国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

民間からの提言、「国鉄は日本輸送公社に脱皮せよ」(S43.7.17)

2018-07-16 23:52:50 | 国鉄思いで夜話
本日は、昭和43年に、産業計画会議が提言した 「国鉄は日本輸送公社に脱皮せよ」 を取り上げてみたいと思います。
産業計画会議と言われてもピンと来ない方も多いと思いますが、戦後の9電力会社への事業再編による分割民営化(九電力体制)を実現するなど、電力王と呼ばれた、松永安左エ門氏が設立した、民間初のシンクタンク・電力中央研究所の中に作った、私的なシンクタンクでした、その内容は多岐にわたり。
第1次勧告「日本経済立て直しのための勧告」(s31.9.14)から始まり、第16次勧告「国鉄は日本輸送公社に脱皮せよ」(s43.7.17) で終わっています。
松永安左エ門氏が引退後は、シンクタンクを引き継ぐものはなく、解散となっていますが。
国鉄に関する勧告は、昭和34年にも一度行われていますので、この提言は2回目となります。
特にここでは、現状の赤字を垂れ流す状況の原因は、貨物輸送【特に短距離輸送】とローカル線輸送にその原因があるので、この二つは国鉄から分離して、トラックなり、バスに任せるべきであると明言しています。
特に、この頃は赤字83線として国鉄部内でも若手課員を中心とした研究チームが立ち上げられ、輸送量の極端に少ない路線を中心に廃止のための手続きなどが進められていくのでした。
ただ、このときに注意しなくてはいけないのは、こうした提言は最もなのですが、廃止を進めようとする反面で、赤字必至のローカル線が鉄建公団の手で勝手に進められてしまうという矛盾が生じていました。
鉄建公団が、何故(なにゆえ)作られたのかという点を最初にお伝えしておく必要があるかと思います。国有鉄道路線は、明治期に公布された鉄道敷設法が根拠法であり、鉄道建設審議会【国鉄本社内に設置】が決定していったのですが、国鉄の財政事情もありその建設を十河総裁は渋っておりました。
新線建設が進まないことに業を煮やした田中角栄が、大蔵大臣就任後、鉄道建設公団を国鉄が出資する形で設立させたのが始まりです。
それ以降は国鉄の意向に関係なく、予算付けが行われ、鉄道建設が行われることになったのは、皆さんもよく御存じだと思います。
国鉄としても、廃止しながら新しい路線が開通するという矛盾もありました。
時の総裁は磯崎氏でしたが、マル生運動での対応も含めて、頭は切れるのでしょうが胆力がない人だったんだろうなぁという印象を受けます。
逆に、その辺で腹が据わっていたのは、十河氏で、昭和30年代の労働争議も、田中角栄氏からの新線建設圧力も跳ね返す、そんな強さを持っていたように感じられます。
歴史にIFはないとしても、磯崎氏に腹芸と言いますか、政治家を手玉に取るくらいの胆力があったら、ローカル線の建設をされるがままにされたり、マル生運動を始めておきながら最終的には現場管理者のはしごを外すようなことはなかったと思うのですが。
この辺のお話は、今回のお話とは関係がないので話を戻したいと思います。

画像は、本文とは直接関係ありません。

この、提言では。
国鉄がその力を発揮できるところに注力するべきであると明言しており、モータリゼーションの発達などで、ローカル線輸送は鉄道で輸送するよりもバスの方がコストが下がるであろうとしています。
さらに、近距離の貨物輸送も鉄道ではなくトラックに任せる方が良いのではないかと明言しています。
以上のような各種輸送機関の特性から見て、国鉄が担当すべき輸送分野は前記中の
 (1)幹線旅客輸送
 (3)通勤通学輸送
 (4)中・長距離大量の貨物輸送
の三つであることは明らかで、
 (2)ローカル旅客輸送
 (5)近距離貨物輸送
の二つにおいては、バス、トラックに任せる方が適当であると考えられる。そして、国鉄としては、前記した三つの担当分野の中において、私鉄、長距離トラック、航空機等との負荷分担を考慮しつつ、自己に課せられた任務を遂行して行くようにしなければならない。

以下に、当時の資料を添付させていただきます。
さらに、過剰な国鉄負担についても触れられています。
再び引用させていただきます。
(3)国鉄は公共性を重んじなければならないことは、日本国有鉄道法の第一条に規定されているところであるが、この「公共性」の定義かはっきりしていないために、種々雑多にして性格曖昧な「公共負担」を背負い込み、その結果膨大な赤字を生じている。前記1の赤字線区もその一つであるが、その外にも、独立採算制の下において経済理論的根拠不明な各種の割引制度がある、通勤通学定期券、学生割引、貨物等級、暫定割引等がそれである。
 以上のような不合理も、大正時代のように、国鉄だけが唯一の近代的輸送機関であったときには、そのときの情勢から、必ずしも不合理でなかったのかも知れない。しかし、国鉄以外にバス、トラックないしは航空機という強力な競争相手が出現した今日、国鉄のみか|口態依然たる「乗せてやる」「運んでやる」という態度に終始し、公共負担というハンディキャップを負っているのでは、赤字になるのも当然といわねばならぬ。しかも、国鉄の当事者の大部分が、その旧態たる所以を覚らず、相も変らぬ鉄道万能時代のつもりで、サービスを忘れ、ハンディキャップをハンディキャップと考えないのでは、何ともすくいようはないのである。

以上のように、国鉄は時代が変わったのであるから、国鉄の力を有効に発揮できない部分には手を出すべきでは無いと明言すると共に、国鉄自身も何時までも、「乗せてやる」「運んでやる」という態度ではダメだと明言しています。
そして、政府に対しては、下記のように勧告しています。
再び引用させていただきます。

政府に対する勧告

 政府は、国としての最適輸送体系の下に、各種輸送機関の担当すべき役割を明らかにし、それら各機関の自由公正なる競争によって、国民生活ならびに経済活動に一層の便益を提供せしむるように努力すること。
 この目的を達成するため、国鉄に対して次の具体的措置をなすこと。
(1)鉄道敷設法ならびに日本鉄道建設公団法を廃止すること。
 (2)国鉄を改組して「日本輸送公社」とし、現在の国鉄の組織と技術力を十分に発揮せしめると共に、幹線鉄道に並行し、また幹線鉄道を短絡する線区に限り鉄道以外の他の輸送手段との綜合運営を可能ならしめること。
 (3)前記「日本輸送公社」に対する監督は、大綱を指示するにとどめ、経営については十分な自主性を認めること。
 (4)いわゆる公共負担の内容を検討し、筋の通らぬものはこれを廃止すること。なお、どうしても残す必要のあるものは、これを国家財政で負担し、「日本輪送公社」には負担せしめないこと。

と書かれていますが、残念ながら未だに総合交通体系と呼べるものが誕生していないのはどうしたわけでしょうか。
さらに、国鉄に対しても下記のような勧告を行っています。
再び引用したいと思います。
国鉄に対する勧告

 国鉄は、前記の「日本輸送公社」として再出発するに当り、国の輸送体系の中にあって、自己の担当すべき輸送目標を
a.幹線旅客輸送
b.通勤通学輸送
c.中・長距離貨物輸送
の三つに集中し、ただ鉄道のみにとらわれることなく。バス、トラック、エアーパス、カーフエりー、パイプライン等のすべてを綜合的に自営または共同運営して、独立採算創の上に立って徹底的な輸送の合理化とサービスの改善を行なうこと。具体的措置としては、
Ⅰ 幹線輸送を積極的に押し進め、そのサービスを改善する見地から、

 (1)幹線は少なくとも複線化し、輸送能力を拡充すること。
 (2)幹線輸送に必要な中距離都市間の航空機、貨車・コンテナーのための力一フエりー、石油・ガスのパイプライン等の自営または共同運営をすること。
 (3)ローカルの不採算線を勇断をもって廃止し、バス、トラックに譲ること。(廃止目標は50%、10、000km)
 (4)中間の小駅を廃止し、重要駅の施設を充実すること。(幹線存続駅全国で200駅内外)
 (5)公社の所有する広大な土地、建物、その他の設備を。流通機構全般の能率化の立場から、常に最高度に利用し、更に経営の合理化をはかるため線路敷、駅施設等の地上、地下を道路、パイプライン、送電線等の敷地、パス、トラックターミナル、ヘリポート、パーキング場等に利用すること。

Ⅱ 通勤通学輪送、とくに大都市周辺のそれに対しては、
 (1)幹線輸送と通勤通学輸送を区別し、相互に独立して運営すること。
 (2)民営の通勤通学輸送機関との連繋運営を強化すること。
Ⅲ 経営全般に対しては、
 以上の改革を行なうには、かなりの配置転換と人員整理を行なわねばならない。もし全職員の協力か得られなければ、このことは殆んど不可能である。この打開のため国鉄首脳部はまず管理部門の大巾な縮小を行ない、民間企業並みの経営努力につとめるべきである

このように見ていくと、実現は簡単にはいかないまでも傾聴すべき部分は幾つかあるような気がします。
特に、 (1)鉄道敷設法ならびに日本鉄道建設公団法を廃止すること。であったり、
「日本輸送公社」に対する監督は、大綱を指示するにとどめ、経営については十分な自主性を認めること。

としています。

参考 産業計画会議レコメンデーション(勧告)一覧

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ブログアーカイブス始めました。

2018-07-05 20:21:28 | その他雑談
blogのアーカイブスのインデックスを現在作成中です。

blogアーカイブスと言う名称で、一覧を作成中です。
労働運動史や、国鉄思い出夜話なども、今後アップしていく予定です。
自分自身が、以前投稿した記事が埋もれてしまっていますので、そうした記事の修正と追記を含めて定期的にメンテしていこうと思っております。

gooblog以外にも、書かせて貰っている記事が多々ありますので、どうかご覧いただければ幸いです。



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昭和30年代のマナー向上運動

2018-06-26 11:20:25 | 国鉄思いで夜話
本日は、昭和30年代の国鉄部内誌の記事からです。
東京鉄道管理局【当時は3つに分割されていなかった】が実施した、エチケット向上運動(【現在流で言えばマナーアップキャンペーンと言ったところでしょうか)に関するお話です。
現在も継続してこうした取組は行われており、最近であれば、「優先座席等を必要とする方に座席を譲りましょう」、と言った類いや、「ながらスマホによるホーム転落防止」といった内容が多いように見受けられますが、当時のエチケット向上運動とは、どのようなものであったのか、見ていきたいと思います。

