国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

紀勢本(東)線の夜行列車、紀州5号のルーツを探ってみる。第1回

2020-07-14 00:47:23 | 国鉄思いで夜話

実は、本日親友から質問を受けまして、母を訪ねて三千里ではないですが、その答えを探して色々と調べていました。
実は、最初に見せられたのは1枚のtwitterに上がっていた1枚の写真、
新宮駅に到着した、キユニ26を先頭にした、荷物列車、後方にはきは28・58が連結されており、twitterの見解では紀州5号ではないかというお話しだったので。
実際の所はどうなのと調べてみた次第。

そこで、何回かに分けて、山陰本線のお話とは別に、紀勢本線の東線側の列車について歴史を辿っていきたいと思います。

ちなみに、名古屋発の夜行列車、紀州5号ですが、誕生は昭和43年10月のダイヤ改正です。
元々は「うしお2号」という列車でしたが、愛称統合で紀州に統合されたものでした。
廃止時期なのですが、手元にある時刻表では、昭和56年10月の改正までは残っていますが、昭和57年7月号ではすでに走っていませんので、昭和57年3月か4月頃に改正されて廃止されたのではないかと推定されます。

さて、紀州5号という列車のルーツはと言える列車を調べてみますと、昭和34年7月15日まで遡ることが出来ます。

実は、紀勢本線全通時に新しい列車が三本新設されているのですが、その一つが天王寺発名古屋行きの黒潮のルーツになる列車、もう一本は、天王寺発名古屋行きの924列車のルーツとなった列車、そしてもう一つが今回のテーマである紀州3号のルーツと言うべき列車になります。
昭和34年7月時刻表に付録として、7月15日(開業以降のダイヤ)が付録として挟み込まれており、当時の時刻を確認することが出来ました。

昭和34年7月15日からの時刻 23:00名古屋発の、無名準急がルーツ

上り列車も紀伊勝浦~名古屋間

亀山~多気間の時刻

多気~紀伊勝浦間の時刻

この時刻表によると、紀州5号のルーツと言える列車は
1907列車 名古屋発 23:00の無名の準急で、2・3等車連結となっています。
3等級制の時代ですので、今のグリーン車が連結されていたことになります。停車駅は、名古屋、八田、蟹江、桑名、富田、四日市、亀山、亀山から紀勢本線に入り、津、松阪、多気、三瀬谷、紀伊長島、尾鷲、熊野市、新宮、那智、紀伊勝浦で、紀伊勝浦には5:52の到着する客車列車が設定されています。

実は、この準急は無名なのですが、後に特急「くろしお」のルーツとなる、名古屋~天王寺間を走破する準急には「くまの」と言う愛称が設けられています。
他にも、準急列車は全て愛称が付いていますので、この準急はその後の紀州5号まで連綿と、主たる使命が新聞輸送を中心とする荷物輸送が中心であり、敢えて愛称を設ける必要が無かったとも言えそうです。

次回以降は、昭和35年以降の時刻表などを参照しながら、紀勢東線の推移などを見ていければと思います。

日本交通公社の昭和34年7月号時刻表
正直この年代の時刻表は高くて中々手が出ません。
収集していますが、正直亀の歩みです。苦笑

正しい考証を行なうには、出来るだけ当時の時刻表などが欲しいのも山々なんですけどね、苦笑

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山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第4話【戦後編】

2020-07-02 23:01:47 | 国鉄思いで夜話

気がつけば1ヶ月以上更新していませんでしたが、改めて昭和33年10月のダイヤ改正以降をご覧いただこうと思います。

昭和33年10月号時刻表

昭和33年10月の時刻表を参照しますと、東京発の急行出雲は、東海道区間は夜行列車として、大阪からは昼行列車として大社まで運転される列車であり、昭和31年12月改正のダイヤをそのまま踏襲しています。

昭和33年10月のダイヤ改正では、寝台特急客車用の20系が、運転を開始したダイヤ改正でした。

昭和33年10月号時刻表内開きの20系客車を紹介する記事

電源車を連結し、潤沢な電力で変性全体の空調は元より、電化食堂車が誕生しました。

それまでは、2等A寝台・B寝台、食堂車のみが冷房付であったのですが、この車両では三等寝台は元より、三等座席車も冷暖房完備であり。特急「つばめ・はと」よりも豪華な車両となりました。

なお、それまで使用されていた「あさかぜ」編成は、特急「平和」(平和は漢字書き)として、東京~長崎で運転が開始されることとなりました。

旧あさかぜ編成を使用した特急「平和」翌年の7月の改正で

ちなみに、151系「こだま」は万全を期するため、運転開始は11月1日まで延期されていますので、この改正では運転しておりません。

ちなみに、「平和」5列車は、東京16:05発、長崎 12:15 着 「あさかぜ」7列車は 東京 18:05発 博多11:40でした。

さて、脱線はこの辺にして、本題の京都夜行に戻りたいと思います。

京都夜行は下関行きとして、座席車主体の編成が組まれています。これは、新聞輸送などの使命があったからと言えます。

実は、山陰本線区間に関して言えば、京都発。並びに大阪発の夜行列車ともに大きな変更はなく。

京都発夜行は、下関まで直通、大阪夜行は、出雲市までの運転となっています。

ちなみに当時の急行白兎は、特急「つばめ」の接続列車で、特急「つばめ」を受けて16:00に京都を出発、米子には22:45に到着出来る日着ダイヤとなっています。

話題を、肝心の大阪夜行・京都夜行に戻しましょう。

京都発下関行き817列車は、2・3等車は連結されているものの、大阪発大社行きの717列車は、さらにC寝台(三等寝台ではない、現在のA寝台)が連結されており、大阪からの優等客の利用が多かったことが窺えます。

晩年は、京都夜行「山陰」と大阪夜行「だいせん」が福知山駅で両側のホームに並び時間調整する姿が見られ、相互乗り換えも可能でしたが、当時のダイヤでは、福知山通過時刻に30分ほど差があり、相互に乗り換える事は出来るダイヤではありませんでした。

大阪発の夜行列車は普通列車ながらC寝台(現在のA寝台相当)

大阪夜行 717列車

大阪 22:00 福知山 0:54 着 1:00発

京都夜行 817列車

京都 22:05 福知山 0:16 着 0:22発

さて、山陰本線のダイヤをじっくり見ていきますと、実は京都夜行は、終着の下関に到着するのは18:11なのですが、実はもう一列車、浜田から快速運転になる夜行列車がありました。

京都 9:30出発の

 

さて、そんな昭和33年はこの程度にして、次は昭和34年は、ダイヤ改正前の7月号しかありませんので、次回は、昭和35年6月(特急「つばめ・はと」の電車化に併せて実施されたダイヤ改正と山陰本線の夜行列車に関する変遷をご覧いただこうと思います。

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山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第3話【戦後編】

2020-05-21 21:09:08 | 国鉄思いで夜話

皆様こんばんは、本日も京都夜行山陰物語として、昭和28年から昭和31年を見ていこうと思います。

この頃になると、終戦の混乱期も落ち着きを取り戻してきますので、京都夜行に限定せずに、京都・大阪発の優等列車なども参照しながら、皆様をご案内したいと思います。

最初にご覧いただくのは、昭和28年の時刻表です。

こちらをご覧いただくと、京都発の夜行列車は下関行きの普通列車となっており、東京からの急行を受けて大社というルートはなくなっています。
その代わりと言ってはなんですが、東京発の「急行せと」宇野行きに大社行き編成を組み込んでいました。

時刻表を参照しますと、宇野・大社となっているのを確認いただけるかと思います。

東京を22:30、終着大社には18:30ですので、20時間かかっていた計算になります。

なお、急行せとの前身は、昭和25年7月から東京~下関間を運転開始した急行列車だそうですが、手元にある復刻版の10月号によりますと、39列車、東京 21:30発広島・宇野行きという列車を参照することが出来ます。

さて、この列車はよく昭和26年には単独の列車として独立するらしいのですが、実は昭和28年まで時刻表を持って降りませんので確認のしようがありませんので、若干端折らせていただきます。

さて、京都夜行は819列車として、京都を22:15に出発、翌朝7:09に米子を経て、下関到着は19:02となっています。

あと、昭和28年に時刻表をみますと、すでにこのときには急行だいせんの前身とも言える、大阪夜行が運転されています。
大阪を22:00に出発して出雲市まで運転されています。

