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国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

新生活運動と国鉄

2019-08-12 20:32:54 | 国鉄思いで夜話
新生活運動と言う啓発活動
若い人はご存じないかもしれないが、その昔新生活運動と言うものが積極的に行われている時代がありました。

歴史を紐解いてみますと、昭和30年(1955)鳩山一郎首相が提唱した、「みずからの創意と良識による日常生活向上運動。」がその根本であり、その趣旨は下記の通りでした。

戦争で荒廃した祖国や郷土再建のため、全国各地で、青年団体や婦人団体が活動の中心となって旧来の因習打破、環境衛生の改善、さらには生活や社会を合理化、民主化していくことで町や村を再建していこうとする「新生活運動」

この運動を基本に、昭和31年には「財団法人新生活運動協会」が設立(現在は「公益財団法人あしたの日本を創る協会」と言う名称)が設立され現在に至っています。

上記の新生活運動協会とを受けてであろうが、国鉄でも昭和31年12月13日から22日迄の10日間第2回
「旅の新生活運動旬間」が開催されたと書かれています。
第1回が何時頃行われたのかは不明
そして、当時の記録を国鉄線の昭和32年3月号で見てみますと、
国鉄線新生活運動引用 http://library.transport.or.jp/

旅の新生活運動旅の新生活運動が生まれた背景は?
学生サービス員と言うのがどんなものかよくわからないのですが、大学生などの協力者で有ったろうと思います。
さて、このような「旅の新生活運動」なるものが鉄道でも行われたのでしょうか。
それは、一つに戦争後のマナー低下が大きかったと言われています。
生きていくだけで精一杯であった当時、ごみを片付けるという概念はあまりなくて、そのまま通路のゴミを残して行く場合が圧倒的に多かったようです。
途中で清掃員が乗り込む場合もありましたが、あまり効果はなく。
以前に鉄道ジャーナル誌で、「汚い急行日本海の車内」と題して通路にゴミが溢れる状況の写真を掲載していましたが、これは急行日本海の乗客だけが特に悪いということではなく、あのような列車は多々見られたとのことです。

国鉄も手をこまねていたわけではなく

星晃氏の回想の旅客車などではスハ43を設計した際に収納式の屑箱を車両のいくつかに設けたという記述がありましたが、このゴミ箱を引き出して腰掛代わりに使用したりして変形して使い物にならなくなったり、きちんと清掃していなくて悪臭を発したりして結局止めてしまったとい言われています。

下図は、回想の旅客車から引用した、スハ43系客車のゴミ箱


img441.jpg また、当時も試行的にデッキにゴミ箱を置いたそうです。

今では一般的ですが、当時はそれでもそこまで足を運んでゴミ箱に入れていく人は少なかったそうです。






私の父親も弁当がらなどは椅子の下に入れており、子供ですからそれが正しい車内マナーだと長らく思い込んでいました。

また、デッキでのゴミ箱も今では当たり前になっていますが、当時はそれすらも珍しいと思われたようです。

実際にはキハ80などにはアルミ製の立派なゴミ箱がありましたが、いつ頃から付いていたのか調べてみたいと思います。


マナー向上は一人一人の意識から生まれたものだから。


昨今は外国人のマナーが悪いと言った記事などがネットを中心にみられますが、実は50年ほど前は、日本人の公衆道徳も大変お恥ずかしい次第であったということも知っていただければと思う次第です。



昭和34年10月号国鉄線の記事から引用

昭和36年並びに38年の時刻表に掲載されていた公衆マナー啓発の記事を最後に載せておきたいと思います。

昭和36年時刻表から




昭和38年時刻表から


当時の世相を十分に表している、そんな気がします。
いまでこそ、外国人から称賛されると言って喜んでいる記事をネットで見かけますが、更に一人一人が公徳心を持っていただきたいものです。


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グリーン車のお話

2019-08-10 21:15:15 | 国鉄思いで夜話
グリーン車と1等車



現在はグリーン車という言い方をしていますが、今から50年近く前の1969年5月の運賃改定で従来の2等級制を廃止して、運賃を1本化するとともに旧の1等車は特別車両としての使用料金を徴収する方式に変更したのでした。

それ以前は、2等運賃の約2倍が1等料金と定められていました。



計算上も面倒であったことや実質的な値下げ(長距離ではかなり安くなった)こともあり、昭和44年5月から昭和45年3月までのグリーン車乗車人員を前年同期の旧1等車乗車人員と比較すると1240万人に対して1600万人となり29%増加した。

と国鉄の監査報告書では書かれています。



等級制が廃止されて。運賃のみのシンプルな構成になった運賃表示

これに、更に特別車両料金が付加される計算方式となり窓口事務の簡素化も図られることになりました。



さて、当時のグリーン車と呼ばれた車両はどのような車両だったのでしょうか?


1等車と呼ばれた車両のシート,種類は?

まず、グリーン車料金が、普通列車用と特急・急行等の優等列車用に分けられていました。

準急行という種別は昭和43年には急行に統合されていましたので準急行のグリーン車料金は設定されていません。

普通列車用・・・・・・回転クロスシート(サロ110・サロ111)

特急・急行用・・・・・リクライニングシート

国鉄151系2等車車内

画像引用 Wikipedia(特急電車のリクライニングシートは、他の客車や気動車と異なっていました。また、シートラジオが試行されたのも151系でした。)


サロ110は、旧サロ153の113系併結改造されたもの

と分類されており、昭和30年代まではリクライニングシート車は特ロ(特別2等車、昭和35年7月以降は特別1等車)それ以外の車両は並ロ(2等車、昭和35年7月以降は1等車)と呼ばれていた車両であり、回転シート以外に、転換クロスシートも並ロとして扱われていました。

