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日々楽園

毎日の暮らしは、苦楽の繰り返しである。

秋の夜長に遺書を書く人

2010年10月21日 | Weblog
夏の猛暑に続いての秋は、とてつもなく夜を長く感じる。
今日、出会った人も70歳代の方で毎晩眠れなく、何回も起きるという。

どうして過ごすのかと聞くと遺書を書いているという。
70歳代半ばも近くなり、毎日特別な目的もなく暮らしていると
死ぬ時の事を考えてしまう。
そのような説明を受けると、そうか・・・と納得できる年代に僕もなってきた。

この人は、夜は毎晩来るから、今晩はあの人に宛てた遺書。
次の日は、別の人宛ての遺書を考えて書いているという。

結構、社交家であるから沢山の知人、友人も多く宛先に困ることはないようだ。
遺書といっても、この人は、人格的に欠落した人ではない。
ごく普通の人で、ただ文系の事が好きな方だから、小説を書くような気持ちのようである。

内容は語ってくれなかったが、愚痴っぽい家庭の話や、世間話もアウトであろう。
このような遺書は悪いわけではなかろうが、遺書として書かなくてもよかろう。
人生100歳まででも続くかもしれないのに、ほかに良い暮らしの目的を見つけて、
忙しく、楽しく飛び回るような毎日にした方が良いように思う。

展示会で見つけた地図

2010年10月19日 | Weblog
私は昭和60年頃から出雲地方の古代史に興味を持ち、以後、20年くらい
素人の手探り研究をしていた。

昭和の終末期ごろは、古代史に関心のある人は少なく変わり者のイメージであったが
今の時代になってみると弥生時代から古墳時代と続く基礎的な部分が分かっているので
テレビ、新聞を見ていてもすごく楽しい。

写真に取り上げたのは島根県出雲市の中央部に位置する部分である。
中央部を一本の大川が書かれているが、ヤマタノおろち神話で有名な斐伊川だ。
右上隅に湖が見えるのが宍道湖である。
宍道湖もシジミが沢山取れることで知られている。

左側の陸ので張った所は出雲大社のある半島である。
この写真が大切であることに気づき、保存したのには古代史上大きな証拠写真であったからである。
江戸時代の中期には、左のほうに流れていた斐伊川は右側の宍道湖へ流れるように
変えられ現在に至っている。

この地図で何が大切かと言えば、斐伊川の川下にくびれ部分がある。
このくびれの周辺には立派な沖積平野が出来上がっていることである。
くびれ上部のほうでは、発掘されて10年近くなるか青木遺跡と言われる神社遺構や弥生時代末期の
ヒトデ型墳丘墓も出土している。
昭和の時代にはその南部、国道9号線工事のとき、橋脚下8mくらいの所から、
弥生時代~古墳時代にかけての土器が掘り出されたとの記録もある。

つまり、私が貴重としているのは、この地域が弥生時代には集落を形成していたことにある。
現代は研究が進み、左側である西部地方は明らかにされた遺跡は多い。
しかしながら、この斐伊川周辺の5~10mくらいの砂に埋もれた地域のことは
全く無視されていると言っても過言でないほどに研究されていない。

出雲の古代史には奈良時代までは出雲大社は現在の大社町杵築の地にはなかった
とする説が多く、出雲大社の神殿がどこにあったか明らかになっていない。
古記録には神社を西遷した記録もあり、元の神社はこの斐伊川川底にあった可能性が大きい。

斐伊川の右側部分は斐川町西部地域である。
この地域には、出雲大社の宮司を務めてきた千家、北島家の関係伝承が
沢山残されている土地柄なので、出雲大社はこの地域にあったことが
有力であると思っている。

もう一つ、この地図南部丘陵地には、西谷墳丘墓として有名な弥生終末期の遺跡がある。
西谷墳丘墓が作られなくなった時期と出雲大社の祭神、オオクニヌシの時代と合致している
ことからしてもこの斐伊川川底には出雲古代史の最大の謎が眠っていると確信している。

こんなものにも歴史の足跡

2010年10月17日 | Weblog
今日の日曜日、心地よい快晴のもとグランドゴルフ大会に参加した。
ゴルフ場周辺には写真のような植物が沢山群れを作って生えている。
田舎では日頃なんでもない草に見えているが、この植物は麻であるという。

麻は、古代には人々の暮らしになくてはならない大切な衣料原料とされていた。
現代の化学センイや針金などのない時代には、麻が生活資材の大きな役割をしめていたのである。

私は日頃田舎道を車で走ることが多いが、昔の古道と呼ばれる生活交流の道には
両側に延々とこの麻が生き延びている。
この麻は刈っても、刈ってもすぐ新芽が立つほどに生き強い植物だ。

不思議なことに人の生活環境以外の地には絶対に生えていないと言っても過言ではない。
私がこの植物に歴史を感じるのは、農業地帯の耕地以外の空き地に
広く栽培されていたことが知られるからである。
昔を辿って見ると、木綿の生地の原料である綿花が栽培され始めたのが、
江戸時代に入ってから広まったという。

中世の後期には、朝鮮半島から綿製品が持ち込まれたとされるが、
それ以前には、麻や野山に生えている葛かずらと呼ばれる植物だけが
衣料などの原料であったことを考えると、
古代の人々は、今で考える普通の織物などとても貴重なものであったと思われる。

最も絹は、原始時代から使われていたとされるから
上級な暮らしをしていた人たちには広く普及していたようである。
一般人の日頃の衣服は、こうした高級な繊維品は使われていなかったと思われるから
生活困窮者はどんなものを着ていただろうか。

中世以前の暮らしの映画にも衣服を着た映像が堂々と使われているが
平民たちは毛皮や雑草などで作った原始時代の着衣のようなものが普通であったと思う。

山道に生えている麻は、この地方では「ムシオ」「苧麻」などと呼ばれているが
沢山生えているとつい歴史を感じてしまう。昔の人達の苦闘の時代が想像される。

汽車ポッポ

2010年10月14日 | Weblog
今日も山間奥地を歩くことになった。
知らない顧客への訪問は意外と大変だ。
普通の場合、電話番号は聞いてあるので、それを元に居住地の番地を調べる。
住宅地図で居住地を特定する。

最近では、インターネット検索も大きな力になる。
でも、今日はそんなの全然役に立たなかった。
まず、インターネットは山奥の点在する民家の場合、表示してくれなかった。
住宅地図もすべて番地が入っていないからこれもパス。
電話番号は分かっているので電話をしてみても不在。
現地へいって、地元の人に聞くことにした。

この頃、民家で聞こうとしても、留守が多い。
今日も3軒歩いてやっと聞くことができた。
山奥では目標となる目印がない場合が多く、右に曲がって、左に折れてと
聞いているうち分からなくなる。

写真を載せたのは、交差点に昭和時代まで走っていた汽車の一部である。
信号機までついている。
今では集会所として使われていた。

何もない地域は三差路や四差路の近くにこうした珍しいものがあると
「あの汽車がある交差点を・・・」というぐあいに便利である。
今日の場合も、汽車から曲がってすぐという良い目標になってくれた。