真夜中の2分前

時事評論ブログ
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フランス人は正しいか――集団的自衛権を考える⑥

2015-02-27 17:06:12 | 政治・経済
 集団的自衛権に関する記事の第6回である。
 今回は、これまでとは少し視点を変えて、手続き的な部分をとりあげたい。内閣の決定によって憲法の解釈を変え、これまで憲法に反しているとされてきたものを容認するということが果たして認められてよいのか――集団的自衛権の行使容認について、その内容と並んで問題視された点である。
 これに関してまず何より重要なのは、そもそも政府は憲法に拘束される存在だということだ。
 憲法の99条には憲法遵守義務というものが規定されていて、政治家や官僚といった連中は憲法を守らなければならないと書かれている。評論家の佐高信氏はこれを“ブラックリスト”といい、歴史的にみてこられの人々こそが憲法をないがしろにしてきたから、あえて名指しでお前ら憲法を守れと書いてあるのだと指摘している。政治家も、役人も憲法に従わなければならないし、憲法に反した法や制度はあってはならないというのが、立憲主義の基本である。そういう意味からすると、“解釈改憲”というのは、あたかも内閣が憲法よりも上位にあるかのような振る舞いであり、まずその点が問題だ。“解釈改憲”とは、たとえていえば、サッカーの試合でプレイヤーが自分に都合のいいようにルールを読み変えて、「手を使っちゃいけないのはこれまでどおりだけど、肩から肘までは“手”じゃないことにしよう」というようなものであり、そんなことがまかりとおるならルール自体の意味がなくなる。そもそも、プレイヤーにそのような権限は与えられていないし、与えられるべきでもない。中身の問題以前に、“解釈改憲”という手法自体に大きな問題があるのだ。
 この点について、憲法学者も憂慮を示している。昨年内閣が集団的自衛権の行使容認を閣議決定したときには、憲法学者らからによって構成される「立憲デモクラシーの会」は、「立憲主義を根本から否定し、国民主権と民主主義に対する根本的な挑戦だ」と批判する抗議声明を発表した。以下、これを伝える朝日新聞の記事を引用する。

 国会内で会見した共同代表の山口二郎・法政大教授は「(安倍政権にとって)集団的自衛権の行使は問題解決の手段ではなく、最初から目的になっている」と批判。共同代表の奥平康弘・東大名誉教授は「70年近く、戦争をしない国でやってきたのに、もと来た道に戻ってしまう」と懸念を示した。

 さらに、自民党内からも批判の声はあがった。自民党の村上誠一郎衆院議員は、この解釈改憲という手法を「立憲主義を否定することになる」と批判している。村上氏は、憲法解釈は究極的には司法が担うものであることを指摘したうえで、内閣やその国会における与党が自らの解釈で法を作ることは“八百長”以上のものだとまでいっている。身内である自民党員でさえもこのようなことをいわなければならないぐらい、安倍政権の行動は常軌を逸しているのだ。
 ここで、「フランス人は正しいか」というタイトルの意味についても触れておこう。
 このシリーズはずっと「○○人は正しいか」というタイトルでやってきたのである種こじつけ的な部分もあるのだが、一応本稿のタイトルは三権分立の提唱者として知られるモンテスキューを念頭に置いている。立法、司法、行政の三権はそれぞれに独立しており、互いに掣肘しあうような関係にある。これは、一つの強大な権力が暴走しないようにするためだ。ただ一つの機関を最上位におくと暴走する危険があるために、相互監視という形をとってそれを防ぐのである。こんなことは、中学校の社会科で習うことなのだが、安倍政権は臆面もなくその中学生レベルの基礎を無視しようとしている。
 しかも、もっと問題なのは、それがきわめて感情的な動機に基づいているようにみえることだ。先に引用した記事で、山口教授は集団的自衛権の行使容認が手段ではなく目的になっていると批判しているが、この指摘は重要だ。安倍首相が集団的自衛権にこだわるのは、いわゆる“サヨク”に対するなかば子どもじみた嫌悪感によるものと私には思えてならない。
 安倍首相は根っからの“サヨク”嫌いであり、それは言動のはしばしににじみ出ている。たとえば、‘14年の広島、長崎における平和記念式典でのあいさつの冒頭部分が前年のコピペだったとされる疑惑とか、NHK経営陣の人事、また、最近問題になった日教組ヤジの件などにもそれはあらわれている。彼は“サヨク”が気に食わなくて、どうも時々それを言動に表さずにはいられないようなのだ。別に“サヨク”が嫌いだというのは個人の嗜好であって勝手にしていればいい話だが、それを言動に表すのは問題がある。インターネットの掲示板レベルのいい加減な思い込みにもとづいたヤジ(実際には、日教組は政治献金をしていないし補助金も受け取っていない。このことは安倍首相自身も後に認めて、ヤジに関する一連の発言を訂正している)を飛ばすその心性は、勝手な思い込みに基づいて聞くに堪えないヘイトスピーチを繰り返す在特会と同根ではあるまいか。しかもそれを首相という立場でやるのだから、なおとんでもない。
 そして私には、首相のいうところの“戦後レジームからの脱却”というのも、つまりは“ボク、サヨクが嫌いです”という生理的な嫌悪感に発しているものとしか見えない。それが、祖父である岸信介が左派から猛烈な批判を受けるのを幼年時代に目の当たりにしたことからくるトラウマによるものなのかは知る由もないが、このような感情的な動機で国の礎である憲法をいじろうというのは、危なっかしくてしかたがない。ヤジを飛ばすぐらいならまだ実害はないのかもしれないが、先の日教組ヤジのようなレベルの認識で安全保障問題を考えているとしたら、それはこの国に害悪しかもたらさないだろう。
 私には、首相の一連の“右傾化”政策が、自分の嫌いなものを踏みにじることで自己満足を得る幼児的な振る舞いに思えてならない。そのような人物があやまって権力の座についてしまったときにその暴走を抑えるために憲法というものがあり、それを保障するために三権分立があると私は考えるが、どうだろうか。