JR西日本の221系以降の転換クロス装備車は並ロ扱いですね。笑
所得水準の向上と連動して向上して変化したサービス

グリーン車が導入された背景には、国民全体の所得向上と富裕者層の鉄道離れがありました。

昭和30年代、鉄道が陸上輸送の主たる地位を占めていた国鉄も飛行機の出現で、航空機に一部の利用者が奪われ始めます。
すなわち、1等寝台車の利用が激減することとなったのです。
当時は政策的に飛行機の運賃は高く設定されていてある意味手厚い保護がなされていたのですが、それでも運賃値上げなどで、飛行機の運賃よりも1等寝台車を利用すると飛行機よりも高くなるという逆転現象が生じました。

そこで、昭和32年には1等寝台車が2等寝台車に格下げ(この時旧1等寝台車の個室をA室とし、開放室をB室。従来の冷房が無い2等寝台車をC室としました。古い時刻表などで1等寝台でA・B・Cという表現があるのはそのためです。)

今回の1等車を廃止して2等車にしたのもそうした意味で時代の要請であったと言えましょう。

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寝台車と毛布の話 ヨンサントウとサービス向上

2019-08-04 21:31:35 | 国鉄思いで夜話
皆様今晩は、本日も国鉄線の記事から少し興味の持っていただけそうなお話をさせていただこうと思います。

5月1日からJR東日本による四季島が運転を開始しました

画像 Wikipedia

現在、寝台列車を連結した列車はこうしたリゾートトレインの他にはサンライズ位ですが、昭和40年代にはまだまだ全国で数多くの寝台列車が運転されていました。

昭和45年10月時刻表から


昭和43年10月の「国鉄線」と言う部内誌lで見かけた内容から、ちょっと面白いものをアップさせていただきます。
この記事では、それまで管理局単位で調達し、仕様もバラバラであった寝台車に使用する毛布の仕様を本社で、材質・形状・寸法に至るまで統一して旅客サービスの向上を図るとともに、作業性を向上させたと言う記事です。

国鉄時代は結構、管理局単位で仕様等を決めて調達すると言う例が多く、例えば寝台特急のヘッドマークも当初は鉄道管理局が独自に始めたものであり、管理局ごとに其仕様はまちまちでした。

国鉄線 昭和43年10月号から引用

東京機関区や宮原機関区(大鉄局がヘッドマークを付け始めてから東京も付けたように記憶していますが、誤っていましたらご指摘願います)では、標準的と言うかこの形が後の標準になるのですが円筒形のマークであったのに対し、九州では伝統的におわん型が採用されていたようです。

国鉄末期に復活した時もおわん型のヘッドマークでした。

九州鉄道記念館にて 歴代のブルートレインヘッドマーク 撮影blackcat



このように、国鉄時代は管理局単位で仕様等を決めていることが多かったのですが、旅客サービスよりも経費の節減を意識しすぎて調達価格の安さばかりに目が行って「安かろう・悪かろう」の商品を調達している傾向があるとして、本社が改めて標準仕様を策定の上調達したと書かれています。

具体的には、それまで使われてきた合繊毛布(アクリル混合)に代えて外観。弾力性、耐用性、保温性に優れた純毛毛布に変更、記憶が正しければ、クリーム色の純毛の毛布で結構厚くて白のシーツが別途かけられていました。

こうした施策は、旅客サービスの向上につながるだけでなく、乗務員からに要望も有ったからと言われています。
と言いますのは、合繊毛布では、カバーを取り外す際静電気が発生するので、純毛毛布に替えて欲しいと言う要望が有ったそうです。

昭和43年10月【通称ヨンサントウ】に投入される新製及び改造寝台車245両から本社規格による純毛毛布が採用されたと書かれており、それ以後も順次本社仕様になっていったと思われます。

1975年(昭和50年)3月9日(岡山駅にて)撮影 blackcat

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秋葉原と力士の意外な関係

2019-08-03 21:36:51 | 国鉄思いで夜話

秋葉原と力士の意外な関係

秋葉原と言えば



今は、電気街というよりもヲタクの街、もしくは萌の街とでも表現するほうがわかりやすい秋葉原駅ですが、昭和60年代までは電気の街としての印象がありました。
元々秋葉原駅は上野駅の貨物を扱を分離することを目的に建設されたもので、更に辿れば、元々は貨物駅しかない地味な場所であったそうです。

秋葉原駅が、建設されたのは、明治23年11月1日であったそうです。



秋葉原と力士の意外な関係

現在と異なり、荷物の積み下ろしなどは当然のことながら人力だったのですが、そうした荷物の積み下ろしをしていたのが意外なことに力士でした。
元々、大相撲の起源は、両国にある回向院と言う浄土宗のお寺だそうです。
ここで1781年(天明元年)以降には、境内で勧進相撲が興行されたそうで、力士も多く出入りしていたのでしょう。

秋葉原駅の荷物の積み下ろし荷役に回向院から力士に頼んで手伝ってもらっていたそうです。
その後、この力士のアルバイトは、廃業力士や角力くずれの人たちの本業となっていったそうです。

秋葉原駅には今も秋葉原構内にがあるのか否かは知りませんが。力士たちが力自慢に使っていたという、20~30貫(112.5kg)の力石があったと言われています。
現在はどうなっているのでしょうか、ご存じの方がおられましたら是非ご教示ください。

雨の日も風の日も、寒い日も暑い日も、荷物を肩に担いだり、背負ったりして運搬したと言われています。



昭和35年頃の秋葉原駅(画像 wikipedia)

高架部分から荷物はシューターで降ろされるようになっており、当時の様子は小学館発行の「交通」にイラストが載っており、幼稚園の頃に飽きずにその本を眺めていたものです。


実際に、昭和30年代まで国鉄の荷役と言うのは殆どが人力によるもので、トラックで運ばれてきた荷物を貨車に積替えて。再び到着駅でトラックに積み替えると言うことが行われていました。

結果的にそうした作業の積替えロスなどが発生することが嫌われて道路の整備とともに徐々に貨車による車扱い輸送は減少していくこととなりました。



(画像 wikipedia)



