうすればいいのか。 エリザベスは、メアリーの処遇に頭を痛めるだけで、どうにも動きがとれなかったのである。

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王妃メアリーとエリザベス1世 =12=

2016-04-06 20:00:37 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 16世紀後半のイングランド、血まみれのメアリー ◆◇

 16世紀のイングランドは、プロテスタントとカトリックが激しく対立していた時代だった。 ここで、スコットランドの女王メアリーがイングランドに亡命してきたころの、イングランドの時代背景について触れておくことにする。

 ヘンリー8世の離婚問題に端を発したローマ教皇との対立は、イングランドにカトリックとの決別という結果をもたらしていた。以降、イングランドは、国王を首長とするプロテスタント=国教会=の国となったのである。 1547年にヘンリー8世が他界すると、かれの3度目の王妃ジェイン・シーモアとのあいだに生れた一人息子のエドワード9歳が、エドワード6世として即位した。かれはプロテスタントとして育てられていた。また、少年王の側近にはプロテスタントが多く、イングランドは急速にプロテスタントの色を濃くしていった。それと同時に、カトリックは迫害されるようになった。

 しかし、カトリック勢力も根強く残り、いつしか復活するときを待っていた。 病弱だったエドワード6世は、1553年7月6日、15歳で他界してしまった。当然、世継ぎはいなかった。 プロテスタント勢力は、その体制を維持しようとしたが、エドワード6世のあとを継いだのは、ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オヴ・アラゴンとのあいだに生れた、カトリックのメアリーだった。しかも彼女は、スペイン人の母親の影響を強くうけ、狂信的なカトリックに凝り固まっていた。 メアリーが即位するまでのあいだには、「ジェイン・グレイの九日間女王」という事件もあったが、この事件はイングランドの王位を争う陰湿な陰謀の現れであった。



 メアリーは、7月19日にメアリー1世として即位すると、父ヘンリー8世の宗教改革を否定し、ローマ・カトリックを復活させた。 そしてイングランドは、ふたたびカトリックの国となったのである。 さらにメアリー1世は、翌1554年の新年早々に、カトリックの大国であるスペインの皇太子フェリッペと結婚すると言いだした。 彼女は、カトリックの完全な復活と継続をめざしたのである。 メアリーに世継ぎの王子が生まれれば、その子は将来スペインとイングランド両国の国王となる。 ところがそれは、当時の力関係からいえば、イングランドがスペインの属国になることを意味していた。

メアリー1世のスペイン人との結婚発表に、愛国的な国民は、彼女がイングランドをスペインに売ったと反発した。 そして、サー・トマス・ワイアットの反乱を招くことになった。 ワイアットは、1月にケント州で4千の兵をあつめると、女王の結婚発表の撤回をもとめて、ロンドンにむかって進撃した。 しかしこの反乱は、多くの国民の共感をあつめたが、反乱軍に積極的に加わって女王に刃向かおうとする者は、それ以上はふえなかった。 その結果、反乱は2月中旬に鎮圧され、失敗に終わるのだった。 ワイアットら首謀者は全員、逮捕され、4月に首をはねられた。 そしてかれらの首は、さらしものになった。

カトリックに凝り固まっていたメアリー1世は、ワイアットの反乱でより頑なになっていた。 そして7月、彼女は周囲の反対を押し切って、フェリッペとの結婚式を強行したのである。 メアリー1世の即位は、カトリックによるプロテスタントへの弾圧、宗教裁判の再開でもあった。 プロテスタントの時代に肩身の狭い思いをした彼女は、異端処罰法を復活させると、プロテスタントへの復讐を開始した。 そして、プロテスタントの聖職者や彼等に協力した神学者、信者をつぎつぎに捕らえては、宗教裁判にかけて処刑していった。

 1555年4月、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学の神学者が、プロテスタントの宗教改革に手を貸したとして火刑にされた。 同年9月には、プロテスタントの宗教指導者だったカンタベリー大司教トマス・クランマー、ロンドン司教ニコラス・リドリー、ウースター司教ヒュー・ラティマーの3人が拘束され、オックスフォードで裁判にかけられた。 リドリーはプロテスタントのすぐれた神学者でもあり、ラティマーはもっとも高名な説教師だった。 しかし、ふたりとも10月16日に火あぶりの刑に処せられてしまった。 そのときのようすは、次のようなものだった。