日本人は正しいか――集団的自衛権を考える⑤

2015-02-21 01:39:49 | 政治・経済
 集団的自衛権について考えるシリーズの第五回である。今回は、はじめに一つの思考実験をしてみたい。
 いま、二人の男が村の広場でむかいあっているとする。
 お互いに、銃を持っている。
 以前から畑の境のことで揉めていて、もしかして相手が撃ってくるかもしれないと考えている。
 このときに、実際に銃の引き金が引かれるのを防ぐもっとも有効な方法はなんだろうか?
 ひとつは、自分の優位を主張することだ。俺の銃のほうが性能がいい、俺のほうが射撃の腕がある、お前が撃てば、お前も確実に死ぬ――などである。だが、相手がそれを納得してくれるという保証はない。その主張が真実味を持つためには、日ごろから高性能の銃を手に入れ、射撃の腕を磨いておく必要がある。さらに、たとえ自分の優位が事実であったとしても、相手がそれを正しく認識してくれるかどうかは別問題である。相手は相手で自分の優位を主張するだろうし、本当にそうだと信じているかもしれない。ここに面子といったことがからんでくるともっと厄介で、自分のほうが劣っているとわかっていても、引き下がれずに挑みかかってくるかもしれない。こういったことを考えると、自分の優位を主張するというのはあまりよい方法ではない。
 では、仲間を集めておくというのはどうだろうか?
 いざ争いになったときには、助っ人にきてくれるようにあらかじめ隣近所で自分と近しい関係にある人や利害の一致する人たちに頼んでおくのである。衝突が起こりそうになると、その仲間たちが、加勢するぜといってやってくる。そうしておけば、相手もうかつに手を出せなくなるかもしれないし、戦いになっても勝てる可能性が高まるかもしれない。
 だが、この方法もあまりよいものではない。こちらが隣近所に声をかけていれば、相手も当然同じことをするだろう。その結果、衝突が起こりそうになると、互いのもとにわらわらとガンマンが集まってくることになる。これでは、おさまるものもおさまらないというものだ。
 のみならず、このやり方はもう一つの問題をはらんでいる。それは、世の中はギブアンドテイクだということだ。なにかあったときは助けてくれ、と頼めば、当然その頼まれた相手も同じことをこちらに要求するだろう。それを受け入れれば、彼が村の誰かと衝突しそうになったときには助太刀に行く義務を負う。近しい関係にある隣人が攻撃されたら、そこに駆けつけなければならない。この一人にしてみれば、自分の義務が増えるといういすぎないが、みんなが同じことをしはじめると一人の問題にとどまらない。結果として、この村全体がきな臭くなってくる。どこかで二人の衝突が起こりそうになると、そこへそれぞれの仲間であるガンマンたちがやってきて、集団と集団のにらみあいになってしまう。互いの仲間が増えれば増えるほど、大きな衝突の起きる可能性は増していく。わかりやすく、仮に村にA、B、C、D、Eという五人がいて、それぞれF、G、H、I、Jと対立しているとしよう。A~Eの五人が仲間になって、誰かが攻撃を受けたときには加勢に行くという約束をし、それに対抗してF~Jの五人も同様の約束をしたとする。この場合、それぞれのメンバーが戦闘に巻き込まれる可能性は単純計算で5倍になる。
 いうまでもなく、以上の話は国家の安全保障のたとえである。