これを受ける列車は、「特殊列車」と「玄海」と思われますが、東京始発の利用者と言うよりも、大阪からに利用を装丁していたものと思われます。

当時の普通列車は荷物・郵便輸送も兼ねていますので、主要駅などでは30分停車とか50分停車なども当たり前であり、普通列車の停車時間で食事するのは当たり前、銭湯に入ってくる猛者もいたとか。

ちなみに。せとから分離された大社行き編成は愛称に(いずも)と書かれていますが、「せと」弊結時には、「せと」と名乗っていたのか、「いずも」と名乗っていたのかちょっと興味あるところではあります。

京都~米子 ↑ / 米子~下関 ↓

昭和30年になると、時刻としてはさほど大きく変わらないのですが、大阪夜行には、C寝台が連結されているのがわかります。

ここで、C寝台について少しだけ説明しておきましょう。

C寝台とは?と思われる方もあるかもしれませんが、C寝台は、元々の2等寝台になります。
いわゆる、現在の流儀で言えばA寝台、開放室になります。

ただ、C寝台と呼ばれた車両は、当時の時刻表を確認しますと、スロネ30と呼ばれる車両が使われていました。

この車両は、4人コンパートメントで、寝台幅は60cm、現在はありませんが、昔のトワイライトエクスプレスの開放B寝台が4人ごとに簡易に区分できる部屋になっていたかと思いますが、あのようなイメージですが、冷房もない時代なので、夏場はかなり暑苦しかったのではないかと思われます。

昭和31年12月の東海道線、全線電化開業後の時刻表を参照しますと、出雲は晴れて単独運転の列車となります。

残念ながらスキャナーでは取れないのですが東京22:15発、大社9:16着となっています。

当時の時刻表を参照しますと、上記のような編成になってます。
意外と寝台の需要が多く、2等寝台B・Cと連結されているのが判りますが。
2等寝台Bは、元1等寝台開放室であり、先輩格に当たる「せと」には、寝台車が連結していないことを考えると、列車の格としては出雲の方が上と言うことになりますが、寝台車は東京~大阪のみの連結となっており、東京~大阪間の夜行列車の性格を併せ持たせていた列車でした。

昭和31年12月改正の時刻表から

急行出雲は、昭和31年12月の改正では、晴れて単独運転なのですが、ちょうど綴じ目付近にあるため、見えません。
京都始発の夜行列車は引き続き、下関行きであり、大阪夜行は大社行きでC寝台も連結されています。

こう考えると、すでに大阪方面からの夜行列車と京都からの夜行列車が戦後すぐに山陰地方との間で設定されていた子rとはちょっと意外な発見でした。
当時から、大阪と山陰地区とのつながり、特に商都大阪との繋がりは、山陰地区は相当に強かったのではないでしょうか。
大阪夜行【大阪発の夜行普通列車】に2等寝台車が連結されていることからも、それだけの需要があったと言えるのではないでしょうか。

京都~米子 ↑ / 米子~下関 ↓

次回は、昭和32年の時刻表がないので、昭和33年10月のダイヤ改正以降を追いかけてみたいと思います。

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山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第2話【戦後・混乱期編】

2020-05-09 00:00:13 | 国鉄思いで夜話

本日も、山陰本線、京都夜行「山陰」物語を始めさせていただこうと思います。

今回は、昭和21年から昭和28年までの、戦後の混乱期と言われた時代を中心にお話を勧めさせていただければと思っております。

太平洋戦争【大東亜戦争】が1945(昭和20)年8月15日に終結し、国有鉄道【当時は運輸省】の鉄道はGHQの管理下に置かれることとなったのは、すでに皆様もよくご存じのとおりです。

GHQ/SCAPは第8軍が東日本、第6軍が西日本を占領すると言うことで、京都烏丸四条の京都丸紅本社屋(現在のCOCON KARASUMA)に司令部が置かれることとなりました。

当初は、中国軍が来るという話もあったそうですが、結局アメリカの第6軍が和歌山から進駐することになり、和歌山線を使って京都まで入ったそうですが、直接「山陰」の話とは関係がないので、機会があればその辺のお話をさせていただこうと思います。

さて、早速昭和21年の時刻表を参照してみましょう

戦後すぐにも残っていた。大社行き列車

戦前同様に、夜行列車としての大社行きの列車が139列車として運転されています。

京都発22:05発で、大社には翌朝の9:44に到着するダイヤとなっています。(ただし、昭和21年8月の時刻表では、大社までは運転休止となっています)

ちなみに、この列車は東京発7:23、京都21:10着の139列車を受けて出発することとなっています。

139列車は、大阪行き普通列車で、大阪着は21:10ですので、14時間近くかかっていたことになります。

ちなみに、現在であれば、東京を7:28に出発して、細切れに乗り換えを繰り返しても、16:42には大阪まで到達できるようです。

京都発の809列車は、亀岡以遠は快速運転で福知山には0:43、鳥取4:40、松江8:25、出雲今市9:20のダイヤとなっています。

以下、詳細は下記時刻表参照してください。

石炭不足の列車削減で、消滅

昭和22年の改正では、石炭不足から京都発大社行き夜行列車は消滅してしまいます。

その代わりと言っては何ですが、大阪発大社行きだけが残ることになります。

 

当時の事情を、弊サイトから引用させていただきます

国鉄、石炭不足で急行を全廃(~4月22日) 1/4

旅客列車を大巾削減し1日の運転粁を15万kmとする。急行列車全廃、2等車の連結停止
主な長距離普通列車 東京~博多間1往復(所要32時間27分),東京~門司間1往復(所要31時間40分)等運転

国鉄があった時代 昭和22年前半

当時の時刻表は、下記を参照してください。

昭和22年2月時刻

京都発の列車が消えて、大阪発の夜行列車のみが残ることになりました

昭和25年には再び復活

昭和25年の時刻表を参照しますと、京都発22:00発 下関行きとして復活しています。

時刻的にも、昭和21年のダイヤとほぼ同じ時間帯ですので、復活とみて良いかと思われます。
また、詮議の混乱期でもあり、出雲大社への参詣よりも下関まで延長運転する方が良かろうという判断かと思われますが、長距離鈍行として下関には翌日の19:05に到着する設定となっていました。

こちらも、下記に時刻表を載せておきますので参照願います。

下関行きとして復活しています。時刻はほぼ同じですが。

左 福知山→出雲今市【出雲市】まで、右 出雲今市→下関までの時刻を掲載 

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山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第1話【戦前編】

2020-05-04 09:14:41 | 国鉄思いで夜話

はじめに

現在は、寝台列車と呼べるものが殆ど存在せず、僅かにサンライズ出雲・瀬戸がJR各社直通の在来線特急列車として残っています。
国鉄時代には、寝台列車は多数運転されていたわけですが、高速道路の延伸、さらには飛行機運賃の自由化などで、列車の運賃と飛行機の運賃格差が小さくなり、徐々に寝台車の利用者は減少を続けることとなりました。

かつて、鉄道にはブルートレインと呼ばれた寝台特急の他に、夜行列車と呼ばれる普通列車も多数走っており、一部の普通列車は寝台車を連結していた列車もあり、これらの普通列車は昭和50年3月の改正以降は、マルスに寝台券を収納し、全国で発売できるようにしていたため、夏期のような愛称が付けられていきました。

からまつ 小樽~釧路間
南紀   天王寺~名古屋(寝台連結は、天王寺~新宮)
山陰   京都~出雲市
ながさき 門司港~長崎・佐世保

ただし、昭和49年12月の時刻表を参照しますと、「南紀」のみ、12月には愛称が付与されており、比較的寝台車の利用が多かった「南紀」を先行して愛称を付与して試行したと思われます。【この辺は要調査ですが】

また、マルス150の稼働が昭和50年3月ですので、この辺は整合性がとれると思われます。

前回は、南紀号を取り上げましたので、今回は、普通列車「山陰」を中心に、山陰本線・福知山線の列車について取り上げてみたいと思います。

山陰、私の父が鳥取出身で、親戚の叔父は京都行き山陰を京都夜行、だいせんを大阪夜行と言っていましたので、私も「山陰」に関しては無名時代は、「京都夜行」という言い方で統一したいと思います。

山陰のルーツは、戦前まで遡る?

