順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

成功のための競争

2006年12月04日 | essay
法科大学院の試験日程がすべて終了し、あとは第一志望の結果を待つだけになった。発表を待つ身というのは不安で落ち着かないものだ。何にしても、試験というものは定員が決まっている時点で誰かが受かりまたは落ちることが宿命の仕組みであり、試験前も後も複雑な思いが交錯するものである。私たちの社会では、早い人は小学校受験から無数の試験を受け続け、この錯雑な渦の中で成長していく。時には有頂天になることもあれば、時には底なしの悲嘆に暮れることもあるだろう。しかし私たちは幸運にも、自分を取り巻く状況を秩序づけて克服する力をもっている。

竹内洋著 『日本のメリトクラシー 構造と心性』 東京大学出版会、1995年

今学期履修している労働経済という科目で遅刻して聞き逃した部分を補おうという仕方のない動機で手にしたのだが、この当初の目的を超えて大きな示唆を与えてくれる一冊であった。近代に入り、選抜・支配層形成システムが身分等を基礎にした属性主義から能力主義=メリトクラシーに変化した。本書は、日本のメリトクラシーがどのような特徴をもっているか、そこで形成される人間像はどういうものか、前半で道具となる理論枠組を提供し、後半で経験的分析を行って探求している。

理論枠組の説明において著者はまず、伝統的に提唱されてきた諸説を機能理論・葛藤理論・解釈理論の3つに類型化する。機能理論は経済学的な発想に親和的で、近代の技術変化でより高い地位により高い能力が必要になったことでメリトクラシー化が進むとし、学校教育を人的資本論のように能力形成の場とみる考えとスクリーニング理論のように潜在能力のラベルを提供するにすぎないとみる考えに分かれる。葛藤理論は階級対立的な発想に基づき、非支配階級が地位向上の為にメリトクラシー導入を主張し、対する支配階級が選抜基準の決定権を握ることで保身を図る、その妥協として成立するというものである。最後に、解釈理論は内部作用に着目したもので、教師がクラスで効率的に教えようとする際の行動から選抜を導く考えが代表的である。

以上のような伝統的理論では次の2点が見落とされてきたという。それは、現実にどのような選抜が行われているのか、多数の脱落者がいるにもかかわらず社会的不満が生じないのはなぜか、という点である。前者の問題を扱ったのがローゼンバウムのトーナメント移動論であり、後者が加熱・冷却論である。

トーナメント移動論を提唱したローゼンバウムは、アメリカの高校を対象にした研究で、チャンスは平等に与えられているとの規範を構成員は支持しているのにもかかわらず、事実としては勝てば次の回に進む権利が得られるが敗者復活の余地はほとんどないというトーナメント移動になっていることを見出す。次に企業の昇進に着目し、ここでもトーナメント移動になっていることを示す。具体的に言えば、昇進はランダムな移動ではなく特定の経路からなされ、ある時点で同じ地位にあっても過去の地位によりその後の昇進のチャンスは異なり、初期に昇進した者がより多くのチャンスを得る、ということである。そしてこのような移動が生じる理由として機会の平等と選抜の効率性の要請を同時に満たす折衷型のシステムであることを挙げる。

加熱・冷却論は、教育の拡大で高い地位の数をはるかに超える希望者が登場し不可避的に脱落者が出るが、彼らがどう現実に適応していくかに着目した理論である。「冷却」という言葉はもともと詐欺師が使う隠語であったようで、少々悲しい感じがする。脱落の適応としての態度を類型化すれば、再加熱(目標を変えないまま再挑戦)・代替的加熱(目標を変えて再挑戦)・縮小(目標を下げて再挑戦)・冷却(目標の価値を相対化し競争から降りる)に分けられる。

理論枠組の紹介は以上であるが、本書はこれを道具として日本の選抜構造を受験・就職・昇進という場面に分けて実証的に探求する。ここでは全ては紹介できないので、読者そして私のたどってきた部分―受験に重点をおいて日本の特徴をみていきたい。

日本では激しい受験競争がある、ということについて異論はないであろう。しかし一方で学歴と将来の収入の相関関係は外国に比べて強くない。日本の学歴は物質的な見返りと結びついているわけではなく、人間としての価値が高い、というような象徴的な意味合いをもっている。イギリスは階級意識社会と言えるが、日本は学歴意識社会ということになる。さらに言えることは、このような象徴的価値の見返りをも超えて受験社会として自律化・自己目的化した制度になっていることが見出される。