 二つの国家が緊張状態にあるときに、いったいどうやったら実際の衝突を回避できるのか、という問題だ。二つ目の例が、集団的自衛権と呼ばれるものだ。それで衝突を回避できればいいが、そうなる保証はどこにもない。先の例に関して、五人がそのような約束をすることで抑止力が生じるから単純に衝突の可能性が5倍にはならない、という人もいるかもしれないが、私にはそれも疑問だ。以前の記事「ローマ人は正しいか――集団的自衛権を考える①」でも書いたが、歴史をみれば、同盟を結んでけん制しあうというやり方では現に戦争を防ぐことができていない。抑止力云々というのは、人間がそれを正しく評価して合理的に振舞うとうい前提があれば成り立つかもしれないが、残念なことに人類は愚かだ。特に集団になったときにはそうで、理屈で考えて正しいようには行動しないことが非常に多い。また、これも以前書いたことだが、お互いに同盟を結ぶというやり方は、実際に戦闘が起きたときには、より大きな被害をもたらすだろう。二人の撃ち合いよりも、集団で撃ち合ったほうが被害が大きくなるのは自明である。はじめは二人の人間の衝突だったのに、そこへ加勢するぜ、と次々にガンマンたちがあらわれ、互いに銃撃戦をはじめる。そして気がつけば、最初の二人以外の者たちの戦いのほうがむしろ激しくなっている。これは、英雄譚でもなければ悲劇ですらない。もはや喜劇だ。
 では、どうすれいいか?
 引き金が引かれることを防ぐための、私が考える最善の方法は、次のようにいうことである――「私のほうから撃つことは絶対にない。うちの家訓でそう決まっているし、実際にこれまで自分の側から撃ったことはない。だからそっちも銃を降ろせ」と。私は、これにまさる方法はないと考える。ちなみに、“最善”というのは、これで必ず防げるという意味ではない。これでなお撃ってくるような相手なら、ほかのどんな手段をとろうと結局撃ってくるという意味である。それで撃ってくるほど好戦的な相手であれば、こちらの装備がいかにすぐれていようが、仲間がどれだけいようが、おそらく攻撃してくる。そういう意味で、「こちらからは撃たない」ということをはっきりさせる以上の安全保障はない。
 そして、勘のいい方はもう気づいておられるだろうが、これがまさに戦後の日本のあり方なのである。憲法9条というのは、そういう意味を持っている。逆説的かもしれないが、こちら側から攻撃することはない、ということこそがもっとも有効な安全保障なのだ。それは、決して地政学的に安定しているとはいえないこの極東地域で日本が半世紀以上にわたって戦争に巻き込まれなかったという歴史が証明している。
 そして、ここで重要なのは、実際に自分の側から撃ったことがないという事実である。そうでなければ、信用ができない。たとえばアメリカやイスラエルのような国が「こっちから攻撃はしないから核開発をやめろ」といったところで、説得力がない。実際に憲法9条を守ってきたからこそ、憲法9条に意味があるのだ。こういうと、日本が戦争に巻き込まれなかったのは米軍が駐留していて抑止力が働いているからだという人がいるかもしれないが、私にいわせればまったく逆である。米軍がいる“から”どころか、憲法9条があるからこそ、米軍が駐留している“にもかかわらず”日本は戦争をせずにすんでいるというのが私の見方だ。
 集団的自衛権の行使を認めるということは、「むこうから攻撃をしてくることはない」という信用を失っていくことにつながると私は考える。それは、長い目でみたときにはむしろ日本の安全保障にとってマイナスではないか。

