真夜中の2分前

時事評論ブログ
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賢者の贈り物

2014-12-31 17:35:21 | 政治・経済
 時間が経つのは早いもので、もう年末がやってきた。この2014年という年の終わりにあたって、もう一度、経済について考えてみたい。
 テーマは、効率や合理性を追及する経済は、本当に人を幸福にするのか、ということである。いわゆる“新自由主義”、あるいは“市場原理主義”は、本当に社会を豊かにするのか。
 まず簡単なおさらいをしておきたい。新自由主義とは、古典経済学と呼ばれる経済学を現代に甦らせたものである。ひらたくいえば、政府が余計な介入をせずに自由に動くままにまかせておくほうが経済はうまいくという考え方だ。そのような考え方は“自由放任経済”(レッセフェール)として19世紀にはかなり広く共有されていたが、20世紀に入るとだんだん衰退していった。それが、1970年代ぐらいになって再び注目されるようになった。アメリカのレーガン大統領やイギリスのサッチャー首相などがこの考え方を導入し、日本でも、同時代の中曽根首相がやはりこの流れに乗った。その後の小泉首相なども基本的にこの立場に立っていて、「規制緩和」や「民営化」によって経済がよくなるという発想はその延長線上にある。これまでに本ブログで何度か問題視してきた金融自由化も、同じベクトルを共有しているとみていいだろう。
 もっとも、新自由主義批判は、いまではそれほど珍しくない。それらがはらむ問題点も次第にあきらかになってきて、最近では無条件に新自由主義を肯定する人は少なくなっていると思う。だが、それでも規制緩和や民営化は基本的によいことで進むべき方向であるという考え方は根強く残っているようにみえる。それがたとえば、多くの世論調査においてTPP賛成のほうが多いというようなところにもつながってくる。「格差の拡大」や「貧困」が問題となっても、依然として世間では、規制緩和・民営化を推進して「小さな政府」を目指すべきという考えが主流らしい。私は、その点に異議を唱えたい。
 その一環として、新自由主義の旗手と目すべき経済学者ミルトン・フリードマンに関する一つの逸話を紹介しよう。これはたしか、今年亡くなった経済学者の宇沢弘文が語っていた話だと記憶する。
 あるときフリードマンは、近々イギリスのポンドが切り下げられるという噂を聞きつけた。そしてどうやら、それは確かな話らしかった。ということは、ここでポンドを空売りしておけば大金が儲けられる。そう考えたフリードマンは、シカゴの銀行に行ってポンドの空売りを申し込んだ。ところが、銀行側はそれを断った。「われわれはジェントルマンだからそのようなことはしない」というのである。この対応に、フリードマンは激怒した……
 この話を紹介したのは、なにもフリードマンの人となりを非難したいからではない。このエピソードに、新自由主義というもののはらむ胡散臭さがにじみ出ていると考えるからだ。
 私の考えるところでは、新自由主義は人間性を蝕んでゆく。人間を“ジェントルマン”でなくしていくのである。たとえば、2008年いわゆるリーマンショックが起きたときに、穀物の価格が暴騰したことがあった。これは、株や金融商品の市場がフリーズしてしまい、行き場を失った大量のマネーが商品市場に流れ込んだためだと考えられている。穀物が狙われたのは、一つにはバイオエタノールの原料ということで注目されていたということもあるが、もっと根本的にはそれが生活必需品だからだろう。これがたとえばダイヤモンドのようなものだったら、価格が異常に上昇すれば誰も買わなくなるだけのことである。だが、穀物なら買わないわけにはいかない。そこで、穀物をターゲットにするというわけだ。穀物価格の暴騰は、当然ながら世界中に――とりわけ途上国に――大きな混乱を引き起こしたが、マネーゲームのプレーヤーたちはそんなことにはおかまいなしである。生きていくために穀物を買わなければならないことにつけこんで、莫大な利益をむさぼるのだ。