鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

出雲さんぽ・最終章~国譲りの舞台

2023-06-26 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 拾 弐 時 参 拾 壱 分

島 根 県 出 雲 市

稲 佐 の 浜



稲佐の浜



日本でもっとも神話に彩られた砂浜といっても過言ではないでしょう。

稲佐の浜は、神在月の出雲国にて、諸国の神々が最初に上陸する浜とされています。

稲佐の浜に上陸した神々は、「神迎えの道」を通って出雲大社にお越しになるそうです。
「神迎えの道」は、稲佐の浜の常夜燈の所から大社の勢溜(せいだまり)まで続く道が現在もあるのですが・・・当時の私はそのようなことは知らなかったのでした。
再び出雲大社を参拝する機会があったなら、今度は稲佐の浜から「神迎えの道」をたどってみたいですね。




稲佐の浜は、「国引き神話」の舞台でもあります。
これは奉納山公園の段で申し述べたとおりです。



南西の方を見ると、稲佐の浜と、神戸川の河口からその先に続く薗の長浜



北の方には、朝鮮半島から引っ張られてきたという日御碕(ひのみさき)・・・は見えませんね。




稲佐の浜のシンボルともいうべきこの岩は、弁天島といいます。
かつては湾のはるか沖にあったといい、昭和60年代までは島の前まで波が打ち寄せていたようですが、現在は砂浜の上にある岩のようですね。
神道と仏教とを足して2で割る信仰がまかり通っていた神仏習合の時代においては、弁財天がお祀りされていました。



そして稲佐の浜は、「国譲り神話」の舞台でもあります。


天上界・高天原(たかまがはら)の神である高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)は、自分の孫である天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホニニギノミコト)を可愛がり、地上界・葦原中国(あしはらなかつくに)の君主にしようとしました。
しかし地上界にも神々が多くいたので、このままでは瓊瓊杵尊を君主とすることはできません。
「私は葦原中国の邪神どもを平定したいと考えている。誰を派遣すべきか」
神々を集めて議論したところ、天穂日命(アメノホヒノミコト)を派遣することとなりました。
しかし天穂日命は、地上の神の長である大己貴神(オオアナムチノカミ)に従うようになり、3年たっても報告に戻らなかったのでした。


大己貴神は出雲大社の神様ですね。
百戦錬磨の大己貴神の計略に、天穂日命がまんまとかかってしまったようです。

高皇産霊尊はふたたび神々を集めて議論をし、天稚彦(アメワカヒコ)が派遣されることとなりました。
天稚彦は高皇産霊尊から天鹿児弓(あめのかごゆみ)天羽羽矢(あめのははや)を授かって、葦原中国へと下っていきました。
ところが天稚彦は任務を果たそうとせず、大己貴神の娘を娶ると、自らが葦原中国を支配しようと企むようになりました。

高皇産霊尊は報告が来ないことを怪しく思い、雉を遣わしました。
雉が天稚彦の屋敷前にあるカツラの木に止まるのを見た天探女(アメノサグメ)は、天稚彦にこのことを報告します。
すると天稚彦は、地上に下る前に授けられた天鹿児弓と天羽羽矢で雉を射殺してしまいました。
雉を射抜いた矢は、高天原の高皇産霊尊まで飛んでいきました。
「この矢はかつて天稚彦に授けたもので、血に染まっている。地上の神々と戦っていたのだろうか」
そう言って矢を地上に投げ返すと、矢は休んでいた天稚彦の胸を射抜き、彼は絶命してしまいました。


大己貴神の智謀再び、といったところでしょうか。
ちなみに天探女は、いわゆる天邪鬼(あまのじゃく)のモデルとされています。

高皇産霊尊はみたび神々を集め、今度は誰を地上に派遣すべきかを議論しました。
神々は経津主神(フツヌシノカミ)を推薦しました。
会議の場には武甕槌神(タケミカヅチノカミ)がおり、彼は進み出て抗議します。
「経津主神だけが丈夫(ますらお)で、私はそうではないというのか!」
武甕槌神が熱心に言うので、彼も経津主神の副使として派遣することとしました。


