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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

断頭台の露と消えた王妃 =18=

2016-06-09 16:29:39 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 王室崩壊の≪8月10日事件≫序曲・・・・・・ ◆◇

  混乱するフランス、議会の立憲君主派と、宮廷の王党派に対して、民衆は立ち上がらなければ踏みつぶされるだけだと思った。 ジロンド派は蜂起も王権の失効も望まなかったので、何とか抑えようと努力はしたが、8月になると王制打倒こそが唯一の解決策であるという見解はパリ全体に共有されるものとなった。 まず行動を起こしたのはパリの中核であった。  各セクション(諸地区)は常設の区会を設け、それぞれ連係するために「中央委員会」を組織した。 7月11日、これに続いたのはロベスピエールで、彼はジャコバン集会で演説して、連盟兵に参加を呼びかけた。 連盟兵たちは7月14日の祭のために全国から集まってきていたものだが、ダントンの提案で 祝祭の後もでパリに留まることが決まった。 国家の危機を救う任務が与えられ、むしろ奮起した。

 7月25日、ロベスピエールはより大胆な主張を展開し、立法議会の即時解散を要求して、これに代わって憲法改正をすべき新しい議会「国民公会議」の招集をすべきだと言った。 彼は王政のみならず議会をも葬る必要性を説き、ブルジョワ階級にのみ立脚する議会は人民を代表していないとの論拠を示した。 これは真実であったから、ジロンド派は有効な反論ができなかった。 彼らはロベスピエールが群衆を自重させることを願ったが、実のところそれは誰にも不可能で、もはや矢は放たれていた。

 翌≪26日≫夜、モントルイユ地区を行進した連盟兵によって「武器を取れ!」の呼びかけが行われた。 29日、マルセイユから連盟兵が到着すると、早速、彼らのもとには自発的に代表が派遣され、「王と呼ばれる男」と悪党どもを「王宮から追い出す」ことで問題は解決すると説明して、支持を得た。 翌7月30日、いくつかの区会は、受動的市民が国民衛兵隊に参加するのを認め、槍で武装するように指示したので、運動は一層促進された。 

  そして、8月6日にはシャン・ド・マルスで市民と連盟兵の大集会が行われ、ここでは改めてルイ16世の廃位が要求された。 パリの諸地区の先頭に立っていたサン=タントワーヌ城外区の区会は、9日までに国王の失権または王権の停止を議会が決議しなければ、パリの諸地区は武器を持って立ち上がるとの警告を発した。 攻撃の噂はそれ以前にも絶えなかったが、これが実際の最後通牒となった。
 
 
  8月9日の夜、警鐘が鳴らされた。 48地区の委員が集まって市庁舎に蜂起コミューンが組織された。 これは自治市会の総会に代わる革命的組織であり、無制限の権限が与えられたパリの独裁の最初だった。 彼らは市庁舎を乗っ取ることにした。 合法的な市役所の活動を停止し、市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴは宮殿で国王と会談していたが、議会に呼び出され、自宅に監禁された。 国民衛兵隊総司令官マンダ は由緒ある貴族で、熱心な王党派だった。 彼は協力を拒んだので、市庁舎に召還されて尋問を受けた後で、監獄に送られる代わりに朝にグレーヴ広場で銃殺された。 国民衛兵隊は任を解かれ、セーヌ川に架かるポンヌフ橋の封鎖は撤去された。 暫定的なパリ国民衛兵隊総司令官にサンテールが選ばれた。

  宮殿の警備にはルイ16世に個人的忠誠を誓った950名のスイス人傭兵が残っていただけであった。 かつて立憲近衛隊が受け持っていたが、これは5月29日に解散を命じられた。 しかし議会の決定に不服だった指揮官のコッセ=ブリサック公爵らを含む元メンバーは解散後も留まって守備についた。 これに田舎から出てきた王党派支持者の若者が合流し、200〜300名の通称「聖ルイ騎士団」と呼ばれた大隊となった。 それにパリからはフィユ・サン=トマ地区とプチペール地区、ビュテ・デ・ムーラン地区から選抜された国民衛兵隊2,000名が馳せ参じ、国王のために集まっていた。

 8月10日朝、連盟兵とさらにはそれに付き従う民衆の総勢2万はくだらない大集団は、テュイルリー宮殿へ向かった。 宮殿はパリのど真ん中にある。 銃は1万挺ほどしかなく、残りは槍などで武装していた。 血気にはやった連中がいまにも攻撃を始めようと、王門の扉や冊を叩いていた。 これらの中に革命的女性のごとき過激分子も含まれていた。 ブルボン王朝終焉の幕が開かれる・・・・・・・・

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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断頭台の露と消えた王妃 =17=

2016-06-07 19:37:08 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 亡命貴族の支援策が革命戦争に駆り立てる・・・・・ ◆◇

 1791年6月のヴァレンヌ事件は、フランス革命の流れに相反する二つの潮流を生み出した。 第一は第二に対する反動で、短期的に穏健派と王党派が団結を強めてブルジョワ革命を急いで推し進めようという圧力となった。 9月14日のルイ16世の1791年憲法への宣誓と復権、 そして 10月1日の立法議会の招集をへて立憲王政の成立へとたどり着いた後は、1789年の理想主義者ならこれで革命は終わったのだと信じることはできただろうし、事実、立憲議員の何人かは故郷に帰った。

 しかし全くそうではなかった。 立憲主義者の偽りの勝利と、利権を独占するブルジョワジーの分裂(フイヤン派ジャコバン派からの分離)をよそに、第二の波、つまり デモクラシーが台頭を始めていたのである。 バスティーユで革命に目覚めた革命的民主主義者たちは、次第に数を増やし、失業者や賃金労働者を中心にしたサン・キュロットの革命参加を促して、パリで徐々に政治勢力を形成した。 彼らは人民結社(コルドリエ・クラブ)や自治市会に結集して、さらにより急進的な第二世代の指導者を生み出していった。 この第二の流れは7月17日のシャン・ド・マルスの虐殺やクラブ閉鎖でも、衰えることはなく、鬱積した不満を約1年間ためていった。

 また第一の流れの副産物として、ウィーンとベルリンの宮廷は亡命貴族(エミグレ)に唆されて、ピルニッツ宣言=前節参照=を発したが、これは決して武力介入を意味するものではなかったものの、ブリッソーら立法議会で新しく多数派になるジロンド派を刺激し、過剰に好戦的な愛国主義と、ヨーロッパの諸君主に対する攻撃的な革命十字軍(革命の輸出)のごとき発想を思い起こさせた。 革命戦争の勃発は情勢を悪化させた。 戦争と経済危機の影響は市民の生活を直撃した。 

 パリの手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民(サン・キュロット)たちは生活改善を求めて再び結集した。 この流れはすでに左翼的イデオロギーを伴っており、生活に直結する切実な要求は次第に濁流のごとく強く激しくなった。 運動を支える受動的市民は選挙権を持っていなかったので、彼らの政治的アピールは、武装して行進するといったより直接的な示威行動となって表れたが、能動的市民のなかにもこれに同調する者が現れ、彼らのリーダーとなった。 このような人々がそれぞれの地区の民兵を組織し、革命の暴力として顕在化した。 急進化する彼らの要求に政治家たちは後追いするばかりだったが、共和制樹立の要求は日に日に高まっていった。

 そうした中で、次節で述べる、1792年8月20日のサン・キュロットの示威行動事件が起きる。 武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んで来る事件は、拒否権を乱発する国王への圧力としてジロンド派が黙認したという側面はあるが、武装蜂起がすぐに起きてもおかしくない危険な状況であることを示していた。 王政の廃止を最初に口にしたのはジロンド派であったが、すでに事態は彼らの予想を上回るスピードで展開を始めていたのである。

 「反乱者が公然と王制の転覆を計画」するという逼迫した情勢への危機感は、7月10日、フイヤン派を総辞職に至らせた。 立憲君主制を守る最後の試みは、軍司令官に復帰したラファイエットに託された。 彼はフロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジェントー伯爵を通じて、ジャコバン派を解散させるために「軍隊をひきいてパリへ進軍する用意がある」のでオーストリアに軍事行動の停止を求めたことがあり、さらにコンピエーニュへの脱出を国王に勧めた。 

 ここで彼は軍隊と待つ予定であったが、国王の再度の脱出は7月12日から15日に延期されて、結局は中止になった。 ルイ16世はヴァレンヌ事件の失敗を思い出して、信頼する外国人傭兵、ガイド・スイス部隊の保護下から出る気がしなかったのである。 また マリー・アントワネットは諸君主国の同盟軍が声明を出して威圧するように求め、同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク侯爵が7月25日に王妃の要請に答えて宣言を発した。 その宣言は、パリ市民が国王ルイ16世に少しでも危害を加えればパリ市の全面破壊も辞さないという内容の脅迫であった。 しかし、ブラウンシュヴァイク宣言は市民をより一層怒らせ、敵に守護される国王の廃位要求に彼らをかき立てる結果になった。 これはもはや武装蜂起を奨励するようなもので、完全に逆効果となった。