そこで、手元にある古い時刻表度を参照しますと、復刻版の昭和5年10月の時刻表には、京都20:50発出雲市行きという213列車を見つけることが出来ます、恐らく、これが京都夜行のルーツと言えそうです。
終着大社駅には、翌朝の6:32着となっており、2等寝台(現在のA寝台)の連結もあったようで、当然のことながら一般庶民は、座席主体の堅い座席で輸送され、時刻表には、「軽便枕あり」と言う表記が見られます。

当時の資料などを参照してみますと、首枕とでもいうのでしょうか、これを座席で支えるかなり大きな代物で、大正時代に民間会社が行っていたようです、ただ、乗務していたサービス員(軽便枕の販売。設置をする作業員)による、サービスの強要【いわゆる押し売り】等で、評判が悪く。鉄道省が営業許可を取り消すと共に。その装置などを買い取る形で追い出したそうです。しばらくは放置されていましたが、昭和恐慌によるサービス向上と収入増加を狙って、軽便枕サービスが昭和4年に鉄道省直営で復活したそうです。ただし、装置の老朽化も相まって昭和9年には再びサービス自体が終了してしまうことになりました。

ということで、軽便枕に話はこの辺にして、再び、京都夜行【山陰】のお話を続けさせていただこうと思います。

東京からの急行列車を受けて、出発する京都夜行

最初は、昭和5年の時刻表から

東京からの急行列車を受けて出雲市まで走ります。

なお、この東京発の列車はそのまま下関まで走るロングランで列車でした。
時刻表上部の「急9」の文字は、「急行9列車」の意味です。

それと、戦前の時刻表は12時間制を採用しているので、京都発8:50とありますが、これは20:50発と言うことになります。

軽便枕ありの表記に注目してください。【前述】

昭和15年も大きな変更は無し

手元には、これ以外に、昭和15年10月号、昭和19年12月とあるのですが、今度は太平洋戦争【大東亜戦争)開始前、戦前の国鉄黄金期と言える時季の時刻表が以下の通り

時間の若干の修正はあるものの、東京からの急行列車を受ける形で運転されています。

さらに、大阪からの夜行列車が運転されていますが、このパターンは大阪夜行が「急行だいせん」になってからも踏襲されており、私が高校生の頃だったでしょうか、夜の福知山で深夜にも関わらず、立ち食いそばが繁盛していたことを今も思い浮かべることが出来ます。

昭和19年にも出雲市行きは残されていた

昭和19年12月の時刻表でも、この列車は削減されていませんでした。

時刻の繰り下げはあるものの、列車としては残されているのは、出雲大社への輸送需要が大きかったからであったことは容易に想像できます。【東海道線での9列車の所要時間が増えているのは、恐らく貨物輸送が増加して線路容量を圧迫していたことも原因ではないかと思われます。

(貨物列車の速度が遅ければ遅いほど、1時間当りの通過トン数が減るため)

こうして調べていくと色々と話題がありそうなので、次回は戦後編としてアップさせていただきます。

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特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 5

2020-04-25 20:38:36 | 国鉄思いで夜話

本日も、続きを書かせていただきます。

特急つばめは、1分の臨時停車の後、再び加速していきます。
四分半後には「臨時特急さくら」が追いかけていますので、後続の列車にまで遅れを出すわけにはいきません。

私は、自らの意思で列車を止めたという事実を今一度思い返していました。
大変なことをしてしまった。自らの意思で、病人への救護措置とはいえ、特急列車を止めてしまったという悔悟の念が大きく頭をもたげました。
おそらく帰区してから助役・区長からの事情聴取があるだろう、厳しく叱責を受けること、もしかしたら、始末書を出さざるを得ないであろう、そんなことが頭によぎります。
しかし、自分は少女のためにという純粋な気持ちからの行動であり、例え叱責されても始末書を出して処分を受けたとしてもそれは甘んじて受け入れようと心に決めたのでした。
不思議と、そう覚悟を決めると今まで重くのしかかっていた不安が一気に解消していくのが感じられ、一気に疲れが出てきたように感じたのです。

その後は、しばし、専務車掌室の中で放心状態になってしまいましたのでした。
時計を見ると13:50、外を見るとちょうど熱田駅の駅名標がちらっと見えました。
 「良かった、列車は、遅れを取り戻したようだ。」

私は独り言を呟くと、名古屋到着の案内を始めるのでした。

名古屋には、14:00定時到着、ここで機関車はEF58からC62に交換されることになります。
EF58型機関車が切り離され、引き揚げ線に逃げると、C62のテンダが近づいてきます。
客車の5m程手前で一旦停車、誘導掛の緑の旗を頼りに機関士は徐々に機関車を客車に近づけてきます。

私は、車掌室の窓から機関車連結の様子を見守っていました。
連結作業は、機関士の技量が試される瞬間です。
出来るだけショックを与えずに連結するわけです、誘導掛りの緑の旗が赤い旗に替わって機関車は静かに連結されました。
軽いショックが伝わってきたものの、あれ?という程度であり、安定した連結作業でした。
おそらく、前方では駅手による給水や炭庫の整理などが行われていることでしょう。

やがて5分の停車時間は過ぎて、発車ベルが大きな音でホーム全体に響き渡っています。

駅の売り子も。あと一つ、もう一つと、乗客に弁当を売っていきます、ベルが鳴り止み、駅長の発車合図と共に、汽笛一声、特急つばめ号は大阪に向かって動き出したのでした。

ホームでは、見送り忍の姿も幾人か見えました。

駅長との敬礼を交わした後は、後方の運転車掌に任務を任せ、私は案内放送に入るのでした。

お待たせいたしました、特急つばめ号、大阪行きです。

途中止まります駅は、岐阜、米原、京都、終点大阪の順でございます。

到着時刻は、岐阜14:30、米原15:22、京都16:21、終着大阪には、17:00ちょうどの到着を予定しています。

次は、岐阜、岐阜に停車いたします。

列車は、稲沢の操車場を見ながら走っていくのでした。何事もなく14:30には岐阜に到着、駅では助役が走り寄ってきました。

「蒲郡駅での少女の件ですが」という、

私はとっさに、どうだったのですかと聞き返しますと、
措置が早かったので、貴子ちゃんは快方に向かったとのこと。

急性の中毒症であり、措置がもう少し遅ければ命に関わっていたこと、4・5日も入院すれば退院できるであろと、蒲郡の駅から連絡があったと知らされました。

私は、「良かった。本当に良かった」

そう心から思いながら、岐阜駅を発車後に、以下のような案内放送をしたのでした。

「特急つばめ号にご乗車の皆様、先ほど停車の岐阜駅で、蒲郡駅で急病のため臨時停車下少女の件で連絡がありました。皆様にはご迷惑をおかけいたしましたが、あの臨時停車のおかげで、措置が早くできたことから、一命は取り留めたとのことでした。改めて皆様には途中停車のお詫びを申し上げると共に、皆様のご協力のおかげで、一人に少女の命を救えたことを心より感謝いたします。ただいま、列車は定刻で運転しております。」

と放送を締めくくったのでした。

私の心には、いかなる処分を今後受けようとも、少女の命を救ったという思いを胸にして、どんな処分でも甘んじて受け入れようと改めて思ったのでした。

 

終わり

次回は番外編として、その後のお話などをさせていただきます。

コメント (1)

特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 4

2020-04-12 23:15:30 | 国鉄思いで夜話

ほぼ1ヶ月ぶりの更新になりますが、しばしお付き合いください。

私は、先ほどの親子に今一度会いに行くと、二人を特ロ【現在のグリーン車】に案内して、少しシートを倒して少しでも楽な姿勢になるようにするとともに、車掌室に戻り、マイクでお医者さんが乗り合わせていないか声をかけてみるのですが、あいにく乗っていませんでした。
そこで、途中駅での停車をと思い、前述の通り黒田運転車掌と打ち合わせの上、蒲郡に列車を止めようとしたわけです。