筆者の地元にかかわる2柱の神が登場しました。
経津主神は下総(千葉)佐原の香取神宮の神様、武甕槌神は常陸(茨城)鹿嶋の鹿島神宮の神様です。

2柱の神は出雲の五十田狭之小汀(いたさのおはま)に降り立つと、十握剣(とつかのつるぎ)を地面に逆さまに立て、その切っ先にあぐらをかいて座り、大己貴神を威圧しながら問いただしました。
「高皇産霊尊は皇孫を天から降そうとして、地上の君主にしようとなされている。その前に地上を平定すべく、我々を派遣された。あなたはどうなさる?」
大己貴神は、息子に尋ねてから答えを出すと応じました。
大己貴神の子・事代主神(コトシロヌシノカミ)は、
「父は去るべきでしょう。私もそれに反することはありません」
と答え、海の中にお隠れになりました。
息子が去ってしまったので、大己貴神も去ることとしました。

経津主神武甕槌神はその後も服従しない神々を討伐して回り、地上を平定して、天に戻っていきました。



以上は、『日本書紀』による国譲りの記述をかんたんにまとめたものです。
『日本書紀』はわが国最初の公式歴史書で、国譲り神話もしっかり収録されています。

同じ時代に成立したもうひとつの歴史書、『古事記』
こちらは公式ではないですが、わが国最初の歴史書です。
『日本書紀』が歴史を記録したものという性格なのに対し、『古事記』は日本国の歴史を記録しつつも文学作品のようなストーリーが展開されます。
その『古事記』によると、国譲りはこのようにすすめられたといいます。


高天原におわす天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、「葦原中国は我が子の天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が治めるべき」と考え、命に天下りを命じました。
命は天から下界を見て、「葦原中国は大変騒がしく、私の手に負えません」と答えました。
そこで天照大御神と高御産巣日神(タカミムスビノカミ)は神々を集めて、「私は葦原中国の邪神どもを平定したいと考えている。誰を派遣すべきか」と問いました。
神々が議論を重ねた結果、天菩比命(アメノホヒノミコト)を派遣することとなりました。
しかし天菩比命は、葦原中国を統治している大国主神(オオクニヌシノカミ)の家来になってしまい、3年たっても報告に戻らなかったのでした。


このように『古事記』と『日本書紀』では、大まかなストーリーは共通していますが、細かい部分で違いが見られます。
登場する神様の表記(「天穂日命」と「天菩比命」、「大己貴命」と「大国主神」)もそうですが、『古事記』では国譲りを最初に考えた神様が天照大御神となっています。

天照大御神高御産巣日神はふたたび神々を集めて議論をし、天若日子(アメノワカヒコ)が派遣されることとなりました。
天若日子は天照大御神から天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)天之羽羽矢(あめのははや)を授かって、葦原中国へと下っていきました。
ところが天若日子は任務を果たそうとせず、大国主神の娘を娶ると、自らが葦原中国を支配しようと企むようになりました。

天照大御神は報告が来ないことを怪しく思い、雉を遣わしました。
雉が天若日子の屋敷前で大きな声をあげて鳴いていると、これを見た天佐具売(アメノサグメ)が「この鳥は鳴き声が不吉なので射殺しておしまいなさい」と天若日子をそそのかしました。
天若日子が地上に下る前に授けられた弓矢で雉を射殺すると、雉を射抜いた矢は高天原まで飛んでいきました。
高御産巣日神は地上からの矢が天若日子に授けたものであることを神々に示し、
「天若日子に邪な心があったならば、矢よ、天若日子を射抜け!」
そう言って矢を地上に投げ返すと、矢は休んでいた天若日子の胸を射抜き、彼は絶命してしまいました。


このあたりは『古事記』『日本書紀』あまり大きな違いはありませんね。

天照大御神はみたび神々を集め、今度は誰を地上に派遣すべきかを議論しました。
神々は建御雷神(タケミカヅチノカミ)を推薦しました。
さらに天鳥船神(アメノトリフネノカミ)を副使として派遣することとしました。