 フランス革命では特徴的なことだが、蜂起は存在しない脅威に対する自己防衛の行為であった。 暴動事件は、誰かが終始一貫して計画を立てたわけではなく、7月末の最後の週からパリで異常な高まりを見せた示威行動が、8月10日の爆発へのクライマックスを迎え導火線と成っていた。 議会の立憲君主派と、宮廷の王党派に対して、民衆は立ち上がらなければ踏みつぶされるだけだと思ったわけである。 ジロンド派は蜂起も王権の失効も望まなかったので、何とか抑えようと努力はしたが、8月になると王制打倒こそが唯一の解決策であるという見解はパリ全体に共有されるものとなった。

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森のなかえ

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断頭台の露と消えた王妃 =16=

2016-06-05 16:11:25 | 歴史小説・躬行之譜

 その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ ヴァレンヌ事件の影響と革命戦争勃発・・・・ ◆◇

 この国王の亡命逃行失敗のヴァレンヌ事件はフランス国民に多大な衝撃を与えた。 国王が外国の軍隊の先頭に立って攻めてくる気であったという事実は、立憲君主制の前提を根底から揺るがす大問題だった。 ルイ16世は革命の敵、反革命側なのであり、それどころか国家の敵ですらあり、フランス人の王としての国民の信頼感は著しく傷つけた。 それまでは国王擁護の立場をとっていた国民が比較的多数を占めていたが、以後、多くは左派になびいて革命はますます急進化した。 

 窮した王朝派のラメットやバルナーヴは、国王は何ものかによって誘拐されたのだとする誘拐説をでっち上げた。 立憲君主制を成立させるには、ブイエを首謀者とするウソの陰謀が必要で、ルイ16世は被害者であったという捏造を強弁した。 このウソはバルナーヴの雄弁によってある程度は成功し、フランス革命は立憲君主制と立法議会の成立というところまで漕ぎついた。

 しかし、この公然の嘘には当然、左派は激しく反発した。 革命はもはや1789年の理想の範疇ではおさまらなかった。 ヴェルサイユ宮殿の球戯場(シャン・ド・マルス)の誓願は、ラファイエットの国民衛兵隊の発砲により流血沙汰となり、共和主義宣伝の機会を与えた。 ジャコバン派は分裂し、フイヤン派が脱退する事態となった。 フイヤン派は何とか君主制と革命とを両立させようとその後も苦心するが、国王ルイ16世とマリー・アントワネットが外国軍による解放という考えを捨てなかったこともあって、結局は、共和制(フランス第一共和政)の樹立の方向に革命が進むのを止められなかった。

 一方、脱出を手引きしたフェルセンの主君スウェーデン王グスタフ3世(前節イラスト参照)は、ドイツのアーヘンにてフェルセンからの報告を待ちわびていたが、結局、脱出成功の報を聞くことはなかった。 逆に国王一家逮捕の知らせが届いたため、グスタフ3世は直ちに亡命フランス貴族と計り、「反革命十字軍」を組織する計画を立てた。 10月1日にはロシア帝国とも軍事同盟を締結したが、最終的にはグスタフ3世が1792年3月に暗殺されるなどで実現することはなかった。 グスタフ3世の行動はかなり極端ではあったが、後の対仏大同盟の先鞭となり、ナポレオンと対峙することに成る。

 他方、すでに亡命に成功していたアルトウ伯(ルイ16世の弟、後のシャルル10世)がヴァレンヌ事件でのルイ16世の失敗を知った直後、ハプスブルク家のレオポルト2世に支援をいらいした。 彼は激しく動揺し、憤って、妹マリー・アントワネットと甥たち、すなわちフランス王室の身を案じて心を痛めた。 

 そこで彼は1791年7月5日に回状発して、ヨーロッパの君主国にブルボン家への援助を呼びかけたが、これにはイギリスはもちろん、ブルボン家の分家であったスペイン、および別の妹マリア・カロリーナの嫁ぎ先でもあったナポリ、ブルボン家の旧同盟国サルデーニャも協力を断った。ロシアのエカチェリーナ2世は反革命に協力的だったが、ちょうど卒中を起こして動けなかった。 僅かに呼びかけに応じたのが、スウェーデン王グスタフ3世と、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世で、7月25日にオーストリアとプロイセンは軍事同盟を結んだ。

 そして、1791年8月27日にアルトウ伯が、神聖ローマ皇帝レオポルト2世プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム2世を仲介し「ピルニッツ宣言」を行う。 この「必要な武力を用いて直ちに行動を起こす」という内容の宣言は、革命派には脅迫と受け取られて、実のところ国王一家の立場をより悪くしただけではあったが、フランス革命戦争への号砲となったと言える。 というのも、革命派は脅迫を受けて引き下がるどころか、逆にいきり立って戦いを望んだからである。 彼らはついには国王の断罪を求めるようになっていくため、ヴァレンヌ事件はブルボン王政の終焉を告げるきっかけともなった。

 バスチュール陥落後、同じ年の10月6日以来、暴民により強制的にパリに連れもどされた国王一族は、まるで人質のように荒れはてたチュイルリー宮に押しこめられていた。 このころ、王妃の唯一の相談役がフェルセン伯であった。 やがてヴァレンヌへの逃亡の途次、フェレセンは国王一家と別れ、その後 彼は1792年にふたたびチュイルリー訪問を決行する。 そして、それが恋人同士の最後の逢瀬である。革命の大波は怖ろしい勢いで情勢を刻々と変化させ、国民議会から憲法までは二年、憲法からチュイルリー襲撃までは二、三ヶ月、チュイルリー襲撃からタンブルへの護送までは、たったの三日間という、急テンポの進展ぶりを示したのである。 さしも勇敢なフェルセン伯も、手のほどこしようがなかった。

 事実、1792年8月、フランス革命戦争が勃発する。 パリ市内は混乱し、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。 8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される=8月10日事件=。 同年年8月13日夕刻、王室一家はペチヨンの指揮のもとに、陰鬱な要塞タンブルに送りこまれる。 ここにいたるまで、マリー・アントワネットは国民議会で、パリへ連れもどされる途中の沿道で、あるいはチュイルリー宮に乱入してきた国民軍兵士の前で、どれだけ多くの罵詈雑言を浴び、どれだけ堪えがたい屈辱を嘗めさせられたことか。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =14=

2016-06-01 17:21:23 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 亡命・逃走劇は幕開けから旋転せず・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネット王妃の実家であるオーストリアへの亡命計画は6月19日に決行される予定であったが、直前までマリー・アントワネットに振り回された。 何もかも準備は整っていたのに、彼女が革命派と考えていた小間使いが非番となる翌日まで1日延期されることになったのである。 他方、ブイエ侯爵=国境地帯の軍を管理、前節イラスト参照=は街道に配下の竜騎兵および猟騎兵部隊を配置して警護させようと考え、準備していたが、彼らは王党派というわけではなかったので兵士達には任務の内容は知らせなかった。 指揮官のショワズールは、ただでさえ秘密の保持に苦慮するところであったが、このように予定が突然変更になって部隊は右往左往することを強いられ、計画は実行前からズタズタになっていた。

 1791年6月20日の深夜、脱出計画は実行に移された。 国王一家はロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすましてパリを脱出する。 アントワネットも家庭教師に化けた。 テュイルリー宮殿を抜けだしたのは予定を二時間も遅くなっていた。 近衛士官マルデンの手引きで、幌付き2頭立ての馬車に乗って誰にも止められることなく宮殿を出ていった。 王子と王女は仮面舞踏会にいくと言い含められていたので驚いたようである。 一方、護衛を務めるショワズールとゴグラーは、この10時間前に猟騎兵を連れてすでにパリを出ていた。 

 フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。 フェルセンは御者に扮して追っ手がつかないように回り道をして北へ行く。 クリシー街のサリヴァン夫人の邸宅に着くと、ここで用意していた大型の豪華なベルリン馬車に乗り換えた。 さらに2人の従者が車後に乗った。 フェルセンは自ら手綱を操って、回り道しながら2台の馬車は北に向かった。 すでに午前3時半を過ぎていた。 

 翌21日の午前6時に侍女たちが国王一家の不在に気付いて通報したので、彼らには4時間の猶予もなかった。 急を知ったラファイエットは、国民議会と市役所に大砲を3発放たせて警報を発し、パリに厳戒態勢をしいた。 捜索隊がすぐに組織された。 怒った民衆はすぐに宮殿になだれ込んで、ルイ16世の胸像を叩き壊し、早くも退位を要求するなどいきり立っていた。 大砲の音は逃走中の馬車の中の国王の耳にも聞こえたので、彼は何通か遺書を書いたが、しばらくすると追っ手はついて来ていないことがわかり、緊張が解けた安堵から気が抜けていった。 