早速、運転車掌の黒田君が通報依頼書に臨時停車の旨を書いて、通過する西古佐改易ホームの助役にマッチ箱に依頼書を入れて投げてくれたのでした。
私も通過監視しながら見ていますと、フルスピードで通過する駅から投げられたマッチ箱は列車が通過することで巻き起こる風に翻弄されながら、ホームをコロコロと転がっていくのが見えました。そして、列車から投げられたマッチ箱を広いに近づく助役さんの姿は徐々に小さくなるものの見えていました。
現在であれば列車無線を使って列車指令と直接やりとりできますが、当時はそのような事は出来ませんので、西小坂井駅長の善処を信じるしかありませんでした。
もしかしたら・・・そんな一抹の不安が頭をよぎります。
私は再び車掌室にもどるとマイクを持って、この列車は蒲郡駅に臨時停車する旨を案内しました。
少女、貴子ちゃんは苦しそうに、堅く目を閉ざして苦しそうな呼吸を続けています。
私は、お母さんに
「先ほどマイクでも放送しましたが、蒲郡駅で臨時停車させて、病院に入れてあげますから」
と言うのですが、正直、一抹の不安は残っていました。
万一、蒲郡駅の場内信号機が進行出所定の速度で通過しようとしたら非常制動をかけてでも列車を停止させようと心に決めたのでした。

愛知御津、三河三谷と列車は瞬く間に通過し、次はいよいよ蒲郡でした。
私はいても立ってもいられなくなり、デッキに出てドアを開けたのでした。
列車は依然フルスピードで走行しており走りす続けています。
ああ、ダメかもしれない、やはり非常制動しか無いのか・・・そう思った矢先でした・
ググッとブレーキがかかったのでした、私は思わず体を乗り出します。
列車のスピードはどんどん速度を落とし、蒲郡駅のホームが眼前に迫ってきます。
駅員がホームにリヤカーをおいて待機してくれています。
列車は無事蒲郡駅に臨時停車したのです。

私は胸に暑いものがこみ上げてくるのを押さえながら。給仕にお願いして貴子ちゃんを抱っこして列車から降ろしてもらったのです。
この列車の後には4分半後に「臨時特急さくら」が迫っており、時間的にはかなり厳しいのですが、幸いなことに1分の臨時停車で蒲郡を再び出発、臨時停車の遅れを取り戻すべくぐんぐんとスピードを上げていきます。
と言っても、居間の電車のような加速ではないので、ゆっくりとしたものですが・・・。
貴子ちゃんを乗せたリヤカーは駅員に引かれて移動していきました。
駅前には既に救急車が待機しているのでしょう。
列車に向かって何度も頭を下げてお礼を言うお母さんの姿が見えました。

続く、

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国鉄改革とは?新幹線保有機構とJR各社

2020-04-05 23:25:21 | 国鉄改革関連

国鉄時代を知らない世代の人から、JRになったからローカル線が廃止になったとか、不便になったという声を聞きます。

実際に、会社間の乗り入れや、会社間をまたぐ長距離列車の減少、国鉄時代に使えた電話予約が使えないなどの弊害もありますが。国鉄から新生JRになるとき、本州各社も本当にJRで上手く行くのだろうかという疑心暗鬼もあったと言われています。

そこで、国鉄の部内紙。国有鉄道という冊子の中から「貨物会社の収支について」という記事がありますので、sここから資料等を引用させてもらいながらお話を進めさせていただこうと思います。

最初に見ていただくのは、JR貨物の輸送量の予測でした。

年々、5%程度減少すると見込まれており、66年(平成3年)度では、発足当初の5,777万トンから570万トンほど減少した、5,209万トンと予測されています。

その代わり、運輸収入がむしろ増えているのは、ほぼ毎年運賃値上げすることを想定して計画されていたからでした。

運賃値上げはJR発足に際しての既定事項であり、旅客会社も同様に毎年運賃値上げを余儀なくされるものと考えられていました。

国有鉄道 1986年11月号

旅客会社の輸送量についても併せて参照してみましょう。

いずれも、旅客輸送は減少するものと予測しており、それに比して運輸収入が増加しているのは前述のように、運賃値上げで収支を相次ぐなうことを計画していたものでした。

これにより、JR各社は概ね収支係数98程度で大きく黒字にならない代わりに赤字になって国庫からの助成金を支払うことが無いようにと言うスキームが作られたことになります。

以下に、JR各社の5年後の収支見通しを一覧にしてありますのでご覧いただこうと思います。

国有鉄道・国鉄線 1987年3月 29~31ページ参照

ここで、JR東海の経常利益が意外に少ないと言うことに気づかれたでしょうか?
これには、新幹線保有機構の存在が大きく関与していました。

すなわち、新幹線に関しては、当初はJR各社の持ち物では無かったわけです。

東海という会社が出来たのも不明確なのですが、名古屋財界にも鉄道の会社の本社がほしいなぁ・・・そんな会話があったか否かは判りませんが監理委員会の中で6分割と出てきた中で個人的には無理矢理作ったものでは無いかと考えています。
実際、西日本・東日本会社には運輸省の天下り、三島会社とJR東海だけが国鉄からという流れになりましたが。

元々、再建監理委員会の中でもJR東海はさほど重要視されていなかったのでは無いかと思ってしまうわけです。

国鉄本社の中でも、新幹線総局は大きくなりすぎており、上越・東北新幹線では新幹線総局の影響を避けるために、管理局にその運営をさせるようにしたという経緯もありますし、実際国鉄当局も分割民営化時に組織を解体したかったのですが、大きすぎて解体できず、結果的にJR東海にそのまま移動させた、さらにそこで職員選別などで多忙を極める職員局をJR東海に割り振ったといったことを葛西氏が「未完の国鉄改革」で書かれていますが、当時の再建管理員会の中でも、そして国鉄当局としてもJR東海は余り重要視されていなかった会社だったのでは無いかと思われます。

前置きが長くなりましたが、ここでJR東海の収益が大きくならなかった原因の一つとして、新幹線保有機構の存在がありました。

新幹線保有機構は線路を保有して、貸し付けるもので、ただし線路の保守など日常業務などはJR各社が行うこととし、大規模災害時などの復旧工事は行うというものでした。

基本的には、30年リース、価格は再調達価格によるもので算出となっており、本来であれば減価償却も終わり収益性も高い東海道新幹線が最も高く設定され、比較的新しい上越・東北新幹線は低めのリース料に設定されていました。【実際には、上越新幹線は鉄道建設公団が建設したもので、JR東日本が直接返済すべきものですが、これも保有機構に移管させた上でリース料として保有機構に払うこととされていました。

当時の新幹線保有機構に関する記事がありましたので、少し長いですが引用させていただきます。

新幹線使用料現在営業中の東北・上越・東海道及び山陽の4新幹線鉄道施設は,新幹線保有機構が保有し,本州3旅客会社に有償で貸し付ける。貸付料の総額は,機構の引き継ぐ4新幹線資産の再調達価額(現時点において8兆4,600億円と推計〉に相当する額の債務(平均利率7.24%)を,貸付期間〈新幹線鉄道施設の残存耐用年数を考慮して30年〉に対応した30年元利均等方式により償還する場合の1年間の元利支払い額に,資産に係る市町村納付金及び機構の管理費等を加えた額である。
元利支払額は6,948億円,市町村納付金等は176億円,合計7,124億円が貸付料の総額である。この貸付料総額を,4新幹線別の輸送人キロに営業1km当たり再調達価額を乗じた数値の比率により新幹線別に配分し,会社はこれに見合う額を使用料として負担することになる。

ここに書かれていますように、新幹線の運賃は全て新幹線保有機構が吸い上げてしまう形が取られており、このリース料は2年ごとに見直される配分比率が変更されることになっていました。
更にこのリース料は30年後に各旅客会社に帰属するのかという問題もありました。
公団(現:鉄道建設・運輸施設整備支援機構)からの貸し付けであれば、支払いが終われば国鉄に帰属しますので、当然のことながら収益は改善されることになりますが、この保有機構の決定では30年後に再リースという形となるのか、否かその辺が全く見えてこなくなるうえ、2年ごとに支払いの配分も代わることから、長期債務を確定できないということで、JR東海あたりは強い不満を持っていました。

ちなみに、JR各社への貸付額は下記の通りです。

東北新幹線  1,348億円

上越新幹線    657億円

東海道新幹線 4,184億円

山陽新幹線    935億円

となっており、東海道新幹線の負担が極端に大きいことが判ります。ちなみに、東海道新幹線のリース料は、新幹線保有機構全体の収入の59%を占めるものでした。

長くなってしまいますので、この辺で一度切らせていただきますが。

JR発足当初は、JRという会社で本当に上手くいくのかというよりも、かろうじて国鉄への助成金と赤字決算だけは回避できるのではないかと考えていたと推測されます。

また、株式についても、国の関与を避けるため全額株式を売却する・・・NTTはJP同様、国の保有が義務づけられている戸は異なっているのは、元々国が関与しなくても良いような枠組みを作ろうとした。