“ ふたりは太い柱をはさんで背中あわせに鎖で縛られ、そのまわりに薪が積み上げられた。リドリーの兄弟が特別に許され、ふたりの首のまわりに、火薬の入った布袋を巻きつけた 。苦痛ができるだけ長引かないようにするためだった。 ラティマーは死に直面して、「われわれは今日、神の恩寵によって、イングランドにけっして消えることのないロウソクの火を灯すことになるだろう」という言葉を残した。薪に火がつけられると、ラティマーはすぐに火に包まれ、火薬が爆発して一瞬にして最期をむかえた。 しかし、リドリーの最期は悲惨だった。火のまわりが悪かったために、かれは、火薬が爆発するまでの長いあいだ足を焼かれつづけたのである。”

“ 一方、最高位の聖職者だったトマス・クランマーは、ふたりの処刑に立ち会わされ、改宗をせまられた。 彼がそれを拒否すると、それまでは拘束されているとはいえ友人と会うことも許され、比較的自由な生活だったが、その後は、光もささない地下牢に閉じ込められるようになった。 そして、心身ともに疲れはてて朦朧としたなかで、彼は、一度はカトリックへの改宗の同意書に署名をしてしまったのである。 しかし改宗したとはいえ、かれが処刑を免れるわけではなかった。”

“ クランマーから勝利を勝ちとったカトリックは、1556年3月、処刑の前に公開の場で、彼にもう一度、改宗したことを告白させようとした。 しかしその前日に正気をとり戻したクランマーは、改宗したことを後悔し、それを取り消したのである。そしてかれの真意に反して署名した右手を呪い、火あぶりの刑に処せられたときには、炎のなかに右手をかざし、そのまま最後まで動かさなかったという。 ”

 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =08=

2016-03-29 17:34:32 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 洗脳されたダーンリー卿の自滅 ◆◇

 無責任な貴族たちの風説に、ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートは真意が見えなくなった。 猜疑心に心を奪われて行く。 妄想が現実を歪めて映し出す。 そしてついに、事件が起こることになった。 1566年3月9日の夕方、メアリーがホリールードハウスの宮殿にリッチオやお気に入りの側近たちを招いて会食をしているときのことだった。 そこに突然、ダーンリー卿とその配下の者が乱入してきた。 呼ばれていなかったダーンリーは、側近を引き連れて乱入したのである。 マリ伯にそそのかされた大貴族たちに煽られた結果であった。 ダーンリーは卿メアリーの目の前でリッチオを刺し殺してしまった。 彼は惨殺し、妻にまで怒りの刃を向けのだ。 

 ダーンリー卿は、メアリーの不義をうたがい、彼女を責めたてたのである。 このとき、メアリーは妊娠6カ月だったというが、彼女はダーンリー卿のやきもちにあきれはて、辟易するばかりだった。 これでふたりの仲は、完全に冷えきったものとなったのである。 だが、メアリーはもう取り乱さなかった。 二人きりになった時、メアリーはそっと夫に手を差しのべる。 「鎮まってちょうだい、お願い・・・あなたはだまされているのよ。 私とお腹の子供を殺して、その後あなたも無事で済むと思っているの?」

 実際仲間と称する大貴族たちは、マリ伯とともに権力を奪取するつもりでダーンリーを利用しただけなのだ。 彼がメアリーを始末すれば、今度は、彼が消されるだろう。 さっそく勝利にほくそ笑むマリ伯がやって来た。 メアリーは異母兄であり、帰国当時は全てを一任するほど信頼をしていたマリ伯ジェームズ・ステュアートの前で、大げさに苦しんで今にも流産すると騒いだ。 周囲が混乱する中、メアリーはどさくさに紛れて、ダーンリー卿ともどもホーリールード宮殿を脱出、身重の身で50キロの道を馬で疾走した。

 それから三か月後の1566年の6月19日、メアリーはエディンバラ城で男子を出産した =のちのスコットランド国王ジェイムズ6世、さらにイングランド国王ジェイムズ1世となるジェイムズ=。 「俺の子じゃない」とわめいていたダーンリー卿そっくりの男の子だった。 メアリーは可愛いわが子に頬刷りしながら、ベッドの傍らに立つ夫・ダーンリーにむかって言った。

 「あの時あなたが私をリッチオのように殺害していた・・・・・・ 今頃あなたはどうなっていたかしら。」 ダーンリー卿は俯いて口ごもった。

 「おまえ・・・・・おまえが俺に冷たくしたからだ、俺は悪くない!!」 そして彼はメアリーの悪口を書いた手紙を諸国に送りつけ、わが子の洗礼式の出席をも拒んだ。 

 ダーンリー卿は、10月の息子の洗礼式に立ち会うことを拒否する。 彼は、子どもが本当に自分の子であるかを疑っていたからである。 メアリーは夫の疑いにあきれかえり、かれの猜疑心の強さにはうんざりだった。 こうしてふたりの関係は、もはや修復不可能なところまでいったのである。 子供が産まれたことで、一見平和が訪れたかに見えたが、それは一瞬のことだった。 やがてメアリーの生涯最大の悲劇が訪れる。 それは、「ダーンリーの暗殺」である。

