goo blog サービス終了のお知らせ 

私の本棚

将来の夢は自分専用の図書館をもつこと。大好きな本に囲まれて暮らしたい。

抱擁、あるいはライスには塩を  江國香織

2014-03-16 09:48:17 | いまの本棚
本屋さんで見かけて、これは!と思った江國香織の新著。
帯の宣伝文句を読んで、これはきっと面白い、と思いました。
Amazonの中古が値下がりするのをじりじりと待って、ようやく購入。
久しぶりにハードカバーを買いましたが、やっぱりハードカバーの質感と重みが良い。

なんといっても、お家に図書館のある話。
広いお屋敷、裕福な暮らし。
古い映画を見ているみたい。
時間軸の混在した構成が、意外と混乱せずにすいすい読めた。
登場人物の口調や、主張から少し、「氷の海のガレオン」を思い出した。

江國香織にしては、丁寧にストーリーを追う感じ。
すみずみまで水が流れ込むような感触だった。

江國香織の作品は、良くも悪くも優雅で、お金の匂いや生活感がしない。
たぶんご本人の生活がそうなのだろう(でなければ、よほど良く取材されているのだろう)。
その優雅さが、彼女の作品のうつくしさであり、逆に言うと、軽やかさ、非現実感にもなっている。
個人的には、もっとずっしりとした、生活感のにじみ出る作品が読んでみたい気もする。

良い作品で、いかにも彼女らしくまとまっている。
江國香織の作品にある、荒唐無稽さがあまりなく、比較的リアル。
比較的、というのも、決してリアルなはずもないのだが、なんとなく本当にありそうに読ませる筆力である。
それゆえの、物足りなさも少しある。



ポーの話  いしいしんじ

2014-03-08 20:31:42 | いまの本棚
ふたたびいしいしんじ。
やっぱり、こんな話を書けるなんてどういう方なんだろうというのがまず不思議。
いびつで奇天烈な絵本のようなお話。
どんなに空想を巡らせても思いつく類のものではないようで。

以前にも感じたように、水の気配をずっと感じる世界を描く方だ。
川のそばにでもずっと住んでいらしたのか。
それも、綺麗な水ではなく、濁り、澱んだ、生臭い生き物のようにうごめく水。
不穏な気配と言ってもいい。
いしいしんじの作品をいくつか読むうちに、登場人物がいつどんな不幸に飲み込まれるのかと案じながら読むようになった。
そのように残酷な運命をひたひたと奥底に這わせた作品が多いように思う。
かといって惨めな話にならないのが不思議なところで、
「ぶらんこ乗り」「プラネタリウムのふたご」などはそういう悲しい光をうけてなお燦然と輝く、うつくしく昇華された物語になっている。
なんとも見事な手腕です。

本作はそのものずばり、水を全面に押し出した物語だが、その水がとにかく生き生きとしている。
思い出したのは、スタジオジブリの「崖の上のポニョ」でスクリーンを縦横無尽に駆け巡る水の柱たち。ものすごく腑に落ちた。
宮崎駿といしいしんじは、同じものを見ていらっしゃるのだろうか、という気すらした。
そのほかの登場人物の描写がなんともおかしく軽妙なのは言うに及ばず。

奥へ奥へと潜っていくような話を書く方である。
正直、本作はなんだか難しくて、読み終わってもすとんと来なかった。
堀江敏幸さんの解説に助けられました。
この解説ひとつで、ひとつの読み物として過不足なく完結している。
素晴らしい解説でした。

解説を読んで、家への帰り道の坂を昇っているときにふと浮かんだのは、
つまり、上流から下流まで繋がっていく、途切れない命と時の話なんだなと。
ふつうに生きている分には、自分の目の前に流れてくるものを一つずつ拾い上げて片付けて、それで命を果たしてしまうわたしたちが、
はるか上流、これから向かう下流、巡る水のいのちを知るための小説を書いているのだ、たぶん。
それを描くためには、かみさまの目を持って、突き放して眺めることのできる、絵本や神話のようなお話でなければ。

そして、たぶん、命のきわみというものを見つめるための小説なのだろうと思った。
どうやって生きていき、どうやって死んでいくのか
絶望に際した人はなぜ生きられるのか
めまぐるしい生と死を、なぜつないでいくのか
その先にある命のきわみを見たい、知りたいがために、深く深く潜っていく。

その気持ちには覚えがありました。
私がいまの進路を選んだ理由も、そういえばそれだったと。




吉野弘詩集 吉野弘

2014-03-06 18:00:41 | いまの本棚
まだまだ続く、詩のブーム。
吉野弘は、「詩のこころを読む」で紹介されていた「I was born」を読んで以来気になっていた。

吉野弘さんが今年1月に逝去され、その後しばらくこの詩集も入荷がなく手元に届くまで時間がかかった。
先日はまどみちおさんが亡くなった。
なんだか、私の好きなことばを話す方々が次々にいなくなってしまうようで、
私ばかりが置いていかれるような孤独な心持ちがしている。(もちろん、私はそのように美しいことばを持っていないのだけれも、ことばを使う種族の人たちに対する一方的なシンパシーを持っている)
絶滅とはいつも最後にはひそやかな朝の訪れだと思うけれど、ことばの絶滅ほど、静かでうつくしいものはない。


「I was born」に対する返歌のようにも思える「奈々子に」「父」
ふしぎな毒と甘さの漂う「妻に」
雪国の人なのだなと感じる「雪の日に」
吉野弘の詩には苦い多幸感と、鋭い洞察がある。
こどもを孕むことのない性であるがゆえの鋭さと距離を置きつつ誠実な眼差しにも。