ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

祈り vs ヨーガ

2020-04-21 10:52:21 | スピリチュアル
BKYJ Spring 2020
By M.G.サッチダナンダ


 祈りという行為は、ヨーガスートラ、ギーター、ヨーガ・ウパニシャッドにおいて言及されていない。それはなぜか? これは好奇心をそそる問題であり、それに答えるためには祈りの性質、それがヨーガの瞑想・自己暗示・マントラとどう異なるのかに対する理解のみならず、ヨーガの目的、「私とは誰か」にあなたがどう答えるのか、そして神と私の関係とは何かという問題に対する理解を必要とする。我々のヨーガの伝統において、それはまたグルという言葉の理解をも必要とする。

祈りとは何か? それはヨーガの瞑想の実践・自己暗示・マントラとどう違うのか?
 祈りは神または祈りの対象にむけられた救い、赦しまたは感謝の表現だ。それには四つのタイプがある。崇拝・悔悟・感謝・祈願だ。それはまた真摯な希望または願いであり、それゆえその有効性に対する疑いの要素を含む。それはあらゆる宗教の本質的な行為の一つだ。それはしばしば複雑な感情を伴う心的な行為だ。ヨーガの文献においてこれが言及されないことが、ヨーガを宗教と区別している。

 ヨーガの瞑想には助け・赦しに対するいかなる要請も、神または至高の存在に対するいかなる嘆願も含まれない。それは希望や要望の表現や疑いの感情も含まない。集中は静寂をもたらし、通常の精神的・感情的な(心の)動きを永遠で無限の霊的な次元に運び、そこでヨーギンは絶対的な存在・意識・至福を経験する。

 自己暗示は、深いリラックス状態にあるとき、潜在意識を動機付けるため、現在形の表現で繰り返される肯定的な変化をもたらす声明だ。パタンジャリはヨーガスートラ(以下、YS)第二章33節で、「否定的な想念に捕らわれた時には、その反対(の想念)を高めなさい。」と告げる。比喩を用いれば、もし潜在意識が、人の想念・言葉・行動を指示する、感情的な性癖・条件・記憶が詰まったコンピュータ・ソフトだとすれば、自己暗示はコンピュータの持ち主が、肯定的な変化を起こすため、故意にインストールしたプログラムだ。潜在意識を満たしているものの多くは意図的にそこに埋め込まれたわけではない。人生の経験は自動的に印象または記憶を残す。それがしばしば繰り返されると、その印象はより強くなり、性癖となる。それゆえ、それらを取り除きたいのであれば、最善の方法はそれらと戦ったり押さえつけたりすることではなく、単純に新しいプログラムと交換することだ。

 多くの人たちが祈りの力を信じている。その効果は科学で実証された。デューク大学での科学的な研究で、祈りは手術から回復するための時間を加速させることにおいて有効であることを確認した。しかし、自己暗示と祈りの効果の関係に就いて、関連付けるものは殆どない。

 ヨギによる自己暗示の実践は、高次の力即ち至高の存在に対して訴えかけることはない。祈りはしばしば無力感或いは疑い・絶望・恐怖・後悔・罪または無価値だとの思いすら暗示している。このように、それは暗示作用の力自体を損なっているかもしれない。自己暗示のように祈りは疑いの痕跡すらなく表現された時に最も効果的なのだ。こうした理由から、完全な信心或いは確信すら込めて、神は最善のことをなし給うと祈りなさいという説教師の訓戒は、祈る者を潜在意識への疑いの影響から守ってくれる。

マントラ
 自己暗示は潜在意識のレベルで働き、あなたの人生を困難なものにする多くの悪い癖と否定的な想念を取り除く手助けとなることができる。しかし、我々を超意識レベルに結び付けるマントラのような霊的修行法があり、それはあなた自身をハイアーセルフの「意志」に沿って調整することができる。私が「超意識」というのは、五感や記憶を使わずに知識を得る能力を意味している。「霊的な」というのは、時空を超越し、一定で決して変化することのない存在の次元を意味している。それは形がなく限界もない。それは純粋な意識だ。それはあなたが存在する基盤だ。すべての想念と出来事はその究極の源泉と目的地をそこに持つ。

 祈りとは違い、マントラは祈願ではない。主あるいは「それ」自体を除き何も求めない。そうしてマントラは、肉体とマインドの複合体と、そこに内在するすべての動きと自身を同一視する性癖であるエゴの性質にしがみつくことからあなたを解き放つ助けとなる。マントラの定義は、イニシエーションの時に言及されたプロセスで、より高次の意識次元をその受領者に届ける音による伝達手段だ。

 マントラは意識の階層の間にある言語だ。それ故あなたの意識が木に成長する種子の如く、深くなると同時に広がるようそれなりの集中力と共に繰り返すことが重要だ。マントラを繰り返している間、あなたは通常の精神的な動きを停止する。通常の肉体意識において、あなたの意識は自身のアイデンティティすら五感を通して経験される現象に吸収されている。あなたが見ているもの、読んでいるもの、聞いているもの、肌に感じているものに占有されている。白昼夢を含む通常の夢の状態では、あなたの意識はやはり制限され、期待・欲望・判断のような記憶と想像の中に吸収されている。マントラ行の恩恵を得る為にはそれ故、通常の心の働きを突き抜けて霊的な次元に到達するよう、マントラの音または発音に集中する必要がある。もしあなたがマントラのイニシエーションを受けた時経験した神聖でより高次の意識状態を思い起すことができれば、その恩恵は更に大きなものになる。その意識状態とは、広大な静けさと、存在・愛・安らぎ・静寂のエネルギーが満ちたものだ。