このあと、ダーンリー卿は病気がちとなり、自分の領地であったグラスゴーに引きこもったまま、エディンバラの宮廷にもまったく顔を出さなくなってしまった。 メアリーは、なんとかしてこの結婚を解消したいと思った。 冬が近づくと、ダーンリー卿はすっかり衰弱し、ベッドに臥していることが多くなった。 メアリーは、かれを放っておくこともできず、エディンバラ郊外のカーク・オ・フィールズの館に連れてくると、そこで療養させることにした。 メアリーは自由になりたかったが、すっかり弱ってしまったダーンリー卿を哀れに思い、毎日、見舞ったという。

 1567年2月9日、メアリーはいつものようにダーンリー卿を見舞い、夜にはホリールードハウスの宮殿に帰っていった。 その夜のことである。 日付が変わるころ、ダーンリー卿は物音で目をさました。 階下の部屋で、人が歩きまわっているような音がしていたからである。 ダーンリー卿は、とっさに身の危険を感じた。そして、着替えもせずに、窓に備えつけてあった非常用の梯子で部屋を抜け出した。 ところが、庭に下りたところで侵入者たちに感ずかれ、捕らえられてしまった。 ダーンリー卿は恐怖のあまり命乞いをしたが、侵入者たちは無言だった。

 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =07=

2016-03-27 16:40:49 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ ダーンリー卿との再婚と破局 ◆◇

 メアリーが帰国した時=1561年8月20日にスコットランドに帰国=の様子を今一度振り返れば、鳴りもの入りで帰国したメアリーを待っていたのは、奇妙な「平和」だった。 実権はすべてメアリーの異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートが握っていた。 彼は父のジェームス5世が政略上やむおえない理由でフランスから王妃を迎えるために、別れた恋人/アースキン家の姫君との間に産まれた子であった。 そして王妃のメアリー・ド・ギーズも、政略のために幼い息子を置いて異国へ嫁いで来た身であった。 思えば、悲しい運命のカップルだった。 したがって、メアリーもその母親も、マリ伯を差別していなかった。

 しかしマリ伯爵は違っていた。 ≪メアリーとその母親さえいなければ・・・父が母と正式に結婚していれば俺が国王になれたはずなのだ≫ その思いが常に黒い淀みとなって胸中に眠っていた。 そうとも知らず、メアリーは政治を兄・マリ伯ジェームズ・ステュアートにまかせ、自身は「象徴女王」として敬われつつ、ゴルフだ、賭け事だと遊びほうけていた。 英国のエリザベス(エリザベス1世、処女王、在位:1558年- 1603年)の向ける敵意も、まだ表面化することもなく、のどかに「お姉様」「妹よ」などど、社交辞令の並んだ文通が続いていたのである。 

 メアリーは絵にかいたような美しい女王だったというが、フランスの宮廷でちやほやされて、なに不自由なく育ってきた。 わがままなところは、フランスでの生活が増幅させていた。 一目ぼれで恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚したメアリーは夫ダーンリー卿をうとましく思うように成る。 しだいに遠ざけるように成る。 そして、ボスウェル伯とイタリア人の秘書官ダヴィッド・リッチオを側近として重用する。 メアリーはとくにリッチオを頼りにし、いつもそばに置いていたという。 そのため、「リッチオは女王の恋人ではないか?」という噂がたつくらいだった。 このことはいつしかダーンリー卿の耳にも入り、かれの嫉妬心をかきたてることになった。 そして女王とその夫の不仲を利用しようとする貴族たちは、あることないことをダーンリー卿に吹き込み、さらにかれの嫉妬心をあおっていった。

 そうこうしているうちに、メアリーの周辺には無気味な事件が起きはじめる。 メアリーと関わった男はことごとく破滅するという宿命の始まりだった。 フランス人詩人のシャトラールは、戯れにメアリーがキスをして以来 ストーカーとなり、二度までも寝室に忍び込んで犯そうとしたため、メアリーの目の前で斬り殺されていた。 また、アラン伯爵はメアリーと結婚するという妄想に取り付かれて発狂し、生涯幽閉されて終わった。

 メアリーが帰国して2年が過ぎ頃に話を戻す。 ある日、メアリーが政治の全てを一任している義兄兄・マリ伯ジェームズ・ステュアートが「そろそろ身を固めたらどうですか?」と、それとなくメアリーに探りを入れてみた。 マリ伯にしてみれば、異母妹がさっさと遠くに嫁いでくれれば厄介払いになる。 メアリー自身はスペイン皇太子との再婚話に少々乗り気であったが、それを聞き付けたエリザベスが、ただちに介入し 話は途絶えた。

