今日から待ちに待った家族旅行、1泊2日で広島に行きます。
朝は全員テンション高く、5時半起きで準備、6時過ぎにセレナで出発して、9時半には広島市内に到着でした。
↑雪がちらつく中、平和公園と元安川を挟んで反対側にある原爆ドームを見学。ママさんと咲良夢が忘れ物して
セレナに取りに帰ってる間にボランティアガイドの深井さんに声をかけられ、30分コースでお願いしました。
↑実際の攻撃目標だったT字の相生橋から東側に原爆ドームが見えます。本当の爆心地はその向こうの島医院という病院の
上空600mだったそうで、この高さで爆発させて、地上に最大の破壊力を発揮するためだったと。
↑動員学徒記念碑に広島だけでは無く、大阪や福岡、大連の中学校の名前を見つけて、当時の子供たちが
いかに戦争に駆り出されていたかを知りました。そして、平和公園に移動して平和の鐘もつかせてもらいました。
この鐘には国境の無い世界地図が描かれていて、突かれる箇所には原子のマークがあるのが意味深い。
周囲には2000年前の遺構から発掘された種を植えた蓮が咲くそうです。
歩きながら深井さんが色んな事を教えてくれました。平和公園になったこの中州は、戦前は中島本町を中心に
当時は大きな繁華街だったと。つまり、軍事施設でもない一般市民の街中に原爆を落とされたもんだから、
犠牲者のほとんどが一般市民で、しかもその日は朝から建物疎開(爆撃による火災の延焼を防ぐため、わざと
密集地の建物を壊す作業)に多くの子供が従事してたらしい。これ、絶対に米軍は狙った気がするが。。。
爆心地は3000~6000℃の高熱に晒され、爆風の威力は最大30tだったと。これでは、爆心地周辺に
いた人たちは一瞬で亡くなったのも尤もやな。。。
西側の太田川を挟んだ隣には本川小学校があり、当日は多くの子供たちが工程で遊んでて、生き残りは先生を
含めた3人だけだったそう。しかも高学年は疎開していたので、その子たちが小学校に戻ってきてからは、
両親と小さな弟妹がいない、いわゆる戦災孤児として生きていかねばならなくなったと。
↑この原爆ドームが残ったのは、鉄筋だったことと、西洋設計で窓が多かったため、上からの爆風の逃げ道が
あったからやってんて。この広島の地面は1mほど当時から嵩増しされてて、その1mは原爆の瓦礫層とのこと。
あまりにも瓦礫が多すぎ、その全てを廃棄する工数も場所も無かったので、そのまま上に埋め立てるしか
なかったんやって。
その他にも、平和公園は途中から『無宗教の施設』になったので、観音様(風の像)とか、特定宗教を思わせる説明は
控えていること。行き場を失った戦災孤児が広島やくざを形成していったこと、そして朝日新聞の指摘から、平和公園の
敷地内に韓国人のための慰霊碑を『喝っ』の張本さんが委員長としてゴリ押しで建てたことなどなど、30分を遥かに
超えて、深井さんと話し込んでしまいました。
↑この折り鶴の塔も、被爆して白血病で亡くなった佐々木禎子さんのために当時の友達が寄付を募って建てたんやけど、
当時は被爆どころか、広島出身ということも差別対象になるから言えなかったそう。そんな中、禎子さんだけが注目され、
同情の声が集まったもんやから、自宅の散髪屋さんへの誹謗中傷の電話が凄くて、とうとう残された遺族は夜逃げ同然に
引っ越しせざるを得なかったんやって。禎子さんだけでなく、そんな子たちはたくさんいたからと言って、妬み嫉妬で
誹謗中傷して良いわけも無く、全く、人間というものの本性は恐ろしいもんやなと感じたべ。
↑そしてTVでよく見る慰霊碑へ。これも丹下健三が向こうに原爆ドームが見えるよう直線性を考慮した設計で
形は埴輪をイメージして建築したんやけど、最初はイサム・ノグチって日系アメリカ人の案が選ばれたらしい。
でも、さすがに日本の慰霊施設の建築に日系アメリカ人はどうなのって声が大きくなり、イサム・ノグチの案は