 パリ郊外のボンディまで来て、ルイ16世は馭者を務めるフェルセンは随行するなと命じた。 国王は、王妃マリー・アントワネットとフェルセンの関係を知っていたが、フェルセンの王家への献身ぶりは認めざるを得なかったため、王妃にもフェルセンにも何も言うことはなかったのであった。 しかし、遺書すら書き終えた国王として外国人に先導されることも、王妃と親しすぎる人物を連れて行くこともできなかったのである。 フェルセンは王妃に別れを告げて去った。 フェルセンが最後にかけた言葉は「さようなら、コルフ夫人!」だった。 一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすましていた。 コルフ侯爵夫人の役には王子たちの保母であったトゥルゼール公爵夫人がなり、その子供には王太子ルイ=シャルル王女マリー・テレーズが、旅行介添人が王妹エリザベート、デュランという名前の従僕にルイ16世が、マダム・ロッシュという名前の侍女にマリー・アントワネットが扮していた。

 その頃、ショワズールは、40名の猟騎兵とともにシャロンの町の近くのポン・ド・ソルヴェールの橋でずっと待っていたが、待てども待てども国王の馬車は到着しなかった。 何事かと訝る住民の目に晒されて、だんだん不安になったショワズールは、部隊を分散させ、街道から隠すことにした。 国王の馬車は、銀食器やワイン8樽、調理用暖炉2台など必要品をたっぷり載せ、ゆっくりとした速度で進んでいた。 国王一行がシャロンに到着したのは午後4時だった。 扮装した国王一行は安心しきっており、ここで優雅に食事をして、豪華な馬車と荷物を人々に見せびらかせて悠々と去っていった。 すぐに町中に王室一家が通過したという噂が広まった。 ポン・ド・ソルヴェールで国王は最初の護衛に会えると思っていたが、ショワズールの愚かな判断によって行き違いになった。 次のサント・ムヌウ)の町でも別の竜騎兵部隊が待っている予定であったので、国王はさらに2時間進んでこちらと遭遇することを期待した。

 しかしサント=ムヌウでも、不審な部隊を警戒した地元の国民衛兵隊300名が武装して集まってきたので、衝突を恐れた指揮官のダンドワン大尉は解散を命じて、竜騎兵たちの多くは市民と一緒に酔っぱらっていた。 よってここでも国王は護衛とは合流できなかった。 しかしダンドワン大尉は何とか国王の馬車を見つけ、彼は近寄って会釈した。 ところが運悪く、それを夕涼みに出ていた宿駅長のジャン=バプティスト・ドルーエが見ていた。 彼は大尉や竜騎兵たちが馬車の中の従僕や侍女に恭しく挨拶するのを怪訝に思った。 そこにシャロンから王室一家が通過したという噂が流れてきたので、ハッとしたドルーエは地区役所に走って、書記からアッシニア紙幣を受け取って印刷された肖像を見てみると、まさにさっきの一行の中にいたのがルイ16世であった。 彼らは馬に乗って馬車を急いで追いかけ、間道を抜けて先回りした。

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断頭台の露と消えた王妃 =10=

2016-05-24 18:38:22 | 歴史小説・躬行之譜

 その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 革命の導火線・首飾り事件・・・・・ ◆◇

 1785年、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。 ことの起こりは1772年、老王ルイ15世の愛妾であったデュバリー夫人が世界一高価なダイヤモンドをと老王にねだったことに端を発する。 デュバリー夫人の言いなりであった老王ルイ15世は、出入りの宝石商ベーメルにヨーロッパじゅうを探して、もっとも見事なダイヤを持ってくるように命じた。 荒稼ぎできると踏んだベーメルは、大いに張り切った。 そして彼は大粒ばかり600個ものダイヤを買い集め、それに糸を通してネックレスに仕立てて、老王に売りつけることを思い付いた。  こうして200万リーブル(現在のレートで20億円以上)という、値段の高さでも、趣味の悪さでも、目をむくような恐るべき装飾品が出来上がった。

 ベーメルは早速、鼻高々でベルサイユからの呼び出しを待ったが、運悪く、ちょうど老王は天然痘で急に亡くなってしまった。 ベーメルは大いに焦った。 破産の危機が目の前に迫っていたのだ。 新王となったルイ16世も、王妃マリー・アントワネットも、この”スカーフのような”外観の悪いネックレスをひどく嫌って、買い入れを拒否したのであった。 哀れなベーメルはそれから何年もの間、宮殿に何度も足を運んでは、このネックレスを必死に売り込んだ。 王妃に子供が生まれるたびに、あるいは洗礼式のたびに、王妃が気まぐれで買ってはくれまいかと、はかない望みに希望をかけた。 しかし結局、王妃は一度も気まぐれをおこすことはなかったのであった。

 さてここで二人の人物が登場する。 まずはマリー・アントワネットの少女時代、オーストリア宮廷にフランス大使として駐在していたド・ロアン枢機卿。 この男は世俗臭く、不道徳な人物で、彼の情事はヨーロッパじゅうに知らぬものとてないほど有名であった。 首飾り事件の発生前、彼は宮廷司祭長の地位にあった。 悪評にたがわず、教会の権力者として賄賂に私腹を肥やし、それをほとんど愛人のために費やしていた。 ストラスプールの名家出身の聖職者でありながら、大変な放蕩ぶりでも知られていたためアントワネット王妃は以前からこの男をひどく嫌っていていた。 しかし、ド・ロアン枢機卿もそのことを自覚するも、諦めることなくいつか王妃に取り入って宰相に出世する事を懸命に望んでいた。

 もう一人は、自称伯爵夫人のジャンヌ・ド・ラ・モット(イラスト参照)。 彼女は旧姓をジャンヌ・ド・サンレミといい、古いフランス王家のバロア家の直系子孫であるといわれていた=ブルボン家ももとをたどれば、南フランスの小貴族出身に過ぎないのでこのくらいの血筋の者はかなりいた=。 彼女の夫のド・ラ・モット伯は一文無しの陸軍将校で、伯爵の称号はひとえに女房の血筋のおかげであった。  このジャンヌ、人を説いて何でも信じ込ませてしまうという特技の持主であり、羽振りの良いド・ロアン枢機卿を騙して、大金をせしめる算段を立てた。 彼女は自分が王妃に影響力があり、したがってド・ロアン枢機卿に対する王家の人々の不興を解く力があると彼に信じ込ませるように努めた。 彼女のもの柔らかな説得は、数ヶ月も続いた。 共犯者をつかって王妃の筆跡を似せた手紙を何通も偽造し、マリー・アントワネットが枢機卿に対して、幾分心を和らげたように見せかける。 

 そうした十分な下準備の後、彼女はいよいよ大仕事に取り掛かることにした。 マリー・アントワネットに幾分似た少女を見つけ出し、枢機卿と偽王妃を、ベルサイユ宮殿内の暗い木立ちで深夜に引き会わせる手はずを整えた。 暗がりでド・ロアンが見たのは、王妃と背丈と体つきが同じのシルエットだけであった。 彼が跪いて敬礼すると、彼女(偽王妃)は一輪のバラをその手に押し付け、身をひるがえして闇の中に消えた。 枢機卿は狂喜した。 王妃は彼を許したばかりか、明らかに彼への愛情さえしめしたのだ。 年が変わった1785年1月、伯爵夫人ジャンヌ・ド・ラ・モットはド・ロアン枢機卿にマリー・アントワネットの要望として首飾りの代理購入を持ちかけた。

 伯爵夫人は、前年の夏、娼婦マリー・ニコル・ルゲイ・デシニー(後に偽名「ニコル・ドリヴァ男爵夫人」を称する)を王妃の替え玉に仕立て、ロアン枢機卿と面会させており、彼は念願の王妃との謁見を叶えてくれた人物として、伯爵夫人を完全に信用していた。 また、王妃から手渡された一輪のバラの記憶が蘇える。 だから、彼女(王妃)のためにネックレスを買って欲しいという偽手紙を受け取った時も、彼は喜んで承諾したのだ。当然このことは秘密の内に行わねばならず、買い上げの仲介人は、ただひとりの王妃とのコネクションであり、王妃の親友(と思っていた)ド・ラ・モット伯爵夫人以外には考えられなかった。 躊躇することなく、ド・ロアン枢機卿は首飾りを代理購入しラ・モット伯爵夫人に首飾りを渡した。

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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断頭台の露と消えた王妃 =09=

2016-05-22 16:25:06 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ フランス王妃として・・・・・・ ◆◇

  1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止したり、緩和させた。 しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが実施する諸変革は彼らとて 無駄だと知りながらも その実行は今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。

 こうしたベルサイユ宮中で、マリー・アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの浮き名が、宮廷では専らの噂となった。 一方では、地味な人物である夫の国王・ルイ16世を見下している王妃の言動が随所にあったという。 ただしこれはアントワネットだけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。 まして、欧州一円にその影響力をもつハクスブルグ家の王女であったアントワネットは、 大貴族達の虚言や誹りを無視しできる権勢を備えていた。 他方、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。

 彼等は宮廷を去った国王の姉・アデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。 ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。 多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。 民衆は悪政の根幹にブルボン朝の退廃を感じ取っていたのかもしれない。