このような自己目的化を可能にするのは「傾斜的選抜システム」である。学校の序列自体はどの国にもあるがそれは一部分にとどまるところがほとんどで、どんぐりの背比べを数値化しているところは少ない。日本は偏差値という基準で上から下まで整然とした序列があり、模擬試験に基づき事前選抜が行われるが、その上で偏差値50の人は55へ、60の人は65へ、40の人は45へ、といったように誰もが「現状より少し上」を目指すように焚きつけられる。また、序列の区分が細かいために上下の移動が頻繁に起こりやすく、純粋なトーナメント移動ではなく敗者復活の機会が多い。これにはGPAによる成績調整が一般的でないこと、学校間競争が熾烈であることが作用している。加熱・冷却は学校間ではなく学校内で生じる。

こうしたシステムの下での生徒は、自己監視的な存在になる。傾斜的選抜システムでは試験のわずかな点数の差に重大な意味がもたされ、「受験生だから」「受験生なのに」といった意識も生まれる。受験生は、勉強そのものよりも他の生徒よりも勉強量や時間が足りないのではないか、といった不安で追い立てられる。ちなみに、「受験生」に対応する英語の単語はないらしい。

最後に結論部分を紹介しよう。日本の選抜の特徴は、選ばれたと思った者が脱落し選ばれなかった者が浮かび上がるランダム性が折り込まれていることで、上も下も恒常的に競争を煽られるということである。そして、とりあえず目の前の選抜を突破しなければ話は始まらない、ということを繰り返していくうちに長期的展望を喪失し、終には情熱も失った人間が出来上がっていく。

やるぞ やるぞ やるぞ 俺はやるぞ
何をするよ? まずは手近なとこから取り掛かれ
(国民的行事/KREVA)

以上、甚だ不十分ではあるが本の紹介を終えることにする。このわずかの記述の中でも、自らを包んでいた制度の構造についてひとつの説明をみて思考が喚起されることが多いであろう。私としては、目標の喪失という人間像に共感するところがある。大学の学習相談所のコラムでも同様なことが指摘されている。学生が求めているのは具体的な仕事ではなく職場、それもいわゆる「いい職場」、周りに恥ずかしくない職場なのである。仕事に着目した進路である法曹も、裁判官・検察官ともなるとまだ幾重もの選抜が残っており実現するかがわからない。先日ゼミ総会があったが、自己紹介で将来の進路について話すとき、弁護士であればそこそこ具体的なイメージができているものの、研究者あるいは裁判官になりたい気持ちがある人は多くの解除条件付の希望を合わせて話していたのが印象的であった(かくいう私も「裁判官か弁護士」と言った)。また、高校では理系・文系、大学では研究者・法曹・公務員・民間といった暗黙の序列があって、どれも本来比較不能なもので将来の生活水準にも影響しないのだが、多くの人が振り回されている。

Bertrand Russell The Conquest of Happiness 1930

さて、秩序づけに一応の目処がついたが、私は何も社会改革を訴えるわけではない。このような構造のもとでいかにして満足を得るかということを私の座右の本の力を借りながら考えていこうとするのである。価値の相対化も使うが、目標を変えるわけでもなく、競争から降りるわけでもなく、努力を放棄するわけでもない。大して意識もせず勝ち残っていけるならば問題はないだろう。しかし困難があるときは、単純に一喜一憂するよりは自分の置かれている状況を把握して泰然自若とした態度で選抜に臨むほうがよいであろう。たとえるならば、技術的な不安を一部残したままピアノの発表会の本番を迎えたとして、間違えないように恐る恐る弾くのがよいか、思いっきり楽しんで弾くのがよいか、ということである。

脱落に対する「冷却」という言葉は哀愁に満ちているが、この現代社会、わずかな上のポストにいる人だけが満足を得るというわけではないのは明らかである。これには、社会の豊かさの実現に原因の一端がある。これは『日本のメリトクラシー』でも最後に示唆されていたことで、脱落の恐怖からリアリティを奪う。同時に、多くの人が考え方ひとつで満足を得られる可能性を開く。いくら競争に勝ち残っていても不安にかられ続けている人はいるし、競争から降りても十分満足な人はいる。ラッセルもいちばん満足を得やすいのは科学者であると言うように、選抜システムを超えた存在になる手もある。