採用を見送られ、いまの丹下健三が選ばれたそうです。
↑深井さんがせっかくなので、国立の祈念館も案内してくれました。ここは無料で入れる墓地みたいな施設で、帽子を脱いで
らせん状のスロープを地下に降りていくと、そこは360度、原爆投下直後の広島の町が映し出されていました。
中心には湧き水のモニュメントがあり、ここに限らず、この平和公園周辺には水に関するモニュメントが数多くあるけど、
これは原爆の熱で水を欲しがり亡くなって行った人たちを、少しでも慰めるようにという意味らしい。
ここで、深井さんに我々の名前を言ってもらい、皆で黙祷しました。
最後は大きな声で『あやまちは二度と繰り返しませんから』と言ってくれました。
そして、深井さんは涙ぐみながら、取引先の社長の話をしてくれました。
その社長は原爆投下後にT字の相生橋を通りかかた時、一人の被爆者に水をせがまれ、自分の水筒を渡したと。
そして次の日に相生橋に行ってみると、渡した自分の水筒を中心に、8人が横たわって亡くなってたことを見て、
その光景が未だに目に焼き付いて消えず、自分はその時、どうしたら良かったのか、罪悪感に苛まれ続けていると。
そんな社長に、深井さんは『きっと、社長は良いことをしたんだと思いますよ』と言うことが精いっぱいだったと。
そして別れ際に深井さんは、戦争の悲惨さと平和の尊さをガイドする立場でありながら、決して世界から戦争は無くならないと。
原爆によって広島は壊滅したが、原爆によって驚異的な速さで復興を成し遂げ、その復興の際に多くの金が広島に落とされた
ことは事実であると。
表向きの平和と、その裏にある様々な事実に目を向けた上で、本当の平和を考える必要があると思ったパパさんでした。
いやあ、深井隆爾さんに巡り合えて良かった。御年80歳とのことで、いつまでもお元気でいてほしいです。
↑その後、予約時間を2時間ほど遅れて平和資料館へ。多くの写真や遺品を見学したけど、先に深井さんのガイドを
聞けたおかげで、さらに考えながら見学できました。
アメリカにも真珠湾のうらみがあるから(あれは軍事施設やけどね)原爆投下は分からんでもないけど、それでも
長崎まで原爆落としたのはやり過ぎやと思う。
長崎に関しては、小倉のある我々北九州市民は申し訳ない感じです。
原爆投下の場所は当初4候補(広島、長崎、小倉、新潟)あり、新潟は最初に外されたそう。
広島に投下した後、本来は小倉だったらしいけど、小倉は煙幕を自分たちで焚いた(これは深井さんの話で、
パパさんは当日、小倉上空の天気が悪く雲が多かったと思ってた、その他にも前日までの空襲の煙が残ってた説などあり)
ため、長崎に目標が行ってしまったから。
そして、広島の市街地に投下するのも、やり過ぎやけどね。一般市民を標的とした無差別殺人には変わりないから。
例えば、トルーマンも東京湾沖にどの日本人にも見えるように原爆を投下して、遠くでその威力を見せつけて
日本軍の戦意を喪失させるとかいう手段はとれんかったんかいな。
その投下日時を書いたビラを日本中にB51からバラマキ、誰しもが見えるようにすれば良かったんちゃうん。
その他、東京湾ではなく、富士山に落として消し飛ばすとか。。。
いずれにしても、民間人への攻撃を回避していれば、アメリカも世界で唯一、原爆を使用した国として歴史に名を
残す重みを少しでも減らせた気がするんやけど、当時のトルーマンがそこまで考えてたとは思えんけどね。
原爆開発に莫大な費用をかけたために、その成果発表が欲しかったんやと思う。。。
↑資料館の出口に、深井さんが教えてくれたアオギリの木を見つけました。この木だけが唯一原爆で生き残った木
なんやて。この木以外は全て無くなったらしい。そして右側には被爆2世のアオギリが生えていました。
