真夜中の2分前

時事評論ブログ
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防塁の石

2015-08-30 21:57:08 | 政治・経済
 今日、8月30日は、全国100万人行動として、国会前をはじめとして全国で安保法制に反対する抗議行動が行われた。これに呼応して福岡県でも各地で集会などが行われたが、私も福岡市中心部の天神で行われた集会に参加した。その様子を報告する。

 私の把握できたかぎりでは、天神では昼ごろと夕刻の二つの集会が行われていた。
 まず、昼に中央公園で行われていたのは、「安保法案に反対するママの会」など女性中心のグループによる集会。



 私は時間の都合のために途中で抜けなければならなかったが、子供連れのママたちも多く、「手のひらを太陽に」などの歌を歌いながらの集会・パレードとなったようだ。

 そして、夕刻に警固公園で行われた集会。



 今回は、かなりの人が集まっていたようだ。いろいろなアングルで画像を撮ってみたが、どうしても全体像を収めることができない。


 
 実際には、これらの画像で見た感じよりもかなり多くの人がいるものと思っていただきたい。



 主催者発表では350~400人ということだが、おそらくこれはデモで数えた人数だろう。縦列で進むデモは人数をカウントしやすいために、この手の集会の参加人数はだいたいデモのときにカウントしているようだが、集会に参加してもデモには参加しないという人もいる。こうした集会に慣れていない人ほどその傾向は高いと思われ、それを踏まえて考えれば、デモでカウントした数字よりも集会の参加人数はかなり多いと思われる。私の感覚では、これまでに参加した中でもっとも多かった集会よりも多くの人がいるように見えた。もしかすると、主催者発表の倍ぐらいいるのかもしれない。



 今回もさまざまな人がリレートークを行った。
 ある男性は、イラクがかつてはアメリカの支援を受けていながら、やがてアメリカに攻撃されて体制が崩壊した事例を挙げて「いくらアメリカに協力しても、都合が悪くなればいつでも切り捨てられる」と喝破した。
 また、福岡で牧師をしているという男性は、みずからがイラクに赴いたときに「非武装地帯」を設定することで自分たちの身を守ることができた経験から、「非武装こそ、もっとも現実的・効果的な安全保障である」と訴えた。
 ほかにもさまざまなスピーチがあったのだが、ここで、筑紫野市からきたという一人の男性の話をとりあげたい。
 筑紫野市からやってきたというその男性は、みずからを「防塁の一つの石」としてた。筑紫野市のあたりには、かつて「水城」と呼ばれる防塁があり、それにちなんで、みずからをその防塁を構成する石の一つになぞらえたのだった。そして、驚くべきことだが、筑紫野市から十数キロの道のりを歩いて天神までやってきたのだという。小さな「一つの石」だが、その「一つの石」としての矜持と強い決意を示すためであろう。その行動に、敬意を表したい。
 天神まで歩いてくる途上、彼は春日市で小規模な集会にも参加したという。その集会には数十人の人が集まっていたが、彼らに天神での集会に参加するかと尋ねたところ、参加できないとする人も少なからずいた。そこで彼は、その集会に集まった人たちの声を自分が天神に届けるとスピーチし、そのメッセージとともにやってきたのである。みずからの足で歩くというその行動によって、彼は遠く離れた二つの集会をつないでくれたのだった。

 ここでついでに、地方での小さな集会の話をもう一つ。
 こちらは、私自身が遭遇した、8月28日福岡県小郡市での集会である。



 小郡市というのは、福岡県南部に位置するごく小さな町だが、この小さな町でも、数十人規模で集会が行われている。



 このような規模の集会はメディアでは取り上げられず、そのため把握することも不可能なのだが、おそらくこういった小規模ものも含めると、全国各地ですさまじい数の抗議集会が行われているはずである。それら一つ一つが、防塁を形作る石なのだ。
 一つの石だけでは何も防ぐことはできないだろうが、それらが幾重にも積み重なれば、侵しがたい防塁となる。そのように、一つ一つの動きは小さくとも、それらをつなげていけば、簡単には崩されない壁となるだろう。今日国会ではおよそ12万人が集まったというが、全国各地の声を集めれば、さらにその数倍の人々が安保法案反対の声をあげている。そしてその背後には、デモには参加していない、したくでもできない、さらに数倍、数十倍の人々がいる。私たちはまだ、だれ一人としてあきらめていない。これからも安保法案廃案にむけて行動を続けるし、たとえ再び強行採決されたとしても、それで終わるつもりもない。そこからまた新たな戦いがはじまるということを私たちは知っているし、その覚悟もすでにできている。その強い意志を束ねて、憲法の平和主義と民主主義を守る揺らぐことのない防塁を築き上げていこう。