ドイツ人は正しいか――集団的自衛権を考える④

2015-02-15 20:44:30 | 政治・経済
 いよいよ、集団的自衛権の行使容認に関する具体的な法案が国会で審議されるという状況になってきた。本ブログでは、集団的自衛権の問題にもう少しこだわっていきたい。
 今回取り上げるのは、そもそも実際の戦場と“後方支援”という区別が厳密に成り立つのかという問題である。この問題に関して、昨年の6月に朝日新聞に掲載された記事の内容を紹介したい。 
 以前書いたとおり、NATOが初めて集団的自衛権を行使したのは9.11.後のアフガン侵攻においてだったが、そこにはドイツ軍も加わっていた。日本と同様に、第二次大戦の敗戦国として戦後を歩んできたドイツは、長らく専守防衛を国防の方針としていたが、湾岸戦争で「カネを出しただけ」と批判されたことから、90年代以降その方針を転換しNATO域外でも活動することを認めた。このとき、ドイツの憲法にあたる基本法の解釈を変更するというかたちで、その決定がなされた。これが、憲法の解釈変更によって集団的自衛権の行使を容認しようとしている現在の日本の姿と重なる。では、「解釈改憲による集団的自衛権の行使容認」の先例であるドイツではどうなっているのか、という話である。
 件の記事によれば、アフガンに派遣されたドイツ軍は、直接の戦闘には参加せず、その活動は後方支援や治安維持・復興支援を主眼とする国際治安支援部隊(ISAF)への参加に限定されている。しかしながら、02年から昨年前半までのおよそ10年間で、ドイツ軍の死者は55名にのぼる。そのなかには帰還後の心的外傷後ストレス障害(PTSD)による自殺なども含まれているが、35名は自爆テロや銃撃などの戦闘での死者だという。記事は、独国際政治安全保障研究所のマルクス・カイム国際安全保障部長による「ドイツ兵の多くは後方支援部隊にいながら死亡した。戦闘現場と後方支援の現場を分けられるという考え方は、幻想だ」とのコメントでしめくくられている。
 これでアフガンの治安状況が改善していて復興が進んでいるというのなら、まだ彼らの死は無駄ではなかったといえるのかもしれない。だが、実態はそうではない。アフガンの治安改善は進んでおらず、最悪の時期は脱しているにせよ、まだ安定しているとはとうていいえない。また、ドイツの安全保障環境が高まったのかといえば、それも疑問だ。フランスでテロ事件が起き、今日もまたデンマークで発砲事件が起きていてイスラム過激派の関与が疑われているという欧州の現状を考えれば、アフガンへの派兵がドイツの社会をより安全にしたとも思えない。そうなると、果たして、アフガンへの派兵に意味はあったのか――そういう疑問が出てこないだろうか。
 先の朝日新聞の記事とちょうど同じ頃には、元防衛官僚である新潟県加茂市の小池清彦市長が講演で「集団的自衛権の行使を認めれば日本はアメリカの戦争への参加を拒むよりどころを失うことになる」と懸念を示したというニュースもあった。この指摘は重要だと思う。日本も集団的自衛権が行使できる――ということになれば、アメリカは自分たちの戦争に日本を駆りだそうとするだろう。そのなかには、目的も意義もよくわからない身勝手で無茶苦茶なものもあるだろう(というか、アメリカが起こす戦争はたいていそういう独善的なものだ)。これまでは、集団的自衛権を持ってはいるが行使はできないということが一つの防衛線となっていた。だが、その理屈も通用しなくなる。もう集団的自衛権を使っていいんだろ、だったら軍隊を出せよ、とアメリカはせっついていくる。そのとき日本はきっぱりノーといえるのか。ドイツの場合、湾岸戦争後に解釈改憲で集団的自衛権の行使を容認したことによって、米国のアフガン侵攻につきあわされ、一緒に泥沼にひきずりこまれることになった。日本が集団的自衛権を行使できるようになれば、同じ道を進む危険はかなり高いのではないだろうか。

カルタゴ人は正しいか――集団的自衛権を考える③

2015-02-11 20:51:40 | 政治・経済
 かなり間が空くことになるが、集団的自衛権を考えるシリーズの第三弾を書くことにする。
 このタイトルをみて、何の話かと思う方もいるかもしれない。
 カルタゴというのは、紀元前に北アフリカに存在した国である。たまたま以前ローマの話が出てきたので、今回はそのローマのライバルであったカルタゴの話をしてみる。一応安全保障というテーマにも関係のある話だ。また古い話を、と思われるかもしれない部分もあるが、過去の話だからといって忘却しないようにしようというのが私の主張なので(「狼は足跡を隠す」参照)、その点も含めて読んでもらえれば幸いである。

