今日は、70年目の終戦記念日である。
今年もまた、安倍総理は式辞で“加害責任”に言及せず、またあらためて、総理のスタンスが明らかにされることとなった。この人は、やはりどうしても自分を「加害者」という立場におきたくないのである。被害者ヅラをしていたいのである。
そのことは、昨日の「安倍談話」にもはっきりとあらわれていた。
注目されていた4つのキーワードも、一応入ってはいるものの、どこか他人事のような当事者意識の希薄な言い方に終始するか、あるいは、一般論のような言い回しに逃げている。これでは、各方面から批判を浴びるのも当然といえよう。安倍総理自身が“当事者”でないのは当たり前だが、日本という国のトップとして閣議決定もした談話を発表する以上、「自分は当事者ではない」という言い分は通用しない。そこを考えずに談話など出すから、中韓ばかりでなく欧米のメディアからも批判されるはめになったのである。
朝日新聞電子版が報じるところによれば、「おわび」の文言はぎりぎりまで調整が続いており、一週間ほど前の原案の段階ではこの言葉は入っていなかったという。それが、公明党側との最終的な調整で結局「おわび」の文言を入れることに落ち着いた。
しかしそれも、「過去の政権がそうしてきた」という過去の話と「今後もそうする」という未来の話になっていて、肝心の「いまの自分」はどうなのかということはぼかされている。意図的にぼかしたことはあきらかだろう。各方面への“配慮”で「おわび」という言葉を入れざるをえないところに追い込まれたものの、その主語を自分にはしたくない。それで、曖昧模糊、意味不明な談話になってしまったわけである。かくして大多数の国民は、戦後70年という節目の年に、自分のくだらない被害妄想と意地と妥協の産物を発表した総理の愚かさと、このような恥ずかしい総理を戴くことになってしまった有権者である自分たちの情けなさとを思い知らされることになった。
安倍総理は先日地元入りした際に「2018年まで続けたい」といったそうだが、冗談もほどほどにしておいてもらいたいものである。明治維新から50年のときの総理(寺内正毅)と100年の総理(佐藤栄作)がいずれも山口出身だったために、明治維新から150年にあたる2018年も山口出身である自分が総理でいたいということだそうだが、ほかの都道府県民にとってはどうでもいいそんな事情で安倍政権があと3年も続いたのでは、日本がボロボロになってしまう。というか、明治維新から150年云々というのはたぶんほとんどの山口県民にとってもどうでもいいことだと思うのだが、どうしても2018年の総理が山口県出身であってほしいのなら、誰かほかをあたってください。あなたはもう結構です――というのが、多くの国民の声ではあるまいか。
今年もまた、安倍総理は式辞で“加害責任”に言及せず、またあらためて、総理のスタンスが明らかにされることとなった。この人は、やはりどうしても自分を「加害者」という立場におきたくないのである。被害者ヅラをしていたいのである。
そのことは、昨日の「安倍談話」にもはっきりとあらわれていた。
注目されていた4つのキーワードも、一応入ってはいるものの、どこか他人事のような当事者意識の希薄な言い方に終始するか、あるいは、一般論のような言い回しに逃げている。これでは、各方面から批判を浴びるのも当然といえよう。安倍総理自身が“当事者”でないのは当たり前だが、日本という国のトップとして閣議決定もした談話を発表する以上、「自分は当事者ではない」という言い分は通用しない。そこを考えずに談話など出すから、中韓ばかりでなく欧米のメディアからも批判されるはめになったのである。
朝日新聞電子版が報じるところによれば、「おわび」の文言はぎりぎりまで調整が続いており、一週間ほど前の原案の段階ではこの言葉は入っていなかったという。それが、公明党側との最終的な調整で結局「おわび」の文言を入れることに落ち着いた。
しかしそれも、「過去の政権がそうしてきた」という過去の話と「今後もそうする」という未来の話になっていて、肝心の「いまの自分」はどうなのかということはぼかされている。意図的にぼかしたことはあきらかだろう。各方面への“配慮”で「おわび」という言葉を入れざるをえないところに追い込まれたものの、その主語を自分にはしたくない。それで、曖昧模糊、意味不明な談話になってしまったわけである。かくして大多数の国民は、戦後70年という節目の年に、自分のくだらない被害妄想と意地と妥協の産物を発表した総理の愚かさと、このような恥ずかしい総理を戴くことになってしまった有権者である自分たちの情けなさとを思い知らされることになった。
安倍総理は先日地元入りした際に「2018年まで続けたい」といったそうだが、冗談もほどほどにしておいてもらいたいものである。明治維新から50年のときの総理(寺内正毅)と100年の総理(佐藤栄作)がいずれも山口出身だったために、明治維新から150年にあたる2018年も山口出身である自分が総理でいたいということだそうだが、ほかの都道府県民にとってはどうでもいいそんな事情で安倍政権があと3年も続いたのでは、日本がボロボロになってしまう。というか、明治維新から150年云々というのはたぶんほとんどの山口県民にとってもどうでもいいことだと思うのだが、どうしても2018年の総理が山口県出身であってほしいのなら、誰かほかをあたってください。あなたはもう結構です――というのが、多くの国民の声ではあるまいか。