ただし、貨物輸送に関してはコンテナ方式の導入や、車扱いであっても、パレットに載せてリフトで積卸できるように、ワム80000形貨車が試作されるなどしました。



時代は変わり、貨って秋葉原が貨物駅であったことを知っている人も少なくなったかと思いますが、秋葉原で、力士が荷役の仕事をしていたとは私も知りませんでした。



国鉄線の記事から

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旅客車の座席番号の付け方改正・・・昭和34年の部内誌の記事から

2019-08-03 20:03:37 | 国鉄思いで夜話
本日は昭和34年の国鉄線の記事から、座席指定車の方式を変更したと言う記事がありましたのでそれをアップさせていただこうと思います。

鉄道が陸上の輸送機関を独占していた頃、特に長距離の移動は国鉄の独壇場と言っても過言ではなく、特急列車は全列車、急行列車の2等車(現在のグリーン車)及び一部の急行・準急列車には指定席が設けられていました。
ただ、昭和34年頃は、未だ指定券の発行は手作業で行われており、回転式のテーブルに載せられた台帳を引き出して、ここに消し込んでいく方式で、聞き間違いやダブル発券と言った事例は多々あったと言われています。

交通技術昭和55年4月号の記事から引用

また、それに輪をかけていたのは、座席番号の指定方法が下記のように4つに分かれていたことも問題でした。

1)4人ボックスを一つの升に見立てて、マス単位で指定していくわけで、4人セットで販売すればよいがそうでない場合はその4人の座席で進行方向窓際に座るのは早い者勝ちと言うことになります。(オハ46形式で施行されていたらしい)
0.png

2)各座席に1番から通し番号を付けたもので、座席の個別指定が出来る方式であり、(特ロ(現在のグリーン車)並びに、殆どの旅客車が該当)

3)各座席に1番から通し番号を付けているが、ボックス単位で割り振っており、座席の個別指定が出来る方式であり、現在でも使われている方式(準急加賀号の2等車(並ロと呼ばれた向い合せ式の客車)指定席で使われている方式)
昭和34年から運転を開始した週末準急で、大阪~金沢間で運転されていました。

4)座席を建て縦(車長方向)にA・B・C・D列に分けて順番に1~番号を付けたもの。(ナハ11形式等で試行されていた)

というように、様々な方式がありました、将来的な電算機による座席指定方式の拡充を控え(マルスの使用開始は、昭和35年1月から、特急こだまの4列車のみで開始)その方式を統一することとなりました。

基本的には、特急客車や特ロなどの一方向向けの客車の場合は、4の方式を、普通客車など4人掛けボックスシートは3の方式に統一されることとなりました。
そして、この方式による座席指定の方式は現在まで変更されることなく続いています。

ちなみに12系客車などの座席配置は、下記のようになっています。

今度列車に乗るときには、ちょっとそんなところにも気を付けてみていただくと面白いのではないでしょうか?


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国鉄形車両の座席の色は?

2019-07-31 21:32:56 | 国鉄思いで夜話

国鉄形車両の座席の色を覚えていますか?

国鉄が解体されて30年、JR西日本などでは未だ国鉄形車両が活躍していますが、JR東日本やJR東海では早々と新型車両に置換えた会社もあり、特にJR東海はその資金力もあってか国鉄形を完全に淘汰、さらにJR第1世代のキハ85も置換えの対象に入ってきたということで、そうなると383系の置換えの方がJR西の381系「やくも」より早くなるかもしれないですね。

まぁ、そんな余談はさておき。

客車の座席の色覚えていますか?


青色でしたよね。

青色の座席が一般的でしたね。

思い出しましたか?

実はこの青色のモケットも変遷が有りまして、私の記憶が正しければ昔は純毛だったのですが、北陸トンネルの火災事故でモケット類の難燃化が指針としてだされて、化繊系のモケットになって手触りがあまりよくなかったように記憶しています。

どことなく、ビニール袋をさわっているようなイメージだったのですが、記憶違いで有ったらすみません。

国鉄形の車両は青色のモケットというイメージが強いのですが、実は青色のモケット以外もあったのです。
気動車はビニールシート

戦後製造されたキハ17系気動車は軽量化を最優先とした車両であり、初期の車両はシートの高さも低く、モケットではなくビニールシートの座席でした。
同じく、初代レールバスである、キハ01等もキハ17系と同様のシートでした。
特にこのシートはクーラーもない時代でしたから夏場は汗でべたべたとなりあまり座っていて気持ちの良いものではありませんでしたね。



画像 Wikipedia 車内がモケット張りになっているが初期はビニールシートのタイプでした。
青色ではなかった時代も

実は、客車や電車のシートが青色になったのは、151系電車が登場して頃以降のようで、それ以前は実は、「緑色」が採用されていました。

コメント欄でご指摘いただきましたが、80系300番台から青色のシートが採用されたと記述されています。
80系300番台は、昭和32年ですので、これがその後の普通車の標準色となっていったようです。
昭和29年に落成したナハ10の試作車では、シートの色が緑色の車両の室内が回想の旅客車などで見ることが出来ます。

また、現在は京都の鉄道博物館に保存されている80系電車のシートも当時の姿に復元された緑色のシートを纏っています。



特に、京都の鉄道博物館に保存されている80系は初期のタイプであり背摺りの上半分がモケットなしのタイプであり、デビュー当初はシートに工部省の「エ」マークを染め込んだシートになっていたそうです。


これは、客車などのモケットを切り取って持って帰る輩が後を絶たなかったからだと言われています。(客車のモケットは靴磨きに丁度よかったらしいです。)
そんな時代もあったということです。



画像はイメージです。


余談ですが

現在の優先席の前身は、シルバーシートですが、このシートの語源は。
中央線の女性子供専用車を廃止した際にその代わりとして電車の車端部に高齢者優先席を設けることとしたのですが、目立たせるためにモケットを張り替えるに際し、当時使われていた新幹線0系の灰色のモケットを流用したそうです。
灰色を白髪の色に見立てて、シルバーシートと呼称したのが始まりであり。
老人に変わる言葉として、「シルバー」が定着してしまったのですが。
「シルバー」=「老人」の起源は国鉄のシルバーシートにあるのではないかと密かに思っております。