ミサイル迎撃について

2015-08-28 17:51:20 | 政治・経済
 先日コメントをいただいたので、その回答を書いておきたい。
 やや長いコメントなので全文は掲載しないが、要約すると、以下のようになるだろう。ミサイルの種類には違いがあり、ミサイル防衛中のイージス艦は、自分自身を某業する能力が低下する、また、日本に飛んでくるミサイルと艦隊などを攻撃するミサイルは種類がちがい、この二種類の攻撃への対応を同列には扱えない――

 ミサイルについての説明には、たしかに不正確な部分がいくつかあった。その点については、私の不勉強と恥じ入るよりほかない。もとより私は軍事の専門家でもなんでもないので、ミサイルの種類などについての詳細な知識は持ち合わせていない。大局的な防衛資源全体という観点からすれば必ずしも間違ってはいないと思うが、ミサイルの迎撃に関する具体的な説明が不正確であったことは認めたうえで、ここで訂正しておきたい。
 ただし、そのことだけでは話の大枠は変わらない。日本が攻撃されている事態であればそれは個別的自衛権の範疇に入るし、そうでないのなら政府与党が安保法制について説明する際にもちだす「日本の自衛のため」という前提が崩れる――これは、ミサイルの種類云々とは関係がない。菅長官らの説明が非常に恣意的であるという点については、訂正する必要はないと考える。

 そして、イージス艦のミサイル迎撃能力について。
 今回少し調べてみたところ、イージス艦は自艦を防護する能力も十分に持っているとする説もあるそうだが、いずれにせよ、そのような脆弱性があるなら米軍内部でそれをカバーするような編成になっているのではないか? もし日本に対する攻撃に対して米国のイージス艦が対応し、そのイージス艦を北朝鮮が攻撃するとしたら、米側は北朝鮮と交戦状態に入ったとみなして本格的に応戦するだろう。そもそもそれ自体かなり非現実的な想定だと思うが、もしそうなったとしたら、自艦防護能力が低下しているイージス艦をサポートするぐらいのシステムは米軍側ももっているだろう。無論、そこをさらに強化するために日本の自衛隊と連携すべきだという主張であろうが、その次元の話になると、私は同意できない。米軍と一体化することが日本の安全保障にとってよいことだとは考えないからだ。
 さらにもう一点。どこかの国が弾道ミサイルを何発も発射して、それをイージス艦などの迎撃システムが次々と撃ち落し、そのイージス艦を敵国の艦船が攻撃する――というような事態は、ただの武力衝突ではない。かなり大規模な“戦争”である。私の知る限り、お互いにそのような近代兵器を駆使する戦争が起きたことは、これまで世界のどこの国家間にもない。したがって、そのような戦争について描かれる戦略というのは、あくまで机上のシミュレーションでしかない。もし実際そういう戦争が起きたら、それは人類がかつて経験したことのない未曾有の事態である。いかなる経験則も存在せず、シミュレーションどおりに事態が動くかどうかはわからないということにも留意しておくべきだろう。
 “未曾有の大戦争”ということでいえば、かつての二度の世界大戦がそういう例だっただろう。
 各国は、それまでの軍事の常識にしたがって、さまざまに戦略・戦術をたて、新たな兵器を作っていた。だが、その結果としてあのような惨状を引き起こすということには無自覚だったのではないだろうか。軍事の専門家が事前にあれこれシミュレーションしてはいても必ずしもそのとおりになってはくれず、すさまじい規模の破壊を引き起こした後になってから「こんなはずじゃなかった」といっても手遅れである。弾道ミサイルやその迎撃システムに関する“軍事の専門家”たちの議論には、そういう危うさがあるように私には思えてならない。