 ヨーガの目的は不幸の原因を弱め、真我実現つまりサマーディに励むことだ。とパタンジャリはYSⅡ章2節で述べている。彼が言うには、不幸の原因は、我々の真のアイデンティティに対する無知にある。ここから他の苦悩、即ち不幸の原因が発生する。それらはエゴイズム・執着・憎しみ・死の恐怖だ(YSⅡ章 3-9)。「私は誰なのか?」との問いかけに対する答えは、あなたが自身を肉体・個性・想念・感情・過去と同一視することをより少なくし、観察する意識に留まることが多くなるにつれて進化する。あなたのアイデンティティが進化するにつれてあなたの神に対する概念も進化する。ヨーガの修練はあなた自身のアイデンティティにおいて、私はこの肉体だ、母だ、父だ、専門家だ、男性だ、女性だ、あのチームのファンだ、あの政党のメンバーだ、寒い、空腹だといったことから、単に私は存在するという処まで進化する。あなたは見られるものではなく、見る者即ち真我と自身を同一視する。あなたのアイデンティティは決して変化することのない「それ」になる。あなたはますますすべてのものとの一体感を感じるようになる。私はすべての内にあり、すべてが自分の内にあるということが経験される。あなたのアイデンティティがそのように進化するにつれエゴに付随する執着や欲望、憎しみや恐れが苦悩の原因だと知り、あなたはそれらを手放すことを学ぶ。

 通常の自己中心的な意識状態において神は、自身の欲望を満たしたり、恐れていることを回避したりする助けとなる存在と見られている。祈りはこうした願望を伝える手段だ。しかしあなたの目的が最早エゴの実現を満足させようとすることではなくなり、むしろこれらのエゴを超越して自身を真我と同一視すること、エゴを手放すこと、目撃者として留まること、そして単に自身の義務を果たし、より高次の意識状態に留まることを可能とする道を歩むことになった場合、あなたの神との関係は変わる。瞑想が祈りに取って代わる。神との霊的な交流を求めること、あるいは導きや叡智を求めることが嘆願的な祈りの代わりになる。神が自身を愛し、導いてくれることを信頼する。それ故あなたは内に向かうことで神の叡智と導きに耳を傾けることを求める。

私は神とどんな関係にあるのか?
 これは神学即ち神・魂・世界の関係に関する研究のテーマだ。彼らの現実に対する信仰は有神論と呼ばれる。こうした区別は現実ではなく幻影で、しばしばインドのヴェーダーンタの文献の中でブラフマーと呼ばれる唯一のものが存在するという信仰は一元論と呼ばれる。前者が二元論であり、西洋の諸宗教、ヨーガ、タントラ、シャイヴィズム・ヴァイシュナヴィズム・シャクティズムなど主要なヒンドゥー各派によって奉じられている。後者は非二元論で、アドヴァイタ(不二一元論)と呼ばれ、十の主要なヒンドゥーの放擲者の団体即ちダサミによって奉じられ、それらはアディ・シャンカラやラマナマハルシ、そして増え続けている西洋人の諸団体によって設立された。これらの非二元の伝統においては、仏教におけるのと同様、神・魂・世界は幻影だとされる。

 パタンジャリはヨーガスートラ(1-24)(以下、YS)の中で、上記の質問に対し明確に答えている。「イシュヴァラは神我であり、苦しみ・行為・行為の結果・欲望に影響を受けない」。そして、その前の節において、この関係に就いての目的を告げる。「或いは神への献身によって(サマーディに達する)」(1-23)。

 サーンキャ哲学、多くのヴェーダーンタ、仏教とはことなり、パタンジャリのYSに表された古典ヨーガはイシュヴァラという神の存在を肯定する。この神は創造神ではない。宇宙・生命・人間はプラクリティ即ち「大自然」によって根源的な物質から創造される。しかし、イシュヴァラはサマーディを達成するまでのプロセスを早めることができる。それゆえイシュヴァラはヨギの神なのだ。イシュヴァラはヨギだけの手助けの為、来ることができる、つまりヨーガを自分の道として既に選んだ人たちだ。一方でイシュヴァラの役割は比較的小さい。彼を集中の対象として選んだヨギにサマーディをもたらすことができる。ギーターの中でクリシュナは似たようなことを言明し、アルジュナに対し、「私」のみに集中するよう熱心に説いている。YS第2章45節でも再確認されている上記(1-23節)の通り、この神の手助けは願望や感情の効果ではなく、というのも神は願望も感情も持つことができないからだが、主イシュヴァラと魂であるプルシャの間の超自然的な共感の効果だとパタンジャリは告げる。要するに、イシュヴァラは原初から自由で苦悩の原因に決して影響されたことのないプルシャなのだ。賢人ヴィヤーサはこの説に関して、次のようにコメントしている。即ち、神は祭儀・献身・神の慈悲に対する信頼によって呼び出さるのではない、彼の精髄・意識がヨーガを通じて解放されることを求める我々の真我と協力するのだと。それゆえこの関係は、存在のもつれた幻影の網から多くのプルシャを救い出す為に協力しようとの大自然の目的或いはデザインから生まれた一種の同情である。