もしくは、助成金を払いたくないからと言う思惑もあったと考える方が素直であろうと思われます。

いわゆる新自由主義の世界に否応なしに巻き込まれていったと言えるかもしれません。

次回は、JR貨物に特化した部分で思索を深めてみたいと思います。

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特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 3

2020-03-10 21:44:53 | 国鉄思いで夜話

特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 3

しばらく更新できませんでしたが、早速お話を始めたいと思います。
浜松駅での停車時間は3分ほど、電化区間が浜松までの頃は、機関車の付け替えなどで長時間停車したものですが、最近はその時間も短くなり、弁当販売員にしてみれば,個々が腕の見せ所とばかりに張り切っているようです。
ホームでは発車ベルが鳴り響き、旅立ちの慌ただしさを盛り上げてくれます。
12:37 定時
ベルが鳴り止み、助役が旗を大きく振り上げているのが見えます。
汽笛一声、EF58の甲高い汽笛とともに軽いショックが乗務員室にも伝わり、特急つばめは大阪に向けて歩み出すのでした。
弁当販売員は、最後の1個をとばかりに小走りに走りながら弁当と釣り銭を渡しています。
浜松駅のハモニカ娘にも見送られながら、汽車は徐々に加速していくのでした。

さて、再び私は乗務員室からこれから先の停車駅の案内放送をしていくのでした。
次は、名古屋14:00到着、岐阜14:30、米原15:22、京都16:21。終着大阪には17:00調度の到着を予定しております。

いつも通りの放送を流し、しばし、専務車掌室で待機していますと、乗務員室のドアをノックする音がします。
誰だろうかと、開けてみますと、朝から体調が優れないとして、薬を渡し、先ほども浜松到着前に声をかけたお母さんが血相を変えて立っていました。

「どうされたのですか?」

  「子供の様子がおかしいのです」

「判りました、列車内にお医者さんがいないか尋ねてみることにします。」

私は早速にマイクに向かい放送用のスイッチを再び入れるのでした。

「皆様にお知らせいたします、4号車に急病のお客様がおられます。お医者様はおられませんでしょうか。」

放送はしたもののあいにくお医者さんは乗車していないようです。
そこで、私はどうするべきか、名古屋まであと1時間20分はかかります、そこで私はとっさに本来は停車駅ではない通過駅で臨時停車させようと決断しました。

不安そうに立っている母親に、
「座席に戻っておいてください、善処します」
と告げて、私は最後尾の展望室に歩を進めるのでした。

展望室の前方乗務員室に彼は座っていました。

「黒田運転車掌、車内で急病の乗客がいるので、列車を通過駅のどこかで停止させようと思う」

私は、岡崎駅にしようと思うがと言いかけて。蒲郡の方が近いし、病院等もありそうだと独り言を言いながら、新ためて、

「蒲郡駅で臨時停車させようと思う」

と黒田運転車掌に告げるのでした。

少し驚いた黒田車掌でしたが、

「了解しました。」

そう言ってくれたので、そのまま先ほどの母親の元に足を運ぶのでした。

座席に向かうとぐったりした少女に姿が見えます。
かなり体調は悪いようです、私は母親に、声をかけ

「蒲郡で臨時停車する手配を今から行います」
と手短に伝えるのでした。

母親は、
「ご無理申し上げますが、どうかよろしくお願いいたします。」

そう言って、深々と頭を下げるのでした。

さて、この続きは次回とさせていただきます。

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特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 2

2020-02-28 23:26:58 | 国鉄思いで夜話

皆様、久々に投稿させていただこうと思います。
9:00定刻に東京駅を出発した下り特急つばめ号は、有楽町の日劇を横に見ながらどんどん加速していきます。

私は、車内放送を済ませると、車内改札に向かうのでした。
私と同僚の専務車掌黒木君と手分けして、車内を回ることにしました。
車内は、用務客と思しき人が大半で、2等車では、国鉄パスを持った管理局の課長クラスや、会社の重役、時には国会議員も乗車しています。
それでも、特急つばめは2等車も3等車もほぼ満員の乗車率でした。
私は普通車から順次検札をしていたのですが、3等車に乗車していた親子連れに声をかけられました。
聞けば、子供の気分がよくないとのこと、そこで私は、列車内に常備の酔い止めの薬を手渡したのでした。

横浜9:27定刻出発下、特急つばめの次の停車駅は、沼津、しばし時間的にも余裕が生まれます。
やはり乗務中に乗客の安全確保は車掌の仕事ですので、特に気になると言えば、やはり東京から乗った親子連れでした。
体調が優れないと言っていた子供は、母親に寄り添って眠っているようでした。
私の姿に気づいた母親は軽く会釈を返してくれます。

私は、「お子様の様子は如何ですか。まもなく浜松ですが、浜松で下車することもできますよ」と、お伝えしたのです。

母親は、「問題はなさそうですのでこのまま大阪まで行けそうです」と申し出たので、私も安心して再び専務車掌室に戻るのでした。
そんな会話が交わされて、ふと窓外に目を見やるとホームに「しずおか」の駅名が目に入ってきます。

時計を見ると定時通過でした。
さすがに特急の運転士【甲組】たちのプロ意識は確かなものだと感心しながらも、専務車掌室で、しばし休息です。

静岡を通過すれば、あと30分ほどで浜松に到着です。私は到着10分ほど前から案内放送をおこなうため、マイクに向かいます。

長らくのご乗車お疲れ様でした。列車はあと10分で浜松に到着いたします。
浜松では3分停車いたします。
お忘れ物無きよう、後者のご準備お願いいたします。

1等車の乗客には年配のボーイがお客様の荷物をまとめて、準備している頃でしょう。
つばめガールも、下車するお客様に声をかけている頃かも知れません。

やがて列車は、12:34定刻に浜松駅に到着、駅ホームでは駅弁の売り子に混じって、ハモニカ娘がハモニカを籠に入れて立っています。

皆様、久々に投稿させていただこうと思います。
9:00定刻に東京駅を出発した下り特急つばめ号は、有楽町の日劇を横に見ながらどんどん加速していきます。

私は、車内放送を済ませると、車内改札に向かうのでした。
私と同僚の専務車掌黒木君と手分けして、車内を回ることにしました。
車内は、用務客と思しき人が大半で、2等車では、国鉄パスを持った管理局の課長クラスや、会社の重役、時には国会議員も乗車しています。
それでも、特急つばめは2等車も3等車もほぼ満員の乗車率でした。
私は普通車から順次検札をしていたのですが、3等車に乗車していた親子連れに声をかけられました。
聞けば、子供の気分がよくないとのこと、そこで私は、列車内に常備の酔い止めの薬を手渡したのでした。

横浜9:27定刻出発下、特急つばめの次の停車駅は、沼津、しばし時間的にも余裕が生まれます。
やはり乗務中に乗客の安全確保は車掌の仕事ですので、特に気になると言えば、やはり東京から乗った親子連れでした。
体調が優れないと言っていた子供は、母親に寄り添って眠っているようでした。
私の姿に気づいた母親は軽く会釈を返してくれます。

私は、「お子様の様子は如何ですか。まもなく浜松ですが、浜松で下車することもできますよ」と、お伝えしたのです。

母親は、「問題はなさそうですのでこのまま大阪まで行けそうです」と申し出たので、私も安心して再び専務車掌室に戻るのでした。
そんな会話が交わされて、ふと窓外に目を見やるとホームに「しずおか」の駅名が目に入ってきます。