2017年に国交省の統一キャンペーンの報道資料から抜粋

昭和20年に終戦そして、戦後の混乱期を経て、経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述したのが昭和31年であり、戦前並みの経済まで復興した日本(にっぽん)では、高度経済成長のまっただ中にありました。
神武(じんむ)景気、岩戸(いわと)景気と途中に鍋底不況という一時期を除けば経済活動は活発化し、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが「三種の神器」と呼ばれた全体に活気がある時代でしたが、その頃の鉄道マナーと呼べる者はお世辞にも良くはなかったようです。

昭和34年9月号の国鉄線という部内雑誌を参照しますと、東京鉄道管理局の施策として、旅のエチケット・モデル列車、電車を指定したという記事が出ていました。
少し引用してみたいと思います。
東鉄では、さきに旅客サ一ピス向上運動期間中、一部国電区聞にエチケット模範電車を指定し、泥酔客の追放に重点をおいて実施したところ、相当の成果を収めましたので、このたびの「旅のエチケット向上運動」を機会にモデル列車、電車をきめ、去る7月20日から車内でのエチケット向上運動を繰り広げている
ということで、わざわざ「旅のエチケット・モデル列車、電車」と言うことで列車を指定して行ったそうです。
下図参照

東海道線に限らず東北本線、中央線等や、山手線、京浜東北線、赤羽線なども含まれており、エチケットモデル列車では特に、乗客に対して下記の行為をしないように呼びかけたそうです。

1)座席の先取りはやめる。
2)携帯ラジオはイヤホンで聴く
3)整列乗車を励行する。
4)弁当の食べがらや紙屑(かみくず)は屑(くず)かごに入れるか、座席の下に入れる。
5)デッキには危険だから立たないこと。

また特急に対しては、以上のほか、ステテコ姿をやめる、ホームや食堂車は、寝巻き姿で歩かないことなど多少高度のエチケットを要求している

ということで、今から考えますと、本当にそんなことがあったのでしょうか? と思わせる内容です。
しかし、実際に当時の世相を概観してみますと、経済的には豊かになっても戦後の混乱期を経て、道徳心が著しく停滞していた部分も多くあったことも事実でした。
今以上に自己中心的な人が多かったと言えるかもしれません。
なお、5)に関しては、今では走行中にドアが開くなんて事はありませんが、当時の客車列車は20系客車を除けば全て手動ドアでしたから、走行中でもドアを開けることができましたし、夏場などは。ドアを開けて涼む人も多く、走行中にデッキから転落するなんて事例も少なからずありました。

まぁ、少し今では考えられない話ではありますが、当時は今以上にマナーと呼べる者に関する意識が低かったことの記録として知っていただければ幸いです。
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時刻表のお話 B6判からB5判へ

2018-05-27 12:39:27 | 国鉄思いで夜話
本日は、時刻表のお話をさせていただこうと思います。
最近は、時刻表を使わずとも、スマホアプリで時刻検索できるよと言う人も多いかと思いますが、時刻表は今でも隠れたベストセラーらしいですね。
最も、私の場合は国有鉄道研究という名目で古い時刻表は収集していますが、新しいのは殆ど買っていません。
というか、時刻表をくってあれこれ旅程を考えるというのが出来ないものですから、購入する必要を感じないわけで・・・。
ただ、本屋さんで昭和61年とか昭和62年の時刻表が復刻版ででていたときは正直びっくりしました。
更に驚いたのは、復刻版同じ内容のはずですのに、成長してふくよかになっています。
これには正直言って、笑ってしまいます。
30年の月日は時刻表も厚くするのかと・・・多分に保存を意識して紙の質を上げているからでしょうが、オリジナルを持っている私からしたらいささか違和感でした。
さて、そんな余談はさておき、今回はJTB【交通公社】発行の時刻表が、現在のB5判のサイズになった時期がいつ頃だったのかというお話です。

創刊500号を機に、B5判に変更された交通公社の時刻表

交通公社の時刻表が、現在のB5判の大きさになったのは、今から51年前の昭和42年(1967)10月の時刻表からなのです。
10月号が創刊500号の節目だったそうで、この号から従来のB6版からB5判に変更になっています。持ち運びやすさというか鞄のポケットに入れておくと言う点ではB6判の方が小回りが利くのでしょうが、一ページ当たり、記載できる駅数が単純に倍になったことで、駅数と記載できる列車名が増えて、長距離列車などの場合その区分が簡素になった他、接続列車などの情報等も入れやすくなり、見やすさが増したと書かれています。
下記が、昭和41年の旧来のB6判時刻表、京都~となっていますが、実は東海道本線からの列車は、ここではアップしていませんが神戸まで表示させています。

ちなみに、昭和42年のB5版からは、米原から岩国まで一つに収まる現在の形になりました。
当時の時刻表を比べてみますと、新版の昭和42年10月号の時刻表は、B6判の時刻表のちょうど半分程度の厚みになっています。


それまでの、B6判は持ち運びやすさでは定評があったようです。

また、それまでは臨時列車などは別に分けていたのを本文の時刻表の中で埋め込むことで。列車を見つけやすくなったと書かれています。
今では常識になっているようなところですが、 こうして調べて見ると時刻一つにしても色々な話がありそうです。

昭和42年10月時刻表で500号の関する記事が掲載されていました。
余談ですが、国鉄が使用している時刻表には背表紙が、日本国有鉄道と書かれ、後方にあった旅館等の広告が省略されたものが使用され、時刻表の増刷という形で印刷費等実費を国鉄が支払うこととしていたそうです。

参考 昭和42年 国鉄部内誌、国鉄線の記事から



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東海道新幹線開業までの歩み

2018-05-18 09:34:43 | 国鉄思いで夜話
本日は、新幹線開業までの歩みと言うことで、古い鉄道ピクトリアルの資料を参考にしながらお話をさせていただこうと思います。
東海道新幹線【当時の名称では新幹線】は東海道本線の線増として計画されたわけですが、古くは昭和13年の弾丸列車計画まで遡ることが出来ます。
そこで、当時の年表などを参照してみますと、

昭和13年12月2日に、鉄道省企画委員会規程第6条により、鉄道省企画委員会に鉄道幹線調査分会を設置したと記録があります。
この、幹線調査分会とは、「鉄道主要幹線の輸送力拡充並に内地・大陸間の交通系路に関する調査研究を行なう」ということで、当時は内地であった韓国との連絡についての交通機関の計画等が主な目的でした。
翌年、昭和14年7月6日には、鉄道幹線調査委員会が設置され、「幹線拡充問題及びこれに関連する事項を総合的に調査する機関が誕生したそうです。
昭和15年3月25日には、帝国議会で、東京~下関間幹線増設工事予算成立(第75回帝国議議会)し、翌年昭和16年8月5日には、新丹那ずい道が着工されることになり、11月18日には、東京~下関間、新幹線建設基準が制定されることとなりました。
しかし、12月8日に始まった大東亜戦争(第2次世界大戦)により、弾丸列車計画も、昭和18年4月以降は戦局の悪化により中止とせざるを得なくなりました。

ここまでが戦前の話、その後、弾丸列車計画自体は、そのまま凍結されていました。
このblogを呼んでいただいている方の中には、昭和32年5月30日に、国鉄鉄道技術研究所が開催した創立50周年記念講演会、「超特急列車、東京~大阪間3時間への可能性」と言う講演が、新幹線建設の機運になったと思われる方もおられるかもしれませんが、その前年昭和31年4月11日に第11回常務理事会開催され、東海道線の将来の輸送量や、輸送力増強方式等について早急に検討する必要があることが確認され、5月10日には、本社に島秀雄技師長を委員長とする東海道線増強調査会が設置され、将来の輸送力増強について検討されることとなりました。
もっとも、この時期には新幹線の計画は無く、腹付け線増方式か、新規に狭軌で路線を引くと言ったことが主に研究されていたようです。
ですので、本社としても、国鉄鉄道技術研究所の発表を冷ややかな目で見ていたメンバーも多かったと言われています。
最終的には、十河信二総裁が、新幹線による可能性を見抜いて、島技師長に働きかけて実現することになるのですが、その前段としての委員会は既に前年の4月に誕生していました。
昭和32年7月29日には、本社に幹線調査室が設置され、東海道線建設に向け用地の確保並びに保全の調査などが開始されたそうです。
同年8月30日には、政府部内にも運輸省内に日本国有鉄道幹線調査会が設置されることになりました。
このとき検討されたのは、腹付け線増による全線複々線化、別線路による線増などが検討されたようです。
昭和33年2月25日には、閣議決定で、内閣に交通関係閣僚協議会が設置され、大蔵、農林、通産、運輪、建設の各大臣。北海道開発庁、経済企画庁、内閣官房の各長官がメンバーとして参加しています。
であり、国鉄が運輸省の外局として機能していたことが窺えます。
昭和33年7月9日には、日本国有鉄道幹線調査会は、最終答申を閣議へ報告、交通関係閣僚協議会に諮られることとなり、同年12月19日承認を得ることになります。
なお、これに先立ち8月21日には、本社幹線調査事務所は航空写真測量を開始しています。
正式に建設が決定したことから、昭和34年4月18日には、幹線調査室を廃止して、幹線局を設置、幹線調査事務所を廃止して。東京幹線工事局を設置、大阪、名古屋に出張所を設置しています。
昭和34年4月20日には、いよいよ東海道新幹線の起工式が、新丹那隧道東口で行われ、かって弾丸列車構想で最初に着手した区間から工事が再び始められることになりました。
なお、新幹線の建設に対して、実際の建設費では承認が通らないと事前にわかっていたので、十河総裁が予定額の半分程度の予算に抑えて承認させた話は聞かれた方も多いと思います。
結果的に、このことが後年国会で追及されて新幹線開業前に十河氏は退任を余儀なくされます。
昭和34年10月16日には、世界銀行極東部長、ローゼン氏が来日、大蔵大臣から一億ドルの鉄道借款を正式に申し入れ【360億円】がなされています。
ちなみに、このときの内閣は岸信介氏、大蔵大臣は、弟の佐藤栄作氏です。
更に調査団は、昭和35年5月5日に来日、約一ヶ月間にわたり新幹線に関する経済上・技術上の問題点などを調査しています。
最終的に世界銀行からの融資に成功し、昭和36年5月2日には世界銀行から8,000万ドルの調達に成功、調印式が行われることになりました。
据え置き3年半を含めて20年間、年利は5.75%となっていました。