これと似たような事例は、東日本大震災の後にもみられた。あの震災の直後、円高が進むのではないか(阪神大震災の後に円高が起きたという過去の事例からそう予測された)という見方から円が暴騰した。また、復興のための資材に投機的なマネーが流れ込んで資材価格を押し上げているという指摘もあった。いずれも結果として復興の妨げとなっており、これによって利益を得た投資家は――厳しい表現だが――未曾有の大災害をだしにしてカネを儲けていると批判されてもやむをえまい。このような取引に対して、もし先のシカゴの銀行員が窓口にいたら「われわれはジェントルマンだからそのようなことはしない」というのではないだろうか。市場原理主義のもとでは、紳士が町からいなくなるのだ。
 さて……なんともすさんだ話になってきたので、ここでもう一つ、別の物語をとりあげることにしよう。
 それは、タイトルにもなっている“賢者の贈り物”だ。「賢者の贈り物」とは、ご存知の方も多いと思うが、O.ヘンリの名作短編である。やや時期を逸した感もあるが、心温まるクリスマスストーリーということで本稿のタイトルにした。
 この短編に登場する男と女は、相手にクリスマスプレゼントを贈りたいと思っているが、そのためのお金がない。そこで男は、ひそかに腕時計を売り、その金でクシを買う。そして女は、これまたひそかに自分の長い髪の毛を切ってそれを売り、腕時計のためのバンドを買う。その結果は滑稽なすれ違いとなってしまうわけだが、それによって二人は、なににも代えがたい“賢者の贈り物”を手にする――というストーリーだ。
 で、経済の話に戻る。ミルトン・フリードマンは、その代表的著書『選択の自由』のなかで「もっとも効率的なプレゼントは現金を贈ることだ」というようなことをいっているのだが、「賢者の贈り物」を読んだうえでこの言葉を聞くと、なんとばかげたことをいっているのだろうと思わずにはいられないのだ。クリスマスプレゼントに現金をやりとりするというのは、なにかとても大切なことがないがしろにされているような気がする。そんなふうに考えるのは、決して私ひとりではあるまい。
 もちろん、フリードマンもある種の極論としてそんなふうにいっているのではあるだろう。しかし、私が思うには、たとえ誇張された表現だとしても、これは一面の真理を突いている。つまるところ、効率を重視するというのはそういうことなのだ。クリスマスプレゼントに現金を贈っていたら、われわれは“賢者の贈り物”を手にすることはない。合理性を追求することは、必ずしも人間を幸福にしない――「もっとも効率的なプレゼントは現金を贈ることだ」という言葉によって、それが背理法的にあぶりだされているように私には思えるのだ。
 効率を重視することは、じつはあらゆるものの価値をその土台から掘り崩していく。あらゆる価値を相対化し、ひとしなみにし、最終的には無化してしまう。あくまでも合理的な見方に徹するとしたなら、12月25日という日は11月25日や1月25日といったいなにが違うのだろう? なんのためにお金を手に入れようとするの? プレゼントを買うため? なんのため? たとえば高級な腕時計を持っていたとして、それになんの意味があるの? 時間を知りたいなら百均の腕時計でいいんじゃないの? そもそも、人間が生きていることに意味があるの? どうせ、あと百年かそこらで死ぬとわかっているのに……といった具合だ。
 私が思うに、人間が生きるということは、その根底にこれ以上ない不合理を秘めている。逆にいうと、人間がそのために生きる価値があると考えるものは、ほとんどが合理的でない。合理性を追求していくことは、やがてはその生の根底にある不合理にまで疑念を投げかける。「それはほんとうに意味があるのか?」と。そして、そのような問いかけをされれば、合理的に意味があるという回答はたぶん出てこない(あなたは、自分がいま生きていることに価値があると論理的に証明できるだろうか?)。ゆえに、生の根底が掘り崩されるのである。