↑色々と考えさせられ重たい気分でしたが、実は腹が減って、資料館に入る前に広島風お好み焼きを食べに行きました。
平和祈念館南にある『みっちゃん』ていう有名な店で、パパさんは牛すじ、ママさんはスタミナ、來夢は海鮮などなど、
いろんな味を楽しめたべ。
↑平和な時代を噛みしめながら、これからも戦争だけは何とか回避したいもんやね。
咲良夢はカキ、粋夢は餅チーズ。時代が時代なら飢えて死んでたのに、ありがたいことです。
↑この笑顔、まあ、子供は宝というからね。ちなみに粋夢の食欲は、もはや大人の一人前では足らんレベルに
なってきてて、恐ろしいほどの食欲なり。
↑資料館を後にしてセレナで宮島口まで移動し、いよいよ宮島へフェリーで渡ります。ちなみにフェリーは駐車場でお留守番。
持っていけなくはないけど、島には信号機が無く、そもそも道が狭いらしい。向こうに小さく、厳島神社の大鳥居が見えます。
↑久々のフェリーに興味津々の子供たち。大阪に帰る時と違って15分くらいしか乗船せんけどね。
天気が良く、暖かくて良かったばい。そして17時前に無事、宮島到着です。
↑早速いてました、シカさん。気が付いたんやけど、奈良のシカさんよりもメッチャおとなしい。
たぶん、鹿せんべいが無いからやと思うんやけど、実際はどうなのかな。。。
↑先に宿にチェックインしてから一息。途中でゲットした宮島のIPA地ビールで乾杯です。
少し時間が遅くなったけど、晩御飯までの時間で散策に出かけることにしました。
↑どうも宿の裏がシカさんたちの集まり場所の様で、ここで寝るとのこと。
島のほとんどが山やし、人との共生やね。一頭、連れて帰って、家で飼おうかな(笑)
↑海岸線を歩いてると気持ちいいなり。瀬戸内海の夕暮れです。
『瀬戸の花嫁』の歌が似合いそうやね。って、古いな(笑)
↑お店は17時半までで多くが閉まってたけど、開いてた『藤井本舗』さんで生もみじまんじゅうを試食。
美味しかったので、おすすめの羊かんと一緒にお土産で飼いました。
↑目を離したら、粋夢が海岸におるし。今日は20時過ぎが干潮とのことで、厳島神社の大鳥居に歩いて近づけます。
1000年近くも前に、よくまあ凄いのを造ったもんやね。そんだけ清盛の権力って絶大やったと思う。
↑そして出てきました、大鳥居。これはデカいな~。とくに中心の柱はまっすぐじゃなくて、かなり湾曲してるんやね。
なんかエリンギみたい(笑)これをよく、干潮の時だけで設置したもんやな。
↑神社側からと海側からと。明日の午前中は潮が満ちてるから、近づいて撮れるのは今だけやからね。
しかし絵になる大鳥居やわ。パパさん初めて見たけど感動です。
↑その後、広場でイベントをやってて、自転車発電で2時間映画を見続けようという企画。
パパさんも参加してこいだけど、左ひざの裏がピキッっていったので止めました。このカキ串も美味かった。
↑宿に戻って、19時過ぎから晩御飯開始。やっぱカキ、さらに、海が近いので刺身がうまいなり。
ビールも頂けて最高です。こりゃ、幸せですな。
↑粋夢と都羽夢も食べる食べる。今日は一日、よく歩いたもんね。パパさんは1万6000歩も歩いてました。
たくさん食べて、明日は海に浮かぶ厳島神社を見に行かんとね。
↑カキは土手鍋と蒸しガキになりました。これ、最高に旨い。
日本酒呑みたいけど、酔い潰れそうなので我慢、我慢です。
↑來夢と咲良夢も食欲旺盛です。お腹いっぱいになってきたけど、アナゴ飯も美味い。
そしてちょうどいい量なり。大満足で御馳走様、そして部屋に戻って・・・
↑大富豪開始(笑)こりゃ、夜な夜な続きそう。まるで修学旅行状態です。
ま、今夜は大目に見ましょう。パパさんも部屋でビール呑み直しです。
↑ちなみにTVはやっぱりカープ、カープなんやね(笑)
達川さん、久々に見ました。『宮島さんの神主が、おみくじ引いて申すには~♪』
めっちゃ充実した一日でした。
ちゅーわけで、失礼!