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みどりの窓口、よもやま話

2019-07-29 22:17:56 | 国鉄思いで夜話

みどりの窓口と言えば?
座席マークで書かれたマークで指定券を発売するコーナーと言うことで表示がなされるようになりました。
画像は、神戸駅のみどりの窓口の案内板であり、Ticketsの他にハングル並びに、簡体字(中国語)で書かれています。個人的には、Ticketsだけで事足りると思うのですが・・・実際、中国に行った際北京空港でも「行李」「Baggage」程度の表示しかなくて、日本のように4か国語でと言うのは珍しいというか、そこまで必要あるのかといつも思ってしまいます。
2020/6/3 追記

twitterで、韓国でも4カ国語表示がなされているとの情報がありました。
他にも台湾・香港・タイの公共機関等でも同様の事例があるとのことでしたので、ここで訂正と追記をさせていただきます。m(_ _)m

さて、余談はさておき、「みどりの窓口」では、列車の指定券を中心に窓口で対面販売される切符売り場であり、ICOCA、SUICA等のICカードが普及した現在ですが新幹線の切符などでよく並んでいるのを見かけます。

さて、みどりの窓口が誕生したのはいつでしょうか?


何時できたの?

制定されたのは、1965年9月24日で1965年10月1日のダイヤ改正に合わせて開設され、東京駅・大阪駅等日本全国の主要152駅(後述)と日本交通公社(現・JTB)の83か所の営業所にオンライン端末(マルス)が設置され、マルスが設置されたコーナーが「みどりの窓口」と呼ばれたそうです。

これは、切符の色の由来したと言われていますが、この時点では、みどりの窓口のシンボルマークは制定されていませんでした。

みどりの窓口の現在も使われるマークが制定されたのは、昭和42年で10月の改正までのシンボルマークをみどりの窓口に表示するようにしたと書かれています。

これによりますと、マークは制定したものの、その扱い方は各管理局に任せられていたようで、下記のように「指定券」と言う文字と併用したり、シンプルにマークだけの場合などもあったようです。

国鉄線

国鉄線 昭和42年9月号の記事から引用




撮影した画像から加工して、当時の国鉄「みどりの窓口」ロゴのイメージを再現してみました。


みどりの窓口は登録商標?

みどりの窓口は、JR東日本の登録商標だそうで、登録商標(日本第3116438号)になっているそうですが、何故そうなったのでしょうか?
おそらく、JR発足時には持ち株会社が認められておらず各社は個別の地域会社として誕生した際に国鉄の関連会社なども個々に遺産分けよろしく分割されました。
現在の東京メトロも元々は国鉄と東京都が保有していましたが、こうした収益性のあるものは旧国鉄(清算事業団)に残される反面、日本旅行がJR西日本の子会社となるなどの動きもありました。
JTBも当初はJR東日本の子会社と言う案もあったようですが、これを機会に独自性を獲得したいJTBの思惑もあって、独自の道を歩むことになるのですが、これはまた別の機会にお話しましょう。

そんな中で共通利用される部分の多くは、旧国鉄本社を引継いだ東日本旅客鉄道株式会社が筆頭会者と見做されたからだと思われます。
実際、国鉄時代に解説していた外国の在外事務所(ニューヨーク、パリ)等も引きついだように記憶しています。
その中で、「みどりの窓口」の商標も代表幹事会社としてその商標権を主張したのではないかと思われます。


みどりの窓口が無いJR東海

JR東海は、自動販売機で指定券を発売できることなどを理由に「みどりの窓口」と言う表現を止めて「きっぷうりば」としていますが、JR東日本に対する反発と考えるのは考えすぎでしょうか?

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昭和30年代の定期券のお話

2019-07-27 20:14:13 | 国鉄思いで夜話
昔の定期券は、一般・通勤・学生の3種類

皆さんこんにちは、久々に更新させていただこうと思います、今では定期券と言えば大きく分けると通勤用と学生用、更に学生用は、大学生用(専門学校などを含む)・高校生用・中学生用・小学生用と分かれており小学生用は小児運賃なので別とすれば同じ大人運賃であっても、大学生と高校生、中学生で3種類の運賃があることになります。

調べてみますと昭和28年1月15日に、今まで制度として残していた、2等通勤定期を廃止して、2等・3等普通定期券と言う制度を採用したそうです。

これにより、3種類の定期券制度が出来たわけですが、それを再び2種類に戻しても良いのではないかと言う意見が掲載されていました。

ちなみに2等と言うのは今でいうグリーン車のことであり、グリーン車利用の通勤定期券と言う制度を廃止して、2等・3等の一般利用の定期券に変更したと書かれています。

参考 国鉄があった時代
国有鉄道運賃法の一部を改正する法律 法律第三百四十号(昭二七・一二・二七)
読者の提案は、定期運賃の制度を変更すべきではないかと言うもの

まぁ、聞き耳を立てて聞くと話に聴いた世間話から、問題を提起しているのですが、当時の制度を知らない私にしてみれば、こうした古い文献を探していくのは宝さがしのような感覚になるのですが、これによると、定期は普通、学生の2本立てにしても良いのではないかと言っています。

まぁ、通勤定期と言う制度を無くす実質値上げになるのですが・・・。


戦前では、工員向けの定期券と一般勤務者の定期券も値段が違うと言う政策的運賃が取られていました。(工場労働者は賃金が低いのでその分定期運賃を低廉に設定されていました。戦前の制度はまだまだ私も知らないことが多いので調査の必要があるのですが・・・。)


引用 国鉄線昭和35年8月号

一般定期券と通勤定期券ではその値段に差が付けられていた

当時の時刻表で昭和35年以前の時刻表では昭和31年12月号しかないのでそれを参照してみますと、確かに「普通定期」と呼ばれる項目が通勤定期とは別に掲載されています。