 この年の終わりに、もう一度問いたい。われわれは、かぎりのある資源を欲望のおもむくままに大量消費しながら本当にいまの経済を続けていくべきなのか。それとも、大きく舵を切って、新しい経済を模索するのか。いま、世界はその選択に直面している。

わかっちゃいるけどやめられない……“危険ドラッグ経済”

2014-12-27 12:19:30 | 政治・経済
 本ブログ三本目の記事である。本来は週一回ぐらいのペースで書こうかと思っていたのだが、どうも、このブログという媒体はときどき新しい記事をあげないとあまり閲覧されないものらしい。私としても、わざわざこうして書いている以上はなるべく多くの人の目に触れるようにしたいので、ほんのちょっとだけペースをはやめて書いてみる。
 内容としては、前回の続編となる。前回の記事では、“バベル経済”という言葉を提唱したが、今回は現在の経済状況にもう一つの名前を与えたい。その名は――“危険ドラッグ経済”である。
 危険ドラッグとは、周知のとおりかつては「脱法ハーブ」と呼ばれていたアレのことだ。
 別にそれにかぎったことではないと思うが、この種の薬物にいったん手を出すと、人間やめるかという深刻な事態にいたる場合がある。一時的な快楽は得られるものの、依存症に陥ってやめられなくなるうえに、次第に効果が薄くなっていきクスリの量を多くしなければならなくなる。やめようと思っても、ついつい手を出してしまう。やがて心身がボロボロになっていく。そしてその先には、破滅が待っている――いまの私たちの世の中は、そんな薬物中毒患者に似ているのではないだろうか、というのが本稿の趣旨である。金融緩和で膨大なマネーを供給して景気を維持し、それを切らせばたちまち禁断症状に陥るためにやめることができない。そして、カネを垂れ流しているかぎり(マネーゲームのプレーヤーに関してのみ)フィーバーは続く。わかっちゃいるけどやめられない……これはまさに、アッパー系のヤバイ薬をきめてハイになっているということではないのか。とすると、そのうちラリった状態で車を暴走させて事故を起こしたり、「しぇしぇしぇのしぇ~」などと奇声を発しながら他人に危害を加えるような行動に走る危険があるということにもなってくる。そこで問わずにはいられない。いったいわれわれは、こんな経済をいつまでも続けていくべきなのだろうか。続けていけるものなのだろうか。
 問題の根底にあるのは、金融が異常に肥大化している状況だ。1970年代以降、金ドル交換停止によってゴールドという現物の裏づけをもたないドルが大量に供給され、それと同時並行的に進んだ金融自由化とあいまって世界中に実体のないマネーがあふれるようになった。これによってバブルが珍しい現象でなくなったというのは、ほうぼうで指摘されているところである。そして、バブルが弾けるとその後の景気回復のために金融緩和が行われ、さらに大量のマネーが供給されてふたたびバブルを作り出す――”バブルサイクル”の車輪が無気味な金属音をたてながら回転をはじめる。それが何度か繰り返されるうちにやがてバブルそのものがテイクオフし、世界経済はバブルありきで動く新しい段階に入った、というのが前回までのあらすじだ。これは、動物の体にたとえていうなら、尻尾にばかり栄養を注入してその尻尾の動きに体全体が振り回されているということである。トカゲのような生き物の尻尾が体の何倍ものサイズに肥大化し暴れまわったらどうなるか。そういう問題だといえる。
 ここで一つ断っておくが、私は金融という行為自体を批判しているわけではない。金融とはある意味で時間の取引であり(たとえば、一ヶ月の間つなぎの資金が必要である人がその資金を借りるとき、その金利ぶんは一ヶ月という時間への対価といえる)、その意味においてはしっかりと実体を持っている。尻尾というたとえが気にくわないなら、腕でも脚でもかまわない。要は、体の一部が極端に肥大化したなら、それがどこであれバランスを崩さずにはいられまいということだ。尻尾には尻尾の、腕には腕の、頭には頭の役割がある。そして、それに応じておのずと適正なサイズがきまっている。そのあるべきサイズを超えて肥大化することが問題なのだ。