時計を見ると定時通過でした。
さすがに特急の運転士【甲組】たちのプロ意識は確かなものだと感心しながらも、専務車掌室で、しばし休息です。

静岡を通過すれば、あと30分ほどで浜松に到着です。私は到着10分ほど前から案内放送をおこなうため、マイクに向かいます。

長らくのご乗車お疲れ様でした。列車はあと10分で浜松に到着いたします。
浜松では3分停車いたします。
お忘れ物無きよう、後者のご準備お願いいたします。

1等車の乗客には年配のボーイがお客様の荷物をまとめて、準備している頃でしょう。
つばめガールも、下車するお客様に声をかけている頃かも知れません。

やがて列車は、12:34定刻に浜松駅に到着、駅ホームでは駅弁の売り子に混じって、ハモニカ娘がハモニカを籠に入れて立っています。
日本広しといえども、駅でハモニカを買えるのは浜松駅だけでしょう。

東海道線の電化が浜松までだった頃は、機関車の付け替え時間の間にラジオ体操が流されており、さすがに乗務中はラジオ体操はしないものの、ホームを見ると何名かの乗客がホームに降りてラジオ体操をしている人を見かけたものでしたが、それも昔の物語になってしまいました。

そんな浜松駅も3分の停車で、再び大阪ヘ向けて歩を 進めるのでした。
ここまでは順調だったのですが、この後・・・件の母親からの申し出で事態は急変することとなります。

そう、東京出発直後に薬を渡した女子の体調が急変したのです。

ということで、ここから先は次回に書かせていただきます。

東海道線の電化が浜松までだった頃は、機関車の付け替え時間の間にラジオ体操が流されており、さすがに乗務中はラジオ体操はしないものの、ホームを見ると何名かの乗客がホームに降りてラジオ体操をしている人を見かけたものでしたが、それも昔の物語になってしまいました。

そんな浜松駅も3分の停車で、再び大阪ヘ向けて歩を 進めるのでした。
ここまでは順調だったのですが、この後・・・件の母親からの申し出で事態は急変することとなります。

そう、東京出発直後に薬を渡した女子の体調が急変したのです。

ということで、ここから先は次回に書かせていただきます。


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特急つばめ 愛の臨時停車顛末記

2020-02-10 22:54:53 | 国鉄思いで夜話

こちらは、史実として残る、「特急つばめ」臨時停車に対して。当時の専務車掌が回想記を寄稿しており、その話をモチーフに展開した、小説になっています。

氏名等は仮名ですが、ほぼ史実に沿った内容となっています。

東京から乗車した少女の容体が急変、車掌の機転で、蒲郡駅で臨時停車させるて病院に搬送することが出来たとして、後日新聞にも「愛の臨時停車」として美談が載ったというお話なのですが、当たり前のことをしただけなのに、これを美談として取り上げられることに多少の違和感を持ってしまったということで、当時の手記が書かれていました。
この記事はその内容をベースに創作したお話になります。

初めまして、私は大阪車掌区の勤務する中村というものです。
私は、15歳で大阪鉄道管理局に採用され、大阪城東線の京橋駅を振り出しに、車掌試験を受験、特急つばめが運転を開始してから3年後の昭和28年から、専務車掌として乗務することになりました。
当時の列車には、専務車掌である私の他に、後方の監視を担当業務とする運転車掌や、つばめガールに代表される列車給仕など、多くのスタッフも乗務していました。

さて、当日の話は後ほどお話しさせていただくとして、特急つばめのお話を最初にさせていただこうと思います。

特急「つばめ」は戦前は超特急として、東京から東海道本線の終点である神戸まで運転されていました。
当時は特急「燕」と漢字で書かれており、客車並びに列車はここからもう少し先の明石に機関区並びに客車区がありましたので、そこまで回送されることとなっていました。
戦後は、外国への船客も減ったことから東京~大阪間に運転区間が短縮されましたが、列車の受け持ちは引き続き、大阪鉄道管理局が受け持つこととなり、国鉄の伝統列車で有る「つばめ」号を引き続き大阪で、それも大阪車掌区が受け持つことは、とても誇りに思えたもので有り、私以外の多くの車掌も同様に誇りを持って日本一の列車を運転しているんだという自負はありました。
私たちは最高の車両で、最高のサービスを提供することを合い言葉に行動していました。

さて、この日も私は前日の「つばめ」に乗務して上京、乗務員宿泊所で休息し、翌日の「つばめ」で帰阪する行路となっていました。
当時は特急と言える列車は、この「つばめ」姉妹列車の「はと」臨時特急の「さくら」、それと山陽本線の「かもめ」だけで有り、特急列車自体が特別な列車で有りますから、先ほども書きましたが、客車を受け持つ宮原客車区は言うに及ばず、私たちが所属する大阪車掌区、そして宮原機関区でも特急乗車組は憧れを持って見られていたものでした。

当日は、7:00に宿泊所を出発、7:30には制服に着替えて点呼を受けることとなっていました。
東京車掌区での点呼はいつもの事ながら緊張します。
言ってみれば親戚の家に来たようなものですから。
点呼を終えて品川客車区でつばめに乗り込み、運転車掌の黒田君も乗務してくる。
その後、列車給仕のつばめガールも乗務、簡単に打ち合わせを行い。移動を待つことに、時計が8:20分を示す頃、列車は静かに動き出し、東京駅へ、展望車の先頭に機関車が付くのはこの区間だけに見られる不思議な光景と言えましょう。

当時は、大阪では塚本からのデルタ線を使って方向転換していましたが、東京でもで品川駅から大崎駅を使ってのデルタ線で客車全体の方向転換が行われていました。

そして、当時は始発駅で30分程度停車するのは当たり前で有り、9:00出発の「つばめ」号は8:33には、東京駅到着、すぐに機関車は先頭車に回すため切り離されて、横の機回し線と呼ばれる線路をすり抜けて先頭の荷物車に連結、既に荷物車では手荷物の搬入なども行われており、ホームでは別れの挨拶が行われているのでした。

客車は先頭大阪方から。スハニ35+スハ44+スハ44+スハ44+スロ60+スロ60+マシ35+スロ60+スロ60+スロ60+マイテ39という編成で、定員は3等車が定員288名【1両あたりの定員は80名】2等車は定員220名【1両あたり44人】であり、いかに当時の3等車【普通車】が詰め込みであったか判ります。【ちなみに、3等寝台車は定員60人、その後増備された車両は54人】とこれまた、詰め込み主義的な乗り物で、現在の水準では考えられないほど窮屈な代物でした。

さて、9:00発車ベルが東京駅ホームに鳴り響き、運転主任の発車合図を待って、EF58からの甲高い汽笛がホームに響き渡ると徐々に徐々に汽車はスピードを上げて動き出すのでした。
私は、8号車の2等車から顔を出してホームの監視を行います。
後方では、同じく運転車掌の黒田君が乗ってくれています。黒田君は大阪車掌区ではありませんが、機転の利く好青年ですので、やがては専務車掌として頑張ってくれることを密かに期待しているのです。
ちらっと、後ろを見てみると、真剣なまなざしで後方からホームを見つめています。
さて、列車がホームを離れると、案内放送も私の重要な仕事ですので、車内の案内と停車駅の到着時刻などを放送していくのでした。

その後、車内改札を行うのですが、このときは未だ、これから4時間程後におこる騒動など夢にも思わないのでした。

 


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本州・四国連絡橋のお話し諸々

2020-01-19 21:23:22 | 国鉄思いで夜話

計画された、本州と四国を結ぶ鉄道ルート



本州と四国を結ぶ吊り橋として、現在鉄道が通過しているのは、南備讃瀬戸大橋、北備讃瀬戸大橋を含む瀬戸大橋が唯一ですが、計画当初は、明石海峡大橋も鉄道橋として建設して、既に開通している、鳴門大橋を経由して四国と関西を結ぶ路線も計画に入っていました。

色々と調べていますと、興味深いblogを見つけました。


南あわじ市の市政と県病について


と言うタイトルの記事で、「明石海峡大橋が「道路専用橋」となってしまったいきさつ(失われた鉄道併用の利点)と言う記事がありました、こちらを参照しますと、鉄建公団としては技術的には、可能であったと書かれています。


当該ブログから引用させていただきます。


その後、昭和50年(1975年)8月、三木内閣の下で、改めて合意がなされる。 そのとき、「児島坂出ルート(瀬戸大橋)は鉄道・道路併用橋として建設し、神戸鳴門ルート(明石海峡大橋)と尾道今治ルート(しまなみ海道)は部分的な架橋工事に着工する」と、最終的に取り決められた。 この時点では、まだ明石海峡大橋の鉄道敷設については、表向き「保留」だった。 しかし、60年(1980年)8月、明石海峡大橋は正式に「道路専用橋」と決定されてしまう。

実は、当時の公団の技術陣は「道路・鉄道併用橋でも充分に可能」だとしていた。 ところが、「吊橋構造での4キロ近い長大橋(明石海峡大橋は3900m)の併用橋は、世界的に例がない」、その点、瀬戸大橋は距離は長いが、途中に小島が連なっていて、明石海峡大橋ほどの長大橋は必要なく、工事費も安くなるという経済的理由などによって、瀬戸大橋は「道路・鉄道併用橋」、明石海峡大橋は「道路専用橋」になってしまった。


明石海峡大橋 画像wikipedia


 


結果的には、1973【昭和48】年の石油ショック以降経済成長は終わりを告げ、こうした建設計画も
一気に見直されることになってしまいました。


再び建設が決定されたときは、上記blogに書かせていた頂いているように、明石海峡大橋は建設費が抑制
できると言うことで、道路専用橋として建設されることになるのでした。


本当に経済的理由だけだったのか?


