永らえて 美雨の日記

日々折々の感想です

公私の分かれ目

2020-01-02 16:46:22 | 日記

 逮捕されていた日産自動車のカルロス・ゴーン元会長が、保釈中にレバノンへ逃げた。新年早々、不愉快なニュースである。

 この人を見込んで会長に推したのは、前社長のYH氏であるという。学童疎開で同じ屋根の下に半年間過ごした時、氏は六年生、私は三年生だった。一部の男生徒のいじめなどが大ごとにならなかったのは、穏やかな彼のお陰だろう。学芸会の企画も楽しかった。

 後に私の父がPTAで知り合ったH氏の父親とウマが合い、時々の噂話を聞かされた。H氏は東大の経済学部から日産自動車に就職して、着々と昇進していたのだ。

 疎開っ子の疎開地訪問に氏の参加はなかったが、その名簿には(アメリカ)とあり、留守宅の住所があった。初めて父の話と結びついた。

 私は、YH氏は何故会社をゴーンに任せたのかと不審だったが、人間性の違いである。

悲しいことに、巨額の金を前にすると、公私の分かれ目がはっきりするらしい。


父の書斎

2019-12-28 17:09:16 | 日記

 私が育った家は昭和初期の流行らしく、平屋建ての玄関の横手に洋間があった。円卓に肘掛椅子。父の事務机。作り付けの本棚では足りなくて、壁際には本箱が所狭しと並ぶ。

 末っ子だった私が字を読みだすと、壁の奥から姉たちの読んだ子供雑誌が出てきた。戦後の資源不足に応じて、父がくれた上等な紙質の雑誌の束を、再生品の黒いゴムマリと交換した。マリは良く弾んで嬉しかった。

 父は理科と歴史が専攻だが、戦後は理科専科になった。教師の給料では買い過ぎだと本屋さんに叱られながら買った本は、歴史関係が多かったようだ。しかしその多くは古本屋さんに売って、子供たちの胃袋に収まった。

 退屈すると洋間で本の背表紙を眺めた。中里介山の「大菩薩峠」は未完の長編という十冊くらいがずらりと並ぶ。古本屋が欲しがっても父は売らなかった本だ。読んでみると面白い。間もなく再刊された全巻を、父は続巻と間違えて買い、そっくり同じ本が並んだ。


読書の故郷

2019-12-13 17:05:59 | 日記

 

 小学校に上がる前に自分の名前だけは読み書きできるようにと、姉が教えてくれて、初めて文字を覚えた。学校で習ったのは、一年生でカタカナ、ひらがなは二年生だった。

 それは学校に上がる前か、後かはっきりしないが、姉が読んでくれる子ども向きの本を、一緒にのぞき込むと、自分で読んでごらん、と、姉は言い。大声で読み続ける私に笑って、次には声を出さずに読む事を教えてくれた。

こうして、本好きになったが、三年生で敗戦国になり、新しい本は中々手に入らない。

一冊を繰り返し繰り返し読んでいた。

父の書棚には昭和初期の作家が有名を並べる文学全集があり、漢字には全てルビが振られていたから子供にも読めた。中の一冊は『少年少女文学全集』で、中の異色は、翻訳書の『十五少年漂流記』。人物名は全て漢字だがこれにもルビがあった。

きょうだいが引っ張り合って読んだ『少年少女文学全集』は、私の読書の故郷である。


こんにちは

2019-10-29 17:39:31 | 日記
 私の日常は至極ゆっくりと流れ、あっという間に日暮れとなりますが、日曜日の礼拝だけは、少し堪えてきた坂道を、教会車が迎えに来てくれます。
 以下は順番に来る証の時の原稿です。
 