昭和31年12月時刻表から抜粋



普通定期運賃 7kmまで 1ヶ月600円(現在の物価で換算すれば約14倍と仮定しますと、8400円ほどでしょうか。)



こちらは、通勤定期券、同じ7㎞の距離で計算すると、普通定期券の約半額の300円になりますので、約4,200円ほどになります。

ちなみに、大阪~京橋(営業距離6.5km)の現在の定期運賃が4,870円ですので、当時の通勤定期運賃程度の金額となります。

ちなみに、通学定期は大学生・高校生・中学生と言った区分はありません。
高校生や中学生の割引運賃が出てくるのは昭和30年代後半だと思われますのでまた機会がありましたがアップさせていただきます。

ちなみに、学生運賃は200円ですので、同じように換算してみますと、2800円程度となります。

ちなみに、現在の学生定期運賃との比較は下記の通りとなります。

大学生 2,890円
高校生 2,600円
中学生 2,020円

ということで、当時の学生運賃と言うのもほぼ現在の大学生(専門学校生を含む)の運賃程度であったのではないかと推測できます。
当時の通勤定期は手回り品の持込制限があった

当時の通勤定期がほぼ半額と言って言い金額だったのは、普通定期運賃には手回り品(いわゆる持込荷物)分を含めていると言う解釈であったとのことであり、逆に通勤定期ではそうした手回り品の持ち込みは制限されていたと書かれています。

こうして。古い資料などを参照していますといつも新しい発見がありますね。

これからも、更に新しい発見をしていってこうした形で皆様に紹介したいと思います。


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昔のDMV(デュアル・モード・ビークル)

2019-07-26 22:17:19 | 国鉄思いで夜話
阿佐海岸鉄道が導入を進めるDMV
以前ニュース記事で読んだのですが、阿佐海岸鉄道では、終点の甲浦駅から、室戸岬を結ぶ交通手段としてDMVを考えているとのことです。
これが実現すれば、DMVの活用は、初となります。
地方のローカル線問題の一つの切り札ともなるとなりそうです。

画像 wikipedia
阿佐海岸鉄道のDMVのお話は、後日詳しくさせて頂きます。
今回は、今から50年ほど前(昭和37年)に試作された、鉄道・陸上両用バス、英語の両生類を表す、アンヒビアン・バスのお話をさせていただこうと思います。

バスそのものの車体

まずこの写真を見ていただきましょう、バスの両側に鉄道用の台車が乗った何とも不思議なスタイルをしています。

国鉄線 昭和37年8月号の記事から引用させていただいたものですが、これによると国鉄バスを改造したものだそうで、発想は上記のDMVと同じで、鉄道が通っていない場所まで乗換なしで直行しようという発想で設計されたと書かれています。

前輪が乗っかる台車の後部車輪が駆動軸となるように設計されていたと言われています。



複雑な脱着装置

この記事によりますと、オートリフト又はオートジャッキを利用して5分以内で台車の着脱が可能と記録されていますが、本当に5分程度で着脱できたのか大変疑問です。

なお、台車を載せた後も写真を見る限りでは、エアーホースの接続なども行うこととされており、車の、前に見えるホースがブレーキホースになります。


当時の記録によりますと、候補線区として23線程あったと書かれています。


また、車の推進は丸で囲んだ推進軸にバスから延長した推進軸(ドライブシャフト)を延長して接続するとのことであり、何とも驚きを禁じ得ないような仕組みとなっていました。
現在導入が準備されているDMVと比較すると、なんとも厳めしいというか手間がかかるバスであったのですが、当時の技術では車に台車を載せると重くなりすぎて使い物にならなかったのでしょうね。
なお、バスは鉄道車両と比べると当然のことながら車体幅が小さいので、ステップが付けられていたそうです。
なお、ホームは必ずしも車内から見た場合、必ずしも左側にあるわけではないので、その場合は右側に設けた非常口が乗降口になったそうです。

キハ58と比べてみれば・・・

こうして比較してみると、バスがいかに小さいかよく判ります。

キハ58系気動車の車体幅が2.9mですからバスの車体幅の小ささがよく判りますね。



なお、当時はホーム高さが760㎜(客車)と低かったのでバスの高さ程度でもホームとの段差はさほど問題にならなかったと思われます。


参照 国鉄線 1962(昭和37年)8月号 10ページから引用

http://transport.or.jp/


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交通公社の古い広告から

2019-07-25 20:40:52 | 国鉄思いで夜話
昭和二七年の国鉄線と言う時刻表の裏側の広告に、交通公社(現JTB)に案内係が登場したと大々的に広告が載っています。

ラナー・・・ランナーではなく、直訳すれば使い走り、伝令と言う意味だそうですが、現在の窓口に見られる案内係とは異なり、営業担当に相当するようで、当時の記事を見ますと、ラナーの仕事は「送迎、伝言、誘導案内、交渉、その他」ということで旅行の添乗員に営業担当の仕事が付加されたような内容だったのでしょうか。
昭和27年当時は国鉄自らが営業を行うと言ったことは考えにくく、交通公社によるこうした制度は国鉄と言う公共企業体(実質的には戦前の鉄道省と同じ感覚でしたが、収支のバランスを図り営業を行うことも多少は意識していましたので、こうした係員の存在は国鉄にとってもメリットがあったと言われています。

昭和27年国鉄線 昭和27年1月号裏表紙から引用
出典 公益財団法人 交通協力会 電子図書館

今から考えるとなんとも時代錯誤的な制服なんですけど・・・。
まぁ、当時の感覚では最良だったのかもしれません。


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グリーンシートのお話

2019-07-24 21:23:10 | 国鉄思いで夜話
グリーンシートのお話
皆様、こちらの投稿はほとんど放置状態になってしまいまして申し訳ありません。
ちょっと面白い記事を見つけたのでアップさせていただきます。