その一方でエリザベスは、 「英国との友好が保ちたければ、英国貴族から夫を選びなさい。」と言い、自分の愛人であるロバート・ダッドリーとの縁談を持ちかけた。 エリザベスにしてみれば、メアリーを臣従させることができるのと同時に、長年連れ添いながらも、ついに報いることができなかったダッドリーを「女王の夫」にしてやることができる良い機会であったのだ。 しかし、メアリーはきっぱりと拒絶した。 そのかわり、従兄弟にあたる4歳年下のやんちゃな青年を再婚相手に選んだ。 それがダーンリー卿ヘンリー・ステュアートだった。

 ≪あのヘンリー・ダーンリーとか?≫ エリザベスはその知らせを聞いて眉をしかめた。 ダーンリーは軽薄な青年であったが、メアリーの従兄弟に当たり、英国の王位継承権を持っている。 ≪なんと!これでますますあの女がつけあがるではないか!≫英国王位を窺う敵が、一人から二人に増えてしまったのだ。 ダーンリ-が「逆玉」狙いでメアリーを誘惑したのは見え見えだったので、議会や国民、側近達ですら、この結婚に反対した。 
特にマリ伯は、嫉妬もあって口論になるほど激しく反対した。 エリザベスは、ダーンリーと結婚するなら国境線を侵犯する、と脅迫したのである。 それでもメアリーは、この青年のわざとらしい誘惑や我侭が、愛らしくてならなかった。

    ・-・-・-・-・-・-・

≪目障りだったマリ伯を追い出した。 これで俺の天下だ!≫とばかり、ダーンリーの我侭は加速した。 気に入らなければ大貴族だって 殴る、剣を振り回す、政治を放ったらかしにして遊び回る、泥酔して暴れる。 殴り合い、絶叫、レイプのような夫婦生活。 二人の関係はわずか半年で破滅を迎えた。  にもかかわらず、メアリーは妊娠していた。 最悪だった。

 「もう近寄らないで!触らないでちょうだい!」
 「なんでだよ。 俺はおまえの亭主だぞ? この国の王なんだぞ?」 酒臭い息を吐きながら、ダーンリーはメアリーを押し倒した。 

「私、妊娠しているのよ !!」 メアリーは顔をそむけながら呟いた。
「どうせ俺の子じゃないんだろ? 誰の子なんだよ、おい。」 アル中でいかれたダーンリーの頭には、メアリーのお腹の子が側近 リッチオの子のような気がしてならない、いや、真実自分の子だったとしても、息子ならライバルになりうる。 ≪みんな殺してやる!≫

 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =06=

2016-03-25 18:07:01 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 失意の帰国、そして 一目ぼれの再婚 ◆◇

  フランスの宮廷で自由気ままに暮らしてきたメアリーにとって、混乱した国は、到底、統治できるものではなかった。 また、彼女にもその気がなかった。 メアリーは荒廃した国を思いやるよりも、フランスの宮廷での優雅な生活を懐かしんだ。それは、荒涼とした辺境の地スコットランドでは望むべくもなかったが、彼女はそれなりの贅沢が楽しめればいいと思っていた。 あとは、再婚相手を探すだけだった。

 1565年の春、22歳のメアリーの前に、ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートという3歳年下の青年が現われた。彼の父4代レノックス伯マシュー・ステュアートは、スコットランド王室の血をひいていた。 そして母方の祖母マーガレットは、イングランドのヘンリー8世の姉で、メアリーにとっても祖母にあたっていた。 この祖母は、スコットランド国王ジェイムズ4世(在位1488-1513)と一度結婚したが、夫と死別したあとに6代アンガス伯アーチボルト・ダグラスと再婚をしていた。 そしてダーンリー卿は、このアンガス伯の孫だった。 つまりメアリーとダーンリー卿は、祖父の異なる又従姉弟同士の関係にあった。

 1565年2月18日、ウェミース城でメアリーとダーンリーは再会した。 メアリーは従弟ダーンリーに一目惚れした。 メアリーは彼の、自分より長身で均整のとれたすらっとした体つき、ロンドン宮廷仕込みの洗練された優雅な物腰が気に入った。 またダーンリーは陽気で、メアリーと同じく狩猟好きでリュートやダンスが得意であり、このような所も2人は共通しており、メアリーの好みに合っていた。 さらに、彼はステュアート家の血を引くカトリックであり、しかもヘンリー7世の曾孫で強力なイングランド王位継承権を持っているのも好都合だった。 ダーンリー卿は背が高く、メアリーの目には初々しい好青年に映った。 彼女はすぐにダーンリー卿に夢中になり、ダーンリーとの結婚を考えるようになる。