 ここで、経済の話に戻る。いったい、デリバティブと総称される金融商品は、果たして金融の本来の役割に即したものなのだろうか? それは、社会を豊かにするのだろうか? 結論を先にいってしまえば、私は非常に懐疑的だ。先物やオプション取引ぐらいならともかく、リーマンショックのときにも問題視されたCDSのように、プロテクト権を売り買いするなどといった金融商品は、あきらかに実体を持たないただのマネーゲームのカードである。それは、CDSばかりでなく、ほかのさまざまな金融商品についてもいえると私は考える。サブプライムローンのようないかがわしい代物の寄せ集めが、ロケット工学を研究していたという学者らによって“加工”され(ロケットを墜落させないために制御する計算の手法がデフォルトを回避するリスク計算に応用されているらしい)、リスクの低い金融商品として売り出され、しかも売った側はそれがいずれ破裂する時限爆弾だということをうすうす知っていたらしいというのだから、開いた口がふさがらない。金融の緩和はしばしばモラルの低下を引き起こすといわれるが、現代のバーチャルでグローバルな金融市場は、「モラル? それって食べれるの?」とでもいわんばかりの、なかば詐欺師めいた危険ドラッグの売人たちが闊歩する無法の世界なのだ。
 サブプライムローンで問題になった「債権の証券化」という手法は、簡潔にいえば、借金手形を他人に売ってその代金で新たな借り手にカネを貸すことができるという仕組みである。こういうことを繰り返すと、カネの行き来が増えるので世の中の経済は一見非常に活発になったように見える。だがそれが虚構の繁栄に過ぎないということは、その果てに大規模な信用収縮が起きたという顛末からもわかるだろう。泡はいくら膨らましたところで泡にすぎないし、ドラッグで得られる快楽は一時的なものに終る。ドラッグの悦びは束の間、依存症と虚脱感は永遠だ。われわれはいま、こんなシャブ中経済から脱け出して真っ当に生きることを真剣に考えるべきときにきているのではないだろうか。

バベル――滅びを待つ砂の城

2014-12-22 14:40:36 | 政治・経済
 本ブログ2回目のテーマは、いわゆる“アベノミクス”である。安倍政権がその成果を強調し、「この道しかない」としている中心的政策だが、はたして、アベノミクスは本当に成功しているといえるのか? この点を、考えてみたい。
 といっても、先に断っておくが、私は経済の専門家でもなんでもない。経済の専門家が読めばつっこみどころ満載の文章になることだろう。だが、ヴァイツゼッカーふうにいえば、経済は経済学者だけのものではない。経済のよしあしはダイレクトに一般人の生活に影響する。そういう意味で、門外漢であってもブログで経済について思うところを述べるぐらいの権利はあるだろう。ということで、専門家諸先生には、あたたかい目でみてやっていただきたい。
 さて、アベノミクスについて語るにあたって、まずはじめに思い出しておきたいことがある。この点は、じつはいわゆる“異次元の緩和”という方針が打ち出された当初ほうぼうで表明されていた懸念なのだが、いつしか忘れられている感があるので、もう一度おさらいしておきたい。
 それは、「アベノミクスとは結局のところバブルを生み出すにすぎないのではないか?」ということだ。
 景気刺激のために、インフレ循環を作り出すべく異次元の緩和と大規模な財政出動によって大量のマネーを市場に供給する――それが、バブルを生み出すのではないかという懸念である。
 先に結論をいってしまえば、私はいまの経済の状態ははっきりバブルだと思っている。異次元の緩和は異次元のバブルを生み出す。そして、バブルはかつてとはあきらかに違う局面に入りつつある、というのが私の認識だ。
