永らえて 美雨の日記

日々折々の感想です

母の思い出

2013-07-11 13:56:46 | 日記

 

 母が亡くなったのは6月30日の10時を過ぎていました。朝の3時ごろ電話で危篤の知らせが来て、始発電車を待って駅へ急ぎました。バスは未だ通らず、人の姿もまばらでした。おまけに、日曜日の早朝は各駅停車ばかりなのです。

 母ははっきりと大きな目を見開いて、少しも苦しそうではありません。いつもより落ち着いて見えました。右目だけが視力を残していたはずですが、母にはすべてが見えていたのでしょうか。ときどき、ああああと声を漏らしていました。

 これまで、私が行くときは大抵昼食時が多かったのですが、だんだん食べなくなっていました。二年前には大好きなウナギも食べていました。車いすで移動できた間は、散歩に連れ出したり、トイレの手助けもしたのですが、動けなくなると、食事の世話だけが、私たちに出来ることでした。後は介護の方がすべてしてくれました。

 いつの間にか入れ歯が外されたままになると、固形食でなく、刻み食からとろみをつけたものへ。最後はスープ食でした。スプーンで舌の上に乗せ、モグモグゴックンと、声をかけていた内はよかったのですが、最近の母は舌をこんもりと丸め上げてしまい、まるで、食事を拒否しているかに見えました。舌の横に少しずつ流しいれたり、吸い飲みで成功した時は、姉妹で喜び合いました。

 一番近くにいる姉はしばしば見舞っていましたが、私は遠くて思うに任せません。行けば必ず、遠い所からよく来てくれたと、よろこんでくれました。一か月前は自分のお葬式の幻を見ていたようで、姉に、美雨は一番遠いのに一番早く来てくれた。未だその辺にいるはずだよと、言ったそうです。姉は笑って言いました。母は私がそばにいると思っているから、遠いのに無理してこなくてもいいよ。と。

 危急の状態となってからも、母は13日間永らえました。その間、わずかながらも母にスープを飲ませることができました。祈り、讃美して、励ましました。

 すべて終わり、なんだか疲れました。でも、一番疲れていたのは母でしょう。とにかく、103年と6か月を生きて、六人の子を育て上げてくれたのですから。お母さんありがとう。ご苦労さまでした。また、天国で会いましょうと言って見送りました。

  


デスマスク

2013-07-05 10:57:27 | 日記

 

 6月30日朝、母は天に召されました。103歳と6か月の生涯でした。

 ひとつの時代が終わりを告げました。

 一連のセレモニーを終えて我が家に帰り、昨日一日、たまった洗濯物を片付け、掃除をしてやっと今日落ち着きました。自分の時に戻ると、ああ終わってしまった。と。吐息が漏れてしまいます。

 数年前、私が勧めて、母は自叙伝を書きました。稚拙な原稿ですが、何とかワード化して綴じたら、とても喜んでくれました。あれの続きを書こうかしら、アルバムも作らなければ、と、思いは飛びます。

 小柄な母でしたが、少しでも大きく見せたいと、幼いころから背筋を伸ばして生きてきたと、言ったことがあります。足腰強く、背骨も曲がらず、食欲旺盛、毅然としていました。でも、2年前から特養のホームに入り、少しずつ動けなくなるとやせ始めて、衰えが目立ってきました。

 顔の艶は失せないのに、小さくなった顔はあまり見たくないと言いながら、いつも覗き込んで話しかけている私でした。

 自宅の座敷に戻り、家族に見守られながら、「おくりびと」の作業が始まりました。

 純白の衣をつけ、やさしく撫でさすられた顔は、とてもきれいになりました。お化粧はほとんどしなかった母ですから、人生最大のおめかしだったかもしれません。

 写真を撮りました。感情のないカメラは冷静に現実を写し撮ります。きれいになったと喜んでいる人たちの心と、乖離しています。だから、これ以上は撮りたくない。でもせっかくの写真だからなんとか修整してみたい。

 私の言葉は居合わせたみんなが納得してくれました。いつ、この写真に手を付けることができるのか。小さな宿題ができました。