鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

皇居を走る?

2013-06-26 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 1 6 日 ( 日 )

午 前 8 時 4 0 分

千 代 田 区 大 手 町

皇 居 外 苑 ・ 桜 田 門



ついに皇居を走る!



1周は5キロ。(正確には5キロより20メートルほど少ないらしい)
歩道の路上には、100メートルごとに「都道府県の花」のレリーフがあり、走行距離の目安となる。
走行を妨げる信号機はないので、悠々と走ることができる。
地下鉄駅も随所にあり、途中棄権も可能(^_^;)




工事中の桜田門【国指定重要文化財】からスタート。

桜田門は、江戸城の内堀を守る門のひとつ。
こちらの門は、正式には外桜田門という。

1860年(安政7年)に、この門の近くで桜田門外の変が起きた。
大老・井伊直弼が、水戸藩浪士らに襲撃され落命している。


皇居周回コースは通常桜田門をくぐって行くのだが、工事中のため通行不可。
桜田門には入らず、祝田橋交差点から左折し内堀通りに入る。


桜田門前は、皇居ランナーたちが「ここをキャンプ地とする」と言わんばかりに、荷物を放置しているようだ。
この日は、ボランティアの人々が多く集まっており、なんらかの駅伝が行われていたらしい。
(なんとひどい文章・・・)


私は、早歩き程度のスピードであったため、順調に皇居ランナーに抜かされていく。


内堀通りに入ってしばらくは、お濠と離ればなれ。
スタートから1キロ地点に差しかかると、左側にお濠が見えてくる。



桜田二重櫓【現存】は、二の丸の一角に配置された隅櫓で、その方位から(たつみ)櫓ともいう。
(巽=辰己=東南。十二支の「子」が北となる)



櫓を隔てる水濠は、桔梗濠と呼ばれる。



なお、この隅櫓に限らず皇居内の建造物は、宮内庁が管理しているため、文化財指定がされていない。


桜田二重櫓のすぐ先には、大手門【復元】。



桜田櫓から続いていた桔梗濠は、大手門で途切れる。



大手門からは皇居東御苑(旧江戸城二の丸・本丸)へ入れる。
開門時刻は午前9時のため、この時点では門扉で封鎖されていた。



大手門からは、大手濠が皇居の前に横たわる。

大手門前の濠には、なぜか白鳥が1羽ずつ停泊?している。
この時季は白鳥って北に帰るのではないか?
ということは、こいつらは白鳥のオブジェ??

少し気になって調べてみたら、どうやら本物の白鳥らしい。
コブハクチョウという種で、白鳥の中ではもっともよく見られる。


そろそろおわかりになってきたであろうか。
「皇居ランナー」といいながら、実際は江戸城めぐりになっていることを。
城好きの私が江戸城の遺構をスルーすることなど、どだい無理だったのだ。

目的が、皇居を走ることから100名城登城の旅に変わっていく。

だいいち、こんなにすばらしい櫓や石垣を見もせずに黙々とただただ走るなど、ランナー諸君のなんとももったいないことよ!
・・・と強弁でごまかしてみる(^_^;)




大手濠ぞいをほんの少し走ってみる。


気象庁前の交差点前は、皇居ランナーの休憩ポイントになっている。
ここは東京メトロ・竹橋駅の入口があり、ここでリタイヤも可能。



和気清麻呂公の銅像


奈良時代後期の女帝・称徳天皇は、怪僧・道鏡より自らの病の治療を受けて以来、道鏡を寵愛するようになった。
769年(神護景雲3年)宇佐八幡宮の神官が宇佐八幡神の神託として、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳天皇へ奏上する。
一説には、称徳天皇が道鏡の皇位継承を望んでいたともいう。

このとき勅使として宇佐八幡宮に神託を確認するよう遣わされたのが、和気清麻呂であった。
宇佐八幡の神託は、
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」
というものであり、これをそのまま持ち帰って奏上した。
(宇佐八幡宮神託事件)

これにより道鏡は皇位継承の途を断たれることになった。
称徳天皇は激怒し、清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ、大隅国(鹿児島県)に流罪とされた。

称徳天皇崩御後、道鏡が失脚すると、清麻呂は名をもとに戻されたうえで流罪を解かれた。
その後は有力な官僚として活躍し、桓武天皇平安京遷都の建議を献じ、新都の建設に尽力した。

後世になると、孝明天皇より神階正一位と「護王大明神」の神号を贈られた。
1898年(明治31年)には、正一位を贈られた。
皇統を守った功績により、楠木正成とならぶ勤皇の忠臣とされ、その銅像は今も皇居を見守っている。



和気公の銅像から少し進んで、平川門【現存】。



平川門は江戸城の裏門にあたり、大奥に最も近いため大奥女中達の出入りする通用門でもあった。
不浄門ともいい、罪人や遺体はここから出されたという。
殿中で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭は、城内の座敷牢に留め置かれた後にお預け先の田村建顕(一関藩主)邸に出されるときも、この平川門からであった。


平川門に入らず、皇居1周コースを進んでいく。



平川門から先も大手濠が続く。
石垣がまったく見事!
平川門は木橋がかかっているため、大手濠とは一本でつながっている。




濠にかかる竹橋を渡り、皇居周回はあと3キロ。
まだまだ続く。







【参考資料】
  ・国民公園協会皇居外苑支部ホームページ http://www.fng.or.jp/koukyo/info/koukyo_miryoku2.html