 その新しい局面とはすなわち、“バブルサイクル”とでも呼ぶべき、実体経済とリンクしない、金融サイドの動きのみで生成し破裂するバブルの循環である。実体経済とリンクしないために、金融面でフィーバーしているほどに実体経済は浮揚しない。しかしおそらく、それが破裂したときには実体経済にも深刻なダメージを与える。かつてのリーマンショックと同様に、金融が一気にフリーズし、行き場を失った膨大なマネーが怒涛のように商品市場に流れ込んで、原油や食糧といった生活必需品の価格を暴騰させる。結果、実体経済は冷え込んでいるにもかかわらず、生活必需品の価格は大幅に値上がりする――そんな未来図が見えてくる。トフラーのいうエコスパズムの世界は、すでに現実だ。そしてそれが、アベノミクスを待っている帰結ではないかというのが本稿の論旨である。
 といっても、安倍政権を支持する人からすれば、そんなことは推測にすぎないじゃないかという批判もあるだろう。なので、私が現状をバブルだと考える根拠をいくつか以下に示したい。
 一つは、かつてのバブルが、当局による大規模な金融緩和で生じた過剰流動性が大きな原因となっているということだ。
 かつて日本では、バブルとみなしうる現象が二度起きた。1970年代のいわゆる“狂乱物価”と、80年代末の、日本語における固有名詞としての“バブル経済”である。この二例ではいずれも、それに先立って通過当局が円安誘導策をとっていた。前者はニクソンショック後に、後者はプラザ合意後に進んだ急速な円高を是正するために、大規模なドル買い円売り介入や利下げが行われた。円安誘導のための介入は結果として市場に大量のマネーを流すことになるが、それがバブルの呼び水となったのだった。
 そして、いまである。
 現在の緩和策は円安誘導のためでこそないものの、目的がどうあれ、通貨当局の施策によって大量のマネーが市場に流されているという状況は、かつてのケースと共通する。そして、現実に存在する資金需要を超えるマネーは過剰流動性としてマネーゲームに投じられることになり、それが株価を上昇させる。機関(あるいは個人の)投資家が国債を売って金を手に入れても、よい貸出先がないためにそのカネはほとんどが投機の場でのみ動き回り、実体経済はほとんど好転せずに虚構の経済だけが膨張していく。
 これはまた、先の述べた“バブルサイクル”の一環でもある。この数十年間続けられてきた金融自由化によって、バブルはもはや珍しい現象ではなくなり、世界のどこかで常にバブルが生じている。しかも生成消滅を繰り返すうちにその規模は肥大化していっているように思える。バブルが崩壊するたびに景気刺激策として各国が金融緩和を行い、それが新たなバブルを作り出し、しかも市場のクラッシュをおそれて手を引くことができないという悪循環に陥っている。みんながこぞって息を吹き込み、大きな風船を破裂するまで膨らませているようなものだ。これを私は、バブルを超えた“バベル経済”と呼びたい。王侯貴族が欲望の赴くままに天にも届くような巨大な塔を建てるが、それは虚栄の城にすぎず、やがて崩れ落ちる。そしてその後には“乱れ”だけが残る――これがいまの世界の姿なのではあるまいか。
 そして、そこへもってきて、日本における異次元の金融緩和なのである。かつての円売り介入では結局のところ円安誘導という目標を達することはできなかったのだが、いまの緩和は実際に円安を引き起こしてもいる。その点からしても、私にはこれが巨大なバブルであると思えてならない。
 もう一つ、ここで専門家の意見もとりあげておきたい。マネックス証券のチーフエコノミストという村上尚己なる人物の2013年1月31日のブログだ(http://blogos.com/article/55215/)。ちなみにこの人は、「アベノミクスでバブルが起きる」という見方を否定している論者である。先述のとおり、安部政権発足当時にはバブルの懸念がいわれていたわけだが、村上氏はこの記事のなかで、そうした意見を「マーケットを知らない妄言」と一蹴する。そしてそのうえで、「バブルの心配も少しは出てくると言える」株価の水準を15000円としている。一方、現在の株価はというと、17000円を上回っている。つまり、アベノミクスはバブルだという見方を否定する論者が、それでも「バブルの心配も少しは出てくる」と考える水準を、すでにかなり超えているわけだ。だとすれば、この経済の動きをバブルと考えるのは至極もっともなことではないだろうか。