生活に満足をもたらす要素は様々ある。食と住、健康、愛情、趣味、仕事上の成功、仲間からの尊敬といったところである。選抜システムの中でいつまでも心の平穏が得られない、あるいは脱落でこの世の終わりの如く悲嘆に暮れるような人は、成功を必要以上に強調し、仲間からの尊敬も愛情も勝ち残らなければ得られないと錯覚し、趣味も他人より抜きんでていなければ趣味ではないと錯覚しているような人である。意外とこう考える人は多いようで、あるゼミのOB会なんぞ、久闊を叙して純粋に楽しむ場ではなく凱旋の場であり、彼らの思うところの序列の上位にいなければ顔向けできないようである。

経済学の基礎には限界効用逓減の法則があるという。これにあてはめてみると、社会の豊かさを前提とすれば本来目の前の選抜は効用を少ししか上げないものである。しかし、ある種の世界の狭さ、視野の狭さと何事も他人との比較でみる癖により、行く先々でF5キーを押して効用曲線をリセットする。そしてその場にいる人より自分が劣っていることを見つけると途端に不満足になるのである。ご存知の通り、F5を連打するとサーバーに負荷がかかり、極限に行けば落ちる。落ちる時は死ぬ時である。絶え間ない選抜がある中でこのような態度をとり続けることには無理があろう。

前でも示されたように、受験競争は物質的な見返りではなく、象徴的な価値を手に入れる競争であり、さらにそれを越えて有意でない差にも勿体ぶった序列がつけられたものである。ここで他人との比較という観点を減じれば、大きな荷が下りる。上位大学院の選抜くらいになれば、そのスタートにも立てない人がどれほどいるのか、脱落したとしても脱落する機会すらない人よりもずっといい暮らしを将来するのではないか。選抜で行われているのは生き死にをかけた生存競争ではなく、他人との優位性をかけた成功のための競争である。ここで相手を蹴落とすことは緊急避難にならない。ラッセルは成功のための競争に捕らわれることを「踏み車を踏んで、それをいつまでもやめない」とたとえている。しかし通常は、恵まれた境遇は当然視され、失うまで意識されることはない。

昨夜見たテレビの中 病の子供が泣いていた
だからじゃないが こうしていられること 感謝をしなくちゃなあ
(空風の帰り道/Mr.Children)

しかしここまで推し進めると、逆にリアリティがなくなってくる。何であれ自分の希望が叶うことは喜びであり、叶わないことは喪失である。ある時点で同じ位置にいたと思っていたのにいつの間にか優劣がついているのが判明すれば、考え方によっては自分にも不可能でないということになるのだが、心が揺らぐのは確かである。これまでに述べた方法ではこの喪失感を癒すには十分ではないであろう。そこで提案するのは、自分の希望をより高次の目的の中に位置づけることである。

昨年大学で進路説明会というものがあったのだが、そこで企業に勤める卒業生の話に次のようなものがあった。会社員は公務員のように直接公共を担うわけではないが、結局のところ自分たちの経済活動が社会と公共を下で支えているのだ、というものである。このような意識は、目の前の喪失を緩和させる。すなわち、失敗が自分に降りかかってもその高次の目的は揺らがずにはっきりと残る。もし法律の専門職になることを目指して励んでいるならば、日本法の発展、ひいては社会の発展に寄与しようという意識をもつことがこれにあたる。このような目的の前では、法を作る立場になるか・適用する立場になるか・市民の側に立つか・国家の側に立つか・教育にあたるか、といったことは態様の違いのレベルの問題になり、やるだけやって最終的に自分が置かれた場所でがんばろうというかたちで、挑戦への意欲を維持することができる。