 ハンス・アクセル・フォン・フェルセンは、ルイ16世の即位前の1774年1月に、仮装舞踏会でフランス王太子妃=マリー・アントワネット=に出会った。 マリー・アントワネットにとっては数多い寵臣の中の1人ではあったが、同い年ということもあって次第に親密になっていった。 フェルセンのベルサイユへの接近はスウェーデンの国益に準じたグスタフ3世の意図があった。 開明的なグスタフ3世がフランスの状況を調べるべく、若き武官をその情報収集にベルサイユに送り込んでいた。

 1774年5月に先王・ルイ15世が没すると、以前から囁かれているマリー・アントワネットとの悪い噂は終息することなく、王妃となった彼女との関係が、不穏な方向に発展するのを恐れたフェルセンは、スウェーデンに帰国していた。 グスタフ3世の訓名でアメリカ独立戦争(1776年- 83年)に参加した後の1778年に再びフランスに戻ってきた。 フランスの王室スウェーデン人連隊長に任じられての赴任であった。 その後グスタフ3世と共に欧州諸国を廻り、1785年からパリに在住することとなった。

 フェルセンは数ある結婚話を頑なに断り、王妃マリー・アントワネットただ1人に愛を注いだようである。 王妃の不幸が増せば増すほど、献身的に王妃の力となり、支え続けた。 しかしフェルセンの王妃への愛は、スウェーデンの国益に繋がりはしたが、次第にスウェーデンの国策とは異なり始め、グスタフ3世は駐仏大使となったスタール男爵に信頼を置くようになる。

 このような状況下の1785年には、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。 マリー・アントワネットに関する騒動は絶えない・・・・・・。

 

 

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断頭台の露と消えた王妃 =08=

2016-05-20 18:24:15 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ ブルボン朝王妃になる・・・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネットは、内向的な夫君・ベリー公とは正反対の気質であった。 ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、母親であるマリア・テレシアや長兄ヨーゼフ二世の善政を模した行為をなしている。 ルイ16世がブルボン王朝第五代のフランス国王に推戴されて、戴冠する二週間前の1774年4月27日に、国王ルイ15世が天然痘で倒れた。 病状が悪化して助からぬと悟った彼は、神への懺悔のために愛人デュ・バリー夫人を宮廷から立ち退かさせた。 そして、5月7日、ルイ15世は告解を行い罪の赦し受け、五月9日に64歳で崩御した。 19歳になる孫のベリー公がルイ16世として即位するのであるが、彼は「私は何一つ教わっていないのに」と嘆いたと言う。

 蛇足ながら、フランス宮廷内でのアントワネットの立場を微妙にならしめたルイ15世の愛娼デュ・バリー夫人のその後について触れておこう。 ルイ15世の看病に努めていたデュ・バリー夫人だったが、5月9日にはポン・トー・ダム修道院へ入るよう命令が出され、危篤に陥ったルイ15世から遠ざけられた。 追放同然に宮廷を追われたのである。 彼女は不遇な一時期を過ごしたが、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官などの人脈を使って、パリ郊外のルーvシェンヌに起居し、優雅に過ごすようになった。 その後はド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になった。

 デュ・バリー夫人は1789年に勃発したフランス革命により、愛人だったパリ軍の司令官ド・ブリサック元帥を虐殺された後、1791年1月にイギリスへ逃れ、当地で亡命貴族たちの援助した。 しかし 1793年3月に隠し持っていた財貨をイギリスに持ち出そうと帰国した際に革命派に捕らわれると、12月7日にギロチン台へ送られた。 この時の死刑執行人のサンソン(シャルル・アンリ・サンソン)と知己であった彼女は、泣いて彼に命乞いをした。 しかし、これに耐えきれなかったサンソンは息子に刑の執行を委ね、結局デュ・バリー夫人は処刑された。 なぜ彼女が危険を冒して帰国したのか真相は定かでないが、革命政府によって差し押さえられた自分の城=ルーヴシエンヌ城/ルイ15世の公妾になった際、下贈されていた=にしまっておいた宝石を取り返すのが目的だったという説がある。=前節イラスト参照=

 マリー・アントワネットの夫君・ベリー公が父ルイ15世の崩御の翌日(1774年5月10日)にフランス国王となり、翌年に、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行なった。 アントワネットはフランス王妃となった。 因みに、ランス大聖堂は496年、フランク王国の初代国王であったクロヴィスが、ランスの司教だったレミギウス(聖レミ)から洗礼を受けてローマ・カトリックに改宗して以来、歴代フランス国王の戴冠の秘蹟を授ける聖別式が行われるようになった。 816年にルイ1世が初めて戴冠式を行ってから、1825年のシャルル10世に至るまで、25人の王が現大聖堂で聖別を受けている。

 しかし、翌年 1775年5月、パリで食糧危機に対する暴動が起き、ヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せた。 この際、国王はバルコニーに姿を現し、民衆の不満に答えている。 アントワネットは、背後の部屋で民衆の熱気を感じていた。 彼女の体内には昼夜を言わずに 四六時中 欲求不満が蠢いていた。 ルイ14世、ルイ15世の積極財政の結果が、年若い国王夫妻を 即位直後から 慢性的な財政難に引き込んでいたのである。 ブルボン王朝はこの問題に悩まされていた。 しかし、国王夫妻にはこの問題にはあまりにも無知であった。 政局はそれにも関わらず、イギリスの勢力拡大に対抗してアメリカ独立戦争に関わり、アメリカを支援するなどしたため、財政はさらに困窮を極めていく。

 1777年4月、アントワネットの長兄が母マリア・テレジア=ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる=の意を体してウィーンから来たのである。 アントワネットは、日々の生活ぶりを 日々の不満を 母親に手紙で知らせていた。 長兄ヨーゼフ二世は義弟・ルイ16世に結婚の義務を説いたのである。 そして、ルイ16世は先天的性不能(包茎)の治療を受けた。 治療の回復後、力づけられたルイ16世は新たな勇気をふるい起して、結婚の義務の遂行にとりかかる。 こうして七年間にわたる悪戦苦闘の末に、ようやくマリー・アントワネットは母になる幸福を味わうことになった。

  「わたしは生涯において最大の幸福に浸っております」と彼女は、はじめて夫が満足に義務を果たしおえた日の翌日、母のマリア・テレシアにかき送っている。 そして、その後 長女マリー・テレーズ、長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、次女マリー・ソフィー・ベアトリス(夭折)の4人の子供(2男2女)を授る。 子供が授かってからは自分の子供らにおもちゃを我慢させるなどもしていた。 母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だった離宮(小トリアノン宮殿)を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていた。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =06=

2016-05-16 19:24:31 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 欧州一の帝国の王女・・・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュは、1755年11月2日、神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世シュテファンとオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。 ハプスブルク君主国の王女である。 欧州では並ぶことのない王族の一員である。 イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。 3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。 オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。 また、幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じるなど、自由闊達な皇室であった。

 当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレシアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。 当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。 そのため、アントーニア=マリア・アントワネット=がフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

 政略結婚の背景は、ブルボン・ハプスブルク両家の確執である。 オーストリアとフランスの対立は、15世紀にさかのぼる。 ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世ブルゴーニュの後継者マリーと結婚し、フランスを撃破したこと。 またフランス側がマリーの死後フランス王ルイ11世の扇動によりブルゴーニュ公としての権限を失った彼の娘マルガレーテ(マルグリット)を誘拐同然にシャルル8世の王妃に据えておきながら、マクシミリアン1世のアンヌ公女との再婚を阻みアンヌと結婚した上、マルグリットを人質として留め置いたこと等から、両国の確執が始まっていた。 

 15世紀末葉から16世紀にかけては、イタリア戦争においてハプスブルク家のカール5世ヴァロア家フランソワ1世が対立している。 16世紀はじめ、カール5世がスペイン王カルロスとしてハプスブルク家から迎えられ、スペイン・ハプスブルク朝が始まるとフランスとしては東西のハプスブルク勢力から挟撃される状態となって、長いあいだ両家は宿敵の関係にあった。 フランスがブルボン朝に交代してからも、17世紀後半から18世紀初頭にかけてのルイ14世の侵略戦争もハプスブルク家領を脅かしていたのである。

 従って、17世紀以来、ブルボン家(フランス)にとって最大の敵はハプスブルク家(オーストリア)と考えられていた。 そのため、フランス外交の基本路線は、ドイツやイタリアの諸国、ポーランド、スウェーデン、オスマン帝国というオーストリアに隣接する国との間で同盟関係を結び、オーストリア=ハプスブルク家を牽制し、あるいは場合によっては武力を行使するというものであった。

 「外交革命」はこうした、1世紀以上にわたって続いた国際関係の基本的枠組みに重大な変更をもたらした。そこには、植民地と貿易をめぐるイギリスとの長期にわたる対立があった。 また、プロイセンの台頭も両国にとっては懸念されるところであった。 「外交革命」後に起こった七年戦争では、ブルボン・ハプスブルクの両家が同盟関係をむすび、イギリス・プロイセンと戦ったのである。