世界銀行からの借款が成功したことで建設のに関する方向は更に早まり、昭和36年8月4日には新幹線建設基準の主要事項が決定され、9月27日には、試作車両の計画も決定しています。
10月18日には、東京~大阪間、全区間のルートも決定しています。

鴨宮試験線の様子、昭和38年1月号 鉄道ファン19号から引用
昭和37年4月20日には、鴨宮付近の路線をモデル線区として早期に完成させると共にモデル線管理局を設置しています。
2ヶ月後の6月20日には試作電車1,000形6両の組み立て整備が完了、2+4の編成でそれぞれA編成・B編成と呼ばれました。
A編成は新幹線開業後は救援車としてB編成は電気試験車【現在のドクターイエローの原型】に改造されましたが、昭和50年8月に浜松工場で解体処理されています。
少し話が、脱線しましたので元に戻したいと思います。

昭和38年3月30日には256km/hの最高速度を記録、4月11日にはエカフェ主催の新幹線スタディウィークとして、アジア各国に新幹線を大いに宣伝したとされています。
更に、4月24日には、阪急京都線下り線が(山崎付近)新幹線路盤へ切換、運転されることになりました。
これは、新幹線に併走する阪急線を併せて高架化することとなり仮線代わりに新幹線の線路を借用するようにしたもので、
阪急にして見れば仮線を用意する必要がなく、新幹線にしても軌道を踏み固めて盛られるメリットがありました。
昭和38年8月には、用地買収費及び補償費の増、賃金の値上り、設計協議、地質不良その他による設計変更並びにモデル線区における試験の結果の計画変更等で、さらに874億 円の費用が増加するとして、総予算を3,800億円にすることを理事会で決定 即日総裁より運輸大臣に説明と相成りました。
この責任を負う形?で、新幹線総局は廃止され、新幹線局に格下げされることになりました。
昭和39年4月28日には、東海道新幹線の。鳥飼~米原間でも試運転が始まり、3ヶ月後の7月11日に全線515kmが開通、7月25日から東京~大阪間で全線試運転が始まり、車掌の養成も始まりました。
新幹線の組織は在来線とは別ものとされ、在来線では専務車掌A【その後車掌長に変更】の上位職として車掌長が開業当初から役職として設けられたほか、制服も独自のデザインとされ、在来線とは一線を画する扱いがなされました。
なお、新幹線総局が管理する現業員は、運転士と車掌、浜松工場の職員のみであり、新幹線駅に関する駅員は在来線各駅の管轄とされていたそうです。
昭和39年8月18日は、運賃・料金及びダイヤの構想が決定され、超特急料金・特急料金等が決定されました。運賃については在来線の線増ということで在来線と同じになっています。

以上駆け足で、東海道新幹線開業までの道のりを見てきましたが、改めてこの辺の資料もきちんと整理してアップしたいと思います。

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幻の和歌山駅改良計画 第3話

2018-04-27 13:26:19 | 国鉄思いで夜話
今回も和歌山市の改良計画についてお話をさせていただこうと思います。
昭和37年には、東和歌山駅を改良して、和歌山市の中心部駅とすることを目指して改良が進められることで合意が図られましたが、昭和40年に再び改良計画が提示され、和歌山駅の東側に設置する予定であった貨物ヤードは、東和歌山駅から南に1.5km程下った場所に設置されることが決定され、実施に移されることになりました。
それ以外の計画は変更はなく、和歌山駅【紀和駅】の貨物扱い廃止、客貨車区の移動などは昭和37年の計画通り進められることになりました。
何故、和歌山駅裏ではなく、現在のビックホエールのある地域に変更になったのかという経緯は、国鉄側に資料では見えてこないのですが、おそらく意都市計画道路の絡みがあったと推測されます。
現在も和歌山駅東口に中途半端になっていますが、有本小雑賀線という都市計画道路と言う記述がありますが、おそらく、平成24年に一部廃止が決定した、「有本田尻線」ですが、この計画の用地買収などが進まなかったことが原因ではないかと推測しています。

都市計画で変更となった、有本田尻線→有本中島線に変更
不自然に和歌山駅東口側が、昭和55年頃まで空き地で残されていたのは、こうした国鉄の用地買収がなされたのではないかと考えてしまいます。この辺はご存じの方おられましたらご教示ください。
なお、当初の計画では、和歌山操駅に隣接して客車区が設置される予定だったようですが、実際には客貨車支区として誕生したものの客車の配置はありませんでした。

さて、国鉄の交通技術、昭和40年4月号を参照しますと、紀伊中ノ島を経由して紀和駅に至る路線を廃止することで東和歌山に集約することとしています。
実際の新在家から、紀伊中ノ島を経由して紀和までの間の路線廃止は諸般の事情で昭和49年10月1日となっています。
昭和40年の修正計画案では、下記のようになっていました。

1)現行の設備では貨物線と阪和線・紀勢本線が平面交差することとなり保安上も問題
がある。
2)阪和線ホーム・紀勢線ホームを見直して、7線、貨物列車通過線1線の8線とする。
3)阪和線ホームは10m×140m【将来は180m】
  紀勢本線・和歌山線ホームは、8m×260m
4)地下道(幅員5m×2本)
5)駅本屋を改築すると共に駅本屋前を和歌山市都市計画事業の一環として整備する。【整備前駅前広場1800㎡→8200㎡】
6)駅本屋が支障するので、駅本屋を建て直すこととし、民衆駅として株式会社東和歌山ステーションビルディング(【その後和歌山ステーションビルディング】に名称変更、現在はJR西日本関連子会社の株式会社和歌山ステーションビルディング)により民衆駅として建設する。


完成当時の和歌山駅 


和歌山駅改良計画

和歌山操車場駅設置計画
なお、和歌山駅の改良計画がほぼ予定通り進んでいった背景には、和歌山市の名誉市民でもある高垣喜一市長の功績がことのほか大きく、現・和歌山駅前の区画整理などを率先して行ってきたことが大きいと言えます。

本人は、その後知事選挙への意欲を持っていたそうですが、68歳の若さで脳溢血で死去されましたが、高垣市長により和歌山市の戦後復興は大きく進んだと言われています。

参考 和歌山市名誉市民


続く
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幻の和歌山駅改良計画 第2話

2018-04-24 00:09:33 | 国鉄思いで夜話

思わず多くの方から反響をいただき、びっくりしております。 簡単にまとめるつもりだったのですが、多くの方から知らなかったと言う声も多かったので、私も手元の資料しかありませんが、判る範囲で記述をさせていただこうと思います。 ご存じの通り、ここで計画されていた、和歌山駅東側の貨物駅の開発は行われず、和歌山駅から1.5kmほど南の和歌山県道135号和歌山海南線【通称国対道路】の手平出島付近に建設されました、実は計画は昭和40年度に見直されていますので、次回のお話で昭和40年の計画をお話しさせていただこうと思います。 なお、このような計画がなされたのかと言うことを考えると、和歌山市の急激な人口増があったと言われています。実際に、戦後の人口を見ていますと下図のように、

昭和20年には160,000人ほどだった人口が昭和25年には20万人弱、昭和35年には30万人弱まで人口が増えて昭和55年には40万人となっていました。 当時の和歌山市の都市計画事業資料が手元の無いのですが、交通技術によりますと、和歌山市の都市計画では、東和歌山【現・和歌山】を中心に開発を進めたいという意向を持っていたようで、昭和22年の美園地区を中心とした付近をみると、
昭和36年には更地が増えていることが確認できます。
昭和36年航空写真

昭和22年航空写真

なお、この計画では和歌山地区にあった電車区も鳳に統合すると共に、貨物ヤードも売却する予定にしていたと言われています。 実際に当時の乗降客数を国鉄の資料で更に参照してみますと、 和歌山市と東和歌山で乗降客を二分していることが判ります、更に紀勢本線の開通などで更に今後は、東和歌山が発展することが予測できることから、何らかの抜本的対策が必要になったことは十分窺えます。 また、国鉄としては、和歌山線も全て東和歌山に乗り入れさせることで、和歌山線の利用者を全て東和歌山で受けることを考えていたようです。 その辺は、交通技術の昭和37年9月号で下記のように書かれていました。 少し引用してみたいと思います。



旅客輸送の大部分は、東和歌山駅及び南海電鉄と国鉄共用の和歌山市駅の両駅で受け持っており、和歌山駅は路面電車及びパスの便が悪く、利用者は少ない。従って国鉄としては、東和歌山駅中心に和歌山線列車の輸送経路を整備し輸送の合理化を計らねばならない。

ということで、この措置により和歌山駅を拡張し、現在ホテルグランヴィア和歌山並びに裏の駐車場付近が貨物の発着場となっており、その後方、現在JR和歌山支社が入っているあたりに鳳電車支区がありました。 計画によりますと、次のように交通技術には書かれていました。 再び引用させていただきますと。