とここまで書いて、本当に経済的な理由だけだったのか?
私個人の記憶では、技術的な問題もあったような記憶もありましたので、もう少し調べて見ますと、更に
専門的なblogが見つかりました。


いやぁ、正直調べて見ると、本当に色々な資料が簡単に参照できる時代になったものです。


正直脱帽です、ありがとうございます。


このblogによると、大鳴門橋建設途中で、鉄道併用橋を止めようと言う意見もあったようで、経済的にも
技術的にも明石海峡大橋の併用橋は難しいと言う結論に達したとされています。


 


明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等


 


この記事を参照しますと。
技術的にも難しかったと書かれています。少し引用してみたいと思います。


これだけだと、政治的、経済的理由で鉄道の建設を取りやめたように見えるが、前述のとおり技術面でも厳しい部分があったようだ。

伊東 鉄道をやめたのはどんな理由なのですか。当初、三橋とも鉄道が併設されるという話でしたね。

井上 西は違っていたと思います、鉄道はなし。

伊東 真ん中と明石海峡。

井上 それで、真ん中ももうできましたし、鉄道もできていますが、東の明石海峡をやめたのは、やはりあれだけの長大吊り橋になると、 たわみが大きくて、吊り橋のジョイントというのか、あそこで非常に危険があるというようなのが最後の決め手になったみたいでやめましたけれども。
伊東 技術的な理由で。

井上 ええ。まあ、克服できないものではないと思いますがね。あそこしかないとなったらやるでしょうけれどもね。鉄道もあそこはあきらめるということで、割にすんなりといきました。

ということで、国鉄としても技術的にも厳しいこと、更には国鉄の財政的な部分もあったと思いますが、結果
的に明石海峡大橋の鉄道併用橋は諦めたようです。


 


狩勝実験線では走行安定実験が行われたと言う事実も知って欲しい



結果的には、瀬戸内海における鉄道併用橋は、高松と岡山を結ぶ、備讃瀬戸大橋だけになりましたが、吊り橋
における走行安定実験が昭和45年に行われたという事実も記させていただこうと思います。

 


本州・四国間つり橋走行安定実験始まる 10/13

 


国鉄が日本鉄道建設公団の委託をうけて研究、開発を進めている本州’四国間つり橋の走行安定実験が狩勝実験線において開始された。
 本州・四国間のつり橋は鉄道の走るつり橋としてはわが国初めてのもので、種々の解決すべき問題を抱えている。今回のテストは「角折れ区間の走行試験」とよばれるもので、レールのゆがみとその影響を探ろうとする試みである。すなわち、つり橋の橋脚の間隔が長大化すると列車が走るとき橋の中央部分が大きくたわみ、支持している橋脚の部分ではレールが「へ」の宇型になる。これが「垂直方向の角折れ現象」で、ここを高速で通過する列車は、はねあがる恐れがある。
また同様に、橋げたが強風などで左右の方向にゆがむのが「水平方向の角折れ」と呼ばれ脱線の原因にもなる。
 今回の実験はこの垂直・水平方向の角折れが車両の走行安定性にどのような影響を与えるかを探り出そうとするものである。実験は10月30日まで各種の条件の下で行なわれ今年度の実験は終了するが、来年度も引続いて行なわれる予定である。

架橋に際して、狩勝実験線でこうした試験が行われたことはあまり知られていないと思われますので、ここに紹介させていただきます。

 


狩勝実験線(脱線試験)の記録

 


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万博こぼれ話 新大阪駅が簡易宿泊所になった話

2020-01-14 20:39:22 | 国鉄思いで夜話

国鉄の部内誌、国有鉄道という雑誌から見かけたお話から。

今回は、1970年に大阪千里山丘陵で開催された日本万国博覧会(EXPO'70)のこぼれ話として、新大阪駅での話です。

駅での宿泊は、当時も今も営業時間以外は開放されておらず、最終列車が到着すると駅を閉鎖してしまいます、当時のお話では新大阪駅は24時間開放していたようです。

現在は廃止されていますが1階飲食店街(味の小路)付近が団体待合室となっていたそうです。


この団体待合室が、万国博見学者の臨時宿泊所になったというお話です。


当時の雑誌を参照しますと、万国博覧会が始まった3月15日以降に、団体待合室で夜を明かす人が出てきたそうで、これが日に日に増えていったそうです。

その殆どが、万国博を見学するためにやってきた人たちで、駅舎に宿泊することで旅館代を浮かそうということだったそうで、冷暖房完備の、待合室は椅子での仮眠という点を除けば、安く宿泊できるとして誰いうとも無く始まったようでした。

実際、当時は新大阪駅から大阪市営地下鉄【現・大阪メトロ】に乗車して、江坂からは北大阪急行に乗り入れる直通列車が万博中央駅まで走っていましたので、地下鉄で降りてそのまま団体待合室で夜を明かすと言うことになったのかもしれません。
当初は、その対応に苦慮していたようですが、当時は、ミニスカートが流行した時代であり、そうした女性も多く、夜間に痴漢被害となっても困るということから、本来であれば鉄道営業法37条に基づき退出願うところでしたが、最終的には「ここで夜明かしされる方も新幹線を利用するお客様であり、たまたま旅館が満員、もしくは経済的な理由でやむを得ず団体待合室で夜を明かしているのだ」という駅長の判断の元、団体待合室での宿泊が認められたのでした。

そこで、公安としても、駅に協力することとなり、団体待合室を宿泊所代わりに利用する人たちを把握するために宿帳ならぬ待合室帳を作り住所・氏名などを書いてもらうようにしたそうです。

最近では、「個人情報ガー」と言って拒否する人も出てくるかもしれませんが、当時はスムーズに運用できたようです。

記録によりますと、7月末日現在で4109名うち外国人は313名であり、いささか国際色豊かな簡易宿泊所?ができあがったそうです。

現在も新大阪駅に団体待合所があったら、外国人観光客【バックパッカー】で占領?なんてことになっていたかもしれないですね。

万国博に絡む、国鉄時代のお話でした。



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特急つばめガールは、GHQの置き土産?

2020-01-02 22:47:06 | 国鉄思いで夜話
皆様、特急「つばめ」と言えば、若い方ですと、九州新幹線の「つばめ」を思い出される方も多いかと思います。
我々の年代ですと、岡山から九州方面に走っていた列車、もしくは、新幹線開業前に東京~大阪間を走っていた列車名と言うことで覚えている方も多いかと思います。

今回のお話は、戦後復活した客車特急つばめ・はと誕生秘話として、昭和27年に発行された
桜木町日記を参照しながら書かせていただきました。

国鉄にとって、「つばめ」は特別な列車であり、これは戦前の世界恐慌時(1929年)昭和4年に行われた特急列車の愛称一般公募結果をもとに命名されたものもので、超特急の愛称として。「つばめ」が選ばれました。
もっとも、当時は、「燕」と漢字で書かれていたのです。

戦前から国鉄を代表する特急列車の愛称名であることは、変わりなく、国鉄では球団を作ったときもスワローズ(現在のヤクルトスワローズは、国鉄スワローズが身売りされたため)を名乗ったほか、国鉄バスも「つばめ」マークが取り付けられました。
現在も、JRバスにつばめマークが描かれていますが、国鉄バスの伝統を引き継ぐものと言えそうです。(余談ですが、西日本JRバスは発足当初つばめマークを使用していなかったのですが、最近は復活しているようですね)