 ここにおいて、反ハプスブルク家のもとに周辺諸国が連携するという構造は完全に崩壊した。 フランスにとって、オーストリアを挟撃するためにもポーランドは重要な友好国であったが、七年戦争後にプロイセンの主導でポーランド分割が行われるなど、従来からの国際秩序はいっそう再編が進むことになった。 そして 1770年、フランス王太子ルイとマリー・アントワネットの政略結婚が成立したのである。

 1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王国王アウグスト3世ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。 しかし、1765年にルイ・フェルディナンが死去した。 1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。 このときアントーニア=マリア・アントワネット=はまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始する。

 1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。 このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福されたのであるが・・・・・・・。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =05=

2016-05-14 20:17:47 | 歴史小説・躬行之譜

 その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 革命と狂乱の嵐の中で・・・・・・・ ◆◇

 1792年8月13日夕刻、ルイ王朝の王室一家は革命派ペチオンの指揮のもとに、陰鬱な要塞タンブルに送りこまれる。 ここにいたるまで、マリー・アントワネットは国民議会で、パリへ連れもどされる途中の沿道で、あるいはテュイルリー宮殿に乱入してきた国民軍兵士の前で、どれだけ多くの罵詈雑言を浴び、どれだけ堪えがたい屈辱を嘗めさせられたことか。 王室一家とは、国王、マリー・アントワネット、ふたりの子供、それに国王の妹エリザベートの五人である。 これまで一緒にいた王妃の親友ランバール夫人も、タンブルへの収監と同時に、彼女から引き離された。

 一ヵ月後に、ランバール夫人は暴民に虐殺され、屍体を裸にされて、パリの町中を引きずりまわされる。 槍の穂先には、血まみれの夫人の首が掲げられる。 気丈な王妃も、親友が虐殺されたというニュースを番兵から聞くにおよんで、叫び声とともに気を失って倒れた。

 逃亡事件失敗の後、ある晩に国王一家が幽閉されているテュイルリー宮殿に変装して忍び込んだフェルセンは、国王と王妃に新たな亡命計画を進言するが、パリに留まることを決意した国王から拒否されてしまう。 革命政府によって裁判にかけられるため、国王一家がタンプル塔に移送されると、フェルセンはこれを救うためあらゆる手を尽くしたが、全て失敗に終わった。 革命が激しくなると、フェルセンはブリュッセルに亡命し、ここでグスタフ3世やオーストラリア駐仏大使と共に王妃救出のために奔走した。

 しかし、国王の裁判がはじまるのは、同じ年の十二月、そしてついにルイ16世がギロチンで処刑されるのは、翌年の1月21日である。 処刑の前日、市の役人がひとりマリー・アントワネットのもとに現われて、本日は例外として家族とともに夫に会うことが許される、と伝えている。 妻、妹、子供たちは、暗い要塞の階段をおりて、国王ひとりが収容されている部屋に赴く。 最後の別れである。

 マリー・アントワネットの救出に奔走するフェルセンは亡命先のブリュッセルで、1792年3月にグスタフ3世が暗殺されたと知る。 母国・スウェーデンは革命から手を引いたことも知る。 その結果はフェルセンの政治的な失脚であった。 そして、翌年に愛するマリー・アントワネットが革命政府によって処刑されたと知った彼は、愛想のない暗い人間となり、マリー・アントワネットを殺した民衆を憎むようになったと言う。

 タンブルの獄舎で王国一家の監視に当たっていたのは、1789年の革命の立役者のなかでも最も根性の下劣な、「狂犬」と異名をとる極左派のエベールであった。  ロベスピエールサン・ジュストに告発されて処刑されるが、すでに夫を失い無力になったマリー・アントワネットに対して、執拗な脅迫を繰り返すのが彼である。

 7月3日、最愛の子供がマリー・アントワネットの手から引き離され、8月1日、彼女はついに国民公会の決定により、コンシェルジェリに移されることになる。 マリー・アントワネットは落着いて告発文に耳を傾け、一言も答えない。 革命裁判所の起訴が死刑と同義であり、ひとたびコンシェルジェリに収監されれば、そこを出てくるためには断頭台への道を通らねばならないことを、彼女はよく承知している。

 しかしマリー・アントワネットは嘆願もせず、抗弁もせず、猶予を願うこともあえてしない。 彼女にはもう失うものが何もないのである。 まだ三十八歳だというのに、髪はすでに白くなり、その顔には不安は消えて、茫漠とした無関心の表情があらわれている。 

 冒頭で記したコクトーのいうように、すでに彼女は「自分自身を使いつくして」別の女になってしまっていたのである。 王妃マリー・アントワネット、未亡人カペーは、世界中から見捨てられ、いまや孤独の最後の段階に立っている。 あとはただ、王妃にふさわしく、誇り高く立派に死ぬことが残されているのみだ。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =04=

2016-05-12 20:51:32 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ フランス革命の勃発・・・・・・・ ◆◇

 1789年7月14日、ルイ十六世はいつものように狩猟から帰ると、十時に寝てしまった。 パリから顔色を変えて注進に及んだりリアンクール公が、国王をたたき起して、次のように報告する、「バスチイユが襲撃されました、要塞司令官は殺害されました!」  「では、反乱というわけか」と寝ぼけまなこの王は、驚いて口ごもる。 「いいえ陛下、革命でございます」と使者が答えた。 これは名高いエピソードである。 王宮の中は、正しく浮世離れしていた。 しかし乍ら、ヴェルサイユ宮殿にも革命の嵐が牙を向けて来た。 

 バスチイユ陥落後、同じ年の十月六日以来、暴民により強制的にパリに連れもどされた国王一族は、まるで人質のように荒れはてたチュイルリー宮に押しこめられていた。 このころ、王妃の唯一の相談役がフェルセン伯であった。 やがてヴァレンヌへの逃亡の途次、フェルセンは国王一家と別れ、その後 1792年年にふたたびチュイルリー訪問を決行する。 そして、それが恋人同士の最後の逢瀬である。 革命の大波は怖ろしい勢いで情勢を刻々と変化させ、国民議会から憲法までは二年、憲法からチュイルリー襲撃までは二、三ヶ月、チュイルリー襲撃からタンブルへの護送までは、たったの三日間という、急テンポの進展ぶりを示したのである。 さしも勇敢なフェルセン伯も、手のほどこしようがない状況に陥る。

 1792年2月13日、フェルセンが厳重な国民軍兵士の警戒網を突破して、チュイルリー宮に王妃を訪ねてきた。 彼は、何も言わずにその一夜を王妃の寝室で過ごしたと言う。 彼は革命の嵐が何であるかを知っていたのであろう、おそらく、死と破滅の危険によって昂揚させられた恋の夜は、容易に二人のあいだの慎しみの垣根を取りはらったにちがいない。 二人が本当の、精神的肉体的にも敢然な恋人同士であったことは、この点からみても疑問の余地がないように思われる。 王妃には、ほかに寵臣がいないこともなかった。 しかし公然と印刷された愛人のリストに載っているド・コワニー公にせよギーヌ公にせよ、エステルラジー伯にせよブザンヴァル男爵にせよ、彼らは単なる一時的な遊び仲間にすぎず、平和な時代の側近でしかなかった。 彼らと異なり、フェルセンには一貫した誠実さがあった。 これに対して、王妃もまた死ぬまで変らぬ情熱をもって報いたのである。

 マリー・アントワネットの愛人と目される人物のなかで、いまだに謎につつまれているのが、アントワネットに誠を尽くした、このスウェーデンの貴族フェルセン伯である。 いったい、彼女とこの若い北国生まれの貴公子とのあいだには、尊敬以上のものがあったかどうか。 フェルセン伯の存在は長いこと世間の口にのぼらなかったが、彼が王妃の信頼と愛情を一身にあつめていたことは、彼の妹のソフィや父元帥に宛てた手紙からも窺い知られよう。 王妃の側近と目されていた連中がすべて彼女を残して去った後も、危険を冒して彼女に近づき、血なまぐさい動乱の最中、ヴェルサイユやチュイルリーの一室で親しく彼女と謀議をこらしたり、ヴァレンヌへの逃亡を共にしたりしたのが、このフェルセンという勇敢な男であった。

 不幸とともに、この軽はずみな王妃の内面生活に、ひとつの新しい時期がひらけたのであろう。 喜劇が悲劇に変ったのである。 彼女は、いわば世界史的な自己の役割を認識し、自覚するのである。 フェルセンが全身全霊で教えて行く。 「不幸のなかにあって初めて、自分が何者であるかが解ります」と彼女は手紙に書いている。 今まで人生と戯れていた彼女が、運命の過酷な挑戦を受けて、人生と戦いはじめたのである。 チュイルリー宮で反革命の外交交渉にみずから乗り出した彼女は、もうすでに、遊びやスポーツにうつつを抜かしていたころの彼女ではなかった。 わきへ押しのけられた弱虫の夫に代って、彼女は外国の使臣と協議し、暗号文をつづって手紙を書き、はては怪物オレーノ・ミラボー伯を引見して、君主制維持の陰謀をめぐらすのである。

