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川内原発再稼働――亡国の総理、再三の暴挙

2015-08-12 20:58:05 | エネルギー問題
 昨日、鹿児島県の川内原発が再稼働した。
 またしても、圧倒的大多数の反対意見を無視した強行である。与党側は、事業者の判断を強調しているが、安倍政権が積極的に原発再稼働を推進してきたのは周知の事実であり、この再稼動もまた、安倍政権の民意無視の一つとして記憶されるべきものだろう。
 このブログでは最近ほとんど安保関連法案のみをとりあげてきたが、この機会に原発問題についても書いておきたい。いいたいことは山ほどあるが、とりあえず、特に重要だと思える2、3の点について述べる。
 私は、原発の安全は保障できないと考えている。もとよりゼロリスクがありえないのは当たり前で、規制委の田中委員長なども「絶対安全とはいえない」といっているわけだが、私は原発の安全はそういう以前のレベルで見るべきだと思う。

 原発推進派は、「ゼロリスクを求めるのは非現実的だ」という。リスクはあるが、それはごくわずかなものであり、原発を稼働させるメリットのほうが大きいと主張する。
 それについては、まず「避難の過程で死者が出たり、生活難に陥って自殺する人が出たり、故郷に帰れない多数の避難者を出しても、賠償にかかる費用のほうが安いからかまわない」といえるのか、というサンデル教授的な問いを発したくもなるが、しかし、私がここで問いたいのは、本当に原発が事故を起こすリスクは“ごくわずか”なのかということである。私には、そうは思えない。というのも、これまでの原発、あるいはその関連施設でおきた事故を見ていると、原子力関連施設で事故が起きるリスクは、計算上もとめられる数値よりもかなり高いようにみえるのだ。つまり、事故が発生する危険は、原発推進派が主張するほど低くはないのではないか――という疑念がぬぐえないのである。

 原発には、安全を確保するためのいくつもの措置が施されている。それはそのとおりだろう。それらがすべて決められたとおりに機能していれば、事故が発生するリスクは無視できる程度に小さくなるかもしれない。だが、それはあくまでも、「すべて決められたとおりに機能していれば」の話である。安全のために設置された機器が正常に機能していなかったり、作業員がマニュアルで定められた手順を守らなかったりしたら、リスクは上昇することになる。原発にたずさわっている事業者は、そういったところをきちんと守っているのだろうか? 今後も守っていくのだろうか? それははなはだ疑問である。機器の点検がおろそかになったり、マニュアルを無視したりといったことが積み重なれば、計算上のリスクが100万分の1だったとしても、実際のリスクは1000分の1ぐらいになっているかもしれない。

 実際に起きた事故として、1999年に東海村で発生した臨界事故を考えてみよう。この事故は原発ではなく燃料の加工工場で起きたものだが、死者も出した臨界事故という重大事象であるし、原発を運用する以上、加工工場も不可欠の施設であるから、広い意味で“原子力発電”の問題ととらえていいだろう。
 東海村の事故では、件の加工工場に“裏マニュアル”が存在したことが知られている。現場の作業員が、定められた手順をそのとおりに守っていなかったのである。なぜそのようなことになったかというところに、原子力産業が抱える構造的な問題がある。それはすなわち、「安全のために必要なコストをかけると、おそろしく非効率的になってしまう」ということである。
 ここでいうコストとは、必ずしもカネのことではない。
 東海村の工場には燃料加工のための機械があったわけだが、それで一度に大量の燃料を処理しようとすると、臨界事故を起こす危険がある。そのため、絶対に臨界を起こさないためには機械に投入する量を少なくする必要がある。規定に従えば、一回の操業で6リットルぐらいしか燃料を製造できないのだという。工場の巨大な機械群を一回動かして、わずか数リットル――非常に非効率的である。このような、ばかばかしいとも思えるような非効率が随所にみられ、現場の作業員が勝手に自分たちの判断で作業工程を変更したりした。ここで、まず安全の措置がスルーされた。それでも、高度な知識や技術を持った人たちがその作業にあたっているうちは、まだそれほど問題ではなかった。おかしな言い方だが、専門的な知識を持っている技術者は、「どこまでルールを破っても大丈夫か」がある程度わかっていたのである。彼らは、「本当に踏み越えたらまずい一線」をわかっていて、そのぎりぎりのところで作業をしていた。
 しかし、その後状況が変わる。リストラが行われ、それほど専門的な技術を持たない人たちが燃料処理に携わるようになる。彼らは、どこまでが大丈夫でどこからが本当に危険なのかがまったくわかっていなかった。そして、現場には効率を優先してマニュアルを無視する慣行が残されていた――こうして、事故は起こるべくして起きたのである。

 “事故”というのは、いくつもの不運な偶然が重なっておきるものだろう。
 それを防ぐために、フェールセーフという考え方がある。5つの安全弁をつけておけば、そのうちの2つ3つが機能しなくなっても、安全は保たれる。そんなふうに、“冗長性”――つまり、余裕を持たせておくことで、いくつかの不運な偶然が重なっても大丈夫なようにするわけだ。ところが、原発業界では、この“冗長性”をムダなものとして無視する姿勢が横行しているようにみえる。報道されているだけでも、機器の点検を何十年もしていなかったとかいう話は、枚挙にいとまがない。報道されていないところでは、もっとそういう例があると考えるのは自然なことだろう。これは、先ほどのたとえでいうと「安全弁が5つもあると作業に支障が出るから、2つ外してしまおう」といっているようなものだ。そうなると、「不運な偶然」が2つ3つ重なっただけで危険な状態に陥ることになる。日本の原発業界はそういう状況になっているように私には見える。
 そもそも、リスクというのは目に見えない。だから、一つの工程を無視しても、それでどれだけ危険が増したかは誰にもわからない。そうして、気づかないうちに、リスクが高まっている――そういう愚を日本の原子力ムラは犯しているのではないか。
 東電は、福島の事故が起きる前には「炉心が損傷するような事故が起きる可能性は1千万年に1回」と試算していたそうだが、実際には運転開始からわずか40年で3基がメルトダウンを起こした。この一事からも、彼らのリスク計算がいかに甘く、あてにならないかがわかる。リスクとそれを低減するためのコストのバランスという根本的な問題を解決しないままの原発再稼働は、安倍政権がいかに国民の安全など考えていないかということの証明である。