朝は全員テンション高く、5時半起きで準備、6時過ぎにセレナで出発して、9時半には広島市内に到着でした。
↑雪がちらつく中、平和公園と元安川を挟んで反対側にある原爆ドームを見学。ママさんと咲良夢が忘れ物して
セレナに取りに帰ってる間にボランティアガイドの深井さんに声をかけられ、30分コースでお願いしました。
↑実際の攻撃目標だったT字の相生橋から東側に原爆ドームが見えます。本当の爆心地はその向こうの島医院という病院の
上空600mだったそうで、この高さで爆発させて、地上に最大の破壊力を発揮するためだったと。
↑動員学徒記念碑に広島だけでは無く、大阪や福岡、大連の中学校の名前を見つけて、当時の子供たちが
いかに戦争に駆り出されていたかを知りました。そして、平和公園に移動して平和の鐘もつかせてもらいました。
この鐘には国境の無い世界地図が描かれていて、突かれる箇所には原子のマークがあるのが意味深い。
周囲には2000年前の遺構から発掘された種を植えた蓮が咲くそうです。
歩きながら深井さんが色んな事を教えてくれました。平和公園になったこの中州は、戦前は中島本町を中心に
当時は大きな繁華街だったと。つまり、軍事施設でもない一般市民の街中に原爆を落とされたもんだから、
犠牲者のほとんどが一般市民で、しかもその日は朝から建物疎開(爆撃による火災の延焼を防ぐため、わざと
密集地の建物を壊す作業)に多くの子供が従事してたらしい。これ、絶対に米軍は狙った気がするが。。。
爆心地は3000~6000℃の高熱に晒され、爆風の威力は最大30tだったと。これでは、爆心地周辺に
いた人たちは一瞬で亡くなったのも尤もやな。。。
西側の太田川を挟んだ隣には本川小学校があり、当日は多くの子供たちが工程で遊んでて、生き残りは先生を
含めた3人だけだったそう。しかも高学年は疎開していたので、その子たちが小学校に戻ってきてからは、
両親と小さな弟妹がいない、いわゆる戦災孤児として生きていかねばならなくなったと。
↑この原爆ドームが残ったのは、鉄筋だったことと、西洋設計で窓が多かったため、上からの爆風の逃げ道が
あったからやってんて。この広島の地面は1mほど当時から嵩増しされてて、その1mは原爆の瓦礫層とのこと。
あまりにも瓦礫が多すぎ、その全てを廃棄する工数も場所も無かったので、そのまま上に埋め立てるしか
なかったんやって。
その他にも、平和公園は途中から『無宗教の施設』になったので、観音様(風の像)とか、特定宗教を思わせる説明は
控えていること。行き場を失った戦災孤児が広島やくざを形成していったこと、そして朝日新聞の指摘から、平和公園の
敷地内に韓国人のための慰霊碑を『喝っ』の張本さんが委員長としてゴリ押しで建てたことなどなど、30分を遥かに
超えて、深井さんと話し込んでしまいました。
↑この折り鶴の塔も、被爆して白血病で亡くなった佐々木禎子さんのために当時の友達が寄付を募って建てたんやけど、
当時は被爆どころか、広島出身ということも差別対象になるから言えなかったそう。そんな中、禎子さんだけが注目され、
同情の声が集まったもんやから、自宅の散髪屋さんへの誹謗中傷の電話が凄くて、とうとう残された遺族は夜逃げ同然に
引っ越しせざるを得なかったんやって。禎子さんだけでなく、そんな子たちはたくさんいたからと言って、妬み嫉妬で
誹謗中傷して良いわけも無く、全く、人間というものの本性は恐ろしいもんやなと感じたべ。
↑そしてTVでよく見る慰霊碑へ。これも丹下健三が向こうに原爆ドームが見えるよう直線性を考慮した設計で
形は埴輪をイメージして建築したんやけど、最初はイサム・ノグチって日系アメリカ人の案が選ばれたらしい。
でも、さすがに日本の慰霊施設の建築に日系アメリカ人はどうなのって声が大きくなり、イサム・ノグチの案は
採用を見送られ、いまの丹下健三が選ばれたそうです。