グリーン車ではなく、グリーンシートのお話
今回はグリーンシートのお話・・・グリーン車ではありませんので早合点しないでくださいね。
昭和33年12月号の国鉄線からのお話ですから。
昭和33年といえばまだ等級制を採用していた頃で、1等・2等・3等という表現がなされていました。
昭和33年当時1等車と呼ばれるものは展望車のみであり、着実に国鉄としてもサービス向上は進められていました。
特別2等車と普通の2等車が存在した
2等車にあっては進駐軍の命によりリクライニングシート付の2等車(特別2等車)があり、元々1等車としたかったのですが連合軍の許可が下りず、2等車扱いになったのですが従来の2等車との格差が有ったので、特別2等車という名称を使っていました。
なお、特別2等車は従来は、特急列車にのみ連結されていましたが、サービス向上の目的から昭和33年10月の改正からは、普通急行列車にもリクライニング装備の特別2等車が導入されることになりました。
車両編成

そこで、上記の急行瀬戸のように、2両ある場合は1両を自由席・1両を指定席に出来ますが、1両しか連結しない場合は一部の座席のみ指定席とすることとされ、特別2等車の座席の背摺りに、指定席であることを区分するために淡緑色に指定席と縫い付けたシートカバーを白カバーの上から被せてあったそうです。
その為にはこの方法が考案されたそうですが、大きなトラブルもなく推移しているとのことで幸いであると記事は締めくくっています。
余談ですが、従来の2等車(並ロ)と呼ばれる車両は準急列車や普通列車には引続き使われており、こうした車両が格下げ改造で消えたのは昭和42年頃でした。
準急用2等車として製造されたサロ153以外は全て普通車(旧3等車)扱いとなりました。


当時の記事を参考に乗せておきます。

国鉄線昭和33年12月号記事から
昭和33年12月号 国鉄線 17ページから引用
参考 公益財団法人 交通協力会HP


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在来線における、車掌長制度の新設について

2019-07-22 22:08:10 | 国鉄思いで夜話

本日は、車掌長のお話です。 昔の鉄道雑誌等を読んでいますと、車掌長以下専務車掌・何名と荷物専務車掌が乗り組み…と言った記述をよく見かけたので、車掌長と言う制度は昔からあったと思い込んでいましたが、新幹線では、昭和46年の改正で、車掌長が誕生、開業当初から有ったのですが、在来線では、昭和48年の6月1日まで存在しなかったそうです。 これは正直意外だったのですが、「国鉄線・昭和48年9月号」に下記のように書かれています。 車掌長の新設の理由について下記のように書かれています。 少し長いですが引用させていただきます。

目的

飛行機には機長がおり、船には船長があるように、列車には列車長をつくるべきであるとの主張がなされて、既に久しく、今回、全国の優等列車を対象に「車掌長」を新設することとした。 これは近年、輸送需要の変化に伴い特急を主体とした優等列車の増発が著しく、これには通常二~三名の専務車掌が乗務しているが、これら複数の列車乗務員はいずれも同じ専務車掌であり、特に異常時等における責任体制は必ずしも明確ではなかった。
従って、今回この責任体制を確立すると同時に、対外的には、列車の最高責任者としての位置付けを明確にすることとした。

車掌長は急行以上の列車に原則的に乗務すると定められており。古参の専務車掌、専務車掌(A)と呼ばれていたグループは全員車掌長に移行し、専務車掌(B)の一部が車掌長に昇格したそうです。 また一般車掌のうち約1割がこの改正で専務車掌に変更されることとなり、優等列車の車掌は全員専務車掌以上になったそうです。 専務車掌変更 なお、車掌長の職務は従来どおり旅客の接客業務に従事しつつ、専務車掌間の業務調整や業務指導などを行うということで、プレイングマネージャー的な位置づけと言えそうです。 併せてこちらもご覧ください

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国鉄の部内誌の記事から(新しいコンテナの話)

2019-07-20 21:40:03 | 国鉄思いで夜話

今回は、新規に開発された冷蔵コンテナのお話です。

引用 国鉄線1970年5月号 3報開き冷蔵コンテナR13形式から


国鉄の冷蔵コンテナ輸送が始まったのは、昭和35年に試作されたR10形が最初で、
昭和47年まで製造されたようです。


当時の国鉄コンテナは、一部試作のコンテナではコンテナ自ら電源を持っている冷凍品タイプもありましたが、あくまで試作であり、主な方法はドライアイスによる保存方法が取られていました。

当時の冷蔵車は一般的には氷冷式と呼ばれる氷を天井に積む方式や、かち割り氷を生鮮品の間に挟むようにして積み上げる方式のなっていましたので、その点が異なっていると言えるかもしれません。

今回紹介するのは、3方開きの国鉄コンテナが開発されたという記事であり、利用者のニーズに沿ったものと言え、国鉄C11形コンテナに相当するタイプでした。


このコンテナが誕生した昭和45年頃は、国鉄の赤字決算は続き、積立金も取り崩してしまい本格的に赤字対策を行う必要に迫られていました。
万博輸送は空前の旅客移動ブームを起こし、その後の定着のために考えられたのが、Disceover Japanキャンペーンであり、部内的にはマル生運動などが導入されたのもこの頃でした、国鉄としても合理化の推進と貨物輸送の改善などで赤字は改善できると思っていたと思われていました。
貨物では、車扱い輸送が大きく赤字を出しているのに対し、コンテナ輸送はヤードパスの特性上到達時間も明確なことなどから輸送量も年々増えてきていたため貨物の優等生と呼ばれていました。
そんな中で、従来の冷蔵車による輸送もコンテナに置換えようということで計画されたと書かれています。
実際には、トラックで直接産地から産地に運ぶ方式の方が積替えの手間などを含めて考えたときに安かったのかもしれません、生鮮輸送の多くは現在もトラック便の方が強いようで、こうした分野での鉄道への復権(トラックとの差額運賃については、期間を定めて説いたことも今後考えていく必要もありそうですね。
なお、当時の図面がありますので併せて参照していただこうと思います。