このような長期で高次・抽象的だがそれ自体は揺らがない目的を意識することについては、公的なものと私的なものの二つを用意しておくのがよいであろう。私的な目標は選抜が絡みにくく実現を味わう可能性が開かれているからである。私的な目標の設定は各人の判断に委ねられるが、特筆したいのは、自己の人格的発展と、その次世代への継受、簡単に言えば子育てである。近頃の人がこれを軽視しているのは驚きに値する。時々誰もが思考にふけるが、これは終局的には自身の精神的な成長の糧となる。日々の生活でものを知っていくにつれ、成長の材料が集まっていく。そしてこれが発揮され、まとまっていくのが子供への教育である。しかし、説教というかたちで行われるわけではないし、子供の人格を無視し特定の方向に持っていくことを目的とするわけでもない。親自身が芯のある充実した生活をし、その姿を見せることである。この点で戦後の多くの親は失敗しているように思う。仕事で生気を抜かれ疲れ果てた姿しかみせないと、子供が将来への展望をもちにくくなる。私が子育てに好意的なのは、両親が楽しそうに子育てをしていたという感覚があるからだ。

以上のような態度は、いずれにせよそれなりの立場を得るだろうという確信をもち、社会を引っ張っていこうという少々エリート的な考えが背景にあるもので、広く一般化してあてはまるとは言い切れない。また、問題なのは、周囲の価値観から少し外れるというリスクを負うことである。会話などで図らずも相手が期待する返答ができない場面が生じる。周囲との不調和は不満足をもたらす。「個性的な人」として受け入れられる手もあるが、これが最良であるかはわからない。こうした点は今後の課題である。

最後に私の大学生活を振り返ってみようかと思ったが、記事が思いのほか長くなったのに加え、最近ブログ書きに気恥ずかしさが出てきたのでやめておく。ひとつ示唆しておくと、昨年末に書いた「切符がくれたもの」は他人と比較する癖で純粋な楽しみを失っていた主人公がそれを取り戻すお話であり、この時期から考えが出発したということである。
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2 コメント

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Unknown (XP)
2006-12-06 00:52:17
読ませていただきましたー。

「高次・抽象的だがそれ自体は揺らがない目的を意識する」っていうのは、僕も漠然と考えたことがあります。加熱と冷却は表裏一体なんだけれども、そこのバランスをとるための戦略の一つとして有効なんじゃないかと。
たとえば、就活の面接の中で大抵の受験生はやれ「社会をより良くしたい」だの「○○という問題に取り組んで解決したい」だのといった、往々にして原理的で漠然とした志望理由を吐くわけです。でも、それを突き詰めて考えていって、具体的な形に落とすとなると実現までに分厚い壁が存在することにハタと気がつく。そこに気づいてしまうと、ナイーヴに志望理由なんて言えなくなってしまうよなぁ…なんてことを就活が終わった後、ぼんやりと考えていました。
したがって、右に書いたように「公的な目的」においても、簡単に揺らがない抽象的な目的を据えておくのは、再加熱を可能にするため、いわばニヒリズムを回避するという点で有効だと思うわけです。
ちなみに「私的な目的」に子育てを持ってきたのはなるほどと感じたけれども、「戦後の多くの親の失敗」のスパイラルをどう断ち切ればいいのか、と考えると、個人の次元では成功しても、社会全体の次元では難しそうです。子育てのイメージをプラスに転じていくにはどうすればいいんでしょうね(´ヘ`;) 。

後半にある「問題なのは、周囲の価値観から少し外れるというリスク」というのは、何となく状況が想像できて苦笑しました。世間のモノサシに振り回されないためにも、自身の置かれている立ち位置を相対化したいものですね、お互い(汗)。
また、ブログに気恥ずかしさを感じる(結果、ブログが疎遠になってしまう?)という事態は、愛読者としては一抹の淋しさを覚えるところです。もちろん、継続を無理強いするつもりはないんですけど、私情としては気が向いたときにでもつらつらと書いてくれると嬉しいなと思います。

長文スマソ。
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Unknown (管理人)
2006-12-06 11:49:54
長文記事を読んで下さってありがとうございます~

そうですね、具体的・現実的に考えてしまうと大きいぶん途方に暮れてしまいますね。抽象的にといっても、世の中にある全ての仕事からそれに寄与している感覚が得られるとは言い切れないので、最後に留保をつけました。

子供を生まない層は100年も経てば必然的に絶滅していきますから……それが無視できない多さだから困るんですよね。個人的には、子育てを親が丸抱えして責任が重くなっているような感じがします。不得意なことは得意な人に任せられるような協力的な環境作りができればなー、なんて思います。

気恥ずかしさはたぶん一時的なものなのでご安心を。ただ、記事にするまでのハードルがだんだんと上がっている感じがあります。今振り返って11月が実質記事ゼロというのに驚きました。
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