さて、話がすっかり脱線してしまったので元に戻しましょう。
特急つばめなどの優等列車も戦争の激化により特急列車は廃止されてしまい、実に昭和19年の時刻表(復刻版)を参照しますと、急行列車(東京発鹿児島行き)1列車の他門司行き二本、広島行き(呉線経由)一本、大阪行き夜行一本の計五本という寂しさです。
そして、終戦を迎えた国鉄では、戦後昭和24年国鉄発足直後に特急列車の復活を試みることになりました。

国鉄としては、日本一の代表列車にしたいという思いがあったのですが、当時は占領中であり、何か事故で列車が遅れると最優先で運転されるのは軍用列車(進駐軍専用列車)であり、特急を運転した場合、特急が遅れてしまうことになるため具合が悪いと言うことで、特急列車に優先権をということで、GHQと交渉することとなりました。

当時の国鉄の輸送事情では。連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車という序列があり、国鉄としては、最上級の列車である特急を最優先で走らせられる位置に持っていきたいわけで、特急列車>連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車になるように交渉をするのですが、当然のことながら、GHQは、連合軍専用列車を最優先で走らせるようにと言うことで、首を縦に振りませんでした。

粘り強い国鉄側の交渉で、特急列車>連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車の序列が認められることとなりました。

その次に国鉄としては、特急列車の時刻などを決定して相談に行くことになるのですが、これについては、戦前の「特急燕」のダイヤをほぼ踏襲(9時間運転)、列車名は「へいわ」で行こうと言うことで、東京9:00発、大阪は12:30発(戦前の燕は、東京~神戸間の運転であり、大阪は13:00発であった)のダイヤを設定しようとしたのですが、ここでGHQの運輸局側から、次のような物言いが付いたそうです。

優等列車の同時発車にすべきであると。

下図、昭和15年復刻版時刻表参照



戦前の時刻表を見ますと、下り列車は東京9:00発、上り列車は大阪始発13:00(始発は神戸0:20)となっていました。


その辺を、桜木町日記から引用してみますと。
「主要列車というものは、東京と大阪を同時刻に出すべきである。しかもその列車番号とか名前とか変えるべきではない、現にニューヨークセントラルで一番いい汽車は、トウエンティス・センチュリー号(20世紀号)というし、又ペンシルバニア鉄道のブロードウエイリミテッドと言う汽車の名前は、長年同じ名前で同じ時刻に出ている。国鉄もそういう列車が決まったらそのままで出すべきだ。」との意見であった。


引用終わり

と言うことで、この運輸局の一声で「へいわ」の運転時刻は東京・大阪とも同時刻に出発となったそうです。


昭和24年9月から運転を開始した、「特急へいわ」運転を開始してみると、中々評判も良く同年中に公募で「つばめ」に再度愛称を変更することとなり、(へいわは昭和25年1月つばめに改称)されました。
この成功に気をよくした国鉄は、今度は姉妹列車を出すこととなり、これを「はと」と名乗ることにしました。
ここに、「つばめ・はと」の二つの列車が誕生することになるのですが。ここでも、GHQから横やりというわけではないのですが、アメリカの主要列車には女性のアテンダントが乗務しているので、日本でも実施すべきだと言われたそうです。
更につばめガール・はとガールの制服に付いても、GHQの運輸局が事細かく指示を出してきたそうで、アテンダントの面接試験にも立ち会うという熱心さであったそうです。

この辺を再び桜木町日記から引用したいと思います。

ところが、この特急を出したところ仲々評判もよく、収入もいいので、今度は「はと」も出すことになった、「はと」も十二時半、相互に出せ、ということであったので、昭和二十五年五月十一日特急「はと」も十二‘時半東京大阪発ということで運転を開始した。
 このため、戦後の特急は東京と大阪の始発時刻が戦前のように違うということにはならなかった。
 つまり時間もアメリカ式の特急になったわけで、国鉄でもこれは国際列車としても大いにいいものにしようと考えていた。すると今度運輪局では、「アメリカの主要列車にはしばし女のきれいなアテンダントが秉ってぃる、日本でもアテンダントを乗せたらどうか、これは是非必要だ。そして国際列車にしろ」ということを云って来た、国鉄側でもそれはいいというので早速賛成し、部内からミスつばめ、ミスはとを募集することになった。
 運愉局でもこのミスはと、ミスつぼめには殊の外熱を入れ、御苦労にもその詮衡試験には立合うというわけで、試験当日には、シヤグノンやブレーデンなどが来て、熱心に見て行った。この試験は東京と大阪両方で行われた。

 ところが、この試験の結果、ミスはと、ミスつばめが決まると、今度はそれにふさはしい制服を作ることになった、ところが運輸局ではこの制服のデザインまでも見せろと云うわけで、早速見せると、この襟はもう一寸短くした方がいいといったような意見まで出て意気仲々盛んであり、大変な内面指導ぶりであった。
 こうして東海道線の旅行者から親しまれているミスつばめ、ミスはとが世に出ることになったのであるが、これにも強い運輸局のリコメンデーションがあったわけで、これなどは、占領秘話の中でも極めて明るいものであろう。


と言うことで。昭和35年の151系化まで親しまれた、つばめガール・ハトガールですが、占領軍GHQ運輸局の強い推しがあって誕生したと言うお話でした。

追伸
東京では、部内からの選考でしたが、大鉄局は新たな臨時職員として募集したそうで、つばめ廃止時には多くのつばめガールは退職、はとガールは部内配転が行われたようです。


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国鉄があった時代 JNR-era
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コメント

食堂車と営業事業者割り当てのお話

2019-12-17 23:13:41 | 国鉄思いで夜話
1960年代、優等列車には食堂車は必ず連結されていた。

1960年代の国鉄では優等列車と呼ばれた急行以上には原則として食堂車が連結されていました。

当時は、特急列車の本数も少なく、特急は文字通り、「特別な急行」でありおいそれと乗れると言う雰囲気ではありませんでした。

そこで、一般には急行(普通急行)を利用するのが一般的であり、夜行列車・昼行列車に限らず、多くの食堂車がこれら列車に連結されていました。

さて、この食堂車ですが、当然のことながら国鉄が直接経営していたわけではなく、業者に委託する形となっていました。

その代表格は、日本食堂でした。

日本食堂【通称にっしょく】は、列車食堂を営業していた 伯養軒(仙台)と駅構内で食堂などを経営していた精養軒(上野)・東松亭(大阪、後の水了軒)・みかど(神戸)・東洋軒・共進亭が共同で出資した会社だそうで。(この項目はwikipedia参照)
列車食堂というと「にっしょく」というイメージが強かったのですが、にっしょく自体は昭和13年に設立と有りますから、戦前から日食は食堂営業していたみたいたのですが、意外と新しい。
帝国ホテルも特急列車を中心に洋食を提供していたように記憶しているのですが、いかんせん資料が見当たりませんでした。
ご存じの方おられましたらご教示いただけると幸いです。

聚楽が特急ときの食堂車に参入するのは、昭和43年10月のダイヤ改正以降


さて、記事は国鉄線の昭和43年10月号からキャプチャーしたものですが、列車食堂の割り当てが決まったと書かれています。
当時の食堂車では、当然のことながら什器類は全て会社持ちであり、受持ち列車が変わる場合は什器類は全て入れ替えだったそうで、国鉄からの貸与品というのはなく、作り付けのコンロなど以外は食堂事業者の負担だったそうです。
気の毒なのは、機関士の運転ミスで大きく車体が揺れたりして什器類が割れてしまったなんてこともあったそうですが、その時も国鉄は責任を負わなかったそうです。
これは、余談でしたが。
下記の話を見ていますと、「特急とき」で昭和37年に聚楽が食堂車営業に参入したのですが、特急ときは最初は日本食堂が営業していたようで、昭和43年に初めて1往復聚楽に割り当てたと書かれています。
これは私も知らなかったです。
さらに、意外だったのが、鉄道弘済会が普通急行列車ですが、32.5往復の列車の列車食堂の営業をしていたと言う事実も驚かされます。
それと、0.5往復と言うことは片道ですので、こうした場合は当然のことながら終着駅で什器類を降ろして、別の列車に入れ替えると言ったことを繰り返していたのでしょうね。


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