↑深井さんがせっかくなので、国立の祈念館も案内してくれました。ここは無料で入れる墓地みたいな施設で、帽子を脱いで
らせん状のスロープを地下に降りていくと、そこは360度、原爆投下直後の広島の町が映し出されていました。
中心には湧き水のモニュメントがあり、ここに限らず、この平和公園周辺には水に関するモニュメントが数多くあるけど、
これは原爆の熱で水を欲しがり亡くなって行った人たちを、少しでも慰めるようにという意味らしい。
ここで、深井さんに我々の名前を言ってもらい、皆で黙祷しました。
最後は大きな声で『あやまちは二度と繰り返しませんから』と言ってくれました。
そして、深井さんは涙ぐみながら、取引先の社長の話をしてくれました。
その社長は原爆投下後にT字の相生橋を通りかかた時、一人の被爆者に水をせがまれ、自分の水筒を渡したと。
そして次の日に相生橋に行ってみると、渡した自分の水筒を中心に、8人が横たわって亡くなってたことを見て、
その光景が未だに目に焼き付いて消えず、自分はその時、どうしたら良かったのか、罪悪感に苛まれ続けていると。
そんな社長に、深井さんは『きっと、社長は良いことをしたんだと思いますよ』と言うことが精いっぱいだったと。
そして別れ際に深井さんは、戦争の悲惨さと平和の尊さをガイドする立場でありながら、決して世界から戦争は無くならないと。
原爆によって広島は壊滅したが、原爆によって驚異的な速さで復興を成し遂げ、その復興の際に多くの金が広島に落とされた
ことは事実であると。
表向きの平和と、その裏にある様々な事実に目を向けた上で、本当の平和を考える必要があると思ったパパさんでした。
いやあ、深井隆爾さんに巡り合えて良かった。御年80歳とのことで、いつまでもお元気でいてほしいです。
↑その後、予約時間を2時間ほど遅れて平和資料館へ。多くの写真や遺品を見学したけど、先に深井さんのガイドを
聞けたおかげで、さらに考えながら見学できました。
アメリカにも真珠湾のうらみがあるから(あれは軍事施設やけどね)原爆投下は分からんでもないけど、それでも
長崎まで原爆落としたのはやり過ぎやと思う。
長崎に関しては、小倉のある我々北九州市民は申し訳ない感じです。
原爆投下の場所は当初4候補(広島、長崎、小倉、新潟)あり、新潟は最初に外されたそう。
広島に投下した後、本来は小倉だったらしいけど、小倉は煙幕を自分たちで焚いた(これは深井さんの話で、
パパさんは当日、小倉上空の天気が悪く雲が多かったと思ってた、その他にも前日までの空襲の煙が残ってた説などあり)
ため、長崎に目標が行ってしまったから。
そして、広島の市街地に投下するのも、やり過ぎやけどね。一般市民を標的とした無差別殺人には変わりないから。
例えば、トルーマンも東京湾沖にどの日本人にも見えるように原爆を投下して、遠くでその威力を見せつけて
日本軍の戦意を喪失させるとかいう手段はとれんかったんかいな。
その投下日時を書いたビラを日本中にB51からバラマキ、誰しもが見えるようにすれば良かったんちゃうん。
その他、東京湾ではなく、富士山に落として消し飛ばすとか。。。
いずれにしても、民間人への攻撃を回避していれば、アメリカも世界で唯一、原爆を使用した国として歴史に名を
残す重みを少しでも減らせた気がするんやけど、当時のトルーマンがそこまで考えてたとは思えんけどね。
原爆開発に莫大な費用をかけたために、その成果発表が欲しかったんやと思う。。。
↑資料館の出口に、深井さんが教えてくれたアオギリの木を見つけました。この木だけが唯一原爆で生き残った木
なんやて。この木以外は全て無くなったらしい。そして右側には被爆2世のアオギリが生えていました。
↑色々と考えさせられ重たい気分でしたが、実は腹が減って、資料館に入る前に広島風お好み焼きを食べに行きました。
