永らえて 美雨の日記

日々折々の感想です

幼なじみの歌

2019-04-23 17:07:10 | クリスチャンペンクラブ作品から

 

  幼なじみの歌                   

 

 小学校での初めての運動会のお遊戯は『オウマノオヤコ』だった。戦地では兵隊さんよりも馬が大切にされていたとは知る由もなく、先生が弾くオルガンに合わせて、一年生の私は無心に踊っていた。学校で習うのは文部省唱歌だが、ラジオからは新しい歌が流れてきた。

『お山の杉の子』が、耳に繁かった。 

  昔々のその昔/椎の木林のすぐそばに
  小さなお山があったとさ/あったとさ
  丸々坊主の禿山は/いつでもみんなの笑いもの
  「これこれ杉の子起きなさい」
  お日さまにこにこ/声かけた声かけた 

 小さな杉の子は、大きくなったら人の役に立つのだと、六番まである歌詞の中で、未来を夢見ている。杉の木は早く大きくなって、戦争に協力したかったのだ。
 やがて戦時色が色濃くなり、衣服も女の子のスカートは禁止。もんぺ姿に防空頭巾となり、都市への空襲が激しくなると疎開が始まった。疎開には集団疎開と、縁故疎開の二種類に分かれた。

 

『ちちははの歌』

  太郎は父のふるさと
  花子は母のふるさとへ(縁故疎開の歌)

『ちちははの歌』は、子供の健やかな成長を願う父母の心が穏やかなメロディーにこめられ、私は好んで口ずさんでいた。

 

 昭和二十年三月十日の夜、東の空を赤々と染めた大空襲の後、二歳上の兄と私の学童疎開参加が決まった。我が家には縁故疎開を受け入れてもらえる縁故はないから仕方がない。後に聞いたことだが、母と祖母が手を取り合って泣いたという。いかにも涙もろい祖母の慰め方かと思う。しかし、縁側に腰かけて屈託なく、「太郎は・花子は」と歌う私の声は、部屋の中で疎開荷物を整えている母の耳に嫌でも届く。「あれは辛かった」と、母は言った。

 

 『皇后陛下より、学童疎開児に給うた歌』

  次の世を/背負うべき身ぞ/たくましく

  正しく伸びよ/里に移りて

 

 毎朝、私たち学童疎開児が揃って張り上げる歌声は、山また山に囲まれた里の底から、東の空に向かって消えていった。

 疎開先では夕飯後のひと時をみんな揃って歌うことが多かった、男児の多くは勇ましい戦争の歌を歌ったが、女児は平和な時に覚えた歌を好んで歌っていた。戦後初めて知った平和な歌は、『星の界』だった。後には、出征した父の帰りを待ちわびる母娘の歌もある。戦時童謡には物語と、教訓があり、時代に合わせた子供たちの教育が目的だったが、多くはこれらの歌詞を、間違いなく覚えてはいなかった。『お山の杉の子』は戦後になり、三番からの歌詞が変わったと聞き、調べてみた。 

 戦時中の杉の木の役目は、兵士を運ぶ船や傷痍の勇士の寝る家を作る。

 勇士の遺児ならなお強い、頑張れと励まし、今に立派な兵隊さんになり、

 忠義孝行ひとすじに、お日さま出る国/神の国/

 この日本を護りましょう。

と、歌い上げている。そして戦後の変更は、

 スポーツ忘れず頑張って/頑張って

 すべてに立派な人となり/正しい生活ひとすじに

 明るい楽しい/このお国わが日本を作りましょう 

 これほど期待されていた杉の木なのに、なぜか、戦後は見事に地位が落ちた。安い外国産の木材が大量に輸入されたので、国内の杉の木は放置され、年々、大量の花粉を放散する厄介者になった。そして、うらうらと輝く春の日に、マスクを外せない人がいる。

 考えるまでもなく、人は世のご都合主義に流されてきたのだと、言ったとたんに、大きなくしゃみが出た。