 しかしYSで最も重要なことは、技法と、ヨギの自己統制並びに集中力に対する意志と能力だ。それにも拘わらずなぜパタンジャリはイシュヴァラを登場させる必要性を感じたのかとの疑問をあなたは持つかも知れない。その答えは、イシュヴァラは経験に基づく現実に合致しているからだ。つまり、イシュヴァラはヨギが完全な明け渡し、イシュヴァラ・プラニダーナ、つまりイシュヴァラへの献身を実践すると、イシュヴァラは事実サマーディをもたらすことができるからだ(YS2-45)。

 古典的な伝統によってその効果が確認されたヨーガのすべての技法を集め、分類したことにより、イシュヴァラに対する集中という単一のプロセスによって可能となる経験(それはギーターでも肯定された)をパタンジャリは無視することができなかった。換言すれば、エリアーデ(Milcea Eliade)の指摘の通り、「意志と修行者の個人的な能力以外何も求めない純粋に神秘的なヨーガの伝統と並んで、もう一つの神秘的な伝統があり、そこにおいてヨーガの修練は少なくも献身によって容易になる。但しその献身は、極度に浄められ、極度に知的なものでなければならない。やはりイシュヴァラはヨギの唯一の原型なのだ。イシュヴァラは時の制限を受けないがゆえに、太古の教師にとってさえ教師である。(YS1-26)」

ヨーガの達人の教え、ヨーガ・シッダーンタによると、私と神の関係は何か?
 ティルマンディラムの中で表現された通り、シッダーンタは、神に対するあなたの概念はあなたの心理的なアイデンティティが進化するにつれて進化すると教える。この関係は次の段階を含む。

チャリヤー:僕、神を求め、奉仕し、神を求めている人々との交際を始める。
クリヤー:友、神に到る道を見出し、神に親しみ、儀式・修練などの祭祀を行う。
ヨーガ:息子または娘、神の性質を表し始めたヨギ。
ジニャーナ:ワンネス即ち一者・永遠・至福に満ちた者・シヴァとの合一の知識を
持つ哲人・賢人・シッダ・完成者

 これらの関係はすべて恩寵に対する希求と、無知・エゴイズム・カルマ・錯覚即ちマーヤーといった汚れや不純物を浄化し続けることを含む。これらは、遠くにある山を見ている(チャリヤー)、そして山に登る道を見出す(クリヤー)、次に高く上るにつれて山に親しみ(ヨーガ)、最終的に山頂に到達する(ジニャーナ)までの変化として比喩的に表現される。神即ち真理の探究者は神を、遠く離れ、知ることが出来ないものとして見るが、霊性向上の道を見出し、その修行法に集中し、最終的に「それ」との合一を悟る。これは人が神を自分自身以外のものとして考え、究極的には自己のエッセンス、「意識のエネルギー」、シヴァシャクティだと考える一元論の説明だ。ティルマンディラムは浄化の段階を通じて神の恩寵が前進的に降下することに言及している。

 ティルマンディラムは神の五つの機能、即ち創造・維持・破壊・秘匿(曖昧化)・恩寵について記述する。これらはカルマと同じく、36のタットヴァ即ち自然の原理に従い、神のシャクティ(力)を通して顕現される。

 恩寵は神の五つの機能すべてと、最終的には我々の個人的な生活の中で創造され、維持され、破壊され、曖昧化されたこと、慈悲を感じることすべてに浸透している。我々が時々刻々これを理解し、これに感謝出来る時、我々の苦悩は直ちに終わり、神の尊顔を見る。

 神の恩寵は魂をゆっくりと俗世から解放しながら、そして叡智と真我の知識のより偉大な光を表しながら霊的な体験の梯子を上るように導くものだとシッダは教えている。恩寵とは神の慈悲だ。カルマとは異なり、それは人々の行為の美点や欠点に依存するものではない。それは「真善美」を求める魂の希求に対する神の回答だ。

神の宇宙的な姿は誰も理解できない
しかし、五大要素からなる肉体に
水に溶け込んだミルクの如く神は見事に浸透し
驚くべき至福を私は飽くことなく経験するようになった。
ティルマンディラム450節

 曖昧化が続く限り、内なる神の存在を悟ることはできない。しかし神の恩寵を通じ、肉体と心よりなる個性に対する執着に背を向けて汚れを浄化するにつれ、人は霊的な経験をし始める。こうした体験とそこで与えられる至福から、人は内にあって結びついている神に対し、ますます向き合うようになる。究極的な至福は神の恩寵によって見出される。

 シッダ達は決してヒンドゥーの諸神を崇めなかったし、寺院での礼拝という中途半端な妥協すら推奨しなかった。彼らは最も正確な言葉の意味において過激であり、すべての者に対し、内なる神を求め、「それ」を顕現するよう奨励した。彼らの偉大な格言は、「神は愛なり」、「ジ―ヴァ(個我)はシヴァへと変わり、それらは二つのものではない」を含んでいた。神に対する彼らのお気に入りの概念はヴェッタヴェリ即ち「広大な光に満ちた空間」だった。