 当時、メアリーの再婚相手について様々な相手が検討されていたが、いずれの結婚もエリザベス1世カトリーヌ・ド・メディシス(前節イラスト参照)の妨害などにより実現していなかった。 このダーンリーとの結婚も、内外からの多くの反対にあった。 まず、カトリックの国王が誕生する事に、多くのプロテスタント貴族や国民達が反対した。 組合貴族達の宗教改革により、スコットランドの国教はプロテスタントになっていたためである。 また貴族達の中には、彼の父親・レノックス伯に宿怨を抱いている者が多かった。 更には、メアリーとダーンリーの結婚について先頭に立って反対したのは、マリ伯ジェームズ・ステュアートだった。 彼は、元々メアリーの異母兄というだけで、王位に対して何の正当な権利もない、ただの私生児に過ぎなかったが、メアリーがスコットランドに帰国して以来、信頼できる肉親として修道院長から伯爵にまで出世し、絶大な権力をふるっていた。

 マリ伯は自分の権力が失墜するのを恐れ、イングランドのエリザベス1世に結婚の阻止を頼んだ。 マリ伯は、ダーンリー父子が自分を殺そうと狙っているとも主張し、メアリーと激しい口論になった。 マリ伯はメアリーとダーンリーを誘拐した上でダーンリーをイングランドへ追放し、メアリーを退位させて自分が政権を握る事を計画していたという説もある。 エリザベス1世にとっても、それでなくともイングランド王位継承権を持ち、自分の要求通り王位継承権を放棄しなかったメアリーは忌々しい存在だったが、強力なイングランド王位継承権を持つダーンリーと彼女が結婚することはさらに大きな脅威だった。

 しかし、ダーンリー卿もメアリーが気に入り、ふたりはすぐに結婚することになった。 そして結婚式は、1565年7月29日に、エディンバラのホリールードハウスの宮殿でおこなわれた。 メアリーはダーンリーと結婚した。 結婚を証明する書類には、「女王メアリー」の名の横に「国王ヘンリー」と署名が並ぶこととなった。 ≪してやったり!≫ほくそ笑むダーンリーとは対照的に、マリ伯の怒りはおさまらず、結婚式にさえ姿を見せなかった。 それどころか、英国からの支援を受け、クーデターを起こしたのである。 しかしあっという間に蹴散らされ、マリ伯は英国へと亡命した。

 しかしここで問題が生じた。 上記のように、メアリーがフランスからもどったころ、スコットランドではプロテスタントも容認されていて、多くの貴族がプロテスタントになっていた。 ところがフランスとの関係が深かった王室は、依然としてカトリックだった。 そして女王の再婚相手ダーンリー卿もカトリックだった。 そのためプロテスタントの貴族たちは、ふたりの結婚が反プロテスタントの動きにつながるのではないかと恐れ、女王の結婚に反発して反乱を起こした。 そして反乱軍は、おなじプロテスタントの国イングランドに援軍を要請したのである。

 だがしかし、イングランドのエリザベス1世は慎重で、彼女の対応は冷たかった。 エリザベスは、スコットランドに過度にかかわることで、国内のカトリック勢力を刺激したくなかったからである。 結局、スコットランドのプロテスタント勢力はイングランドからの支援がうけられず、彼らの反乱は、4代ボスウェル伯ジェイムズ・へバーンによって鎮圧されてしまった。 これによってメアリーの再婚生活は、順調に進むかにみえた。

 しかしながら、女王メアリーの悲劇は、いったいどこから始まったのだろうか。 彼女はダーンリー卿に夢中になって結婚したのだったが、ふたりの結婚生活は2、3カ月で破綻してしまった。 メアリーにとって最初は好青年に見えたダーンリー卿も、ただの甘やかされて育った、わがままな男であることがわかってきたからである。 彼は高慢で頑固、短気で落ち着きがなく、気まぐれ、それに酒好きで女好きという、ステュアート家の悪い血をすべて受け継いでいた。

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王妃メアリーとエリザベス1世 =05=

2016-03-23 19:32:06 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 未亡人となり失意の帰国 ◆◇

 1560年12月、子供のころから病弱だった夫のフランソワ2世が、16歳の若さで他界してしまった。 死因は、持病の耳の病気が悪化したためだったと言われている。 メアリーは、18歳になったばかりで未亡人となった。彼女は、フランスへやってきたときは人質のような存在だった。 しかし成長するにつれて、華麗で優雅なフランスの宮廷生活を楽しむようになっていた。 そして、いつも宮廷の中心にいて、かしずかれていた。 同じ年の6月、故国の母メアリー皇太后も、娘の身を案じながら死去していた。 周囲では、メアリー本人の意向を無視して、早々に再婚相手探しが始まった。