集団的自衛権行使の“限定”容認に関する政府説明の根本的矛盾とその破綻

2015-08-26 19:15:20 | 政治・経済
 昨日の記事で、安保法制賛成論は結論ありきのこじつけだと批判した。そのたりの説明にいくらかわかりにくい部分もあったかと思うので、今回はいくつかのケーススタディを示しておきたい。

 まずは、菅官房長官の最近の説明について。
 菅官房長官は、22日に青森県の弘前市内の講演で安保法制は「あくまでも日本の自衛のためだ」と訴えたという。朝日新聞電子版の記事によると、菅長官は、かつて青森県の上空付近を北朝鮮のミサイルが通過した事例をあげて「日本を守ってくれるイージス艦へのミサイル攻撃を防ぐことができない」として、集団的自衛権の行使容認の必要性を強調したそうである。
 ここにも、まさに昨日の当ブログの記事で指摘した矛盾がひそんでいる。
 まず、日本にミサイルが飛んできているのならそれは個別的自衛権で対処する筋合いの話である。それに、米艦のほうだって、まず自分の身を守ることを優先するはずで、自分のところに飛んでくるミサイルを先に迎撃するだろう。それをできる能力がないのであれば、日本に飛んでくるミサイルも撃ち落せない。自分の身を守れない状態で日本を守れるはずはなく、そもそも「日本を守ってくれるイージス艦」という前提が崩れる。このように、彼らの説明は根本から矛盾しているのである。

 そして、そのような矛盾した説明は、今日の国会質疑でもまた飛び出した。
 これまでの「邦人輸送中の米艦が攻撃された場合に集団的自衛権を行使する」という政府の説明について、中谷防衛長官が「邦人輸送は絶対条件ではない」と答弁したのである。
 思い起こせば、昨年安倍首相が集団的自衛権の行使容認が必要な場合としてパネルを使って説明したのが、この「日本人を載せて避難させている米艦が攻撃された場合」という例だった。そういうときに日本側が何もしなくていいのか、ということで、集団的自衛権の行使を容認すべきだといっていたのである。ところが、ここへきて「日本人を載せているかどうかは判断要素の一つであり、絶対条件ではない」と言い出したのである。開いた口がふさがらないとはこのことだろう。この一年あまりの集団的自衛権行使容認に関する議論の出発点にあった説明を、中谷氏はひっくり返してしまったのだ。

 そもそも、この「邦人輸送中の米艦防護」という例は、これまでも批判にさらされてきた。「理屈を無視して情緒に訴えるプロパガンダだ」とか「個別的自衛権で対処できる」といろいろといわれてきたのだが、それ以前に、まずそのような状況が起こりえないという指摘がある。
 豊下楢彦・古関彰一著『集団的自衛権と安全保障』(岩波新書)によれば、在韓米軍が毎年訓練を行っている「非戦闘員避難救出作戦」において、避難させる対象となっているのは在韓米国市民と「友好国」の市民だが、その「友好国」のなかに日本は含まれておらず、しかも避難作戦は航空機によって行われるという。そう書いた上で豊下氏は「つまり、朝鮮半島有事において米軍が邦人を救出することも、ましてや艦船で避難させることも絶対にあり得ないシナリオなのである」と断じている。集団的自衛権行使容認についての安倍総理の説明は、しょっぱなから破綻しているのである。その破綻した論理をなんとか取り繕おうとするところから、嘘と詭弁の果てしない上塗りがはじまっているのだ。

 だが、いくら上塗りしたところで嘘が嘘でなくなることはない。一連の矛盾した説明のすえに、今日の中谷氏の発言がある。結局のところ、当初の説明にほころびが生じてどうやっても取り繕えなくなったために、「邦人が載っているかどうかは絶対条件ではない」として事実上この説明を撤回せざるをえなくなったといのが実態なのだ。
 そして、日本人が載っていなくても米艦を守るために集団的自衛権を行使しうるということは、「自衛のため」という建前も事実上否定したことを意味している。この一事をとっても、政府の進める安保法制が、国民のためなどではなく、米軍への協力・武力の行使それ自体を目的とした文字どおりの“戦争法案”であることがはっきりとわかる。その本当の目的を前面に出しても通らないことは明らかなので、「国民のため」などと嘘をいっているにすぎない。今回の一件で、安倍政権の進める安全保障政策が政府与党ぐるみの詐欺であることはますます明白になったといえるだろう。