平和祈念館南にある『みっちゃん』ていう有名な店で、パパさんは牛すじ、ママさんはスタミナ、來夢は海鮮などなど、
いろんな味を楽しめたべ。
↑平和な時代を噛みしめながら、これからも戦争だけは何とか回避したいもんやね。
咲良夢はカキ、粋夢は餅チーズ。時代が時代なら飢えて死んでたのに、ありがたいことです。
↑この笑顔、まあ、子供は宝というからね。ちなみに粋夢の食欲は、もはや大人の一人前では足らんレベルに
なってきてて、恐ろしいほどの食欲なり。
↑資料館を後にしてセレナで宮島口まで移動し、いよいよ宮島へフェリーで渡ります。ちなみにフェリーは駐車場でお留守番。
持っていけなくはないけど、島には信号機が無く、そもそも道が狭いらしい。向こうに小さく、厳島神社の大鳥居が見えます。
↑久々のフェリーに興味津々の子供たち。大阪に帰る時と違って15分くらいしか乗船せんけどね。
天気が良く、暖かくて良かったばい。そして17時前に無事、宮島到着です。
↑早速いてました、シカさん。気が付いたんやけど、奈良のシカさんよりもメッチャおとなしい。
たぶん、鹿せんべいが無いからやと思うんやけど、実際はどうなのかな。。。
↑先に宿にチェックインしてから一息。途中でゲットした宮島のIPA地ビールで乾杯です。
少し時間が遅くなったけど、晩御飯までの時間で散策に出かけることにしました。
↑どうも宿の裏がシカさんたちの集まり場所の様で、ここで寝るとのこと。
島のほとんどが山やし、人との共生やね。一頭、連れて帰って、家で飼おうかな(笑)
↑海岸線を歩いてると気持ちいいなり。瀬戸内海の夕暮れです。
『瀬戸の花嫁』の歌が似合いそうやね。って、古いな(笑)
↑お店は17時半までで多くが閉まってたけど、開いてた『藤井本舗』さんで生もみじまんじゅうを試食。
美味しかったので、おすすめの羊かんと一緒にお土産で飼いました。
↑目を離したら、粋夢が海岸におるし。今日は20時過ぎが干潮とのことで、厳島神社の大鳥居に歩いて近づけます。
1000年近くも前に、よくまあ凄いのを造ったもんやね。そんだけ清盛の権力って絶大やったと思う。
↑そして出てきました、大鳥居。これはデカいな~。とくに中心の柱はまっすぐじゃなくて、かなり湾曲してるんやね。
なんかエリンギみたい(笑)これをよく、干潮の時だけで設置したもんやな。
↑神社側からと海側からと。明日の午前中は潮が満ちてるから、近づいて撮れるのは今だけやからね。
しかし絵になる大鳥居やわ。パパさん初めて見たけど感動です。
↑その後、広場でイベントをやってて、自転車発電で2時間映画を見続けようという企画。
パパさんも参加してこいだけど、左ひざの裏がピキッっていったので止めました。このカキ串も美味かった。
↑宿に戻って、19時過ぎから晩御飯開始。やっぱカキ、さらに、海が近いので刺身がうまいなり。
ビールも頂けて最高です。こりゃ、幸せですな。
↑粋夢と都羽夢も食べる食べる。今日は一日、よく歩いたもんね。パパさんは1万6000歩も歩いてました。
たくさん食べて、明日は海に浮かぶ厳島神社を見に行かんとね。
↑カキは土手鍋と蒸しガキになりました。これ、最高に旨い。
日本酒呑みたいけど、酔い潰れそうなので我慢、我慢です。
↑來夢と咲良夢も食欲旺盛です。お腹いっぱいになってきたけど、アナゴ飯も美味い。
そしてちょうどいい量なり。大満足で御馳走様、そして部屋に戻って・・・
↑大富豪開始(笑)こりゃ、夜な夜な続きそう。まるで修学旅行状態です。
ま、今夜は大目に見ましょう。パパさんも部屋でビール呑み直しです。
↑ちなみにTVはやっぱりカープ、カープなんやね(笑)
達川さん、久々に見ました。『宮島さんの神主が、おみくじ引いて申すには~♪』
めっちゃ充実した一日でした。
ちゅーわけで、失礼!
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