 メアリーは義弟で、王位を継いだシャルル9世の求婚を拒み、フランスでのんびり未亡人生活を送る気ままさも拒否する。 そして、メアリーはあの争いと嫉妬渦巻く荒廃した故国へ、スコットランドへ帰る道を選ぶのだった。 その頃からメアリーは、自分の紋章に、英国王家の獅子紋を入れるようになる。 この行為は明らかなエリザベスへの挑発行為だった。 後世の人間は、それを見て「愚か」だと笑うけれど、果たして 一笑に伏すことができるだろうか。

 スコットランドは、女王メアリーにとっては自国だった。 しかしそこは、宗教抗争と貴族間の権力争いの絶えない、彼女にとっては無縁の国だった。 メアリーはフランスの宮廷でスコットランドのことを忘れ、優雅な日々をおくっていた。 ところが夫の死によって、メアリーの立場は激変してしまった。 前王妃はもはや宮廷の中心的存在ではなく、ただの貧しい北国の女王でしかなかった。 居場所を失ったメアリーは、1561年、13年ぶりに自国スコットランドに帰ってきた。 しかしそのときの祖国は、無政府状態に近いものだった。 貴族たちは権力闘争に明け暮れ、カトリックとプロテスタントの宗教抗争も終わっていなかった。 そして厄介だったのは、貴族や庶民にはプロテスタントがふえていたが、もどってきた王室は、依然としてカトリックだったことである。

 フランスの宮廷で自由気ままに暮らしてきたメアリーにとって、混乱した国は、到底、統治できるものではなかった。また、彼女にもその気がなかった。 メアリーは荒廃した国を思いやるよりも、フランスの宮廷での優雅な生活を懐かしんだ。 それは、荒涼とした辺境の地スコットランドでは望むべくもなかったが、彼女はそれなりの贅沢が楽しめればいいと思っていた。 あとは、再婚相手を探すだけだった。 思えば、英国側の拉致を恐れて、国内と転々と逃げ隠れした幼少時代だった。 そして5歳の時、母と引き離され、逃げるようにフランスに渡った。 祖父を、父を、屈辱のうちに死に追いやり、故国を踏みにじった英国。 そんな憎き英国に対し、復讐心があったのではなかろうか。 まして今の女王は、あの宿敵ヘンリー8世の庶子の娘エリザベスである。 正当なチューダー家の血を引くメアリーが王位を望んでも、不思議ではなかった。

 1561年、メアリーはスコットランドへ帰国する。 メアリーは一応エリザベスに英国近海を通過する旨を知らせたが、エリザベスの側はそれをそっけなく無視した。 7月20日、メアリーは英国側の悪意を知りながら、カレー港=対岸のドーヴァー港(英国側)と対峙=へと出発する。 そして、 「どのような結果になろうとも、私は旅立ちます。」と決意新たに4、約一月後の8月14日、ついにメアリーを乗せた船は港を離れた。 甲板に立つメアリーは遥かに遠ざかる岸を眺めながら、激しく泣いた。

「アデュー、フランス!もう二度と見ることはないでしょう。」 =フランス語の「アデュー」は単なる「さようなら」ではない。 決別を表す言葉である。メアリーは、第二の故郷であるフランスに二度と帰らない決意であった=

 ユーロスターでドーバー海峡を越え、南部英国に入ったとたん、それまでの清澄なフランスの陽光は消え、にわかにどんよりとした北国の空気に包まれる。 21世紀でさえそうなのだから、ましてや16世紀、英国よりさらに北のスコットランドはフランスとの落差は大きかったはずである。 5日の航海の後、メアリーが上陸したエジンバラ近郊のリース港は、霧の濃い裏ぶれた漁村だった。 

 明らかな発展途上国。 しかも狂信的なキリスト教原理主義者が跋扈し、隣国からの侵略行為と内部の権力闘争で疲れきったスコットランドは、どことなく現代の中央アフリカや中央アジア諸国を思わせる。 そんな危険な場所へ、世間知らずのお姫様が復讐心に燃え飛び込んでいって万事が解決するとしたら、それはフィクションの世界だけであろう。 現実にメアリーを待っていたのは、呵責の無い男同士の権力闘争と、ピューリタンの女性蔑視、英国側の悪意であった。

 

 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =04=

2016-03-21 17:36:10 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ フランス皇太子妃から王妃へ ◆◇

 フランスで待っていたのは、形式的に婚約を交わしていた1歳年下のフランソワ皇太子と、その両親であるフランス国王夫妻だった。 王妃のカトリーヌ・ド・メディチは 10人もの王子王女を生みながらも実権は夫の愛人であるディアンヌ・ド.ポワティエに握られていた。 幸いにもカトリーヌは、メアリーを気に入って可愛がっていた。 宮中にはメアリーの母方の叔父であるフランソワとシャルルのギーズ家の兄弟が権力をふるっていた。