これらの改良計画に必要な買収用地面積は、約37,000㎡であるが、不安となる土地は約16,000㎡あれ不要地は表駅側にあるため、買収用地とほぼ等価である。

ということで、東側の土地は面積は大きくなるが、売却する予定の西側の土地の方は町の中心部であるため土地価格的には相殺されるとしています。 さて、ここで当時の計画、東和歌山駅に関する部分について,少し長いですが全文引用させていただきます。


改良計画の概要

1) 東和歌山駅改良東和歌山駅は地区改良の中心駅であり、当駅の諸設備は大幅に改良せられる。先ず当面問題となっている貨物集約に対応する新貨物設備(年間取級屯数50万トン)を貨車ヤードと都市計画道路との間に新設し、現在設備は撤去する。 和歌山線列車輸送経路の変更に伴い、旅客ホームを1本増設するとともに、現在ホームの改築を行い 、旅客列車着発線を6本(現在4本〉とする。
また阪和線電車着発は現在位置とし、電車支区は本区(鳳電車区)へ統合する。貨車ヤードは、相接して貨物設備が設けられるので、将来690車/日の取扱ができるように、構内の配線変更と側線の増設を行なう。 一方駅本屋は旅客ホームの増設のため、訳本屋側へ移動させなければならず、都市計画関連の駅前広場造成とマッチした民衆駅として生れ変る予定で、民衆駅には駅設備のほか鉄道公安室及び駐在運輸長を収容する予定である。

ここで、「貨車ヤードと都市計画道路との間に新設し」という文言が気になったのですが、この都市計画道路とはどれを指すのか、ちょっと気になります。


また、この計画では阪和線ホームが引き続き,ちょうど今近鉄百貨店が立っているあたりに乗り口がありました。



下記の写真をご覧ください。 天王寺鉄道管理局30年史の写真から抜粋したものです。



民衆駅は完成し、和歌山駅【紀和駅】の規模縮小化は行われ、紀和~紀伊中ノ島を経て和歌山機関区まで進む線路も廃止されましたが、売却は進められず、紀和駅用地は紀勢本線電化の際は資材置き場になり、その後和歌山市に売却されて市営住宅が現在は建っています。


紀伊中ノ島付近も長らく遊休地となっていましたが、その後国鉄官舎【社宅】が建設されて現在に至っています。


ただ、ここで書かれた計画案はこの計画時点では、計画が流動的であったようで、下記のように書かれています、再び引用させていただきますと。


和歌山地区改良の目的は、上述のように輸送力の増強と経営合理化及び都市計画関連がからみ合ったものであるが、地元との話合いもつき、貨物設備の位置が決定すれば、当地区の改良も大きく進展するものと思われる。

なお、この計画費用は,約15億円、土地売却収入が9億円としています。【価格はいずれも昭和37年当時の金額】



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幻の和歌山駅改良計画 第1話

2018-04-20 07:45:31 | 国鉄思いで夜話
久々に更新させていただきます、古い資料を見ていますと新しい発見がある物です、特に部内誌に資料などを参照していますと、意外な発見があったりします。
現在、ビッグホエールが建設されている、和歌山市手平地区にはかつて和歌山操駅と呼ばれる、貨物駅がありました。
より正確には、貨物駅と客貨車区【実際には検修は、貨車】が併設されていました。
しかし、この施設も昭和59年の貨物輸送システムチェンジで廃止に追い込まれ、その用地は売却されて現在に至る訳ですが、昭和37年の当初計画では、東和歌山駅(現在の和歌山駅)裏側に貨物輸送の施設を設ける予定に成っていたそうです。

そこで、その計画について当時の資料や古い写真などを参考に見ていきたいと思います。
昭和37年頃、和歌山駅【紀和駅】を縮小して和歌山駅【東和歌山駅】を拡張する計画があった?
和歌山市は、戦時中に疎開などもあって16万人まで人口が減少、その後住友金属【現在の新日鐵住金】の発展も相まって人口も急増していました。
参考にした資料は、国鉄の部内誌交通技術と言う雑誌の昭和37年9月号です。
この記事を見ていますと、現在の和歌山駅【当時の名称は東和歌山駅)の機能を拡張し、和歌山駅【紀和駅】の機能を縮小していくというものでした。
下の図をご覧ください、昭和37年当時の紀勢本線、和歌山市~東和歌山【現・和歌山】駅の構内図です。
和歌山駅【現・紀和駅】からは中之島駅を経て、和歌山機関区まで線路が伸びておりこれは和歌山線として機能していました。
現在の和歌山線となっている、和歌山からの線路は和歌山線の短絡線として、昭和36年に開通したのですが、当初は機関車の回送、団体列車【南紀観光団体】などに利用されるだけで殆ど活用はされておらず、和歌山線の旅客は、紀伊中ノ島経由で和歌山市まで入っていました。
下図の写真は、昭和36年当時の紀和駅付近を写した航空写真です、赤い枠で囲ったのが、和歌山駅【現。紀和駅】となります。左の方に客車が屯しているのが見えるかと思います。


この駅には、駅の裏が客車区になっており、和歌山市寄りに客車の洗浄線がありました。
独身寮・保線区・木工職場があり、簡単な修理などはここで行っていたようです。
と言うのが、私が生まれた場所がちょうどこの和歌山駅の裏手であり、蒸気機関車の煙と汽笛を子守歌にして4歳頃までここに住んでいましたので,少しだけですが記憶があるのです。

更にもう1枚、こちら画像も昭和36年撮影の航空写真ですが、こちらが、東和歌山駅【現在の和歌山駅】付近の写真で、青い色で囲った辺りに貨物の険修施設を設けると共に、和歌山機関区を気動車・客車区にする計画が有ったそうです。

計画概略図は、こちらをご参照ください。

この図によりますと、和歌山機関区に気動車などを配置して客車と気動車を配置し、将来は運転区にすると共に、和歌山駅【現・紀和駅】の施設を撤去するとともに、和歌山駅から紀伊中ノ島を経由する和歌山線の路線を廃止する計画になっています。
こうした計画が生まれた背景には、下記のような理由がありました。
建設の経緯から、和歌山駅(現・紀和駅)が明治31年5月に開業し、南海電車の終点である和歌山市駅は明治36年3月、和歌山駅【当時の名称は東和歌山駅】の開業は遅く、大正13年まで待たねば成りませんでした。
これは、紀ノ川を渡って直接大阪と結ぶ路線が最初に建設され無かったことが原因であり、和歌山市駅【当時は国鉄と私鉄の共同使用駅】が誕生、さらに、紀勢本線が建設され、阪和電鉄から直接接続できることになると、旅客輸送の中心は和歌山市駅並びに、東和歌山駅が受け持つこととなり、和歌山駅【紀和駅】の地位は相対的に下がって行くこととなりました。
そこで、和歌山駅【現・紀和駅】施設を東和歌山に集約すると共に、客車区の機能を和歌山機関区に移設して、DC並びに客車の配置区にしようという計画が立てられたのでした。
当時の交通技術の内容から一部引用したいと思います。

I 現状及び改良の必要性
和歌山地区の現状で、問題になっている点を述べると、つぎのとおりである。

1)貨物集約設備
この地区の貨物取扱駅は、東和歌山・和歌山・田井ノ瀬・布施屋・紀三井寺・紀伊・六十谷の7駅あり、その取扱屯数は約41万トンであるが、東和歌山駅(取扱量約20万トン〕は、都市計画に一部支障しており、貨物集約と合わせて貨物設備の整理統合を必要とするとともに、不用地を整理して、経営の合理化を行なわねばならない
2)和歌山線列車経路の変更
和歌山市の都市計画は、東和歌山駅を表玄関とし、発展の方向を東和歌山駅の東部地域としているι従って和歌山県北部臨港工業地域の完成にともなう、和歌山線・紀勢本線旅客の増加、東和歌山田ノ井瀬間短絡線の亮I成、東和歌山一海南聞の複線化などは、東和歌山駅をこの地区の中心として、客貨の流動を再検討せねばならない時期に達している。


簡単に言えば、東和歌山駅は,今後更に発展するが、和歌山駅は路面電車の乗り入れもなく、バスの本数も少ないなど駅としての機能は低下しているので、この機会に合理化を図ると共に、貨物扱駅も、複数あるが集約したい、しかし現状では、現行の和歌山駅の施設のままでは都市計画にも支障する。【東和歌山駅当時は、貨物は現在のホテルグランビアから駐車場付近が貨物施設でした。

画像は wikipedia参照

そこで、東和歌山の大田地区に貨物の仕分け線並びに貨物の設備を設けることとすると言う計画が立てられました。
なお、和歌山機関区に関しては、その機能をを拡張して、客車と気動車を配置する予定となっていましたが、実際には気動車のみとなったと記憶しています。
余談ですが、和歌山機関区のちょうど上に見える建物が、全国に10カ所しかないうちの一つ、女子刑務所(和歌山刑務所)になります。


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気動車特急日本一周 昭和36年のお話

2018-04-01 23:00:57 | 国鉄思いで夜話
特急気動車 キハ82誕生

特急気動車はキハ81形が昭和35年に誕生し、翌年には、改良形のキハ82を先頭車とする特急用気動車が増備されましたが、昭和36年7月頃から順次落成し、連日試運転が行われたそうです。
手元に、昭和36年11月号の鉄道ファンがあるのですが。この中で、「各地にくりひろげられたディーゼル特急の試運転」という記事が出ています。

落成後の試運転はユニークな編成で

この記事を参照しますと非常に興味深いお話が書かれていました、文章をまるごと引用す訳にはいきませんので概要を書かせていただきますと、キハ82を先頭とする改良型の80系気動車はですが、車両メーカー付近で試運転が繰り返されたそうで、汽車会社【東京地区】は、尾久~日光間、新潟鐵工所【現・新潟トランシス】では新潟~田口、日本車輌【名古屋地区】では、名古屋~中津川付近で試運転が行われたそうです。