北風と太陽

2015-08-25 20:10:56 | 政治・経済
 先日コメントがあったのでそれに対して反論したい。「北朝鮮砲撃事件 やはり“抑止力”は幻想にすぎない」という記事に対するコメントである。この記事において私は、米軍が駐留しているにもかかわらず北朝鮮が砲撃してきたのだから、結局のところ集団的自衛権は抑止力として機能していないと主張した。それに対する批判である。
 まず、そのコメントを掲載しておこう。あらかじめことわっておくが、少々言葉が汚いコメントである。このようなコメントを公開するのはさらしものにするようでしのびない部分もあるのだが、コメントした以上公開されることは了解しているものと判断し、安保法案に賛成して反対派に罵声を浴びせているのはこのような人たちだということを示す意味もこめて、あえて掲載しておく。問題のコメントは、以下のようなものである。

《バカ左翼は黙ってろ。睨みをきかせてるからこの程度なんだと言われたらどう反論すんだよ。お前らの感情論ははじめに答えありきなのさ。分析力0な。丸暗記ばかりしてきた付け。まあカンニングは左翼低能児の本性なんだから諦めろ。カスごみサヨク低能児くんよ。》

 まず、「睨みをきかせてるからこの程度なんだと言われたら」という部分である。
 なるほど、今回の事件だけをとりあげえてみれば、たしかにそんなふうに考えようと思えば考えられなくもない。
 だが、私にはそうは思えない。そう主張するのであれば、「睨みをきかせて」いなかったときと比べてどうなのかを比べて、現在の状態よりもひどい事態が起きている、という事例を示すべきである。
 はたして、そのような比較は可能だろうか?
 ある程度は可能である、と私は考える。

 歴史をさかのぼってみれば、韓国が北朝鮮に対して「睨みをきかせる」というやり方をとっていない時代もあった。それは、1990年代末から2000年代の前半にとられていた「太陽政策」の時代である。
 太陽政策とは、金大中政権からノ・ムヒョン政権に引き継がれた政策である。北朝鮮という厄介な国にうまく対処していくには、圧力をかけるよりも友好的に振舞ったほうがいいというスタンに基づく対北外交方針で、「北風と太陽」の寓話から太陽政策と通称されるようになった。
 もちろんそれは北朝鮮の挑発行為を許さないという原則をとった上でのことだし米国との同盟関係も維持した上でのことではあるが、少なくとも正面から対立するような立場はとっていなかった。そういう意味で、限定的ながら、軍事的に対立する路線とそうでない路線とどちらがよりよいかという比較はできるだろう。
 そして、比較の問題としていえば、太陽政策時代のほうがまだマシだったといっていいのではないか。

 もちろん、太陽政策の時代にも北朝鮮の行状はあまりよくなかった。
 日本海にむけてミサイルを発射したし、核実験も行った。それで、これはもうだめだということで太陽政策が放棄されたという側面があると思うが、では、太陽政策をやめたことで北朝鮮の態度はよくなったのか。いくらかでも行儀よくなったのか。そんなことはまったくないだろう。相変わらず、ときどき思い出したようにミサイルを発射するし、核実験もやっている。韓国の哨戒艦沈没事件(2010年)やヨンピョン島の砲撃(2010年。また、翌年にも小規模な銃撃戦が起きている)がおきたのも太陽政策をやめた後のことだ。そして、ここへきて今回の地雷事件に続く砲撃騒動なのである。太陽政策をやめて圧力路線に舵を切ってからは、北朝鮮はおとなしくなるどころか、ますます挑発行為をエスカレートさせ、それまでなかったような武力衝突さえ起こすようになっている。こう流れを追ってみてくれば、太陽政策のときのほうがまだマシだったというのは明らかだろう。北風よりも太陽のほうがよっぽど北朝鮮の行動を抑止していたのである。あくまで比較の話としてではあるが、マイナス3とマイナス10だったら、まだマイナス3のほうをとるべきだ。今からでも圧力をかけるという路線から融和路線へ転換したほうがよいのではないかと私は考える。