ババジのクリヤーヨーガはグルヨーガである
 ヨーガの伝統の中で「グルと神と真我は一つだ」というのは偉大な格言即ちマハーヴァーキャだ。それは、ヨガナンダとヨーギラマイアの偉大さを一瞥して以来私が個人的に奉じて来た言葉だ。シッダ・ティルムラルの詩を聞いた時、それは私の中で水晶のように明らかになった。

無知な者は愛とシヴァは別のものだと言う
愛はシヴァなりということを知らない
一たび愛はシヴァなりと悟れば
愛はシヴァとしてそこに留まる
ティルマンディラム270

 私がババジのクリヤーヨーガの修行と、タミール地方のクリヤーヨーガの教義、即ち18人のタミールヨーガのシッダの教えを分かち合うというババジの使命の為に自身を捧げた時、それは私の人生の指針となった。私がババジのマントラ、「オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム」を繰り返す時いつも、それを思い出す。

 ヨーガのシッダたちは自分達のグルを崇拝した。彼らの書物の中ではどこにおいても、如何なる神も賞賛しないし、寺院の中のより小さな神も崇拝しない。というのも、彼らは自分達をシヴァ即ち至高の存在であると悟っていたからだ。彼らのヨーガはグルヨーガだ。彼らの詩は概して自分達のグルへの挨拶で始まる。これは、彼らがグルの愛の中で神を経験したからだ。彼らはグルの愛の力を経験し、その見返りとして愛と神聖な行為までも現わすことによって答えた。私が「私の存在と喜びを絶対的かつ完全にクリヤーババジに明け渡します」との誓いの言葉を最初に口にした日から、この愛と、それが私を通してどのように働いて来たかを証言できる。過去の50年間は、すべての者に内在するババジに対するこの愛と明け渡しを表現する一つの継続したカルマヨーガの期間だった。

 グルという言葉は文字通り闇を駆逐する者を意味する。「グ」は闇、「ル」は光を意味する。闇とは無知の暗喩だ。無知とは、永遠でないものから永遠のものを、歓びの源から苦悩の源を、真我からエゴに縛られた人間性を識別する能力の欠如だ。従ってグルとは、如何に無知の闇を取り除き、叡智を実現するかを我々に示すものだ。無知のヴェールが取り除かれると愛が内側よりそして外側に全能の光のように輝く。グルは人間ではない。グルとは、それによって真理・愛・善・叡智が表されるタットヴァ即ち自然の原理だ。それは、自然の背後にある「真理」を深く見ることを可能にするあらゆるものを通じて明らかになるかもしれず、エゴイズム・幻影・カルマの汚れを浄化する。それは書物・赤ちゃんの眼・日の出・霊的体験・マントラを通して明らかになるかも知れない。それがある人物を通じて絶えず明らかになる時、我々はその人物をグルと呼ぶが、グルであるのはその人物ではなく、その人物を通じて顕される教え・叡智・愛であることを忘れてはならない。その人物は単なる郵便配達人なのだ。これを忘れずにいることで、その人物の人間的な限界が表された時に生じる混乱を避けることができる。

 グルの原理はまた、我々が無知から叡智へ、エゴイズムから真我実現に向かう為に必要なすべての生き物を我々の内と外の世界において大自然が創造し、維持し、破壊する法則だ。それは宇宙が創造される前から存在し、それ故時空を超越している。グルの原理は内なる真我としてすべてのものの内に存在する、それ故我々が外部のグルに敬意を表すとき、自身の真我にも敬意を表すことになる。それは非個人的なシャクティ、即ちサーダナを最大限拡張するために必要なすべてを創造する本能的な力だ。それは常に利用可能なので、外部のグルより強力だ。

 グルという言葉は、「グナ」という言葉に関係付けても説明できる。グナとは大自然(プラクリティ)が我々を物理的・感情的・精神的に動かす、タマス(不活性・疲労・落胆・疑念)、ラジャス(活動・勇気・計画・執行)、サットヴァ(バランス・平衡・明晰)の三つの傾向・モード・構成要素・性質を意味する。従ってグルとは、我々が如何にグナへの依存から自由になるかを示すものだ。シッダたちはそれを行なう彼らの使命をアルパダイと呼んだ。それは真我実現への道を示すことだ。パタンジャリはヨーガスートラの中でこの解放をカイヴァリヤ即ち「見られるものから自由になること」と呼ぶ。(YSⅡ-25、Ⅲ-50、Ⅳ-26,32,4)そして最後の節で次のように述べる。

 こうして、グナが真我に奉仕するという目的を果たし、プラクリティへ溶け込み、完全なる自由という最高の状態が現れる。言い換えれば、純粋意識の力が自らの純粋な本性に落ち着く。

ババジを求め、ババジになりなさい
 我々一人ひとりは進歩の途上にある作品だ。個人的にも全体的にも、修行即ちヨーガの訓練に従事する修行者として、人間的な性質やエゴを抑制すると同時に潜在的な能力と意識であるクンダリニーを表そうとしている。しかしこのプロセスの結果として生じる変容は、修行者のマインドと精神が魂あるいは霊にその忠誠を向け、エゴから離れる程度に依存するだろう。