試運転ですので、当初は中間車のみが先に落成して、キハ81を先頭にして試運転が行われたそうですが、先頭車が製造される頃になると逆に、キハ82が4両、中間車に食堂車4両繋いだ編成とか営業運転では絶対見られないような編成が中央西線を走ったそうです。

鉄道ファン 昭和36年11月号から引用
他にも、勾配線区での様子を測定すると言うことから、大阪地区では、京都~亀山【おそらく、草津線経由】を走ったと書かれています。

落成後に行われた性能試験

特に改良型のキハ80系は、横型機関を採用し、キハ57で採用されたディスクブレーキを新たに採用した、言わば気動車の総仕上げという意味合いもあったことから、これらの性能確認と将来の設計に供するデータ収集の目的で8月末から全国的な規模に渡る試験が行われたそうです。
8月28日~8月30日早朝 東海道本線 大船~平塚間で各種試験が行われたそうです
基礎性能試験
110km/hからのブレーキ性能試験
全車軸の2/3のブレーキを開放して残りの1・3の車軸だけでブレーキを掛けつつ、10台のエンジンをフル運転
など、勾配線区でのエンジンの調子とディスクブレーキの限界を同時の測定する

等過酷な試験が行われたそうです。

全国行脚の特急試運転
さらに、9月1日からは、「ディーゼル特急試運転」のマークを先頭に掲げて基本の6両編成が試運転を行ったそうです。
順路は下記の通りです。
上野→(東北本線経由)→福島→(奥羽本線経由)→秋田→青森→(奥羽・羽越・信越・北陸本線経由)→大阪→(山陽・鹿児島)→博多→(山陽・鹿児島)→大阪→(北陸)→金沢→直江津→(信越)→長野→上野
全日程9日間の行程でした。
全区間で、走行性のが確認され、問題が無いことを確認したと言われています。
さらに、福島~米沢間の33‰区間ではEF16との協調運転が行われたそうです。

鉄道ファン 昭和36年11月号から引用
これは全国へのお披露目も兼ねていたようで、ディーゼル車両の技術員が連日乗り込み、各種のデータも採取されたと書かれています。

所属区での試運転列車も連日運行

また、この試運転と並行して函館・尾久・向日町(完成までは宮原・梅小路】の各基地から連日練習運転が開始されたそうで、ダイヤも編成も改正後の正規の編成であり、区間も予定通りであり、白鳥のように大阪~上野・青森といったロングラン列車も走ることになりました。

この試運転は9月1日から27日まで連日行われたそうで。その間に発生する初期故障も多々あったようですが、そのおかげで運転開始後は大きなトラブルも無かったと言われています。

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新幹線駅が決定するまで・・・京都駅編

2018-02-16 22:42:11 | 国鉄思いで夜話
古い資料を探していますと、面白い記事を見つけたので少しお話をしてみたいと思います。
それは、京都駅が現在の在来線と併設という選択肢以外に二つの検討案があったそうです。
参照したのは、 交通技術昭和37年6月号の記事です。

これによりますと、現在線並びに他の都市交通機関との連絡や駅の環境・用地取得・工事費などの角度からみて、次の3地点が候補地にあがったと書かれています。

1)現京都駅裏側に併設する(併設案)

2)新幹ルートを現東海道線の約2km南方に移し、新駅を奈良線稲荷駅北方附近に設置する(南案)

3)新幹線ルートを現東海道線の約l.5km北方によせて、市内五条通に通し、新駅を五条烏丸附近に設置する (北案)


が検討されたそうです。


それぞれのいメリットデメリットを上げていきますと、
1)案は国鉄各線、奈良電鉄(当時は近鉄ではなく、奈良電鉄)並びに市電・バスなどの接続に有利であり、京都始発の山陽・九州方面の列車と直接接続できるほか、駅前広場を新たに造成する必要が無い。その反面駅前後の取り付けルートは旧市街地を通るので用地取得は難しいと書かれています。
2)案は、用地取得は比較的容易で、線路延長も短く工事費も安いが、東海道線との接続には奈良線を経由しなくてはならず、他の市内交通機関との連絡に不便であることが一番のデメリット
3)案は、京都の中心部に到達できることが一番魅力であり明治期にも東海道線を乗り入れさせる案がありながら立ち消えになった経路であり国鉄としてもそのメリットを、新駅は都心駅となるのが一番に魅力と語っています。
ただし、連絡は市内交通機関のみとなり当時であれば、バス並びに路面電車だけとなりましょうか。また、地下鉄道となるため工事費がかなり高額になる事が懸念材料とされました。


最終的には併設案に落ちつき、駅構内にあった客車留置施設は向日町に移すことになったそうで、京都駅併設に際して駅構内の一部を改修したと記されています。
なお、
昭和35年当時の航空写真を見ますと客車などを留置している線路の様子がよくわかります。

基本構想では、構内配線は上下各線とも着発線l線・待避線l線とし島式乗降場〔幅員
11mx長さ330m〔将来430m)〕2面とした。
駅用地は奈良線のホーム増設・現在線高架化の際の切替工事の可能性を残して、構内18番線線路敷までを充当し、なお路盤幅の不足(約12m)は裏駅側の道路敷の上空使用で解決した。
支障する機関車留置線などは、構内東部附近に移し、客車留置線は向日町客操に移すことになった。
高倉通の市電軌道は新幹線高架下を地平でくぐるよう在来の跨線橋南橋台よりアプローチの取付替を行なう。



昭和35年頃の航空写真

昭和49年頃の航空写真


当初の予想どおり、駅前後の取り付けルートはに関する用地買収ははかなり困難を極めたと記録に残されています。

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特急はつひ号運転

2018-01-01 05:35:10 | 国鉄思いで夜話
あけましておめでとうございます。
新しい年の始まりでございます。

私は昨日22:00が仕事納め、今日は7:00から仕事始めでございます。
昨年は、職場で新年を迎えましたし、ここ数年は大晦日なり正月という概念がございません。苦笑

まぁ、お正月だからと言っても関係なく働いておられる方も多数おられるわけですからいたずらに頑張っているだろうと言うつもりはありません。
本日は、お正月らしい話題として1本アップさせていただこうと思います。

伊勢神宮に参拝される方も多く、夫婦岩で有名な二見浦に参拝される方も多いのではないでしょうか。
二見浦はJRで行って二見浦駅から歩くのが一般的でしたが、最近は直接バスで乗りいれてしまう場合が多く、駅前商店街なども寂れてしまっています。
しかし、今から50年前、1968年1月1日に実は、特急列車が運転されたのです。
幣サイト、国鉄があった時代を参照していただきますと、「臨時特急はつひ」が運転されたと書かれています。

臨時特急「はつひ」運転される。1/1

臨時特急「はつひ」は岐阜~伊勢市間(上りは二見浦)間に運転された。
「あすか」廃止により、南紀特急「くろしお」が、名古屋停泊になったことによる間合い運用で運転した列車である。

昭和43年前半 鉄道ニュース

ここに書かれていますように、元々「特急くろしお」は名古屋到着後、そのまま「あすか」として運転して当時の所属区であった和歌山に戻す運用が組まれていました。
ただし、和歌山駅、当時は東和歌山7:00発、和歌山到着22:00は余りにも遅すぎるうえ、天王寺駅に入らない。(阪和貨物線経由ですので、阪和線内は堺市に停車)運用でしたので名古屋~大阪間の需要も拾えず、連日回送列車を走らせているようなものでした。
結局、「あすか」は廃止となり、名古屋停泊の運用が組まれたのですが、その停泊中の間合いを使って運転されたそうで、私も手元に時刻表が無いので正確な時間がわからないのですが、終夜運転に近かったような気がします。
ご存じの方おられましたら是非ご教示願います。

国鉄としては、臨時列車としてその後も運転できることを期待したようですが結局この年のみであり、その後は運転されることはありませんでした。

歴史にIFはありませんが、戦前同様に国鉄が参宮線の輸送に力を入れて居たら・・・とか、鳥羽から賢島までの区間が近鉄ではなく国鉄が国有化していたら・・・また違った世界が展開していたような気がします。

余談ですが、元々鳥羽から賢島間は、元々三重交通の区間であり、国鉄買収を意識して狭軌で建設されていました。

50年前のきょう、運転された、臨時特急のお話でした。

画像は、wikipediaから参照した、現在の快速みえ号

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第一回衆議院 運輸及び交通委員会 第4号から転載 1話目 

2017-12-25 14:09:09 | 国鉄関連_国会審議
今回から、昭和22年7月21日運輸及び交通委員会 第4号の議事録からの引用になります。
今回は、国鉄労働組合に関するお話になります。
国労が発足するのが昭和21(1946)年2月ですが、その時は国鉄労働組合総連合会と言う形で誕生します。当時の鉄道省職員の96%が加盟し発足しました。
この時は、神奈川分会が、加盟を拒否されたためと言われています。
その後、下記のような闘争を経て、昭和22年6月には単一組織の国鉄労働組合として改組の上発足しますが、当初から運動を引っ張って来た共産党系に対する、穏健派(社会党支持)が昭和22年11月の臨時大会で分裂、国鉄労組反共連盟を結成します。
その後、反共同盟は発展して、国鉄民主化同盟(民同)へと発展していくことになります。
国鉄民主化同盟(民同)はその後も分裂を繰り返し、昭和32年の新潟闘争を経て、国鉄新潟地方労働組合が国労から脱退して発足、その後同様の動きが全国で起こり、同年の11月27日には、職能毎に新労組を組織化し国鉄職能別労組連合会(国鉄職能労連)が発足しました。
さらに、昭和34(1959)年に社会党極右派が脱退して、民主社会党(民社党)を結成するに及び、以前から関係が深かった、国鉄労組民主化同盟(新生民同・民同右派が所属)も大挙して国労から分裂、昭和36(1961)年には、国鉄新潟して、新国労が誕生することになりました。