 また、「答えありき」だという批判に対しても、反論しておこう。
 これについては、その言葉、そっくりそのままお返ししたい。答えありき、結論ありきの論を展開しているのは集団的自衛権推進派の側である。彼らの論こそまさに結論ありきであり、しかも、無理な結論を用意してそこに強引にこじつけようとするために、でたらめな説明ばかりが出てくることになる。
 そもそも、日本にミサイルが飛んできてそれを日本が撃ち落すというのなら、それは完全に個別的自衛権の話である。また、他国がそれを撃ち落すかどうかは、その国が集団的自衛権を行使するかどうかという問題であり、日本が集団的自衛権の行使を容認しているかどうかということと直接の関係はない。
 逆に、日本が集団的自衛権を行使するかどうかが問われるのは、日本が攻撃されておらず、他国が攻撃された場合の話である。繰り返しになるが、日本が攻撃されている状況ならそれは個別的自衛権の話だからだ。ところが、安倍政権は今回の集団的自衛権行使容認は「あくまでも自衛のため」と強弁する。ここに、根本的な矛盾がある。
 そういう前提をおくから、他国が攻撃されているところに日本が応戦して、それでいてそれが日本の自衛のためである――というふうに話を作らなければならなくなる。そのような具体的な事例を挙げるためには、「日本が直接攻撃されていないのに日本が攻撃されている」状況を想像しなければならない。なぜなら、日本が直接攻撃されている状況ならそれは個別的自衛権でいいじゃないという話になってしまうからだ。そのため、安倍政権は現実にはありえないような状況をひねり出さなければならなくなるのである。
 しかし、どんな状況を考えたところで、それは議論に耐えうるものにはならない。「日本が攻撃されていないのに日本が攻撃されている状況」など論理的にいってありえないからだ。ゆえに、彼らの考え出すシミュレーションは宿命的に矛盾をはらむことになり、その矛盾を突かれるとあえなく崩れてしまう。安倍総理らが、次々と珍妙なたとえ話を作り出しては論破され、それを引っ込めてまた別の話を作る……ということを繰り返しているのはそのためである。結論ありきで強引な論を展開しているのは集団的自衛権推進論者の側なのだ。

 最後に、「感情論」という点についても反論しておこう。
 私は、いたって冷静なつもりでいる。コメント主であるなりすましバカ氏の口ぶりのほうがはるかに感情的だと思うがどうだろうか。
 NHKスペシャルで机をドンドンと叩いていた高村氏などを見てもわかるとおり、つまるところは安保法案推進派もじゅうぶんに感情的なのである。というより、私は、そもそも感情にもとづかない政策論などありえないと考える。どんな政策であれ、「豊かでありたい」とか「平和に暮らしたい」とか「強い国家でありたい」などといった、なんらかの感情を基盤にしているはずだ。とすれば、問題なのは感情論であるかどうかではなく、その感情の中身ではないか。そのうえで、このブログを読んでくれている読者の方に問いかけたいのは「このなりすましバカ氏のような感情を抱いて生きていたいですか?」ということである。こんなふうに、人に汚い言葉を投げかけながら生きていたいですか? 人を蔑み、蔑まれながら生きていたいと思いますか? おそらく、多くの人の答えはノーであろうと思う。だからこそ、世間では安保法案反対派のほうが多数なのだ。

みんなデモ――新しい種をまこう

2015-08-23 21:23:49 | 政治・経済
 今日、全国一斉アクションとして、全国60箇所で安保法案に対する抗議行動が行われた。そのの一環として、福岡でも、複数の団体が集結して「みんなデモ」が開催されている。ここで、その様子を報告しよう。



 舞台は、天神の警固公園。ここに、400人近い人たちが集まった。



 イラストレーターのいのうえしんぢ氏は「武装より女装」として、女装姿で登場。



 本人の弁によれば半分好きでやっているそうだが、この姿には、もちろんちゃんとそれだけではない意味がある。いのうえ氏はスピーチで、かつてナチスドイツが“ストレート”でない人たちを迫害した歴史を紹介する。軍国主義国家は、国民にマッチョ主義を強いる。そこでは“男は男らしく”という一面的な価値観が強いられ、多様性は否定されるという排除の論理が働く。そうしたことに対する批判を込めた「武装より女装」なのである。