 先の衆院選において、安倍総理はあちこちでアベノミクスの成果を強調し、「この数字は○○年ぶり」というような数値を示したが、私にいわせればそれらは「これはバブルです」という証拠を並べているにすぎない。経済指標が高い数値を示すことがひょっとしていいことでもないのかもしれない例として、たとえば――これは先の衆院選の話ではないが――株価があげられるだろう。安倍政権一年目にあたる2013年に、株価はバブル期以来(もっというと、41年ぶりらしい)の高い伸び率を示したが、これは、現状がバブルだということを示す数値だというのがもっとも妥当な解釈である。株価がバブル以来の伸び? そりゃそうだ。だってこれはバブルなのだから。そしてバブルは、それがバブルであるかぎり、いずれは破裂する。地震や活火山の噴火が一定の期間を経れば必ず発生するように、バブルは必ずいつかはじける。この見方に立てば、アベノミクスとは波打ち際に砂の城を建てるような空しい業に過ぎない。どんなに立派な城を建てたところで、やがて潮が満ちてくれば、あっというまに消え去る運命だ。狂熱の余波で賃金がほんの少しばかりあがったとしても、ひとたびバブルがはじけたなら、半年ももたずにすべてが吹き飛ぶだろう。後に残るのは、いい知れぬ虚しさと、好況の間に得たわずかばかりの財産と、膨大な不良債権だけである。
 大量のカネを世間にばらまけば景気がよくなるというのは、ある意味当たり前の話である。本当に問題なのは、その後に副作用が起こらないのかということだ。私は、アベノミクスという政策は、深刻な副作用の危険をはらんでいると考える。できればその予測がはずれてくれることを祈ってやまないが……

あきらめと無関心に支えられた“合法的独裁体制”

2014-12-16 21:30:02 | 政治・経済
 さきの衆院選で、自公が圧勝した。
 熱狂もない、なんの風も吹かない、それでいて歴史的な圧勝というこの結果に、なにか無気味な空気を感じとった人は世の中に少なくないと思う。ほかならぬ私もその一人だ。選挙速報の画面に映るいびつな数字の列に、これはひょっとするとなにかとてつもなくヤバイことが進んでるんじゃないか――という漠然とした不安をおぼえずにはいられなかった。まるで、なにもかもが底なしの沼に飲み込まれていくような……
 そんな危機感から、ブログをはじめることにした。
 内容は、個人的な時事評論だ。本来私はネット上での情報発信などといったことにまったく積極的でない人間なのだが、それをやらずにいられないぐらいの寒気をひしひしと感じているのである。
 といっても、先に断っておくが、私は政治の専門家でもなんでもない。ゆえに、得られる情報は新聞やテレビのニュース、雑誌などのマスメディアで得られたものにほぼ限定され、政治家本人から直接聞いたというような裏話めいた情報をもっているわけでもなければ、ジャーナリストよろしく自ら取材した驚きのスクープがあるわけでもない。が、誰しもが知りうる事実に依拠しつつ、自分なりに思ったことを書くつもりだ。たまさかここを通りがかった方が、拙文をもって世の中について考える際の一助にしてくださればさいわいである。

 さて問題の衆院選だが、戦後最低の投票率(52.66%)がこの結果に関わっているということは、つとに指摘されているところである。いくつかの媒体で報じられているとおり、今回の衆院選での自民党の得票総数は、惨敗を喫した’09年のそれよりも低い。にもかかわらず、’09年の選挙では120議席ほどだったのが、今回は300議席近くを獲得している。獲得した票は減っているのに、議席のほうはほとんど3倍近くに増えているわけである。これには、小選挙区制の特性にくわえて、得票“数”が減っていても分母(つまり、投票総数)が小さくなると得票“率”は上がるという現象が少なからず寄与している。小選挙区制の数字のトリックを自公の選挙協力がブーストさせるというこれまでのおなじみの構図を、歴史的低投票率がさらに後押ししたのだ。
 では、なぜ投票率はこんなにも低くなってしまったのか?