ただ、発足当時の国労は、概要として下記のように書かれていますが、戦後初期の労働運動を牽引したところがあり、大原社会問題研究所の日本労働年鑑 戦後特集(第22集)によりますと、下記のような記述がみられます。(記事は当時のママ)


◇五〇萬をこえる大組合であるが闘争の歴史も豊富で、廿一(昭和21)年一月の「省電安全運転」廿一(昭和21)年九月のいわゆる「国鉄ゼネスト」廿二(昭和22)年二月一日ゼネストまでの闘争では全闘(全国労働組合共同闘争委員会)のイニシアをとるなど我が国全体の労働運動に大きな力を常にもつていました。

と書かれているように、共産党が主導して国鉄の中で運動を牽引していたと言われています、そして共産党の運動方針に反発するグループが国労内で分裂して

参考 http://whitecat-kat.hatenablog.com/entry/2015/02/08/113458 国鉄労働組合史詳細解説6

*******************以下は国会審議の本文になります********************



こんにちは、引き続き衆議院、運輸及び交通委員会の議事録を御覧ください。
今回は、主に国鉄労働運動について語られています。

第001回国会 運輸及び交通委員会 第4号
  付託事件
 海運組合法を廢止する法律案(内閣送付)(豫
 第三号)
―――――――――――――――――――――
昭和二十二年七月二十一日(月曜日)
    午前十時四十三分開議
 出席委員
   委員長 正木  清君
   理事 前田  郁君
      井谷 正吉君    佐々木更三君
      島上善五郎君    館  俊三君
      成重 光眞君    矢野 政男君
      山崎 岩男君   小笠原八十美君
      高橋 英吉君    田村 虎一君
      中野 武雄君    前田 正男君
 出席國務大臣
        運 輸 大 臣 苫米地義三君
 出席政府委員
        運輸政務次官  田中源三郎君
        運輸事務官   伊能繁次郎君
        運輸事務官   牛島 辰彌君
        運輸事務官   郷野 基秀君
    ―――――――――――――
七月十一日
 海運組合法を廢止する法律案(内閣送付)(豫
 第三号)
の審査を本委員に付託された。
    ―――――――――――――
本日の會議に付した事件
 國鐵、日通、及び私鐵の各勞働組合に關する説
 明聽取
    ―――――――――――――
○正木委員長 會議を開きます。
 これより國鐵勞働問題に關して、當局より説明を聽取いたします。牛島政府委員。
○牛島政府委員 私、鐵道總局の職員局長の牛島でございます。國鐵の勞働組合運動につきまして、簡單に御説明申し上げたいと思います。お手もとに差上げてございます國鐵勞働組合概況を作成してまいりましたので、この概況書竝びに國鐵勞働協約の解説に從いまして、要點だけを申し上げたいと存じます。
 話の順序といたしまして、第一番目に國鐵勞働組合運動の、本日までの經過の概要を申し上げたいと思います。國鐵勞働組合の運動の經過を大別いたしますと、大體五期にわけ得ると思うのであります。第一期は、昭和二十一年の二月に國鐵總連合が結成されるまでの時期でございまして、第二期は、二十一年の九月の例の馘首絶對反對のストライキ問題が妥結したまでの時期、第三期は、昭和二十二年二月の例の生活權獲得ゼネスト問題が、妥結と申しますか、打切られたまでの時期、第四期は二・一ゼネスト以後、六月に國鐵總連合が單一に結成されたその大會までの時期、第五期は、その單一組合結成後本日に至るまで、こういうふうにわけ得ると思うのであります。ここにも書いておきましたが、終戰後國鐵といたしましては、勞働組合を結成いたす前に、上下の意思疏通の機關といたしまして、昭和二十年十一月一日に鐵道委員會というものをつくりまして、部内で發足いたしたのでありますが、しかし勞働組合法の成立竝びにその後におきます社會、經濟界の情勢の變化によりまして、急速に鐵道委員會は發展的に解消いたしまして、勞働組合が結成されるようになりました。その當時におきましての情勢もそこに書いてございますが、結局この勞働組合を全國的に單一するか、または連合體にするかという點におきまして、いろいろと折衝はあつたようでございますが、結局連合體といたしまして、昭和二十一年の二月に發足いたすように相なりました。この連合體としての總連合が結成されまして以來、一面非常に物價騰貴、生活の不安にかられました從事員一同は、非常に生活不安に襲われたのでございますが、例の七月一日の全官公職員に對するところの給與の改善案によりまして、一時小康を得たように思われました。その後七月末におきまして、國鐵經營の合理化の見地から、人員を整備し、さらに必要な部面に増員をしようというような管理者側からの申出を契機といたしまして、例の馘首絶對反對のストライキが起りました。これも九月十四日に政府側と組合側との妥結によりまして、一應收まつたわけでございます。この結果當局としては、從來の整理案というものはこれを取消すことにいたしました。ただ今後におけるところの、一面において過剰人員があり、一面において不足人員があるというような點につきましては、これを極力配置轉換を行う、また惡質者はこを整理していくことによつて、九月十五日のストライキは一應妥結したのであります。その後さらにインフレーシヨンの進行に伴いまして、生活の困難がようやく極度に達しつつありましたので、二十一年の十一月に國鐵總連合といたしましては、大會をもちまして生活權獲得の要求書を提出いたしました。そうして管理者側と交渉を開始するに至りましたが、この鬪爭は全官公吏の問題に發展いたしまして、例の二十二年二月一日を期してゼネストをする、いわゆる二・一ゼネストの態勢を整えるに至つたのでありますが、その筋からの命令によりまして、その寸前において中止される状態に立ち至りました。この二・一ゼネストの中止後、組合側も一應爭議を打切ることといたしまして、鬪爭態勢を解きまして、交渉によつて問題を解決するというような方向に進んでまいりました。その打切るときにあたりまして、政府側から提出いたしましたところの政府職員の待遇改善委員會の準備會において、兩者協議によつて今後給與、待遇改善の妥結點を見出していこうということに相なつたのであります。他面二月二十一日におきましては、經營參加の問題をも含めたところの廣汎な勞働協約が締結されました。その後五月下旬におきましては、第一囘の臨時の經營協議會が開催せられました。鐵道の財政、給與關係、勤務時間、その他勞働條件に關する問題、業務關係の問題等、國鐵經營の各般にわたりまして、經營協議會において協議が行われました。經營協議會の結果といたしましては、組合側と運賃の値上げ問題に關し若干意見の相違がございましたが、大局的には双方の意見が一致いたしまして、これを專門委員會においてさらに深く檢討することに相なりました。組合側との團體交渉もやうやく軌道に乘つてきたような感がございます。國鐵總連合は結成以來、連合體として出發いたしたのでございますが、本年の六月に相なりますと、さらに大會をもちまして、全國鐵の勞働組合を打つて一丸とするところの單一組合の結成を完了いたしまして、中央の本部が地方の各支部を包括するような組織に改められたのであります。なお大會におきましては、從來未解決であつたところのいろいろの問題、さらに新たな地方提出の要求項目を整理いたしまして、七月九日新たな要求を提出しております。最近におきまする組合側の動向といたしましては、經營協議會等によりまして、協議により解決點を見出そうとするような方向に相なりつつあるように思われます。なお八月中旬には、さらに定期の經營協議會を開催いたすように組合側と話合つておる次第であります。
 今までの組合運動の沿革等につきましては、概略ただいま申し上げた通りでございます。なお組合といたしましての日誌等につきましては、その次に組合運動概要の日誌として掲載いたしてございますから、この點につきましては省略いたしたいと思います。
 次に申し上げますことは、現在の組合の組織の概要でございます。國有鐵道の勞働組合は、從來鐵道局の管轄區域毎に各地方の連合會を結成いたしておりまして、その複合體をもつて總連合會を結成いたしておりましたが、本年の六月五日の大會以降、この複合體を解體いたしまして、全組合員を打つて一丸とするところの單一の組織體に改めたのであります。現在におきましては本部の下に支部が全國に七十五ございます。組合員數は約五十六、七萬に及んでおると思いますが、結成當時におきましては約五十六萬三千になつております。さらにこの支部の組織の上に各地方、すなはち東京、中部、大阪、新潟、仙臺、北海道、九州、四國、廣島というようなふうに、支部の連絡機關といたしまして、地方評議會を設けておる次第でございます。この組合におきましては、後に書いてございますが、支部竝びに地方評議會におきましても若干の團體交渉權というものを認めておるのでございます。さらに組合といたしての届出その他の手續を了しておるのでございまして、法律的に申しますと、あるいは純粹の意味の單一體ではないのかも知れないというふうに私どもは考えておるのであります。
 次に、最近の組合におけるところの問題につきまして申し上げたいと思います。組合より管理者側に向いましていろいろと要求事項が出ておりますが、この要求事項の傾向について申し上げたいと思います。當局に對する要求は、やはり何と申しましても生活を除去せんとするところの要求が一番多いと思います。從いまして生活費を中心とするところの基本給の増額の問題、その他これに附帶するところの勞働條件の改善の問題が主となつておりますが、業務改善の問題につきましても、最近におきましては大分殖えてまいつてきたように思います。
 まず第一の給與改善の問題でありますが、先ほどもちよつと申し上げた官公吏の給與改善というものは、現在におきましては、政府職員の待遇改善委員會準備會においてこれを決定いたしておるのでございまして、生活保障を中核といたしますところの基本賃金竝びに各種手當等につきましては、現状におきましては運輸省限りにおいて解決し得ない全官公吏の問題と相なつてまいつておりますので、漸次この準備委員會において審議せらるるような傾向にあるのであります。ただ組合側と管理者側との交渉によりまして意見の一致を見、さらに委員會においてこれを審議するというような方向に進んでおると思われるのであります。
 次に基本給竝びにそれと直接關係ある金錢給與以外の勞働條件に關する問題といたしましては、たとえば休日であるとか休暇、勞働時間等の直接的な勤務條件、また住居施設あるいは醫療施設、被服の問題、その他の物的の諸給與等の間接的な勤務條件とにわけ得られるのでありますが、この兩者につきましては、本年の二月二十一日に締結いたしました勞働協約によつて基本的な線はきめられております。今後の問題といたしましては、その具體的な實施方法が殘されておるわけでございまして、すでに經營協議會においても協議され、現に專門委員會においてもさらに深く協議が繼續いたしておる次第であります。ただここにおきましてこの物的給與の問題でございますが、この問題も國内資源の供給能力との關係もございまして、運輸省限りにおいては解決し得ないような方向に逐次向いつつあるのであります。經濟安定本部等におきましてこれが委員會もすでにできておりまして、組合側竝びに管理者側もこれを出して、その協議にあたることになつておるのでありますが、遺憾ながらあまり活動をしておらぬような状況にあります。ただこの委員會においても、輸送業務というものについて、産業別の優先順位の決定においても、また實際の勤勞用物資の配分決定の問題においても、なかなか重大な問題が起つております。業務改善に關するところの問題として、組合側においても業務組織の改善あるいは制度の運用等につきましていろいろと協議をいたしております。現に第一囘の經營協議會におきましても、この點の具體的方策についていろいろと審議されたのでありますが、今後の問題といたしまして經營の合理化等、組合側にも協力を求める點が相當多々あると考えておるのであります。さらにここに附け加えて皆様方に申し上げておきたいことは、きわめて最近におきまする政府の施策その他に基きまして、現在の組合側において最も關心をもつておりまする問題の一つは食糧に對する確保の問題を強く取上げておる點であります。あるいは食糧の現物を遲配欠配なく與える、あるいはまた食糧休暇をもらいたいというような面において、問題となつて現われてきておる次第であります。