 エゴはそれ自体を浄化できない。それができるのはエゴの顕れに影響されていないハイアーセルフまたは魂だ。しかし、如何にして我々の意識の前面にそれを持ってくるのか? エゴに対してその影響力をどのように働かせるのか? ババジのクリヤーヨーガにおける五重の道は間違いなく、潜在意識を浄化し、必要な集中力を開発し、肯定的な心のイメージを創り出し、叡智を見出すための知性を開発する手助けとなる多くの技法を提供する。しかし、我々の魂、即ち心霊的存在は、修行者が内に集中し、内在し且つ超越している神秘的な光、神の甘美な臨在、「真善美」を見出さない限り、それまでマインド・感情・感覚のヴェールの背後に隠れている。グルと神と真我は一つのものだ。第一イニシエーションには、クリヤーヨーガのグルであるババジと交信する技法がある。このババジと交信する技法は、魂・ハイアーセルフ即ちシュリ・オーロビンドのいう心霊的存在が、次第に頻繁にエゴイズムのヴェールの背後から現れることを可能にし、最終的にはそれと完全に同一化する。我々の魂との完全な同一化は通常長期間にわたるサーダナの後に初めて実現する。この同一化の特徴は、すべての状況で生じている非常に大きな歓喜だ。

 その者は不死即ち永遠であると感じる。神の甘美な臨在を感じる。

 しかし一方でハイアーセルフ即ち魂の長期にわたる浄化と、自身をそれと同一視する作業が完成するまで、修行者は繰り返し内に向かい、集中し、その指令に耳を傾け、そして従わなければならない。それは人の性格の中で浄化する必要のあるすべてを現わすだろう。それは改善するか削除すべき(性格の)すべての上に光を当てる。あなたが(本来)持つ真の主権があなたを待っている。単にマインドフル(気付いている状態)であるだけでは十分ではない。至高神の僕になろうとの望みを持ちなさい。怒り・プライド・嫉妬心を現わすことに抵抗し、怖れ・欲望・古い否定的な習慣を手放すため、あなたの内なる神に集中し、求めなさい。あらゆる時、あらゆる場所で神に対する愛と献身と共に親切心を現わし、落ち着いて役立つ行動をし、神の道具となることを求めなさい。すべての者の内に神の美しい顔を見なさい。愛と喜びと共にあなたのハートを高鳴らせなさい。あなたのマインドと生気体が静まるにつれてあなたの魂は前面に現れ、あなたの人生を導くだろう。
以上









聖なる錬金術

2020-04-21 10:42:14 | スピリチュアル
シッダーンタに照らしたクンダリニーヨーガの聖なる錬金術

KYJ 2020 Spring

Bt M.G.Satchidananda


 私の師ヨーギラマイアはしばしば、ババジのクリヤーヨーガの目標は存在の五つの象限における完全な明け渡しであり、クンダリニープラーナヤーマの実践がそれを達成するための最も効果的な手段だと繰り返し話した。この教えは、ティルマンディラムを含むヨーガのシッダたちの文献を通じて繰り返し述べられている。しかしながら、その意味を秘儀に参入していない者に対して隠すため、つまりそれを誤って用いることがないよう、故意に隠喩で表現されている。ババジのクリヤーヨーガのイニシエーション受講者がその修練の重要性をより深く理解するための手助けとして、彼らの文献に対する広範な翻訳書と註釈書を出版した。シッダヨーガの究極の目標であるシッダーンタとして集合的に知られている彼らの教えに関する研究は、あなたのサーダナの問題を明らかにするだろう。

供犠の新たな意味
 ヨーガのルーツはヴェーダの供犠の火による儀式だ。それは神の祝福を招き寄せるため、寺院において世襲の僧侶によって今日まで行われている。しかしそれは、通常物質的な目的の為に行われる。ヨーガのシッダたちはそのような物質的な目的が我々の気持ちを究極の霊的目標からそらすべきではないということを、思い起こさせるよう努めた。

貴重な富を与え給う神を求めよ
それは悪をすべての他の富に変える
彼らが行う供犠がもたらすものは
計り知れない富、至福への憧れ

ティルマンディラム220

 このティルマンディラムの詩にDr.K.R.アルムガムは次のようなコメントを書いている。「ヴェーダと聖典の教えのエッセンスは一つの至高の存在を認識することと、魂によって神の恩寵を求めることだ。この教えは、人が霊性の意味を理解するようになるにつれ、神が表した貴重な富だ。しかし人はこの教えを無視し、物質的な富を求め、その欲望は人を輪廻に束縛する。悟った者は最高の至福をもたらすシヴァ神の恩寵という計り知れない富を求める。彼らの供犠はこの目的に献じられる。」 

