鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

浜松城・第2章~出世する大名達

2019-07-13 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 4 分

浜 松 市 中 区

浜 松 城 本 丸



浜松城【浜松市指定史跡】の本丸まで到達しました。



本丸の高台に構える天守門【再建】をくぐります。



模擬天守がそびえ立つ天守曲輪に入りました。



天守曲輪から振り返ってみる天守門
櫓門ということで、脇から中に入ることができるようです。
後ほど入ってみることとしましょう。



天守曲輪から仰ぎ見る模擬天守
「模擬」ということで、残念ながら浜松城の天守は史実に基づいていないのです。



しかしながら、天守台は400年前から残っているものだといいます。
400年前というと、初代城主・徳川家康の頃よりもだいぶ時が流れています。
家康が浜松城を築城した頃は、石垣の技術はまだ浜松に伝わってきておらず、浜松城は土造りの城だったといいます。


徳川家康江戸城へ移った後、浜松城主となったのは堀尾吉晴でした。
吉晴は豊臣秀吉に古くから仕え、のちに「三中老」に列せられたといわれています。
浜松城は堀尾吉晴の手によって、石垣が造成されるなどして生まれ変わりました。
堀尾家は関ヶ原の戦いで家康方につき、戦後、出雲松江24万石に加増されました。
堀尾吉晴もまた、浜松城から出世していったのですね。

その後浜松城は「東照公(家康)ゆかりの城」として特別視され、有望な譜代大名が浜松城主となる例が多かったようです。
彼らは老中など、幕府の要職に就任することが多かったことから、「出世城」と称されたといいます。
幕末に天保の改革を指揮した水野忠邦も、浜松城主を歴任しています。



石垣、天守などの築城技術は近畿地方で発展を遂げていき、そこを治めていた織田信長・豊臣秀吉の家臣が、自らの居城を普請するすることによって伝播していきました。
そして、本丸を区分して天守のための曲輪を形成する手法は、豊臣系の大名によく見られるものだといいます。
現在にも残っている浜松城が、徳川方ではなく豊臣方の影響を色濃く残しているのは、なんとも興味深いところです。



天守曲輪の西側は、埋門(うずみもん)があったそうです。





天守の中へ入りましょう・・・なにやら老人の群れが入口で渋滞をなしていますなぁ。
さっさと・・・(自主規制)

入場料は、大人200円。
団体割引は、30名以上で1割引き、100名以上で2割引きとなっています。
一人旅を愛する私に「団体割引」というのは無縁なものですけどね。



まずは地階。
天守台に設けられていた地下構造で、穴蔵と呼ばれていました。
そこには井戸があり、籠城戦では最後の拠点となるであろう天守や本丸に、飲み水が確保されている構造だったのですね。

同じような構造は、ほかに名古屋城松江城でも見られるのだそうです。
松江城は、出世していった堀尾吉晴が築いた城郭。
ここにも堀尾=豊臣系のカラーが残っているのかもしれませんね。


地上1階は、浜松城関連の資料が展示されています。
なかでも、浜松一の出世頭というべき徳川家康のものが多いです。



家康が身に付けていた甲冑のレプリカ。



左の金ぴかな甲冑は、金溜塗(きんためぬり)具足

家康の初陣となる大高城攻防戦で身に付けていたとされています。
大高城攻防戦は桶狭間の戦いの前哨戦。
織田軍によって包囲された大高城(名古屋市緑区)を救援するため、出陣した今川義元の軍勢。
今川軍に加わっていた家康(当時は松平元康)は、義元より大高城に兵糧を運び入れる使命を受け、これを成功させたのでした。

本物は久能山東照宮に保管され、国の重要文化財に指定されています。



右のシブめの甲冑は、正式名を伊予札黒糸威胴丸(いよざねくろいとおどしどうまる)具足といいます。
兜の前立てから歯朶(しだ)具足」とも呼ばれ、こちらの方がメジャーな呼び方でしょうか。

こちらは関ヶ原の戦いで着用され、大坂の陣でも携行された甲冑です。
徳川家の天下を定めた2つの戦役で用いられたため、吉祥の鎧として尊ばれたそうです。

こちらも本物は久能山に保管され、また国の重要文化財に指定されています。



有名な徳川家康の肖像画です。
正式名は徳川家康三方ヶ原戦役画像というそうですが、通称の顰像(しかみぞう)方が有名でしょう。
本物は名古屋の徳川美術館に保管されており、浜松城のものはレプリカです。

三方ヶ原の戦い武田信玄に大敗し、命からがら浜松城に逃げ帰った家康。
恐怖のあまりにう●こを 家康は自己の短慮から多くの将兵を失ったことを反省し、絵師に己のみじめな姿を描かせて、後の教訓としたといわれていますが・・・・・・
どうもこの話はマユツバのようです、ここでは詳しくは触れませんが。


最上階に上がりました。



東側を見下ろし、本丸富士見櫓跡
ここから天守曲輪を眺めると、なかなか画になりますよ。



西側を見下ろすと、天守台より一段高い区画があります。
ここは八幡台と呼ばれ、武家の守護神とされる八幡大菩薩をお祀りする神社が鎮座していたといいます。


再び1階へ。



続100名城スタンプは、天守の1階に設置されています。



148番、浜松城!
絵柄は模擬天守天守門ですね。
どのアングルからの画なのか、後で探してみましょう。



天守を出ました。



今度は天守門の中に入ります。



骨組みはシンプルで、装飾性はまったくありません。
戦争に備えるための施設なので、短期間に建築できる構造となっているのです。敵はできあがりを待ってはくれませんから。
それでいて、戦闘に耐えうる堅固さをも備えています。

・・・どこの城でも同じような画じゃないかと思われますが、仕方ないことです。



棟束にかけられている棟札
「浜松市長 鈴木康友」とあるので、天守門再建工事の施主は浜松市のようです。



天守門からの模擬天守
なかなか画になりますね~。
「おんな城主」の顔出しパネルがありますが・・・そういえば平成30年の大河は「おんな城主 直虎」だったか・・・見てないなぁ。
平成30年の大河ドラマは「西郷どん」でした。見てませんでしたねぇ。



天守門から、天守曲輪を出ました。
この後は、100名城スタンプの画角を探します。



天守門の真下。ここじゃないですね。



横を向くと、「若き日の徳川家康公」像
正面から、はじめて拝謁します。



やっぱりあまり若くなさそう・・・。
手に持つのは・・・歯朶の前立て?!
家康が歯朶具足を作らせたのは、関ヶ原に赴く前の頃なので・・・やっぱり若き日の家康ではなさそう。


少し離れて、富士見櫓跡からの画。

 

たしかにいい画ですが、天守と天守門の位置関係が逆です。


「若き日の・・・」付近に戻ってきました。



浜松市役所が見渡せる、このあたりからだと・・・



ううむ・・・位置関係は正しいのですが、ここからだと天守がよく見えません。
視界を桜の木々に阻まれてしまいます。


二の丸に下り、



浜松市役所本館入口へ。

 

ううむ、もう少し高さが必要ですね。



もしかして、市役所の中から撮ったのか?!
とはいえこの日は土曜日、役所は当然閉まっております。


そうそう、忘れずに「城攻め」



続日本100名城・第148番、浜松城



発見できたのは堀尾吉晴さんだけ。
徳川家の武将は、江戸城付近であらかた登用してしまいましたからね・・・。



スタンプの画角探しはここで断念し、自転車を停めた場所へと戻りました。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