 フェルセン伯は、フランス革命勃発直後、スエーデン王・グスタフ3世はフェルセンを革命阻止のためにスパイとしてヴェルサイユに送り込まれていた。 彼は騎士である。 フランス国王一家が窮地に立たされると、フェルセンは亡命を勧め、革命勢力からの脱出の手引きを試みた。 俗に言う「ヴァレンヌ事件」である。 彼は各地の王統はと連絡を取り合い、綿密に計画を立て、国王一家の脱出のために超人的な行動をした。 しかし実行は1ヶ月以上も遅れ、1791年6月20日、国王一家はチュイルリー宮殿を後にした。 

フェルセンは御者に扮して追っ手がつかないように回り道をして北へ行き、パリ郊外まで来たが、ルイ16世がフェルセンの同行を拒否したため別れることとなった。 ルイ16世は、王妃マリー・アントワネットとフェルセンの関係を知っていたが、フェルセンの王家への献身ぶりは認めざるを得なかったため、王妃にもフェルセンにも何も言うことはなかったという。 結局国王一家の逃亡は露見し、亡命は失敗に終わった。 逃亡する国王一家にフェルセンが最後にかけた言葉は「さようなら、コルフ夫人!」だった=一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすましていた=。 ・・・・・このような経緯を経て、人生と戯れていたマリー・アントワネットが、運命の過酷な挑戦を受けて、人生と戦いはじめたのである。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =03=

2016-05-10 10:29:41 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 首飾り事件がアントワネットへの反感を招く・・・・・ ◆◇

 首飾り事件は、典型的なかたり詐欺である。 ラ・モット伯爵夫人はこの首飾りの詐欺を計画した。 宝石商シャルル・ベーマーとそのパートナーであるポール・バッサンジュは、先王ルイ15世の注文を受け、大小540個のダイヤモンドからなる160万リーブル金塊1t程度に相当するが、現代日本円の感覚ではおよそ30億円)の首飾りを作製していた。 これはルイ15世の愛人デュ・バリー夫人のために注文されたものだったが、ルイ15世の急逝により契約が立ち消えになってしまった。

 高額な商品を抱えて困ったベーマーはこれをマリー・アントワネットに売りつけようとしたが、マリーは高額であったことと、敵対していたデュ・バリー夫人のために作られたものであることから購入を躊躇した。  そこでベーマーは王妃と親しいと称するラ・モット伯爵夫人に仲介を依頼した。

 1785年1月、伯爵夫人はロアン枢機卿にマリー・アントワネットの要望として首飾りの代理購入を持ちかけた。伯爵夫人は、前年の夏、娼婦マリー・ニコル・ルゲイ・デシニー(後に偽名「ニコル・ドリヴァ男爵夫人」を称する)を王妃の替え玉に仕立て、ロアン枢機卿と面会させており、彼は念願の王妃との謁見を叶えてくれた人物として、伯爵夫人を完全に信用していた。 ロアン枢機卿は騙されて首飾りを代理購入しラ・モット伯爵夫人に首飾りを渡した。

 その後首飾りはバラバラにされてジャンヌの夫であるラ・モット伯爵(及び計画の加担者達)によりロンドンで売られた。 しばらくして首飾りの代金が支払われないことに業を煮やしたベーマーが、王妃の側近に面会して問い質した事により事件が発覚した。 同年8月、ロアン枢機卿とラ・モット伯爵夫人、ニコル・ドリヴァは逮捕された。ラ・モット伯爵夫人はこの時、ロアン枢機卿と懇意であったが事件とは無関係とされる医師(詐欺師)カリオストロ伯爵を事件の首謀者として告発し、カリオストロ伯爵夫妻も逮捕された。 なおラ・モット伯爵はロンドンに逃亡して逮捕されなかった。

 事件に激昂したマリー・アントワネットは、パリ高等法院(最高司法機関)に裁判を持ちこんだ。 1786年5月に判決が下され、ロアン枢機卿はカリオストロ伯爵夫妻、ニコル・ドリヴァとともに無罪となり、王妃と愛人関係にあると噂されたラ・モット伯爵夫人だけが有罪となった。 彼女は「V」の文字を両肩に焼き印されて投獄された。この裁判によりマリー・アントワネットはラ・モット伯爵夫人と愛人関係にあるという事実無根の噂が広まった。 伯爵夫人はこの虚偽の醜聞をもとに後に本を出版し金銭を得ている。

 この事件の直後、王妃が劇場にすがたをあらわすと、はげしい舌打ちが観衆のあいだから一斉に起り、それ以後彼女は劇場を避けるようになったといわれる。 積りに積った市民の怒りが、たったひとりの人物に向って叩きつけられる。 正面攻撃に晒されるのは、お人好しの国王ではなくて、「彼の鼻先をつかんで引きまわしているオーストリアのふしだら女」なのだ。  王妃はついにたまりかね、「あの人たちはわたしから何を要求しているのでしょう?私があの人たちに何をしたというのでしょう?」と、側近の者に絶望の溜息をもらすまでになった。

 しかし彼女には、歴史の趨勢を理解する能力もないし、理解しようという意思もない。 二千万のフランス人に選ばれた代議士たちを、彼女は「狂人、犯罪者の集団」と呼び、民衆のデマゴーグに対しては、ありったけの憎悪を傾ける。 最初から最後まで、彼女は革命というものを、低劣きわまりない野獣的本能の爆発としか考えないのである。

 政治的にごく視野の狭い彼女は、明日のパンに困っている人間が存在するということさえ、ついぞ念頭にはのぼせなかった。 フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと言う。=ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもあるが、その詳細は後節に記述= そもそも世界の悲惨を知らないでいたればこそ、あのように繊細優美なロココの小宇宙に君臨することもできたのである。

 今やこの小宇宙もシャボン玉のように砕け、嵐が目前に迫っている。 運命の無慈悲な意志は、歴史上最も波瀾に富んだ事件の渦中に、戸惑っている彼女を突き落とす。…

 

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断頭台の露と消えた王妃 =02=

2016-05-08 17:06:00 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 欧州一の皇族・ハプスブルグ家の皇女としての奔放さが・・・・ ◆◇

 マリー・アントワネットの鬱積した欲求不満の結婚生活の一方、夫君である国王ルイ16世のふしぎな道楽といえば、錠前仕事と狩猟をすることで、専用の鍛冶場で黙々と槌をふるったり、獣を追って森を駆け抜けたりするのが、彼にとって何よりの幸福であった。 派手好きな妻とは趣味が合わないが、彼は妻に対して男性としての引け目を感じているので、まったく頭が上がらない。 生まれつき鈍感で、不器用で、優柔不断で、いかなる場合でも睡眠と食欲を必要としないではいられない彼は、およそ繊細とか、敏感とかいった気質と縁がない。 つまり、妻とは正反対の気質の持主である。 といって、夫婦のあいだに風波が起ったということは一度もなく、この二人は子供こそないが、まことにのんびりした、平和な夫婦であった。

 後節で詳細を記述するが、マリー・アントワネットは神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生している。 ドイツ語名名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。 幼少時からイタリア語やダンスを習い、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラサンなどの演奏を得意とする活発な王女である。 3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かったと言う。 オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。 寛大な皇帝の庇護の下、幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じて楽しむ皇室でのびのびと育った皇女であった。

 フランス国王ルイ16世と結婚した後に、マリー・アントワネットの兄ヨーゼフ二世がひどく心配し、ウィーンからパリにやってきて、国王ルイ16世に勧めたのが外科手術だったと伝えられる。 その結果、力づけられた王は新たな勇気をふるい起して、結婚の義務の遂行にとりかかる。 こうして七年間にわたる悪戦苦闘の末に、ようやくマリー・アントワネットは母になる幸福を味わうことになった。  「わたしは生涯において最大の幸福に浸っております」と彼女は、はじめて夫が満足に義務を果たしおえた日の翌日、母のマリア・テレシアにかき送っている。

 ロココの王妃がトリアノン小宮殿の別荘で贅沢な祝典に明け暮れしているあいだ、彼女の知らない外部の世界では、次第に新しい時代の動きが準備されつつあった。  緊迫した時代の雷鳴が、パリからヴェルサイユの庭園はとどろきわたるころになっても、彼女はまだ仮面舞踏会をやめようとしない。 時代の空気をよそに、相変わらず享楽生活をあきらめず、国庫の金を湯水のように蕩尽する彼女に対して、避難攻撃の声が高まりはじめたのである。

 オルレアン公の庇護のもとにパレ・ロワイヤルルーヴル宮殿の北隣に位置する。もともとはルイ13世の宰相リシュリューの城館)に集まった改革主義者、ルソー主義者、立憲論者、フリー・メイソンなどといった不平分子たちのあいだに、活発な啓発運動、社会改革を意図する挑発的なパンフレット活動が開始される。 フランス王妃は「赤字夫人」と渾名され、卑しい「オーストリア女」と蔑称され始めた。