 この目的のためシッダたちはクンダリニーヨーガを開発した。しかしながらそれが真の目的の為に学ばれ、利用されることを確実にするため、その実施法の詳細は個人的なイニシエーションの中で達人だけが分かち合い、書いたものは残さないことにした。しかしながら、彼らの詩の中で、それに関する記述はその形而上的な目的と効果を表現している。これらの詩はまた、神の恩寵を招く愛と献身という必要不可欠の要素も表現している。恩寵は、丁度錬金術が卑金属を金に変換するように、より高次で隠れた自然の法則を召喚することにより、下記に示す通り、通常制限されている人間の性質を変容させる。

 例えば、シッダ達が神即ち至高の存在に与えた名前であるシヴァは、彼らのインスピレーションの源泉でもあるが、ババジのクリヤーヨーガのイニシエーションを受けた者は、プラーナヤーマの修練の間、タミール語で来るを意味する「ヴァ」と、神の名である「シ」として繰り返すよう教えられる。このように繰り返すことは、(我々と神との)超越的な統合に対する最高の希求を神のもとに運ぶ。この希求の呼びかけに答えて、神の恩寵は、このプラーナヤーマの修練の間、ほどよい涼しさの降下として経験できる。

輝く炎、我らの比類なき神
最も深く我が内に住まう輝かしい炎
その炎の眼差しは七つの世界を上昇する
だがその神は涼しい炎、すべての供犠を導くもの
ティルマンディラム221

 ここでティルムラルは供犠を再定義する。我々自身や家族のために富を得ようと天界の諸神に対して供え物を儀式の火の中にくべるのではなく、クンダリニー・シャクティがすべてのチャクラに上昇するよう、内なる炎であるクンダリニーを上昇させなければならない。同様に、彼はヤグナ(供犠)を、ヨーガの内なる行為と再定義する。ティルマンディラムの337/338節を見よ。シッダの文献の中においてはどこでも、天界の諸神を称賛していない。石像や寺院の中でそれらを礼拝するのではなく、彼らはクンダリニーヨーガを内なる礼拝として理解するよう推奨している。

 ティルムラルは小さな利益と引き替えに行われる供犠は我々の視界を曇らせ、神の恩寵を求めるという真の目標を隠すことになると強調する。シヴァ神は宇宙を包みながらも超越し、至高の叡智で魂を満たす至高の炎だ。太陽と月は神の二つの眼に喩えられる。太陽は顕現されたものすべてのレベルであらゆるものを照らす至高の宇宙意識を現わす。月は個別化した意識を現わす。太陽は一つの永遠の意識だ。月は我々一人ひとりの内にある反射された意識、即ち目撃者だ。シヴァ神の第三の眼、供犠の炎は魂に輪廻転生の大洋を渡らせる至高の悟りを象徴している。その火が涼しいとき、神の恩寵は魂に降下する。

 シッダーンタは四つの段階にある前進的な道を処方している。それは、①チャリヤ:奉仕、カルマヨーガ、②クリヤー:崇拝を行う行為、当初は外面的、次に内面的なもの、③ヨーガ:ヨーガの八支分を含むが、最終的にはクンダリニーヨーガ、④ジニャーナ:叡智、である。それぞれの段階は次の段階へと進むための予備段階だ。ババジのクリヤーヨーガの求道者として、我々は個人的な利益のためだけではなく、すべての人の利益の為にヨーガの修練を行うという誓約をする。これはバクティヨーガが求道者の愛と献身を育む助けとなる第二段階の準備となる。これによって第三段階においてヨーガのサーダナを継続するのに必要な恩寵・力・動機付けを得ることが可能となる。第三段階におけるクンダリニーの覚醒は、サマーディと第四段階での叡智獲得をもたらす。上記の四つの段階はまた、並行して行うことができる。

誤認による曖昧化の克服
 シッダ達によれば、シヴァは五つの機能、即ち創造・維持・破壊・曖昧化・恩寵を持つ。それらは魂が智慧において成長し、真の自己に対する無知・エゴイズム・錯覚を克服するのに必要な経験を与えることで、その成長を促進する。恩寵はこれら五つの機能すべての中で作用するが、我々が神に向き合って恩寵を求める時、それに直接触れる。これらはチダムバラム寺院の「踊るシヴァ神」即ちナタラージャの手と足に象徴されている。

 意識は我々のすべてのレベルに浸透しているが、それは魂の三つのマーラー即ち汚れによって隠されている。それらは、アーナヴァ・マーラーと呼ばれるエゴイズムと自身を本当の自己でないものと同一視することによる真の自己に対する無知、カルマ・マーラーと呼ばれる、我々の癖と性格、過去の想念・言葉・行為による結果、マーヤー・マーラーと呼ばれるマインドの錯覚だ。この曖昧化は、恐れや怒りといった感情の不安定、精神的・知的な興奮、欲望、肉体の不快感、そして集中力の欠如・情欲・怠惰といった他の障碍などを通じて現れる。

 このクンダリニーの儀式において、プラーナが制御されるとき、スシュムナー・ナーディ(気脈)の通路が開かれ、クンダリニーがその中を上昇し、クラウンチャクラより下の六つのチャクラを貫き、そこで至高の意識であるパラシヴァと融合する。

中央のナーディの上で 内と外を経験せよ
自我(アハンカーラ)の怒りを取り除き 至福の洪水を飲み干すべし
遮られることなき静寂と共に シヴァと全く一体となり
眠りなき眠りの至福を手にせよ
踊れ蛇よ リズミカルに リズミカルに

