母が亡くなったのは6月30日の10時を過ぎていました。朝の3時ごろ電話で危篤の知らせが来て、始発電車を待って駅へ急ぎました。バスは未だ通らず、人の姿もまばらでした。おまけに、日曜日の早朝は各駅停車ばかりなのです。
母ははっきりと大きな目を見開いて、少しも苦しそうではありません。いつもより落ち着いて見えました。右目だけが視力を残していたはずですが、母にはすべてが見えていたのでしょうか。ときどき、ああああと声を漏らしていました。
これまで、私が行くときは大抵昼食時が多かったのですが、だんだん食べなくなっていました。二年前には大好きなウナギも食べていました。車いすで移動できた間は、散歩に連れ出したり、トイレの手助けもしたのですが、動けなくなると、食事の世話だけが、私たちに出来ることでした。後は介護の方がすべてしてくれました。
いつの間にか入れ歯が外されたままになると、固形食でなく、刻み食からとろみをつけたものへ。最後はスープ食でした。スプーンで舌の上に乗せ、モグモグゴックンと、声をかけていた内はよかったのですが、最近の母は舌をこんもりと丸め上げてしまい、まるで、食事を拒否しているかに見えました。舌の横に少しずつ流しいれたり、吸い飲みで成功した時は、姉妹で喜び合いました。
一番近くにいる姉はしばしば見舞っていましたが、私は遠くて思うに任せません。行けば必ず、遠い所からよく来てくれたと、よろこんでくれました。一か月前は自分のお葬式の幻を見ていたようで、姉に、美雨は一番遠いのに一番早く来てくれた。未だその辺にいるはずだよと、言ったそうです。姉は笑って言いました。母は私がそばにいると思っているから、遠いのに無理してこなくてもいいよ。と。
危急の状態となってからも、母は13日間永らえました。その間、わずかながらも母にスープを飲ませることができました。祈り、讃美して、励ましました。
すべて終わり、なんだか疲れました。でも、一番疲れていたのは母でしょう。とにかく、103年と6か月を生きて、六人の子を育て上げてくれたのですから。お母さんありがとう。ご苦労さまでした。また、天国で会いましょうと言って見送りました。