 1543年生まれのフランソワは、生まれつき虚弱な体質だった。 アデノイドがあり、年中耳が腫れ、呼吸困難に陥るところを見ると、アレルギー患者で、重度の喘息体質だったのかもしれない。 もし真実喘息であるとするなら、成人に近い患者の発作は、現代でも死ぬ場合がある。 そしてアレルギー患者は耳や鼻に炎症が起きやすい。

 メアリーはカトリーヌや叔父たちに見守られてフランス人として成長し、1558年4月24日、パリで華やかな結婚式をあげた。 1歳年下のフランス皇太子フランソワと結婚をした。 15歳になったばかりのメアリーは、宝石を散らした純白のドレスを身にまとい、歓呼の声の中、ノートルダム寺院へ入場した。 夫フランソワは紛れもなく、フランソワ2世として王位継承者である。 ついにメアリーはブリテン島の一部を含む広大なフランス王国の王妃となるのである。 そんなメアリーにとって、故国スコットランドは領土の一部に過ぎなかった。

 しかしながら、この結婚には、裏に密約があった。 「メアリーに世継ぎの王子が生まれなかった場合には、スコットランドはフランス王のものとする」というものだった。 これは、メアリーに王子が生まれようが生まれまいが、スコットランドはフランスと連合され、いずれはフランスのものになる、ということを意味していた。 他方、1558年11月、イングランドではカトリックのメアリー1世(在位1553-1558)が他界し、プロテスタントのエリザベスがエリザベス1世(在位1558-1603)として即位した。 これにたいしてフランスは、イングランドの王位はスコットランドの女王メアリーが継ぐべきである、と主張してきた。 カトリックの立場からすれば、エリザベスは庶子であり、彼女の王位継承権は認められなかったからである。

 結婚翌年の7月(1559年)、フランス国王アンリ2世は、馬上槍試合で頭部にうけたケガがもとで他界した。 そして、メアリーの夫が15歳でフランソワ2世(在位1559-60)として即位した。 16歳のメアリーは、ついにフランスの王妃となったのである。 このころ、彼女にとって人生の絶頂期だった。 一方この時期のスコットランドは、メアリーの母親メアリー・オヴ・ギーズのもとで、実質的にフランスに支配されていた。 その手先となっていたのは、国内のカトリック勢力だった。

 これにたいしてプロテスタントの貴族や地主、市民は、「主の会衆」という同盟を組織し、フランスの支配にたいして反乱を起こして抵抗していた。 するとそこに、イングランドがプロテスタント勢力に加勢して介入してきた。ここにきて、スコットランドのカトリックとプロテスタントの対立は、フランスとイングランドの代理戦争の様相を呈してきたのである。 1560年1月、イングランド海軍はスコットランドのフォース湾を封鎖し、フランスからの援軍を阻止する行動にでた。 さらに、イングランド軍は4月には陸からもスコットランドに侵攻していった。 イングランドにとっては、ここは、スコットランドへの覇権をとりもどす正念場だった。

 そんなときの6月、対イングランド最強硬派で、この年45歳になるメアリー女王の母メアリー・オヴ・ギーズが、突然、他界した。  その結果、フランスとイングランドの対立は沈静化してゆくようになった。 両軍のあいだには、その後も小規模の衝突はあったが、それが大きな戦闘に発展するようなことはなかった。 そして7月、イングランドとフランスとのあいだに「エディンバラ条約」がむすばれ、双方がスコットランドから撤退し、フランスはそれまで認めていなかったエリザベス1世をイングランドの女王として認める――ということで、事態は収拾していった。

 こうして、スコットランドはフランスの支配から解放され、プロテスタントにも道が開かれたのである。 がしかし、この年・1560年の年末も近い晩秋、メアリー女王の夫君フランソワ2世は狩猟に出かけた帰りに耳の後ろに鋭い痛みを訴えて倒れ、持病の中耳炎と診断された。 侍医は開頭手術を提言したが母カトリーヌ・ド・メディシスはこれを拒絶、中耳炎は彼の脳葉にまで達し、脳炎を引き起こしたようである。 高熱を発するのと同時に呼吸困難に陥った。 18日間に及ぶメアリーの看護の甲斐もなく、その年の12月8日、ついに帰らぬ人となったのである。

 「森や野や どこにいようとも
  明け方か夕暮れか いつだろうとも
  心は絶えず悲しみにくれ
  眠ろうとする枕元に押し寄せる この空しさ
  一人ベッドにいても、あの人のぬくもりを感じる
  働く時も休む時も、傍らにあの人を感じている」