 今から4年前の2011年の1月のことである。そのとき行われていた通常国会の代表質問において自民党の小池百合子氏は、当時起きていたチュニジア政変にからめて、カルタゴの故事を持ち出した。小池氏によれば、カルタゴはローマとの戦争に敗れたあと、復興して経済大国となったが、軍事は重視していなかった。経済発展ばかりを追求して国防をおろそかにしていたために、ローマに目をつけられて滅ぼされたというのである。つまるところ、カルタゴの故事に戦後の日本をなぞらえて、日本も再軍備するべきだといいたいわけだろう。果たして、この主張は正しいだろうか。
 まず一つ確認しておきたいのは、カルタゴを滅亡に導いた第三次ポエニ戦争は、カルタゴの側から仕掛けた戦争だということである。隣国の挑発に乗って軍事行動を起こしたために、ローマ軍が介入してきて滅ぼされたのだ。そしてもう一つ、ローマがカルタゴを脅威みなしていたのは、おそらくその前の第二次ポエニ戦争があったためだ。第二次ポエニ戦争においては、かの有名なハンニバルが登場する。ハンニバルの率いるカルタゴ軍は、アルプスを越えて、一時はイタリア半島にまで進軍する勢いをみせた。そのことがあったために、カルタゴを放っておくことはできないという考えがローマ人の間に生まれ、大カトーのようにあくまでもカルタゴ殲滅を主張する政治家が現れたのである。
 歴史は正しく認識しなければならない。おそらくは、カルタゴがただの経済大国であったなら、ローマもそれを脅威とみなすことはなかった。むしろ、軍備を増強したがゆえに、危険視され、滅亡することになったと見るほうが妥当である。ここでついでに、第二次ポエニ戦争もまた、カルタゴの側から仕掛けた戦争だということを付け加えておこう。一軍人にすぎないハンニバルが暴走して、ローマとの不可侵条約を一方的に破るかたちで戦争を起こし、それがカルタゴを滅亡に導く遠因となったのだ。そしてもしそうだとすれば、そこから得られる教訓も、小池百合子氏の主張とはまったく異なるものになるだろう。
 軍備を増強するということは、それ自体が周辺国の猜疑心を呼び起こすということを忘れてはならない。日本が軍備を持つことを主張する人たちが仮に中国を念頭に置いているとするなら、中国と対抗するために軍備を増強したらどうなるのか。中国がそれで、すみませんでした、もう挑発的な行動はしません、などといって引き下がる相手でないことは、日ごろの言動を見ていればわかる。むしろ、国の面子をかけて、さらなる軍備増強で対抗してくるだろう。まあそれでも、日本の自衛隊というのはいまの時点でも決して中国軍に劣ってはいないらしいから、軍事的には負けないのかもしれない。だが、日本の食糧やエネルギーなどの資源がどれほど中国に依存しているかも考えなければならない。もし戦争になれば、当然ながらそれらの輸入はすべてストップする。たとえば食糧だけを考えても、中国からの食料品輸入が止まったら日本の経済は大混乱に陥るだろう。安全保障という中には、軍事だけではなく当然そういうことも含まれる。軍備を持っていればそれで安全が高まるなどという単純なものではないはずだ。
 カルタゴは、第三次ポエニ戦争に敗れたあとにローマ軍によって破壊し尽くされた。それは、建物などもすべて破却して更地にしたうえに、永遠に不毛の地であるように塩をまくという徹底したものであったという。国家をそのような悲惨な運命に導かないためにはどうすればよいのか。安易な考えに飛びつくのは禁物である。