三度目の正直、国譲りを成し遂げる神の登場。
『古事記』には香取神宮の神様・経津主神が登場せず、鹿島神宮の神様が前面に出てきます。

2柱の神は出雲の伊那佐之小浜(いなさのおはま)に降り立つと、十掬剣(とつかのつるぎ)を地面に逆さまに立て、その切っ先にあぐらをかいて座り、大国主神を威圧しながら問いただしました。
「天照大御神はご自分の御子が地上を治めるべきとお考えだ。あなたはどうお思いか?」
大国主神は、自分の前に息子の事代主神(コトシロヌシノカミ)に尋ねてから答えを出すと応じました。
そこで2柱の神は事代主神に国譲りを迫ると、事代主神は国譲りを承諾し、海の中にお隠れになりました。

2柱の神が大国主神に事の次第を告げると、大国主神はもうひとりの息子である建御名方神(タケミナカタノカミ)にも尋ねるようにいいました。
ちょうどその時、建御名方神が巨大な岩を手の先で持ちながらやって来て、建御雷神に力比べを挑みました。
建御雷神は建御名方神の腕を掴み、いとも簡単にぶん投げてしまったので、建御名方神は恐れをなして逃げ出します。
建御雷神は後を追い、科野国(信濃国)の州羽(すわ)の海(諏訪湖)に追いつめました。
建御名方神はついに降参し、国譲りを認めること、天の神々に背かないこと、自らが科野国から出ないことを約束しました。


『古事記』オリジナルの物語が、建御名方神の登場、そして建御雷神と建御名方神の戦いです。
この2柱の神の戦いが、日本の国技である相撲の起源とされています。
なお建御名方神は諏訪大社の神様で、国譲りの後は信濃国の発展に力を尽くしたといいます。

建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再び尋ねました。
大国主神は「二人の息子が従うなら、私もこの国を差し上げます。その代わり、私の住まう所として、天から下る神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てていただきたい」
その後出雲の多芸志(たぎし)の浜に、大国主神のための大きな宮殿が建てられたといいます。

建御雷神は地上を平定すると、天に戻っていきました。


大国主神が求めた大きな宮殿こそ、現在の出雲大社です。





弁天島を照らす日輪。
空は快晴ではなく、雲がところどころを覆っていました。
どことなく神秘的で、高天原から神々が降臨しそうな雰囲気でした。




午 後 壱 時 六 分

一 畑 バ ス ・ 稲 佐 の 浜 停 留 所




稲佐の浜でしばし足休めをした後で、次なる目的地・日御碕へのバスの停留所へ。
発車時刻まではまだ時間がありました。
道を挟んでバス停の向かいに、



国譲りの談義を表したレリーフがありました。
歴史書では「剣の切っ先にあぐらをかいて・・・」などという記述がありますが、このレリーフでは杖を立てるように剣を砂浜に突き立てている、人間離れしていない神様が描かれていますね。
このレリーフの中央には、稲佐の浜にあった屏風岩という大岩が描かれています。
国譲りの談義はこの屏風岩の前で行われたといい、バス停からさほど遠くない場所に、屏風岩がなお残っているのだとか。

早速、参りましょう!




とある民家の裏手・・・



神々が国譲りを談義したという屏風岩・・・。
これって人の家の裏庭じゃないだろうねぇ?!



兎にも角にも、こちらが屏風岩でございます。
神代から時は流れ、稲佐の浜は狭くなり、屏風岩の周囲は住宅地になりました。
岩自体も風雨の浸食によって削られ、小さなものとなってしまいました。

「こんなところで国譲りの話でもしたのかな?」

国譲り神話と、他人の民家の裏にある土地と岩。
スケールがあまりにも違い過ぎる両者。
歴史上の大きな出来事というものは、案外こういった身近でちっぽけな場所から事が起こるものなのかもしれませんね。

・・・などといろいろ考えながら、稲佐の浜のバス停に戻っていったのでした。






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