 投票率の長期的な低落傾向にはさまざまな理由が考えられるだろうが、今回の過去最低の投票率という数字(と、前回’12年衆院選の結果)にかぎってみれば、その背後にあるのは一種の“あきらめ”だと私は思っている。一度政権交代で民主党にやらせてみたが、ひどり有様だったじゃないか、というなかばトラウマまじりの諦観である。’09年衆院選で圧勝し順風を受けて離陸した民主党政権だったが、やがて乱気流に遭遇。つぎつぎとエンジンが停止し、乗員は脱出し、翼は奇妙にねじれ、最後は機体がぼろぼろになりながら、決死の特攻状態で解散。しかも、特攻してるのに相手はかすり傷一つ負っていない……という惨状だった。このあまりのていたらくに、政権交代なんてしても意味がない、しないほうがいい、というある種「政権交代アレルギー」のようなものが有権者の間にできてしまったのではないだろうか。野党を変に勝たせてまたあんなグダグダ状態になるぐらいだったら、もう自公政権でいいじゃない、なんか景気もいいみたいだし、というわけである。そのような「いいじゃないのぉ」の消極的支持と、少なからぬ有権者が失望から政治そのものへの無関心に陥り投票自体を放棄したことによる空前の低投票率が、自公を圧勝させた――と、私には思われる。それは前回の選挙でもある程度いえることだったが、今回の選挙結果からすると、その状況はいまも変わらず、しかも固定化しそうな雲行きだ。
 安倍総理もそこを見透かしていて、はっきりいってなめてかかっている。
 自公に対抗できる野党は目下存在しないし、今後もしばらくの間はできそうにない、という見通しがそこにはある。野党は林立していて、そのなかのいくつかがくっつこうとしても、うまくいかない。まるで上限が設定されてでもいるかのように、合流して百人規模の政党になろうとするとすぐに拒絶反応を起こして分裂する、あるいは、ほかの政党と合流しようとするとそれに反対するグループが離脱して結局総数はあまり変わらない……というような不毛なアクションを繰り返すばかり。いっぽう、有権者の側もかつての民主党政権の残念な顛末から新党不信に陥ったのか、新興政党への支持は広がらない。そして、支持が広がらないがゆえに新党は勢力を拡大できず、政権獲得の実現性がないと見られてなおさら伸び悩む――という負のスパイラルが生じる。野党が政権を獲得しようと思ったら国会議員が少なくとも240人ぐらいは必要なわけだが、これまでの彼らの離合集散っぷりをみていれば、そんな数字は到底達成できそうにないと誰しもが思うだろう。野党の政治的コンテスタビリティは今かぎりなくゼロに近づいており、したがって、与党は「選挙に負けるかも」という心配をまったくしなくていいのである。そして、それを背景にして政府は、原発再稼動、集団的自衛権、特定秘密保護法……といった国民の間で賛否が拮抗するよう問題でも自分たちの案をゴリ押しすることができる。つまりは、なめているのだ。今回の解散総選挙も、まさにその「なめてる」感の表れだった。どうせここで選挙やってもあんたたち何もできないでしょ、と挑発するかのような解散であり、その思惑通りに自公が完勝した。先述のとおり、得票数は減っていて、数字のからくりによる勝利でありながら、そしてそのことを彼ら自身承知していながら、「国民のみなさまの支持をいただくことができた」とぬけぬけと言い放ってみせた。今回のこの結果によって、与党は選挙に負ける心配は当分なさそうだという見通しを強め、今後さらにやりたい放題になっていくものと思われる。
 この状況を、私は“合法的独裁体制”と呼びたい。
 独裁政権はなぜ好き勝手なことができるのか? それは、何をやっても選挙で落とされる心配がないからだ。独裁者はまず選挙制度をいじり、それを行わせない、作らせない、骨抜きにするなどの手段を講じてから独裁にとりかかる。そしてそれと同じ状況が、この日本にもできつつあるというのが本稿の論旨だ。強い野党勢力の不在と、そこからくる有権者のあきらめと無関心によって、与党は何をやろうと選挙に負ける心配がない。そのために――選挙制度が存在しているにもかかわらず――独裁国家と同じ状況が生じているのだ。
 ここで一つ断っておくが、私は別にいまの政府与党を“独裁体制”だなどといいたいわけではない。私は現政権に批判的ではあるが、“独裁体制”というのはいくらなんでも言いがかりだろう。投票率がどうあれ、結局のところ政府は選挙というまったくもって合法的なプロセスを通して作られるものだからだ。自公が衆院の3分の2を占める状態を許しているのは、対抗勢力を作れない野党であり、投票権をみすみす放棄する47%あまりの有権者である。そこが変わらなければ、少なくとも現行の選挙制度が続くかぎり、自公連立政権は勝ち続け、好き勝手な政策を進めるだろう。
 私がここでいいたいのは、やはり政権交代の可能性はつねに一定のたしからしさで存在していなければならないということだ。そうでなければ、“事実上の独裁体制”がだらだらと続くことになる。独裁体制が腐敗を生み国家そのものを蝕んでいくというのは世界史上あまたの実例が示しているところで、れっきとした普通選挙制度を持ちながらそんな事態を許すとしたら、これは恥ずべきことといわねばならない。自公政権を脅かし、こいつはヤバイな、好き勝手なことはやってられないぞ――と思わせるだけの政治勢力を形成することが、いま求められている。