 次に組合の内部の問題につきまして、簡單に申し上げたいと思います。組合内部の事情を管理者の立場から見ますると、内部はやはり急進的な考え方と、比較的堅實と申しますか、穏健な考え方との抗爭をめぐつて、微妙な動きを示しておるように思われるのであります。これが從來の爭議の過程におきまして、明確な形となつて現われておるように思われるのであります。すでに御承知の、昭和二十一年二月總連合が發足いたす以前におきまして、東鐵管内に發生いたしました例の省電爭議の問題でございますが、これなども急進派のいわゆる直接行動と見られるものとも思われるのであります。これに對しまして比較的穏健な考え方をもつておる組合員といたしましては、組合の團結を亂るものであるとして一旦除名處分に出たのであります。しかして當局側がこれらの省電事件の責任者を懲戒處分といたしました。ところが穏健派はひつくり返りまして、組合自身として除名をいたしましたものを、この除名を取消しまして、當局に對しましては懲戒處分の撤囘を要求するに至つたのであります。このように分裂しながらも當局に對する抗爭におきましては、團結を保持する形がその後の組合の動きを支配いたしておると思われます。また昭和二十一年の九月馘首反對の爭議におきましても、名古屋以西におきまするところの、いわゆる穏健と申しますか、堅實と申しますか、そういう組合が東日本の組合のゼネスト決行に反對をいたしまして、一時は組合の分裂を見るかとも思われたのでありますが、結局大同團結いたしまして、當局に要求を貫徹しようという態度に出ております。また本年の二・一ゼネストの爭議は、國有鐵道のみの問題ではなく、全官公職員の共同鬪爭という形をとりましたために、これまでとは違つた行き方をし、當初におきましては分裂の兆は見られませんでしたが、G・H・Qのその筋の中止勸告が明らかになつてまいりますにつれ、一般組合員は急進派の獨斷的行動を不滿とし、これを排撃しようとする試みなども現われたように思われるのであります。また三月中旬におきまして組合が大會をもちました際におきましても、一部急進分子を組合幹部より取除く動議が提起されたことがございます。組合といたしましては、その大會においては決議をしなかつたようでありますが、こういうふうに組合内部といたしまして、われわれ管理者側として見ておりますと、急進派と穏健派とは相當激しい抗爭を續けてきておるように思われるのであります。しかしながら當局に對しましては、あくまで組合の團結を失うことなく、一致してこれに當ろうとしておるように思われます。現に組合の幹部として苦心しておるところも、またこういうところにあるのではないかと思われるのであります。組合といたしましても、最近におきましては非常に自己批判をいたしておるように思われるのでございまして、先般六月の大會におきまして、新たに中央執行委員等が選出されたのでありますが、そういうのを見ましても、比較的堅實な、建設的な、また穏健な人が大部分を占めておるように思われます。なお組合は總同盟あるいはまた産別會議等に現在の段階においては加入いたしておりません。ただ組合の外部活動といたしましては、例の全國勞働組合連絡協議會、さらに七月上旬結成を見ました全日本交通運輸勞働組合協議會に參加いたして、これらと隨時連絡し、組合運動を展開しつつあるのでありまして、現在の段階におきましては、一應落ちつきのある動向を示しておるのであります。
 次には、勞働組合が結成されまして、組合活動が活溌になりましたことが、鐵道業務にどういう影響を及ぼしたかという點を簡單に申し上げたいと思います。組合員が組合活動の何たるかを明確に自覺して、單に權利だけを主張するような矯激な傾向を改めて、義務をも履行するようになりますれば、業務に對してはむしろ非常によい影響を與える。勞働組合なくして今後の業務の完全な遂行はできないことになると考えております。しかしながら現在までの組合活動は、必ずしも業務に對してよい影響のみを與えたとは考えられない。悪い影響を與えておる點も少くないのであります。第一に業務命令に從わないことが本筋であると誤解をする向きもあつたかと思われるのでありまして、それは長い間の一方的な命令に對する服從の反動として、理解し得る點もないではございませんが、一旦發せられた業務上の命令に對しては、あくまでも服從することが、いかに民主的になつても絶對に必要であると思うのであります。最近は組合員も逐次職場紀律の維持の重大性に目ざめつつあることは喜ばしい傾向にあると思われます。
 第二に組合結成の當初におきましては、組合員は無統制にデモその他に參加する傾向がございまして、爭議問題が發生するたびに、幾度となく何萬という組合員が職場を離れるというようなことになりまして、これらにつきましては、當然業務に悪い影響を及ぼしました。今後これらの觀點からいたしまして、組合事務に專從する者の範圍及び組合活動をなし得る場合等を限定し、協約の規定を組合員に遵守さしてまいらねばならないと考えております。
 次に今後の見透しはどういうふうになるかということにつきまして一言申し上げます。本年の二月に例の劃期的な勞働協約が締結されましてから後の組合運動は、從來とは大分形を異にしてきたように思われます。從來のように鬪爭のみにこだわるというようなことなしに、昨今は勞働協約の規定に從い、經營協議會を中心に當局と事務的に交渉するように相なつてきております。組合内部におきましても、すでに申し上げましたように非常な反省期に入つておるように思われるのでありまして、今後におきましては、非常に軌道に乗つて組合との交渉その他が進められるものと思うのであります。ただ今後の日本の經濟の秩序いかんというものが非常に大きな關係があるのでありまして、さらにインフレーシヨンが悪化し、生活問題が事務的な交渉、あるいは協議のらち内で解決ができなくなるというようなときには、かつて示したような組合活動の態勢に逆轉するところがないとは斷言できないのであります。
 以上申し上げましたところは從來の組合に關することでございますが、以下お手もとに差上げましたパンフレツトにございます點は、組合のきわめて最近の綱領竝びに運動方針でございます。これらをごらん願いますと、考え方といたしましても、非常に建設的なものに相なつておると思われます。國鐵の勞働組合の規則その他はそこにございますが、この規則の説明は一應省略さしていただきまして、別にお手もとに差上げてございます國鐵勞働協約の解説書によりまして、勞働協約のおもな點だけを御説明申し上げたいと思います。この勞働協約を作成するには、組合側竝びに管理者側も誠心誠意努力をいたしまして、さらに中央勞働委員會の御努力もございまして、でき上つたものでございます。全條五十六條よりなつております。この協約の根本というか、特徴をなしておるものを一、二申し上げたいと思いますが、この協約におきましては、鐵道經營の管理權竝びに人事權というものは當局側にあるという點に特徴があると思います。この點は組合といたしましても管理者側に經營權竝びに人事權というものがあることをはつきり認めたことになつております。次に經營協議會の設置を第二條において規定しております。經營協議會につきましては別に經營協議會規則を設けておりますが、すでに第一囘を開き、さらに中旬には第二囘を開いてまいりたいと思つております。このパンフレツトのおしまいの方に經營協議會の規則も掲げてございます。次に申し上げる點は、この協約におきまして組合員の範圍と申しますか、第四條の規定がいろいろと從來も問題になつたのでございます。國有鐵道の從業員はこの勞働組合の組合員とするというふうな書き方になつておりまするので、この點がいろいろと例の職制の問題と關連いたしまして、クローズド・シヨツプではないかというふうに言われたのでございますが、私どもといたしましては、この點につきましては國有鐵道獨自の職制である、こういうふうに考える。強いて申しますればあるいはユニオン・シヨツプに當るのかとも思いますが、本協約を通じまして組合員の脱退を認める、組合員にあらざるところの從業員のあることを認める、また組合より除名されましても、國有鐵道において當然これを解職するということにならない、解職する一つの理由になるというような點、この協約におきましては他の組合の成立をもなお豫想しつつできておる點を考えますと、この第四條においてきめておりますることは決してクローズド・シヨツプではない、國鐵獨自の職制であるというふうに考えておるのであります。なおこの第四條の規定の但書におきまして「職務の性質上甲の立場を代表すると認められるものを除く」というふうに書いてございまして、甲の立場を代表するという立場にあるものは組合員としないというふうに書いてあるのであります。この點につきましては先般の經營協議會におきまして範圍を一應組合側と協定をいたしまして、協定事項として經營協議會においてまとまつたのであります。それの一番の根本は驛長であるとか、あるいはまた現場長、機關區長であるとかいう現場の長を組合員とするかしないかという問題でございます。それも經營協議會におきましては現場の長は組合員としないということで協定が成立したのであります。しかしながら組合といたしましては、經營協議會後の大會におきましてこれをかけましたところが、組合員の同意を得られませんので、これが勞働協約と同じ效果を發生するということに相なりませんために、現在におきましては現場長は組合員であるか、組合員でないか、まだはつきりきまつておらない状態でございます。甲の立場を代表すると認められるもの、これの組合員の範圍ということにつきましてはさらに組合と折衝をし直さなければならない状態にあることを申し上げておきたいと思います。
 次に勞働におきまして特に申し上げることは、勤務時間、その他休日、休暇等のことでございます。勤務時間につきましては一日八時間、一時間以内の休憩時間を含めて勞働時間は一日八時間であるということに取極めてはございます。一時間以内の休憩時間を含んでおりますので、おおむね實働七時間制を採用するということに相なつております。但し勤務時間というものは鐵道の業務の特殊性からいたしまして、いろいろの勤務制度がございますので、それに從いまして別表によるというふうに第十五條の規定において定めておるのでございます。なお休日、休暇につきましては、週休制を採用し慰勞休暇と申しますか、休暇につきましては、勤續一年以上の者につきましては、年二十日を認める。一年未滿三箇月以上の人につきましては、年十日を認めておるのであります。なお勤務時間を超えて勤務いたしました者に對する増務給その他のものを認めておるのであります。女子竝びに年少者の勤務は、勞働基準法が實施になりますのを待つてきめるという勞働協約になつておるのでありまして、現在組合側と女子竝びに年少者の勤務をいかにするかということについては、專門委員會において折衝中でございます。それからこの協約の第五十二條におきまして、この協約は二月二十二日から有效になりまして、八月の二十一日まで有效ということに相なつておりますが、この第五十五条の規定によりまして、この期間中においては人員整理のための解雇をしないということを認めておるのであります。この規定につきましては、先ほど申し上げました九月十五日のゼネストの際交換いたしました覺書を再確認いたしておるのであります。この協約が更新されましても第五十五条は當然には繼續して效力をもつものではないのであります。協約の大體の特徴その他については以上私から申し上げた點に盡きると思つております。はなはだ簡單でございますが、一應國有鐵道勞働組合の概況について申し上げた次第でございます。
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準急列車と急行列車 第2話 気動車の話