(メアリー/亡き夫に捧げる挽歌)

 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =03=

2016-03-19 18:07:11 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 生後1週間足らずで女王に、そして亡命 ◆◇

 メアリーが父の王位を継いで女王となったのは、生後1週間になるかならないかのときだった。 そして、彼女の摂政となってスコットランドの実権をにぎったのは、2代アラン伯ジェイムズ・ハミルトンだった。 彼はジェイムズ2世の曾孫にあたる王族のひとりだったが、親イングランド派だった。 すると、ジェイムズが心配していたとおり、幼い女王の誕生に、イングランドのヘンリー8世がさっそく触手をのばしてきた。 彼はイングランドの皇太子エドワードとメアリーを結婚させることで、武力にたよらずともスコットランドを併合できると目論んだのである。

 1543年7月、ヘンリー8世はアラン伯ら親イングランド派の主導する政府とのあいだで、この年6歳になるエドワードと1歳のメアリーの婚約を「グリニッジの条約」として強引に成立させた。 しかしこの婚約に、フランスとスコットランドの親フランス派の貴族たちが猛反発した。 その結果、摂政のアラン伯は失脚し、代わってメアリーの母メアリー・オヴ・ギーズが摂政となり、スコットランドの実権をにぎるようになった。 親フランス派による巻き返しである。 そして、メアリーとエドワードとの婚約は、この年の12月に破棄されたのである。 ところが、イングランドのヘンリー8世も簡単にはあきらめなかった。

 1544年、ヘンリー8世は皇太子エドワードの伯父になるハートフォード伯エドワード・シーモアに命じて、イングランド軍をスコットランドに侵攻させた。 そして婚約の復活をせまって、ハートフォード伯にスコットランド領内を掠奪してまわらせた。 このイングランドの掠奪は、一時は首都エディンバラにまでおよぶという荒っぽいものだった。 これが、ヘンリー8世の「手荒な求婚」といわれるものである。 ヘンリー8世は、1547年1月、56歳で他界した。 そして、皇太子エドワードが9歳9カ月でエドワード6世として即位した。

 少年王の摂政には、伯父のエドワード・シーモアがなった。 シーモアはそれと同時に、初代サマーセット公に叙爵した。 そして彼は、この年の秋にもスコットランドに侵攻し、掠奪してまわったのである。 たびかさなるイングランドの侵略行為に、女王メアリーの身を案じた母親のメアリー・オヴ・ギーズは、母国フランスに支援をもとめた。 すると今度は、フランス国王アンリー2世(在位1547-59、前節イラスト)が女王メアリーに目をつけてきた。 アンリー2世はスコットランドへの軍事的肩入れと、女王メアリーとフランスの皇太子フランソワとの婚約を交換条件にしてきたのである。 いずれフランソワが即位すれば、王妃の国スコットランドはフランスと連合され、実質的にはフランスのものとなる。 アンリ2世のはそう考えたのである。

 またアンリ2世は、ヘンリー8世のあとを継いだイングランドのエドワード6世は病弱で、たとえ結婚したとしても、世継ぎが望める状態ではない――ということを聞いていた。 ヘンリー8世のふたりの娘、メアリーとエリザベスの王位継承権は、父親の離婚と再婚のくりかえしで、不動のものとは言えなかった。 そして、スコットランド女王であるメアリーにも、テューダー王家の血が流れていた。 事と次第によっては、女王メアリーはイングランド王位を主張することもできる。 そうなれば、フランスはスコットランドに加えてイングランドも手に入れることができる。 アンリ2世はこのような、じつに遠大な野望をいだいていたのである。

 イングランドに脅かされつづけていたスコットランドに、女王メアリーとフランス皇太子との婚約に反対する声はなかった。 そしてその婚約は、「ハディントンの条約」としてすぐに成立するのだった。 1548年8月7日、5歳の女王メアリーは、フランスの宮廷へと送られ、そこで育てられることになった。 亡きジェイムズ5世の心配は、ここでも的中してしまった。 結局、女王メアリーのスコットランドは、イングランドとフランスの両方から狙われたのである。

このあとスコットランドは、女王不在のまま、メアリーの母メアリー・オヴ・ギーズの支配するところとなった。 スコットランドは、これまでも大国フランスの干渉をうけてきたが、このあとは実質的にフランスの属国となったのである。 そして、エディンバラにはフランス軍が守備隊として常駐し、宮廷の要職はフランス人によって占められるようになった。 これでフランスは、スコットランドの乗っ取りに成功し、北から直接、イングランドを牽制できるようになったのである。 まずは、フランスとメアリー・オヴ・ギーズの勝利だった。

 

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