 アントワネット王妃自身、自分の背後で悪意のこもった陰謀がたくらまれていることを、はっきり感じ取ってはいるものの、生まれつき物にこだわるということを知らず、ハプスブルク流の誇りを片時も忘れたことのないマリー・アントワネットは、これら一切の誹謗やら中傷やらを、十把一からげに軽蔑するほうが勇気ある態度だと信じている。 王妃の尊厳が、のパンフレットやら諷刺小唄などで傷つけられるはずはないと高をくくっている。 誇り高い微笑を浮かべて、彼女は危険のそばを平然と歩み過ぎるのだった。

 市民の王妃に対する反感をいやが上にも煽り立てる原因の一つとなったのは、有名な「首飾り事件」であった。次節是その詳細を記述べるが、この馬鹿馬鹿しい詐欺事件に、王妃は実際何ひとつ責任がなかったのである。 がしかし、 少なくとも王妃の名のもとに、このような犯罪が行われたという事実、そして世間がこれを信じて疑わなかったという事実は、拭い去ることのできない彼女の歴史的責任といえよう。 トリアノン小宮殿における長年の軽率な愚行が世間に知られていなければ、詐欺師たちといえども、こんな大それた犯罪を仕組む勇気はとてもなかったにちがいないからである。

 この詐欺事件によって、旧制度の醜い内幕が一挙にあばき出されることになった。 市民たちは初めて、貴族と呼ばれる連中の秘密の世界をのぞき見ることになった。 パンフレットがこんなに売れたこともなかった。 「首飾り事件」は革命の序曲である、といった史家もいるのである。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =01=

2016-05-06 17:05:34 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎  ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 最も洗練された、享楽的な貴族文化の絶頂期の王妃 ◆◇

 「マリー・アントワネットについて考えるとき、首を斬られるということは、極端な悲劇的な意味をおびる。 幸運な時期における彼女の尊大な軽薄さは、事情がやむをえなくなったとき、不幸を前にした崇高な美しさと変る。 儀礼の化粧をほどこした心ほど、品の悪いものはない。 舞台が変り、喜劇が悲劇になったとき、宮廷の虚飾によって窒息させられた魂ほど、気高いものはない。」と、詩人ジャン・コクトーマリー・アントワネットの肖像を、短い言葉で的確に、描き出した。 

 続けて、「彼女の歯の浮くような名門意識が、フーキエ・タンヴィルの裁判所では、そのまま彼女の役割に天才の輝きを添える。 彼女の白くなった捲毛には、もう尊大な風は見られない。 一人の侮辱された母親が、反抗を試みるだけである。 彼女の言葉は、もう自尊心によってゆがめられることがない。 口笛で弥次られ通しのこの女優は、まことに偉大な悲劇役者となって、見物席の観衆を感動させるのだ。」

 更に、「女王の最良の肖像画は、むろん、ダヴィッドによって描かれた、荷車のなかに座って刑場に赴く彼女のそれである。 彼女はすでに死んでいる。 サン・キュロットたちが断頭台の前につれて行ったのは、彼女ではない別の女である。 羽飾りや、ビロードや、繻子や、提灯などのいっぱい入った箱の下に身をかくし、自分自身を使い果たしてしまった別の女である。」

 たしかにコクトーのいう通り、幸運な時期における誇り高い「悪女」が、心ならずも歴史の大動乱に捲きこまれ、思ってもみなかった数々の試練を受けることによって、悲劇の女主人公に転身してゆく過程は、きわめて感動的である。 平凡な人間が、運命のふるう鞭に叩かれ、歴史の悪意に翻弄されて、その運命にふさわしい大きさにまで成長してゆく過程を、このマリー・アントワネット劇ほど、みごとに示してくれるものはないであろう。

 たしかにコクトーのいう通り、幸運な時期における誇り高い「悪女」が、心ならずも歴史の大動乱に捲きこまれ、思ってもみなかった数々の試練を受けることによって、悲劇の女主人公に転身してゆく過程は、きわめて感動的である。 平凡な人間が、運命のふるう鞭に叩かれ、歴史の悪意に翻弄されて、その運命にふさわしい大きさにまで成長してゆく過程を、このマリー・アントワネット劇ほど、みごとに示してくれるものはないであろう。

 オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘として、爛熟したロココ時代のフランス宮廷に輿入れした彼女は、その軽佻浮薄な精神、贅沢好き、繊細、優雅、コケットリーの誇示によって、十八世紀のロココ趣味の典型的な代表者となった。 大きな不安を目前に控えた、この十八世紀末の束のまの一時期こそ、最も洗練された、享楽的な貴族文化の絶頂期といえよう。 そして彼女の態度、容貌、生活そのものが、まさに完璧に時代の理想を反映していたのだ。

 マリー・アントワネットは自分の好みにしたがって、ヴェルサイユ庭園の片隅に、小さな独自の王国を築き上げた。これが名高いプチ・トリアノンの別荘で、フランスの趣味がかつて考案したうちでも最も魅惑的な建物の一つである。美しい女王にふさわしく、極度に線が細く、うっかりすれば崩れそうな繊細巧緻な趣きは、小さいながら、この別荘をロココ芸術の精髄たらしめている。 マリー・アントワネットはここで仮面舞踏会を催したり、芝居を演じさせたり、さては、池や小川や洞窟や、農家や羊小屋さえある牧歌的なその庭で、若い騎士たちとかくれんぼをしたり、ボール投げをしたり、ブランコ遊びをしたりして、ひたすら気ままに遊び暮らすのである。

 ヴェルサイユから馬車を駆って、お気に入りの扈従ともども、夜ごとにパリの劇場や賭博場へ出かけては、空の白むころにやっと戻ってくるようなこともしばしばであった。 衣裳やら、装身具やら、宝石やらに用いる金はおびただしく、ために借金は嵩み、賭博によって補いをつけなければならなかったのだ。 警察は王妃のサロンへは踏みこめない。 それをよいことに、王妃の仲間はいかさま賭博をしているという、不名誉な噂が巷間の話題になった。

 たえず何ものかに急《せ》きたてられるように、次々と遊びを変え、新しい流行に飛びついてゆく彼女の気違いじみた享楽癖は、いったい、どういう性格上の理由によるものだったろうか。 宗教心あつい厳格な母親からの警告を聞いて、マリー・アントワネット自身は次のように率直に答えている。すなわち、「お母さまは何をしろとおっしゃるのでしょう。 わたしは退屈するのが怖いのです。」と。

 この王妃の言葉は、十八世紀末の精神状態を見事にいいあらわしている。 崩壊一歩手前で休らった、革命前の貴族文化にとっては、すべてが充足しているという、退屈以外のいかなる精神も見出せないのである。 内面的な危機から免かれるために、ひとびとは決して終らないダンスを踊りつづけなければならなかったのである。

 それに、マリー・アントワネットの場合には、不自然な結婚生活という、特別な理由が加わっていた。 天下周知の事実であるが、彼女の夫であるルイ十六世は、一種の性的不能者で、結婚以来七年ものあいだ、その妻を処女のままに放置しておいたのである。 このことが、マリー・アントワネットの精神的成長におよぼした影響は、決して軽々に看過すべきではなかろう。

 彼女が次々と快楽を追う気まぐれな生活のうちに、怖ろしい退屈を忘れなければならなかったのも、ひとつには、むなしく刺激を受けるだけで、一度たりとも満足させられたことのない、幾年にもわたる夜のベッドの屈辱の結果であった。 最初は単に子供っぽい陽気な遊び癖であったものが、次第に物狂おしい、病的な、世界中のひとびとがスキャンダルと感じるような享楽癖と化してしまい、もうだれの忠言も、この熱病を抑えることは不可能となってしまうのである。

 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =25=

2016-05-02 16:09:12 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ メアリーの処刑 ◆◇

 1586年10月15日、フォザリンゲイ城で、スコットランド女王であったメアリー・スチュアートをイングランド女王にたいする反逆罪で裁く裁判がはじまった。 メアリーは、尋問にたいして命乞いをすることもなく、「わたしに責任はない」と毅然として答えたという。 10月25日、枢密院の裁判所――スター・チェンバー裁判所――に、枢密顧問官たちが緊急に招集された。 会議は、メアリーへの判決を下すためのものだった。

 会議の結果は、枢密院の全会一致で、メアリーを反逆罪で死刑にするというものだった。 そのときのメンバーのひとりは、メアリーを「反乱の娘、謀反の母、不信の乳母、邪悪な小間使い」と、あらんかぎりの言葉で非難したという。 あとは、エリザベスが死刑執行の令状にサインするだけだった。 しかし、彼女それに躊躇し、なかなかサインをしなかった。 一方メアリーは、「いつでもカトリックに殉教する覚悟ができている」という手紙をエリザベスに書き送ったという。
 
 1587年1月、バビントン事件から半年がたったころ、またしてもメアリーのかかわったエリザベス暗殺の陰謀が噂された。 巷では、「メアリーが脱獄し、スペイン軍がウェールズに上陸したらしい」というような、まことしやかな流言まで飛びかっていた。 枢密顧問官たちは、もうこれ以上待てなかった。 彼等は、エリザベスにサインをするように迫った。  1587年2月1日、エリザベスはついに処刑命令書にサインする。 ついにエリザベスはメアリーの死刑執行令状にサインをしたのである。 それでも彼女は、「死刑執行はしばらく待つように」と言いそえたという。