 教会の若い方の多くはクリスチャンホームに育って、小さい時から教会へ来ていたと証しをされますが、早くから神さまを知った人は幸せだと思います。私が救われてからある人に教会を薦めたとき、先祖からの墓を守るのが自分の信仰だ。と、言われて驚きました。
 私の両親は明治生まれですが、跡取りではなかったので、守るべき位牌などはなく、お寺とは無縁でした。それでも父の友人の一人がクリスチャンで、その人は、当時子供だった私たちにも優しい人でした。彼の影響か、父は偶像を否定していました。お守り札や護符などは、ただの板や紙切れだと言うのです。
 晩年にも、キリスト教の人が度々来て話し込んでいたと母が言いました。それで遺品を見たらその中には異端派の本があり、なるほどと思いました。父は真実の神様を求めていたのです。
 
 私は宗教とは無縁の家庭で育ったのだと思っていましたが、違っていたかも知れません。父の八人きょうだいのうち、二人はクリスチャンでした。私の六人きょうだいの中では姉と私の二人だけです。
 姉は素直にイエス様を信じましたが私は既成の宗教には従わないと、頑固に言い張っていました。私は大きな事故に遭ったあと、「目に見えない、大きなもの」に助けられたと思いましたが、その大きな存在とは何か、誰に感謝すべきなのかその正体を自分で探し当てたかったのです。父がいつも、苦しい時の神頼みだけではダメだと言っていたことも強く影響していました。
 そして、再び、思いがけない試練に出合った時、キリスト教以外に神様はいないのだと、やっと気が付き、間もなく夫と二人で近くの教会へ通い始めました。神様はずっと、私の心の扉を叩き続けて下さっていたのだとわかると、聖餐式のパンと葡萄酒が、私たちの前を素通りするのに物足りなくなりました。そして、一年半後に受洗しました。私の受洗は、只々神様に感謝を捧げるためでした。
受洗した後は、聖書を読むたびに胸が高鳴りました。天国での永遠の命など、私には相応しくない、と思っていたのに、みことばは親しく近づいてきます。
 
 それで、数年続けていた盲人のための朗読奉仕を、文学作品の紹介から、キリスト教伝道のための朗読グループに替えました。そこはプロテスタント系の超教派の人たちに依って支えられていましたが、証やエッセー、説教等は普遍的なものでした。病気で発音に不安を覚えた時は、朗読のための滑舌が役に立ちました。
 
 私は間もなく八十三歳になります。思いがけない難病ですが、パーキンソン病と診断されてから五年目に入りました。パーキンソン病は、神経伝達物質のドーパミンが不足して動作が緩慢になり、全身に様々な症状も出て、それは百人百様です。命は取りませんが、ゆっくりと進行して、患者を悩ませる厄介ものです。
根本から直す薬は、未来の段階ですから、今ある薬を病気の進み方に合わせて飲み方を考え、最後まで自分の足で歩くためのリハビリに励んでいます。趣味やボランティアなど、少しずつやってきたことは止めて、今は証し文章だけです。
 
 耳まで悪くなって知らずに失礼をいたしますので、不愛想になったと、夫が気を遣ってくれます。でも、教会の皆様に優しく助けられて、感謝しています。すべては神様のご計画でしょう。私は新しい個性を頂いたと開き直り、おっとりと生きることにいたしました。今日もここに立って、証をすることが出来ました。ありがとうございました。

結婚60周年記念の旅

2019-05-24 15:07:07 | 日記

  足の弱っている私と二人連れですから、温泉と食事だけを楽しみに山奥の宿を選びました。

 玄関に続くロビーに通されて、先ず、眼に入るのは谷川岳の威容です。五月も半ばなのに、残雪が陽の光を受けて輝いています。ふるまわれたお茶でのどを潤しながら見惚れてしまいました。

 総ガラス張りの窓から、刻々と形を変える雲が山に戯れている景色は、いくら見ていても飽きません。左右にヒノキ林を従えて、中央には谷川岳。名は聞きませんでしたが、手前には若葉の色もみずみずしい大樹がふっさりと枝を揺らしています。

 寝るのは畳の上よりもベッドをと、頼んでおいたら、カバーのかかったシングルベッドが用意されていて、枕の脇には旅館主さんからのメッセージが添えられていました。

 

 二泊三日の短い旅でしたが、後は続きです。