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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

浜松餃子を求めて

2019-07-14 | グルメ


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 1 5 分

浜 松 市 中 区

J R 浜 松 駅 付 近



浜松城【浜松市指定史跡】からJR浜松駅の方へ戻ると、時刻はお昼時となっていました。

浜松のグルメといえば、まずはうなぎ
あるいは、「さわやか」げんこつハンバーグ
最近では、遠州焼きなる粉もののB級グルメもあるようですが・・・・・・

今回いただくのは、浜松餃子です。


浜松餃子のお店をアイフォンさんで確認すると、浜松駅から離れている店が多いのです。
そんな中で目を付けたお店が、



こちらの南口から徒歩3分といわれる「餃子むつぎく」
細い路地裏にあるお店ですが・・・



この行列は・・・!



やはり「むつぎく」からの行列でした。
推定20組の待ち人の行列、時間にすると1時間超でしょうか。
時間に限りのある旅なので、「むつぎく」の餃子は断念します。


さて浜松には、もうひとつ「餃子 むつ菊」というお店があります。
こちらは浜松駅から離れており、また予約をしないとまず食べられらないといわれるほどの人気店だそうです。
こちらの「むつ菊」も、断念。





カラフルなママチャリを借りた「はままつペダル」に戻り、自転車を返却しました。



歩いて北口に戻ってきました。
移動手段を失った今、たよりにすべきは駅ビルのMAY ONE(メイワン)のみ。

メイワンの1階にも「石松餃子」というお店がありましたが・・・ここも待ち人が凄い。
メイワン7階のレストラン街に向かい、



待ち人が少なそうなこちらでいただくことにしました。
「五味八珍」・・・アイフォンさんで検索した餃子の名店には挙げられていないようですが、そのような贅沢は言ってられません。

とりあえず、入口のボードに掲載されている浜松餃子セット(税込1,069円)をオーダー。
さらに、単品で浜松餃子(12個)(税込529円)もオーダーしました。



まず単品の方の餃子がやってきました。
餃子を円形に並べて、中心につけあわせのもやしを添える、浜松餃子のベーシックなスタイルですね。



次いで、浜松餃子セットがやってきました。
セットは、つけめん、つけタンタンめん、チャーハン、らーめん&半ライスとの組合せとなっていますが、今回は無難にらーめん&半ライスをチョイス。
さらにらーめんは、しょうゆ、みそ、とんこつから選べますが、今回は餃子をメインとしているので、味の濃淡が控えめなしょうゆらーめんを選びました。



いざ、食らわん!



浜松餃子、うまい!
中のあんは野菜8に対し豚肉2くらいです。
肉の旨味よりも野菜、とりわけキャベツの味が前に出てくるので、醤油は加えたほうがおいしいです。
全体的に脂っぽい献立なので、つけあわせのもやしがなかなかにイイ仕事をしてくれます。




完食! でも餃子2皿はさすがにきびしいですね。


後で知ったのですが、今回餃子をいただいた「五味八珍」は中華料理のファミレスなんだそうです。
ハンバーグの「さわやか」のようなご当地ファミレスで、愛知県、静岡県から神奈川県の一部でチェーン展開しているようです。
道理でメニューの冊子がしっかりできてるし、記載がちょっとやかましい感じもしました。





腹に十分すぎるほどの栄養を補給した私は、さらに西へ。





浜松城・最終章~出世して太閤殿下へ

2019-07-14 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 5 6 分

浜 松 市 中 区

浜 松 城 公 園



浜松城【浜松市指定史跡】の本丸を退出し、



浜松城公園の駐輪場へと戻りました。
これにて浜松城の攻略は完了・・・?


否。
浜松城を語る上ではもう1箇所訪れなければならない所があります。


徳川家康が浜松城を築く前、この地には曳馬(ひきうま)がありました。

曳馬城の築城は諸説ありますが、室町時代初期に遠江今川家4代当主・今川貞相(さだすけ)によるものとされています。
その後、遠江今川氏は遠江国(静岡県西部)の支配権を失い、応仁の乱で室町幕府の権威が揺らぎ始めると、駿河今川家の今川義忠が侵攻を始めます。
そして義忠の子の今川氏親の代で曳馬城を制圧し、遠江の支配が確立しました。
氏親は家臣の飯尾乗連(のりつら)を城主としました。

氏親の子の義元桶狭間の戦いで戦死すると、今川家の衰退が始まります。
曳馬城の城主はこの時期に、乗連の子の連竜(つらたつ)に代わりますが、今川家を継いだ氏真(うじざね)に疑惑をもたれ、謀殺されてしまいます。
以後の曳馬城は飯尾家の家臣によって守られるものの、内紛を抱えたまま徳川軍の侵攻を受け、あっさりと陥落してしまいます。

この地を得た家康は、曳馬城を西南方向へと拡張し、本拠を構えました。
その際、「馬を曳く」という名は敗北を意味しており縁起が悪いということで、地名を「浜松」に改めたのでした。





やってきたのは、元城町東照宮



小さく「曳馬城跡」とあります。
こちらがかつての曳馬城本丸だったのです。



拝殿でいつもどおりの祈願。



拝殿の傍らに立っているのは、近年できたであろう二公像
家康はわかるけど、なんで豊臣秀吉が?!


曳馬城主・飯尾乗連の寄騎のひとりに、頭陀寺(ずだじ)(浜松市南区)松下加兵衛という武将がいました。
加兵衛の家来に、「木下藤吉郎」と名乗る若者がいました。
この藤吉郎が、のちの豊臣秀吉です。
加兵衛は、若き日の藤吉郎に武芸、学問や兵法を教えたといわれています。
藤吉郎は同僚からいじめを受け、それを哀れに思った加兵衛が路銀を与えて送り出し、その後織田信長に仕えたといいます。
(藤吉郎が使いの金子を持ち逃げした、という説もあります)

今川家が凋落すると、加兵衛は徳川家康に仕えますが、天正2年(1574年)の第1次高天神城の戦い武田勝頼に破られます。
勝頼に赦されて解き放たれると、織田家で頭角を現していた羽柴秀吉に招かれ、その家臣となりました。
秀吉は加兵衛を優遇し、若年時の恩に報いたそうです。



藤吉郎が浜松にいた時は、年齢は16歳から18歳ごろとされています。
銅像の秀吉公はちょっと若すぎるのではないでしょうか・・・?



さて、ここは秀吉にもゆかりがあるという場所。
ここで「城攻め」をしたら、秀吉公が発見できるかもしれませんねぇ・・・

・・・・・・武将、誰もいねぇ。

しかし、



「海道一の弓取り」の称号を獲得!
はじめは今川義元がこの称号で呼ばれていましたが、桶狭間の戦いで戦死。
その後小牧長久手の戦いで勝利した徳川家康が、この称号で呼ばれるようになったそうです。
ゲーム上では、浜松城を攻略するとゲットできるようですね。





さてこの二公像、浜松屈指のパワースポットとされています。



両英傑の間に立って撮影すると、出世運がうなぎのぼりなのだとか。
そしてその画をSNSにアップすると、運気を広く周囲に振りまくことができるのだとか。

・・・境内に誰もいない。
三脚のようなものもない・・・。


ひとり旅の私は、こうして出世を棒に振ったのでした。