私の日常は至極ゆっくりと流れ、あっという間に日暮れとなりますが、日曜日の礼拝だけは、少し堪えてきた坂道を、教会車が迎えに来てくれます。
以下は順番に来る証の時の原稿です。
教会の若い方の多くはクリスチャンホームに育って、小さい時から教会へ来ていたと証しをされますが、早くから神さまを知った人は幸せだと思います。私が救われてからある人に教会を薦めたとき、先祖からの墓を守るのが自分の信仰だ。と、言われて驚きました。
私の両親は明治生まれですが、跡取りではなかったので、守るべき位牌などはなく、お寺とは無縁でした。それでも父の友人の一人がクリスチャンで、その人は、当時子供だった私たちにも優しい人でした。彼の影響か、父は偶像を否定していました。お守り札や護符などは、ただの板や紙切れだと言うのです。
晩年にも、キリスト教の人が度々来て話し込んでいたと母が言いました。それで遺品を見たらその中には異端派の本があり、なるほどと思いました。父は真実の神様を求めていたのです。
私は宗教とは無縁の家庭で育ったのだと思っていましたが、違っていたかも知れません。父の八人きょうだいのうち、二人はクリスチャンでした。私の六人きょうだいの中では姉と私の二人だけです。
姉は素直にイエス様を信じましたが私は既成の宗教には従わないと、頑固に言い張っていました。私は大きな事故に遭ったあと、「目に見えない、大きなもの」に助けられたと思いましたが、その大きな存在とは何か、誰に感謝すべきなのかその正体を自分で探し当てたかったのです。父がいつも、苦しい時の神頼みだけではダメだと言っていたことも強く影響していました。
そして、再び、思いがけない試練に出合った時、キリスト教以外に神様はいないのだと、やっと気が付き、間もなく夫と二人で近くの教会へ通い始めました。神様はずっと、私の心の扉を叩き続けて下さっていたのだとわかると、聖餐式のパンと葡萄酒が、私たちの前を素通りするのに物足りなくなりました。そして、一年半後に受洗しました。私の受洗は、只々神様に感謝を捧げるためでした。
受洗した後は、聖書を読むたびに胸が高鳴りました。天国での永遠の命など、私には相応しくない、と思っていたのに、みことばは親しく近づいてきます。
それで、数年続けていた盲人のための朗読奉仕を、文学作品の紹介から、キリスト教伝道のための朗読グループに替えました。そこはプロテスタント系の超教派の人たちに依って支えられていましたが、証やエッセー、説教等は普遍的なものでした。病気で発音に不安を覚えた時は、朗読のための滑舌が役に立ちました。
私は間もなく八十三歳になります。思いがけない難病ですが、パーキンソン病と診断されてから五年目に入りました。パーキンソン病は、神経伝達物質のドーパミンが不足して動作が緩慢になり、全身に様々な症状も出て、それは百人百様です。命は取りませんが、ゆっくりと進行して、患者を悩ませる厄介ものです。
根本から直す薬は、未来の段階ですから、今ある薬を病気の進み方に合わせて飲み方を考え、最後まで自分の足で歩くためのリハビリに励んでいます。趣味やボランティアなど、少しずつやってきたことは止めて、今は証し文章だけです。
耳まで悪くなって知らずに失礼をいたしますので、不愛想になったと、夫が気を遣ってくれます。でも、教会の皆様に優しく助けられて、感謝しています。すべては神様のご計画でしょう。私は新しい個性を頂いたと開き直り、おっとりと生きることにいたしました。今日もここに立って、証をすることが出来ました。ありがとうございました。