鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

名胡桃城・後編~天下統一の端緒

2019-04-13 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 5 分

群 馬 県 利 根 郡 み な か み 町

名 胡 桃 城 址 案 内 所



名胡桃城址案内所



通称「名胡桃倶楽部」の中でひとときの休息と、攻城の資料を得た私は、



いざ、名胡桃城址【群馬県指定史跡】へ。


まず私を迎え撃つのは、三郭(さんのくるわ)丸馬出です。



う~ん、脇に続く空堀が見事です。



じつはこのとき、すでに馬出に立っていたのです。
肌色の部分が馬出で、周囲は空堀
えんじ色の部分に木橋が架かっていたのだそうです。

名胡桃城は案内看板がかなり充実しているのですが、私のような文面をしっかり読まないおバカな旅人にかかっては形無しですね・・・。



少し先の三郭に進み、そこから振り返ったところ。
三郭丸馬出はこのようになっていました。
丸馬出の形式は武田軍の城郭でよく見られる構造で、かつては武田家臣だった真田家も武田流の築城術を承継していたんですね。


三郭に入ります。



三日月状の白いエリアは、丸馬出だったところです。
これを見て、私は「三郭丸馬出はここだ!」と誤解してしまったんですね。
ここは二郭南虎口丸馬出跡で、名胡桃城の増築の際に埋められてしまったそうです。
名胡桃城の増築前は二郭(にのくるわ)が前線にあった曲輪で、増築後に三郭ができたことが判明しています。
埋められた三日月堀の上には、なんらかの建物も設置されたそうです。



三郭と二郭をつなぐ二郭南虎口
通路を曲げることにより攻め手の勢いを削ぐ喰違い虎口の構造になっています。
二郭は周囲を土塁で囲われていて、虎口には櫓門が構えられていたそうです。

 

虎口両サイドの空堀もまた見事ですね。
この空堀は堀切、一枚の平地であったところを人工的に掘って空堀を造成して二枚に分けたものだそうです。
そのときの残土を土塁に用いたのでしょうね。
双方の空堀は幅が異なり、三郭から見て右側が広く掘られています。
これも喰違い虎口を形成するための工夫といえます。

 

二郭南側両サイドの土塁。
城の核心に近い二郭のほうが、傾斜が急になっていますね。
三郭から見て左側の土塁は見張台になっていて、上ることもできます。


沼田城を訪れたあとに名胡桃城を登城すると、「城に来た!」という感じをひしひしと覚えます。
復元された城ですが、なんとも気合の入った復元っぷり。
「来てよかったなぁ~」と思わせてくれる名城です。




二郭に入ります。



まずは見張台の土塁に上がってみます。



三郭の様子。
丸馬出跡の規模がなかなか大きく、出丸といっても差し支えないほどです。
虎口の通路が浅く土橋となっていて、その上に木橋を架けていたようです。



二郭左側に広がる、深い天然の空堀。
その向こうには般若郭が広がっています。
想像図では広い空間に建物が複数建っていることから、家臣の住居があった、あるいは平常時の生活の拠点だったのかもしれません。
現在は駐車場になっています。



二郭の様子。
3つのレンガ色のエリアは、奥から3号掘立5号掘立6号掘立を表しています。
名胡桃城の後期・・・北条が城を乗っ取った時期に存在したと思われる建物の位置を表しているそうです。
郭の中央には通路が整備され、郭の周囲と通路沿いには排水路が巡って、本郭側に排水される仕組みになっていたそうです。



二郭北虎口へ。
こちらは右側に見張台があります。



こちらも喰違い虎口になっています。
その先は本郭です。



こちらの見張台にも上ってみました。
通路沿いにや郭の周囲にあるくぼみは、排水設備を再現したものですね。



高いところから虎口を見ると、通路のカギ折れがよくわかります。
また両サイドに土塁が造成されていて、土塁と通路の交わる箇所には櫓門もあったそうです。
名称は「二郭」ですが、この郭が本丸の役割を担っていたように思えてきますね。



二郭・本郭間の堀切
三郭・二郭間のそれよりもさらに深いものになっています。



木橋からながめる堀切。
左の画像、二郭から見て左側の堀切は、その先で天然の空堀につながっています。
あんな谷に看板が立っていますが・・・誰か下りていく人がいるのでしょうか?
右を見ると、二郭側の堀の傾斜がかなり急峻なものであることがわかります。

なお、木橋を渡った先にも櫓門があったそうです。


いよいよ本郭(ほんぐるわ)へ。



本郭も周囲を土塁で囲われていたのですが、左側が大きく崩落していてコンクリートで補強されています。
こちらは大正から昭和初期にかけて史跡公園化が進んで、桜などの樹木が植えられたり石碑が立てられました。



「県指定史跡 名胡桃城址」の碑
こちらはもう少し時代が経過した昭和43年(1968年)、明治100年記念で立てられたものだそうです。
う~ん、とあるお方と同い年の石碑なんですねぇ~。



奥にある堂々とした石碑・・・



「名胡桃城址之碑」です。
地元で採石された一枚岩の安山岩が村人総出で運搬され、昭和2年(1927年)に立てられたものです。
碑文の揮毫は、戦前を代表する文筆家・徳富蘇峰によります。


名胡桃城は、入口から直線状に三郭、二郭、本郭と続いている連郭式縄張の配置となっています。
しかし・・・



本郭のさらに奥に、もうひとつの郭があります。



狭い空間と細い通路のみのささ郭です。
城の先が崖っぷちであるとはいえ、本郭が露出することを避けるために設けられたものだそうです。
両サイドに土塁が造成され、現在ももっこりとしたところがその名残となっています。
また、郭の先端には搦手門があったそうです。
背後を警戒するというのもありますが、もしものための退路を確保したのかもしれませんね。



ささ郭の先端部に、いつ建てられたかわからない小さなほこらがありました。
屋根のところに、真田のお城にあやかってか、五円玉が6枚並んでいました。



足元にある地図案内を参考に、ささ郭からJR後閑駅方向を眺めます。。
画像中央やや左にある大きな建物がみなかみ町役場です。
あのあたりからここまで、歩いてやってきたんだなぁ~という達成感に浸っていました。



沼田城の方向。
こちらからも沼田城はよくは見えませんが、沼田の城下町は見えるので、2つの城はそれほど遠くないことが実感できます。



ささ郭から戻り、恒例となりつつある、100名城スタンプの画角探しを行います。
二郭南側の見張台に立つと・・・

 

絵柄は「二郭南側見張台からの二郭」にちがいありません。
今回はわかりやすかったですね。



名胡桃城の検分を終え、ふたたび案内所で休息をとっていました。
その私に自然の脅威が迫っていることを、チキンな私は敏感に感じ取っていたのです。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