パーンヴァティ・シッダの詩116節「踊れ、蛇よ踊れ」から

 アハンカーラとは無知から生じるエゴイズムだ。
 
 シッダ達によると、上記でいうマーラー、即ち汚れからの解放の根っこは上方にある。シッダ・パーンヴァティの詩、「踊れ、蛇よ踊れ」113節の中で描写されている通り、上方に植えられた根を引き抜いてしまった者に再生はない。

 そしてバウルという歴史的なベンガル地方の神秘主義の吟遊詩人グループの詩は、次のように謳う。

その木の根は空に埋まっており
枝は地上にある

これがクンダリニーヨーガの成り立ちを説明している。内側と上方に対する働きかけがその主たる特徴だ。プラーナヤーマがその鍵だ、なぜならそれは、我々の下に向かう精液の流れを換えて上方に向かわせるからだ。ビンドゥ即ち性的な「種」のエネルギーは、頭の中と更にその上にある最高のチャクラに関係するオージャスとして知られる霊的なエネルギーに昇華される。昇華とは精錬或いは浄化を意味する。五感による注意の拡散から離れて内に向かうことは、マインドと生気体を鎮める。丁度滓(おり)が底に沈殿した時にコップに入った水が透明になるように、意識もマインドの動きから明確に離れる。静寂の中で我々は、「それ」即ち意識のエネルギー、つまり頭頂にあるシヴァシャクティと一体になる。

 根が頭上の空にある逆さの木は、我々人間の性質とその聖なる源との関係を示す隠喩だ。我々は神によって創造された。我々の根は神だ。至高の意識であるシヴァは、シャクティ即ち原初からの創造の力を通してすべてを現わす。意識とは、ある科学者たちが証拠を上げることもなく主張しているような脳の付帯現象ではない。意識がすべてを支えている。

 クンダリニーヨーガの修練は、我々が自身を肉体とその生存・感情・欲望・創造力と同一視し、何よりも先ず生存・セックス・欲望に心を奪われている下位の心霊エネルギー・センター(チャクラ)から、愛・創造・洞察力・霊的光明を経験するより上位のチャクラにエネルギーを上昇させる。上位のチャクラが覚醒するまで、我々は完全に低次の心理的状態と自身を同一視している。プラーナヤーマに加え、上述したクリヤー・ハタ・ヨーガの18のポーズすべてをバンダ即ち筋肉の締め付けと共に練習することは、エネルギーを下位のチャクラから上位へと方向付ける。それに加えて、それらの修練は左右の気脈(ナーディ)、それぞれイダー(Ha)とピンガラ(Tha)のバランスを取る。この修練は中央のスシュムナーナーディを開く。

イダーカーラとピンガラの気脈を通し 適切に気息を流せ
相応の座法で座り 内なる気息を心地よく方向付けよ
三角のムーラダーラを経て 上方に昇らせよ
間違いなく神の御足を見るだろう それは時のない永遠
ティルマンディラム2173

三つのグナを根絶(こんぜつ)し ムーラダーラの気息を制御するもの
それを左右の気脈に交互に流す
時きたらば 定められた手法は不死をもたらす
主即ち天にまします存在の王によりて

ティルマンディラム615


 更には、それぞれのチャクラに対応するビージャ即ち種子の音節のマントラを唱えると、より低次のチャクラから高次のチャクラへとエネルギーを上昇させる結果をもたらす。それらは、対応している心理的な状態を活性化し、目覚めさせ、統合する。これは、意識はエネルギーに従い、エネルギーは意識に従うというタントラの基本的な原理を反映している。タントラとは、人間の物質的な次元と霊的次元の統合を目指す教義の体系を指す。

ラーヤヨーガ
 クンダリニーヨーガはラーヤヨーガの別名でもある。ラーヤとは溶融を意味する。人間の性質の肉体的・感情的・精神的・知的次元である、究極的には「それ」でないものと自身を同一視する誤ったエゴを溶かすということだ。それらはそれぞれ、古代の科学でいう五大元素即ち地水火風に対応する。これらは我々の、本当で永遠の霊的真我即ち五つ目の要素である空に対応する意識を曖昧化する。

 シッダが好んで使った神を表現する言葉、ヴェッタヴェリは、広大な光に満ちた空間を意味する。土を溶かすのに水が必要なように、水を蒸気に溶かすのに火が必要であり、火は燃えて風の中へ入り、風は無限の宇宙に溶け込み、我々の意識は上昇して拡張し、より高貴な存在の次元と同一化する。エゴイズム即ち我々が自身でないものと同一視する癖は意識を肉体の感覚、感情、心の空想や記憶、知的なアイデアの周囲に拘束し、それ以外のすべてを一時的に排除する。これは我々の生存や多くの限定された日々の仕事、人間関係には有効だ。しかしエゴが拡張された役割を引き受ける時、それは我々の苦悩の根本的な原因だ。