2017-12-16 14:14:12 | 国鉄思いで夜話
皆様こんにちは、久々に更新させていただきます。
今回は、気動車のお話と言うことで・・・というか、内燃機関の話ばかり続いていますが、気の迷いですから。苦笑
さて、今回は準急気動車事始めと言うことでお話をしたいと思います。
気動車準急としては、157系を投入する前に日光号がキハ55を使った準急列車として運転されたと言う話は聞かれたことがあるかと思います。

実際、準急用気動車としてキハ55は誕生しましたので、車両的に見れば日光号を準急のルーツとしても良いのですが、実はもう少し前から気動車準急が運転されていました。

今ではローカル列車しか走っていませんが、実は関西線です。
関西線は、大阪~名古屋間に関しては東海道線よりも距離は短いため東海道線の大垣~米原間が非電化だった当時では、関西線も名阪間のバイパス路線として、名古屋~港町間に準急列車が設定されていました。

昭和28年の時刻表、この当時はまだ客車列車であり、愛称等はありません。

そのうちの1往復、湊町13:50発 名古屋17:05着 名古屋17:40発 湊町20:59 3時間15分程で走破していたことになります。
ちなみに、現在のアーバンライナーでは大阪難波を14:00に出発して、名古屋には16:12ですから、約2時間ですので、時代を感じてしまいます。

一往復だけ気動車に置き換えられた準急(当時は無名)列車は、どのようなものだったのでしょうか。
実は10系気動車が使われていました。
将来の準急用気動車の試作として計画された、キハ50形を利用して、昭和30年3月22日2エンジン付きのキハ51を両端に中間車がキロハ18(当時の形式はキロハ47000)とキハ17(キハ45000)を連結した4両編成で運転されたそうです。
ただし、予備車が無く検査時には客車列車に戻された日もあるそうです。

昭和30年の3月からはキハ17系(キハ50を含む)気動車が国鉄最初の準急気動車として運転されました。

キハ44500系気動車による準急が運転されたのは関西線が初

昭和31年7月15日からは量産型のキハ51(キハ44700)形が増備され、残り2往復の客車準急も気動車に置き換えられました。
なお、この改正で30分の大幅時間短縮で2時間50分運転となったそうで、当時の近鉄特急が2時間42分運転だったのでほぼ互角に戦えるようになったと言われています。


なお、その後キハ51はキハ55に置き換えられ軽快な準急塗装(クリームに赤帯)が投入されますが、優等車の増備が間に合わず、キロハ18の塗装を準急塗装にした車両が走った時期もあったようです。
ちなみに、関西線で最初に置き換えられた208・209列車が日本最初の気動車による準急列車となりました。

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準急列車と急行列車 第1話 電車の話

2017-12-12 11:55:50 | 国鉄思いで夜話
準急列車という種別を聞かれたことがあるだろうか?
英語表記では「Semi-Express」と表記されることが多いことからも何となく、格下の列車というイメージがあります。
現在でも私鉄の列車種別で使われる場合が多く、京阪電車であれば、萱島から各駅停車は準急とし、上位の列車として急行列車、さらに停車駅を絞った列車を一般的には特急と言っています。
こうした区分は、国鉄の列車区分を真似たものと思われます。

まぁ、その辺はもう少し検証する必要があると思いますので断言はできませんが。
さて、本日は私鉄の列車種別のお話ではなく、国鉄にも準急列車があったというお話をさせていただこうと思います。

国鉄時代の準急列車というのはその性格というか属性が戦前と戦後で変わります。
戦前の準急と呼ばれる列車は、現在の快速のような扱いで、準急料金は不要の列車であり、庶民向けの長距離列車などが設定されていました。
戦後は、準急料金が設定されることになりました。
ただ、急行料金が距離によって運賃が分けられていたの対して、一律料金でした。
手元に昭和36年3月の時刻表があるのですが、これによりますと、急行料金は、500kmまでで200円、500km以上は、300となっています。
ちなみに、旅客の初乗り運賃が2等で10円です。
ちなみに、2等というのは現在の普通運賃です。
準急料金はというと、距離に関わらず100円でした。

さて、ここで問題となったのが準急と急行の違いでした。
特急は、特急列車として誰が見て明らかに違う特別車両が連結されていましたが、急行列車と準急列車はほぼ同じ車両が使われていました。

電化区間であれば、昭和36年を基準で考えると、153系電車が急行列車にも準急列車にも東海道線で使われていましたし、80系電車も準急電車として活躍していましたが、急行列車の多くは機関車牽引による列車が数多く運転されていました。
そこで、電車が準急列車だけに使われている頃であれば、急行列車は客車列車で食堂車や特別2等車が連結された車両と言えたのですが、
旧形の客車よりも、軽快な内装の準急電車の方が快適ということから、急行列車の電車化が検討されることになりました。
そこで、急行「なにわ」が最初に電車化されることとなり、急行と準急の区別をはっきりさせる必要が出てきました。
そこで、2等車をリクライニング装備の特別2等車仕様にし、さらに151系電車で成功したビュフェで1等車を挟むようにして差別化を図ることにしました。

なお、153系急行のビュフェは寿司を販売したことで有名になりましたが、現在の在来線特急では車内販売もないことを考えると雲泥の差です。
こうして、辛うじて設備面で準急と急行は格差をつけたと言ったのです。

ただ、それだけでは理由付けが苦しいので、急行列車は準急列車よりもさらに停車駅を絞るなどしていましたので、今の特急列車よりも停車駅が少ない急行列車が多数存在しました。

しかし、特急車両同等の157系を使った準急日光もあったため、国鉄部内でも準急行の位置づけは曖昧なものとなっていましたので、その辺を含め、改めてお話をしたいと思います。

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昔の鉄道雑誌の記事から 幻の新線計画

2017-11-28 00:14:25 | 国鉄思いで夜話
皆様こんにちは、久々に投稿させていただきます。
今回は、昭和43年の鉄道ジャーナル10月号の記事から気になったものを拾ってみようと思います。


大阪市交通局がモノレール?
ネットで調べても、こうした記事が出ていないので多分検討段階で消えてしまったのではないかと思うのですが、記事によりますと。
昭和46年以降の地下鉄網を整備するにあたり、第二次5カ年計画を検討中だが、その一部区間にモノレールを採用すると言う記事が出てきます。
モノレール建設の区間は?
記事によりますと、新大阪~南港埋め立て地間30kmの新線東部環状線ルート…と記述されていますが。
実際にはどのような路線だったのでしょうか。
今となっては、この経路がどのようなものかイメージが湧かないのですが、バスやトロリーバスが道路混雑で思うように走れないうえ、地下鉄の建設には1kmあたり60億円かかるため、その1/4で済むモノレールの建設を計画しているとの内容の記事がありました。
ツッコミどころは満載だが?
計画では、複線モノレールを建設し、3~5両編成の電車を50~80㎞/hの速度で走らせようというもので、主要交差点に停留所を設けることとし、ビルの3階から4階を利用すると言う計画と書かれています。
まぁ、素朴な疑問として建設は道路上になりますので、道路の幅などが狭くなりますから円滑な流れは阻害されないのでしょうか?
更に、停留所はビルの3階。4階を利用するとのことですが、こうしたビルは大阪市交通局が建設するのでしょうか。
仮に既存の民間ビルに接続となっても、既にビルを改装するのでしょうか?
また、その費用は当然、大阪市交通局が持つのでしょうか?
工費は450億円程度を見込んでいると書いてますが・・・・。

何とも不可解な記事ではありました。
今後、大阪市交通局にそうした検討した記録があるのか探してみるのも面白いかなぁと思っています。

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