  罪人の処刑は、公開が原則だった。 しかしエリザベスは、「従兄の娘を公衆の面前で処刑した」という避難が自分に向けられるのではないかと恐れた。 死刑執行令状にサインをした自責の念もないわけではなかった。

  そこでエリザベスは、メアリーを非公開でひそかに処刑することも考えた。 しかし、メアリーの監視役で厳格なプロテスタントだったサー・エイミアス・ポーレットは、その考えをはねつけた。 それでは、カトリックと反エリザベス勢力への見せしめにはならないし、違法である、と主張したのである。 枢密院が待つのも限界に達していた。 メアリーが生きている以上、次に何がくわだてられるか、分からなかったからである。  死刑執行令状には女王のサインがある。 それで十分である。 ほかに何が必要なのか。 エリザベス女王の令状は、女王が署名したその一週間後 裁判がはじまって以来メアリーが囚われていたフォザリンゲイ城へと送られた。
 
 令状をもった使者が城に着いたのは、2月7日の夕方だった。 19年のおよぶ歳月が、メアリーからかつての美貌を奪っていた。 中年太りで崩れた体を深紅のドレスで包み、白髪を金髪のカツラで隠していた。 しかし、稀に見る往年の気品ある美しさがにじみ出ている。 そして、メアリーの処刑は翌朝8時、場所は城の大広間ときまり、すぐにその準備がはじまった。  大広間の中央には、黒い布でおおわれた処刑台がしつらえられた。 その上には、木の台が置かれた。 首をのせる断頭台だった。 そのそばには、斧も用意された。

2月8日の朝は、真冬にしてはめずらしく日が射していた。 フォザリンゲイ城の大広間には、大勢の見物人がつめかけていた。 その数は、3百人にのぼったという。 8時になったとき、役人に連れられて、黒のサテンのコートを羽織り、白の髪飾りとヴェールをつけたメアリーが現われた。 はじめて見るスコットランドの女王に、見物人たちは息をのんだという。 メアリーは、噂どおりに背がたかく、気品にみちていた。 髪の毛は、燃えるような赤毛で美しかった。

ざわめきのあと、静けさと真冬の冷たい空気が、大広間を支配した。 役人がメアリーの死刑執行令状を読みあげた。 彼女は黙ったままだった。 ピーターバラ大聖堂の首席司祭が、メアリーに彼とともに祈るようにといった。  しかしメアリーは、よくとおる声で、「古代ローマの教えカトリックに身を置いてきたわたしの血は、その教えを守るために流される」といい、プロテスタントの司祭を無視した。 それでも司祭は、彼女を説き伏せようとした。 しかし、それも無駄だった。 メアリーは、ひとり静かに祈りはじめた。

ひとしきり祈ったあと、メアリーはコートを脱ぎはじめた。 侍女たちがそれを手伝った。 下は、真っ赤なペチコートだった。 彼等の前で、メアリーは舞台に立つ女優のように軽やかに足を進めた。 メアリーは、白い布で目隠しをされた。 そこには、金糸の刺繍模様がついていた。  彼女は膝まづくと、断頭台に首をのせ、それから静かに目を閉じた。

 

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王妃メアリーとエリザベス1世 =24=

2016-04-30 17:17:36 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 二人の女王の闘い ◆◇

 1586年10月15日、フォザリンゲイ城で、スコットランド女王であったメアリー・スチュアートをイングランド女王にたいする反逆罪で裁く裁判がはじまった。 メアリーは、尋問にたいして命乞いをすることもなく、「わたしに責任はない」と毅然として答えたという。 10月25日、枢密院の裁判所――スター・チェンバー裁判所――に、枢密顧問官たちが緊急に招集された。 会議は、メアリーへの判決を下すためのものだった。

 1560年に、亡命先のフランスで結婚したフランソワ2世が16歳で病死した。 子供ができなかったメアリーは、翌年にスコットランドに帰国した。 メアリーは父の庶子で異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問とてスコットランドの王冠を頂いた。 しかし、当時のスコットランドは宗教改革が進み、多くの貴族がプロテスタントに改宗していたが、カトリックを信奉する貴族も相当数残っていた。 マリ伯とメイトランドはともにプロテスタントであったが、メアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を図った。 しかしながら、1562年の夏には、カトリック貴族では最有力のゴードン家がメアリーに反乱を起こした。 

 スコットランド領内は乱れた。 メアリー政権を担うマリ伯はイギリスに支援を求めて鎮圧に向かうが戦いに敗れ、 メアリー女王は捉えられた。 メアリーはロッホリーヴン城に軟禁され、廃位を強制される。 王位を剥奪されたロッホリーヴン城を脱失したメアリーの逃亡の生活が始まったのだった。  メアリーが、マリ伯のように再起を図るためにエリザベス1世を頼って来たのなら、まだいい。 かつての宿敵同士であろうとも、利害が一致して共同戦線を張ることなど政治の世界ではありふれている。 

 しかし、窮地に立った血縁のメアリーに対して、「生意気なスコットランド人を懲らしめるのも悪くはない」と エリザベスは思っていたのであろう。 もしメアリーが復位を図るなら、大貴族たちと結束してフランス側につくと、エリザベスを脅し、領内動乱の鎮圧に援軍を要請することもできたはずである。 しかし、君主であるにもかかわらず、女だと言う理由でメアリーに加えられた屈辱。 反乱軍に捕えられたメアリーが、晒し者のようにエジンバラを引き回され、「売女」と罵倒された事実。 女であるが故に耐えねばならなかったメアリーの悲しみを思う時、エリザベスは生理的に激しい怒りを覚えた。 エリザベス自身も即位したての頃、群臣たちの「女だか・・」という嘲笑の視線を忘れていない。

 他方、スコットランドを脱出したメアリーは、ここに来て、忘れていた怨みを~メアリーがフランスから故国へ帰るきっかけとなった先祖代々の英国への怨みを~  思い出したのである。 そしてスペイン.フランス、果ては英国内の大貴族たちにまで、自分との結婚話を餌に、エリザベスを打倒するよう手紙をばらまいていたのだ。 エリザベスの足下で・・・・・・。  以降20年、メアリーは事あるたびに、エリザベス暗殺の計画に首を突っ込んで来た。

  しかしながら、当然全部筒抜けであった。 メアリーが亡命してきた年の翌年1569年に起きた北部諸侯の乱でも、メアリーは一枚噛んでいた。 本来のエリザベスなら、ただちに抹殺していただろうが、首謀者のほとんどが大陸に亡命し、腹いせに貧しい兵士700名を虐殺しただけでメアリー自身はおとがめ無しの処理で終えている。  メアリーが血の繋がりがあるエリザベスを憎むようになったのは、理由がある。 それは長年に渡って拒否してきたエジンバラ条約の承認であった。

 =1、スコットランドの新教徒の信仰の自由を認める
 =2、ジェームス(メアリーとダーンリー卿ヘンリーとの一子)を次期英国王として、エリザベスに養育させる
 =3、エリザベスと、その正式な結婚から産まれた子が生存している間は王位を請求しないこと

メアリーはスコットランド王位を奪回するために、エリザベスの突き付けた全ての条件を飲んだのだ。 しかし、にもかかわらず、土壇場でエリザベスはメアリーを裏切った。 というか、そうせざるおえない苦境にエリザベスは陥ったのである。 メアリーの復位に対し、スコットランドの親英国派豪族が一斉にフランスへ寝返る危険性が生じたのだ。 スコットランドの親英国派工作は、父ヘンリー8世の時代から着々と積み上げられて来た成果である。 それをメアリー1人のために崩壊させるのは、国益に反していた。 エリザベスは、1人の女としては、メアリーを哀れみつつ、1人の政治家として切り捨てざるをえなかったのである。

 そうした罪悪感もあって、エリザベスはぎりぎりまでメアリーを許して来た。 しかし、国内の政治状況が、もはやメアリーを許さなかった。 我が身に脅威を感じた英国大貴族が、エリザベス暗殺が現実になった時、自らの手でメアリーを殺すことを誓った「一致団結の誓約書」を取り交わした。 スペインの軍事的脅威も現実のものとなりつつあった。 議会は後顧の憂いを絶つために、メアリーの処刑を可決した。 再びエリザベスは、政治家として、苦渋に満ちた(おそらくその人生においてもっとも辛い)決断を下さねばならなかった。

 「メアリーをこの手で、殺さねばならない」

 考えてみれば、自分が裏切った相手が、こちらを恨んでいるという根拠で抹殺するほど卑怯なことはないだろう。 この決断を下すまで、エリザベスは1人寝室で荒れ狂い咆哮したと言う。 しかし決断した。 そこにこそ、エリザベスが不出世の政治家である理由があった。

 メアリーにも希望は残されていた。 ただ「待てば」よかったのだ。 誰の目にも、次期王位継承者はジェームス以外にいなかった。 メアリーは黙って待ちさえすれば、いつか息子が英国に来て、母を解放するはずだった。 だが、メアリーは待てなかった。


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