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紀勢本線を走った夜行列車のお話 第24話

2019-07-09 19:51:06 | 国鉄思いで夜話
長々と書いていますが、昭和61年の4回目として、3月号の時刻表を取り上げてみたいと思います。
昭和61年11月のダイヤが実質的にJR発足後のダイヤとなる訳ですが、昭和62年3月とはどんな時代だったのか、弊サイト国鉄があった時代をごらんいただこうと思います。

3月だけでも膨大な量になりそうなので、一部省略させていただきます。
3月1日には、管理局局界が改めら、紀勢本線では新宮~亀山間は、名古屋鉄道管理局の管轄となり、ユーロライナーが新宮まで足を伸ばすこととなりました。
また、下記のように、JR各社の収支は最終的に1%程度の黒字になるように調整されているとされています。

JR7社の最終収支見通し 3/11

運輸省は各社の引継ぎ債務と三島基金を調整して,1%程度の経常黒字となる最終収支見通しを発表

他にも国鉄時代としては最後となる、四国の電化が完成しました。
これは、翌年の本四備讃線乗入れの準備という意味合いもあり、狭小トンネル区間の電化では、トンネルの路盤下げなどを行わず、架線を張り方にも工夫が凝らされていました。

土讃本線【直流電化】多度津~琴平間 3/23

予讃本線高松坂出間21.6km、多度津~観音寺間23.6kmおよび土讃本線多度津~琴平間11.3kmの計56.7kmが電化開業し、同時に総局内のダイヤ改正を実施した。なお、50kmまでの自由席特急料金が急行料金と同じ500円に値下げ。

他にも興味深い点も多々あるのですが、あくまでも紀勢本線の列車ダイヤを中心に見ていきますので、早速昭和62年3月号の紀勢本線の列車ダイヤを見ていただこうと思います。

表紙左下の赤い部分は、卵をイメージしており、62/4.1に卵から新しい会社が生まれると言うことをイメージしています。

紀勢本線の上り列車を見てみますと、大きな変化は11月と当然のことながらありませんが、朝7:00、7:20と臨時特急が運転されていますが、興味深いのは7:00の停車駅が少ないパターンのくろしおよりも7:20発のくろしおの方が運転時間で見ると二分短いんです、また特急だけでなく、「急行きのくに」も臨時列車とは言え運転されており165系【167系も組み込まれていたようですが】が「きのくに」として走っています。


また、さくらの開花シーズンには紀三井寺駅に臨時停車しているのが判っていただけるかと思います。

くろしおだけで22本、【季節列車含む】更に「きのくに」号が2本運転されており、7:00~15:00迄はほぼ30分おきに運転されています。
高速道路がまだまだ開通していないとはいえ、新宮まで8本、季節延長を含めれば9本が走っており、現在の6本と比べるとかなり本数は多いといえそうです。

夜行列車に関しては、季節列車として「いそつり」が12系客車もしくは電車で運転されています。
922Mは、天王寺始発の165系で天王寺~和歌山間は従来の客車列車の伝統を汲んで50分で天王寺~和歌山間を結ぶほか、客車列車の伝統に則り、宮前、黒江、冷水浦も通過しています。

なお、国鉄時代の昭和62年【国鉄時代編】の詳細は、是非こちらをご覧ください。
http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_62.html

*******************以下、国鉄があった時代、昭和62年3月から、抜粋*******
現業機関の業務運営を、各新会社に即した体制に 3/1
新会社の発足にあたっては、

現在の管理局などの担当エリアを、新会社の業務担当エリアに変更すること(局界変更)
東海道・山陽新幹線関係の一部の現業機関を2つの旅客会社に分離すること(客・客分離)
一部の現業機関を、旅客会社と貨物会社に分離すること(客・貨分離)

そこで、新会社へのスムーズな移行の万全を期すために、こうした部分についてはひと足早く新体制に移行することになった
(局界変更〉が実施され、管理局の境界変更や自動車営業所の管轄地方機関の変更などがあったのは、管理局界変更の対象は6線区、18駅
(客・客分離)は、東京、新横浜、小田原、米原、新大阪、博多など9駅が新幹線部門と在来線部門に分離されるため、これらの駅の新幹線部門については3月31日までは部内的に「新幹線準備駅」として位置付けられる。(客・貨分離)は、旅客と貨物の両方の業務を扱っている一部の現業機関について旅客会社.貨物会社への分離に対応した業務運営体制の変更を行うもので、この新体制への移行に関係する現業機関は233カ所、(現業機関職員は7千人)
青函連絡船に臨時雇用員乗船 3/1
仙山線 北山、陸前落合に仙台駅から職員派遣(事実上の有人化) 3/1
飯山線【駅名改称】戸狩→戸狩野沢温泉 3/1
大阪第二運転所の山陽新幹線担当が分離し、大阪新幹線運転所発足
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紀勢本線を走った夜行列車のお話 第22話

2019-06-19 23:21:42 | 国鉄思いで夜話
今回は、昭和61年の二回目として,8月号の時刻表を取り上げてみたいと思います。
国鉄からJRまで8か月ほど、弊サイト国鉄があった時代から8月頃の国鉄時代を参照してみたいと思います。
8月だけに限定してみたのですが、これだけでもかなりのボリュームになりました。あまりに多いので、かなり省略させていただきました。
是非興味を持たれましたら、弊サイト本文を併せてご覧いただければ幸いです。


