

平成の大修復が完了し、グランドオープン3日前の姫路城。
白亜の天守群をもっと見たい!という欲求を抑え、まず向かったのは西の丸。
西の丸は前回の登城でも訪れたところでしたので、記述をあっさりにしようと思っていました。
しかし今回の記事編集にあたって、旧サイト上での編集ミスで、記事が散逸していたことが判明したのです。
というわけで、しっかり内容のある(かどうかはわかりませんが・・・)記事を編纂してまいります。
・・・ともかく、まず向かったのは西の丸。
この西の丸は、姫路城で最大の曲輪となっています。
天守のある本丸側の曲輪が、塀で囲まれそれぞれが小さな空間で区切られているのとは対照的です。
もともと現在まで残る姫路城の城郭を築いたのは、「姫路宰相」の異名をとった池田輝政。
輝政は関ヶ原の戦いでの活躍により、播磨姫路52万石を領することとなり、姫路城を改修しました。
輝政が姫路城を改修した時代は、いまだ戦国の風紀が色濃く残っていた時期。
大坂には豊臣秀頼が健在でした。
そのため、姫路城は戦争に備えた造りになっていて、曲輪を塀で細かく仕切り、要所要所に門を構えるなどしていたのです。
輝政の孫・光政の時代。戦国時代は終わり、天下泰平の世が固まろうとしていた時期。
光政は鳥取、次いで岡山に転封となり、代わって本多忠政が15万石で姫路に入りました。
西の丸の増築が始まったのは、忠政の時代になります。
このころになると、戦時の備えよりも平時の利便性が優先され、曲輪は広くとられ、その中には御殿が造営されていました。
西の丸の入口は、西の丸南門跡から。

不自然に塀が途切れているのは、この先に武者溜りと呼ばれる空間があったためです。
戦時に門を突破してきた敵兵に横槍を入れるための備えでした。
西の丸が平和な時代にできたものとはいえ、戦争のための備えは残されていました。
城主本多忠政は、西の丸に御殿を造営し、嫡子
千姫は2代将軍徳川秀忠の長女なので、相応の格式をもってお迎えする必要があったのでしょう。
忠刻と千姫の婚礼では、徳川家より10万石の大金が化粧料(持参金)として下賜されています。


西の丸から眺める天守群は見事の一言。
パンフレットの表紙にも採用されている、ある意味おなじみのアングルです。
西の丸は、まず西の丸南門から続くカの櫓北方土塀【国指定重要文化財】、

曲輪南東のカの隅櫓【国指定重要文化財】、そこから続くワの櫓東方土塀【国指定重要文化財】、

二階櫓のワの隅櫓【国指定重要文化財】と続き、さらにそこから百間廊下と呼ばれる長屋で囲まれています。
百間廊下はまずワの隅櫓から始まり、

レの渡櫓【国指定重要文化財】、ヲの隅櫓【国指定重要文化財】(中央から右)、

ヲの隅櫓からタの渡櫓【国指定重要文化財】(中央)、ルの隅櫓【国指定重要文化財】(右)、

ルの隅櫓からはヨの渡櫓【国指定重要文化財】が長く続き、

ヨの渡櫓が長~く続いて、

ヨの渡櫓からヌの隅櫓【国指定重要文化財】(中央)、カの渡櫓【国指定重要文化財】(右)、

カの渡櫓を経て、最後に化粧櫓【国指定重要文化財】まで続きます。
ワの隅櫓から始まる百間廊下は、終点の化粧櫓までおよそ300メートルにわたります。
それでは百間廊下に入ってみましょう。
ワの隅櫓から中に入れますが、中は土足厳禁。ここで靴をぬぐこととなります。

百間廊下は姫路城の外郭になるため、敵の侵入に対する備えも必要となります。
建物の西側、北側には、このような石落としが配備されています。

窓枠の下についている溝。
結露によってたまった水は、この溝から外へと排出できるという工夫です。

百間廊下から望む、百間廊下&天守群。

やはりどうしても天守に目がいってしまいます(^_^;)
百間廊下は、中間地点のヨの渡櫓へ、

ヨの渡櫓への入口には、このような大きな木戸があります。
ここから先は、奥女中たちが生活をしていた西の丸長局。
そのため男性が中に入れないように、厳重な扉が備わっていました。


ふたつの面格子。
それぞれ東南側の格子(左)と西北側の格子です。
曲輪の外側にあたる西北側の格子は、太く、格子が白漆喰で覆われて耐火構造になっています。
いっぽう東南側は木造の格子がそのままあらわになっています。
ここからも戦時への備えを見ることができます。
西の丸長局の終点・化粧櫓に着きました。

おやおや~、千姫さまはいまだにカルタをなさっていらしたのですね~(*^_^*)
千姫は、2代将軍徳川秀忠と妻
小督の父は北近江の大名浅井長政、母は織田信長の妹市。
千姫はなんと7歳で豊臣秀吉の子秀頼に嫁ぎました。
豊臣と徳川の仲をとりもつという政略結婚でしたが、秀頼との夫婦仲は良好であったようです。
慶長19年から20年(1614・15年)の大坂の陣により、大坂城は祖父家康と父・秀忠の大軍勢に攻められます。
そして秀頼は自害。千姫は救出されました。
このとき、どうしても千姫を救出したい家康(秀忠とも)は、「千姫を助け出した者には、千姫との婚礼を許す」というおふれを出したそうです。
燃え盛る大坂城をかいくぐり、坂崎直盛の軍勢が救出に成功します。
しかし直盛は50をとうに過ぎた初老、さらに火傷を負っていたため顔はすこぶる醜かったそうです。
千姫は直盛への婚礼を強烈に拒絶してしまったそうです。
大坂城落城後、千姫はイケメン貴公子の本多忠刻に出会い、彼との婚礼を強く望んだそうです。
このことに面目をつぶされた坂崎直盛は激しく憤り、千姫強奪計画を企てましたが露見。
最期は江戸の屋敷で自害して果てました。(内通した家臣に殺されたともいいます)
ともかく本多忠刻に嫁いだ千姫は、姫路での生活を愉しんだといいます。
しかし忠刻は早逝してしまいました。
その後は姫路を退去し、江戸城に住まい、出家して最愛の夫・忠刻の菩提を弔って余生を過ごしたそうです。
千姫が人生でもっとも幸せであった時期を過ごした姫路城西の丸をあとにします。