 そして、ナチスドイツでそうだったように、“正常”でないものへの迫害は拡大していき、かなり早い段階で心身に障害を持つ人がその対象となった。ドイツではそうした動きがさらに拡大して「ドイツ民族以外はすべて生物的に劣っている」という狂気に行き着くわけだが、障碍者が迫害を受けたというあたりの事情は日本でも変わらない。太平洋戦争中の日本では、障碍者およびその親族らは肩身のせまい思いをさせられた。軍事国家においては、障害をかかえた人たちが“ごく潰し”として非国民扱いされるのである。今日の集会では、障害を抱えた男性も参加し、障害者の立場から意見を述べていたが、バリアフリーやLGBTといった“新しい”人権意識の観点からも、戦争は否定されなければならないのだ。今回参加された男性は、足が思うように動かせないながらも、デモの道程をその足で歩きとおしたという。日本が“戦争できる国”という道へ進んでいくことへの強い抗議の意志を表明されたものであろう。
 こんなふうにいうと、安保法案推進派は「戦争がおきないようにするための法律」だといういつもの決まり文句を口にするかもしれないが、武藤貴也氏のように基本的人権を敵視して国民を国家に奉仕させるような体制になれば、実際に戦争をするしないにかかわらずマイノリティに対して差別的な社会となることは避けられない。性的、身体的、精神的……などあらゆる意味でのマイノリティに対して寛容な社会であるためには、自民党の国家主義者たちが目指すような国家観を拒否しなければならないのだ。

 抗議行動本体は7時ごろに終了したが、それからゲリラ的に声をあげる集団が登場。



 パンクスふうのいでたちをした彼らは、ややとがったビートで「安倍はやめろ」「ファシスト総理は今すぐやめろ」とコールしていた。子供もふくめて幅広い世代が参加していた本体の集会は自粛していたのだろうか?

 そして、この「みんなデモ」の前に、天神では昼にも別の抗議活動が行われていたらしい。下は、たまたまそれを見かけて撮影した画像である。



 私も福岡での抗議行動に関する情報はこまめに収集しているつもりでいるが、それでも把握しきれないぐらいにさまざまな活動が行われているようだ。

 さて、今回の「みんなデモ」には遠方から参加した学生もいたが、彼のスピーチで引用されていたモンゴル800の「矛盾の上に咲く花」という歌の一節が印象的だった。

  矛盾の上に咲く花は 根っこの奥から抜きましょう
  同じ過ち繰り返さぬように 根っこの奥から抜きましょう
  そして新しい種まこう 誰もが忘れてた種まこう


 件の学生は、安保法案こそこの「矛盾の上に咲く花」であると批判し、それを根っこの奥から抜き、新しい種をまこうと訴えた。まさに、今の状況にふさわしい歌といえるだろう。ちなみに、彼の引用した一節のあとには、こう続く。

  そしたら野良犬も殺されない 自殺するまで追いつめられない
  どこの国もやさしさで溢れ 戦争の二文字は消えてゆく


 この集会に参加した学生団体FYMのメンバーの一人は、「本当は、こんなことしたら就職に不利になるんじゃないかとムチャクチャ怖い」としたうえで、しかしそれでも行動しなければならない心境を語った。そして、大人たちにそんな若者たちを支えてほしいと訴えた。この訴えに、大人たちは応えなければならない。こうした行動が広がっていけば、「矛盾の上に咲く花」を花が咲く前に根っこから引き抜くことは可能だろう。
 周知のとおり来週8月30日には全国100万人行動が予定されているが、もちろん福岡でもこれに呼応した行動が行われる。さらに福岡では、9月6日にも大規模な行動が予定されている。こちらは、県の弁護士会も参加して5,000人規模を目指すという。いまの安部政権をおかしいと思う人は、けっしてあきらめずに、勇気を出して声をあげていこう。そうしなければ、矛盾の上に咲いた狂気の花が、この国を暗闇のに陥れるだろう。その花を根っこの奥から引き抜き、真の民主主義と平和主義を根付かせるために、今こそ新しい種をまくときだ。