日本テレコム営業開始 8/1

東海道新幹線沿線の光ファイバ線を使用日本テレコムの専用線サービスが東京~大阪聞が、新規参入した第1種通信事業者としては最初に営業を開始

希望退職の応募状況(7/31現在2,692人)と人材活用センターへの配置状況(12,730人〉発表 8/1
福知山線【複線化】宝塚~三田間 8/1

国鉄は福知山線複線電化工事のうち、宝塚~三田間の複線工事が完成したため営業使用を開始
また生瀬~道場間では別線へ切り替えたため営業キロを1.8km短縮

桜井線「あなたとなら大和路」キャンペーンの一環として、C56 160による「SL大和路号」が奈良駅 ~ 王寺駅間で1日1往復運転 8/1~8/7

第2次特定地交線胆振線の第5回対策協議会で61.11. 1パス転換を決定 8/2
8/2
第2次地交線胆振線の対策協議会は。鉄道運輸は10月31日まで、11月1日から道南バスに転換することを決定
関山~直江津間開業100年 8/3
新鉄局は信越本線関山~直江津間が開業100周年を迎えたのを記念し記念列車運行や上越市内パレードなど、多彩な記念行事を開催
豪雨禍広がる 8/5→8/4
豪雨被害は、関東から東北へ広がり、東北新幹線が始発から10時40分までストップしたほか、東北・常磐線の一部区間と水戸・小郡・真岡・烏山線が全面運休に1万人が車内泊
台風10号による大雨のため内房線で脱線がある等首都圏,東北地方のダイヤが混乱 8/5
新幹線総局の非現業職員による新しい組合「新幹線鉄道産業協議会」結成 8/5

福岡市と北九州市が国鉄職員をそれぞれ100人,120人受け入れることを決定 8/5
大分県が国鉄職員90人受け入れを決定 8/6
運輸審議会の運賃改定公聴会開催 8/6~8/7
運輸審議会は7月14日国鉄が申請した運賃改定に関する公聴会を開催、杉浦国鉄総裁や一般公述人等が意見陳述
運輸大臣が,国鉄から申請が出ていた池袋駅ピル建設計画について許認可 8/6

大分県が国鉄職員90人受け入れを決定 8/6
第2次地交線羽幌線の対策協議会は、第4回対策協議会で鉄道存続を断念し全線バス転換に踏み切ることを決定

1日現在の労働組合の組織概要発表 8/6

組織概要によると,国労はこの1カ月間で組合員が約1万2000人減少し約14万4000人となり本年度になって既に、になってすでに2万2000人の減となっている。逆に労使共同宣言締結組合は組織を大幅に伸ばし、鉄労は3万7000人近く,勤労は3万3000人程度、新しい工事労働組合連合会が3,800人になるなど「国労離れ」が起こっている。

札幌市が国鉄職員100人程度の受け入れを発表 8/7
上諏訪駅に露天風呂 8/8

上りホームに世界初の駅露天風呂がオーブン。入場券・乗車券で入浴でき、入浴証明書をもらえる

近鉄南大阪線 大阪阿部野橋駅 ~ (あびこ筋東側)間の一部が立体交差化 8/10
「明日の国鉄を創る会」と福岡青年会議所共催の「国鉄改革九州フォーラム」が福岡市だ開催 8/11
千葉局で非現業職員81人の新しい労働組合「千葉鉄道技能人協議会」結成 8/11
国鉄改革PR作戦(第6弾)として『国鉄の改革を』みなさまの声が聞こえます」と題したポスターを全国に掲載 8/11
第3次特定地交線岡多線の第1回対策協議会で第3セクター化が決定 8/11
岡多線→「愛知環状鉄道株式会社」ヘ転換。8/11

資本金25億円、愛知県40%、岡崎・豊田・瀬戸・春日井の4市で40%、残り20%を民間企業が出資
社長は愛知県知事が就任、引継ぎ区間は国鉄岡多線新豊田~瀬戸市間と瀬戸市~高蔵寺間の工事区間を引き継ぐことで決定

長崎県が国鉄職員75人の受け入れを決定 8/12
四国総局で「四国鉄道産業協議会」と「四国鉄道工務労働組合」の2つの新労働組合結成 8/14
小田急電鉄多摩線路線延伸申請。8/14
運輪省で国鉄職員1000人受入決定 8/15

運輸省は昭和62年度以降5カ年で、合計1000人の国鉄職員を受け入れることを、各省に先駆けて決定

****以下省略、
国鉄があった時代昭和61年後半

ということで、この頃になると国鉄職員希望退職や他省庁等への転籍が積極的に行われており、国鉄職員から全く新しい世界に転身した人も数多くありました。
また、国労からの脱退は続くと共に、雨後の筍よろしく、独自の小さな労働組合が多数発生して行きました。
さて、国鉄に関する概要はこの程度として、昭和61年の紀勢本線をご覧いただこうと思います。



表紙は,485系1000番台を先頭とした「特急つばさ」の表紙となっています。

臨時列車ではありますが、6時台に天王寺を出発する臨時列車が設定されています。
天王寺を6:57、和歌山に7:47着、終着の白浜には9:07到着という列車です。



更に次のページをめくってみますと、一度は全廃された「急行きのくに」(きのくに52号)が臨時列車とはいえ、急行列車で復活しています。

運転期間を見ると、8月24日までの毎日運転となっています。
車両には、165系が使われたかと思いますが、中間車に167系も連結されていたような記憶があります。
他にも、同じ日では有りませんが、サロンカーなにわを使った臨時列車やお座敷列車を使った急行列車が運転されていますが、天王寺~新宮まで381系が4時間ほどで走破するのに対し、6時間程かかっています。
停車駅は特急並みなんですけどね。



くろしお号は22本も運転されており、時間帯によっては30分おきに特急が走っています。
当時は高速道路は、昭和59年に湯浅まで開通したばかりであり、国鉄としては南紀方面は十分優位に立っていた故にこれ程多くの特急列車と、臨時の急行列車などを運転していたと言えます。

当時は、ハローホリデー有田という臨時列車がある時間帯は、普通列車は30分おきになりますが、それ以外は相変わらず1時間おきの列車間隔です。

さて、肝心の夜行列車ですが、こちらは、「いそつり」号と924列車の2本立てとなっています。
「いそつり」も924列車も12系客車が使用されていますので,快適性という点では同じであったと思われます。
なお、8月1日・2日だけでは電車で運転されたと書かれています。

こうして見ると、非電化時代と比べると昼行特急が増えることで、夜行列車のウエイトは軽くなっているように見受けられます。


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