ふたたび、それは“自己責任”なのか

2015-02-08 19:59:09 | 政治・経済
 先日、このブログにコメントをもらったので、それについて少し書きたい。
 「それは“自己責任”なのか」という記事に対するコメントである。その趣旨は、政府も安全を保証しないところに行くのだから、それは自己責任かどうかといわれれば自己責任であろう、というものだ。
 本論の前にまず一つ――コメントの最後の部分が、もし私をジャーナリズムの世界に身をおく人間だと思っていっているのだとすると、それは事実に反するということをいっておく。私はジャーナリストと呼ばれる職業に就いている人間ではない。したがって、ここで私が述べることは、ジャーナリストが自身の活動を美化するような種類のものではないということをまず断っておきたい。
 さて、問題の記事で私は、ジャーナリズムは公共的な側面を強く持っていると書いた。
 その意図をはっきりさせるために、ここで、名実ともに公共的な職業との類比で考えてみよう。たとえば都道府県の職員が、災害に遭って避難している被災者に物資を届けに行っているときに二次災害に遭って死亡したというような場合はどうだろうか。私たちはその職員に対して「被災地に入ったのは自己責任だ」というだろうか? いわないだろう。それは、一個人よりも大きい何かのためだからである。件の記事で私がいいたかったのは、そういうことだ。
 狭い意味でとらえれば、ジャーナリストが戦場や被災地へ行くのは自己責任であろう。だが、広い意味で考えれば決してそうではない。それはやはり、“一個人よりも大きい何かのため”なのだ。都道府県の職員が被災地に物資を届けるのは、あきらかに権利ではなく義務によってである。それと同様に、記者がある事実を世人に知らしめるというのは一つの義務といえるのではないか。公共的な側面を持つと書いたのは、そういう意味においてだ。
 もちろん、法律のどこを読んでもそんな義務は規定されていない。法典のどこにも、「記者には報道の義務がある」などとは書かれていない。だが、法律に書かれていないとしても、この世界には“知らなければならないこと”があり、それはまた“伝えなければならないこと”でもあると私は考える。“知る権利”だけではなく“知る義務”があり、そうであるからこそ、ジャーナリストにも“知らせる義務”がある。

 私はたまたま、先日の人質事件が起きる前に後藤健二氏の著作を一冊読んだことがあった。
 それは、シエラレオネという国についての本だった。(汐文社刊『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』)シエラレオネというのはアフリカの北西部にある小国で、1990年代から2000年代初頭にかけて内戦が起きていたところである。この国はダイヤモンドがよくとれることで知られていて、内戦はダイヤモンドの利権をめぐる争いという側面も持っていた。内戦の過程でダイヤ鉱山は反政府勢力RUFの手に落ち、そこから採掘されるダイヤモンドはRUFの資金源となり、紛争を長期化させる一つの要因となっていたのである。こうしたダイヤは“紛争ダイヤ”あるいは“ブラッドダイヤモンド”と呼ばれ、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ブラッドダイヤモンド』の題材にもなった。
 子ども兵も動員された残酷な紛争の原因となっていると知れば、そんなダイヤを好んで買いたがる人はそうはいない。問題があきらかになると、紛争ダイヤが市場で取引されないよう監視する“キンバリープロセス”と呼ばれる枠組みが作られることになった。
 この一連の経過にも、ジャーナリズムは大きく関わっている。
 映画『ブラッドダイヤモンド』でもジャーナリストが重要な役割を果たしているが、危険な戦場に入って取材をする記者がいなければ、紛争ダイヤの問題が国際社会に知られることも、ダイヤを購入する人たちの注意を喚起することもなかっただろう。その場合、キンバリープロセスも誕生せず、ダイヤモンドは反政府勢力に資金を供給し続け、シエラレオネの内戦はずっと続いていたかもしれない。そして、子どもを含む多くの命が失われていたかもしれない。もちろんこれらは仮定の話にすぎないが、そう考えると、ジャーナリズムの果たす役割は決して小さくないと私には思えるのである。
 後藤氏の著作が直接キンバリープロセスと関係しているわけではないが、氏がシエラレオネという国のおかれた状況を見つめ、それを子供向けの本として書いたということには、意義があると思う。この本の中に、子ども兵によって回復不能な傷害を受けた人物の語るこんなせりふがある。
 「おれはこう思うよ。彼らはまだ幼い子どもだし、何も知らずに兵士として使われたんだろう。/もし、その子がおれの目の前にいたとしても、おれは彼を責めない。たとえ、そいつが知っている子だったとしても、おれは何もしやしない。/おれたちはこの国に平和がほしいんだ。何よりも平和なんだ。それがすべてさ。」
 これを読んだ人が何かを感じ、何かの行動を起こすとしたら、後藤氏がシエラレオネで行った取材活動には意味があったといえるだろう。それはまた、“知らせる義務”に“知る義務”が応えるということでもある。人質事件は悲劇的な結末を迎えたが、それだからこそ、「しなければならないこと」に思いを馳せたい。