 ラーヤヨーガではエゴが誤って自己と同一視している肉体(地)を感情(水)へ、更に精神(火)へ、更に知性(風)へ、そして究極的には霊(空)へと溶け込ませる。24のタットヴァ即ち人間の性質の原理について瞑想することは、我々を真我実現と超越への戸口に運ぶ。24のタットヴァとは、上述の五大元素と、五つの感官(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)とその五つの器官、行動のための五つの器官、そして無意識・マインド・知性・エゴを指し、更には時間・欲望・カルマ・制限された知識と能力というマーヤー(錯覚)の仲介者が存在する。アーサナ(ポーズ)とバンダは肉体のエネルギーを昇華し、バクティヨーガ即ち献身行の実践は感情の座である生気体のエネルギーを昇華し、プラーナヤーマと瞑想は感情体のエネルギーを昇華し、マントラは知性体のエネルギーを昇華する。それらが総合的に作用してクンダリニーエネルギーが一番上のチャクラに上昇するとき、サマーディと呼ばれる認識作用の没入をもたらす。これが生じるにつれて恩寵の降下が促進され、内なるグルとして現れる。シュリ・オーロビンドは、これを心霊的存在と呼ぶ。それが前面に出るにつれ、それは前進的に我々を導き、変容させ、同時に我々の潜在的な能力と意識が顕れる。我々は神我実現を達成し、頭頂で自身をサット・チット・アーナンダ、即ち絶対的実在・絶対的意識・絶対的至福と同一視する。

 オーム・ナマ・シヴァヤは「犠牲の結果は至福なり」を意味する。換言すれば、あなたがすべてを明け渡す(諦める)とき、あなたはすべてを得る。霊的な道は、あなたが特別なことを何も経験せず、特別な人にもならないという準備ができた時に始まる。これは、あなたが一瞬一瞬を神への捧げものとすることだと覚えておきなさい。

以上



心霊的存在:我々の「神」への導入部 (PartI)

2019-11-22 10:10:25 | スピリチュアル
心霊的存在:我々の「神」への導入部 (PartI)


シュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの実践により、完全に開放された心霊的存在は、どのような条件のもとで超心的変容をもたらすのだろうか?この小論文はその疑問に答えようと試みるものだ。これは2017年5月3日、フロリダで開催されたシュリ・オーロビンド会議に提出された。

 心霊的存在というシュリ・オーロビンドが使う言葉の明確な理解は、インテグラル・ヨーガの実習者に必要不可欠だ。それは彼の著作物を通して見出され、彼のヨーガを他と区別する特徴だ。いずれ判るが、それは英語の魂(soul)、真我(Self)、ヒンドゥー語のアートマン、ジーヴァートマン、プルシャとも同等とは言えない。心霊的存在はすべての人のハートの中に存在するが、殆ど常に隠されていて、その働きはマインドや生気体と混じり会っている。それが意識の前面に出てくるまでは、ヨーガのサーダナにおける個人の努力は気まぐれで、これらの動きに制約される。向上心、拒絶、明け渡しという言葉に集約されるシュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの修練は、心霊的存在が意識の前面に出てくる程度に応じて進歩を遂げる。これには四つの段階がある。

心霊的存在とは何か
 シュリ・オーロビンドはしばしば比喩的に、これを「神から来る火花」として言及する。

心霊的存在は神から来る火花で、すべてのものに内在し、個人の進化につれてその内で成長し、心霊的存在として全面に現れる。魂は常に神と真理を求めていて、それがいつどこで出会うことがあろうと、神と真理に適うことを求めている。(Aurobindo 2012.105)

 しかし、シュリ・オーロビンドは英語の魂(soul)という言葉から区別し、この新たな言葉を使うことの根拠を述べる。

魂という言葉はしばしばすべての欲望とか情熱といったことと共に、生気体すら含む非肉体的意識全体を指すこともあり、英語の中では非常にあいまいに使われている。これが、自然の道具の一部からこの神聖な部分を区別できるよう、心霊的存在という言葉が使われる理由だ。(Aurobindo 2012.112)

 このようなわけで、シャイヴァ・シッダーンタのティルマンディラムとカシミール・シヴァ派の一元論の中で、神から放射されている魂のように、それは(神からの)放射なのだ。しかし心霊的存在はシュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガにおける鍵となる進化の概念でもある。(ガナパティ2012.439-471、ガナパティ2010)


我々の心霊的部分は、神から直接来て神と接触している。その起源においては、より低次のマインド、生命、肉体としての三重の顕現を助ける心霊的可能性を孕んだ核だ。この神聖な要素はすべての生き物の内にあるが、通常の意識の背後に隠れていて最初は未開発で、開発された時でも必ずしも前面には出て来ない。そして道具の不完全性が許す限りにおいて、その手段とその制約のもとで、それ自体を現わす。それは神に向かう経験によって意識の中で成長し、より気高い行動の都度我々の内で力を増し、そして最終的にこうしたより深く気高い行動が累積することで心霊的な個性が開発され、それを通常心霊的存在と呼ぶ。人が霊的な生活に向かい、そこで最大の助けとなる真の原因は、しばしば秘密裡のことではあるが、常にこの心霊的存在だ。それゆえ、これがヨーガにおいて我々が背後から前面に出さなければならないものなのだ。(Aurobindo 2012.13)

また、この心霊的存在は、ヴェーダーンタのアートマンと同等だとすることもできない。

心霊的存在と真我(アートマン)には相違がある。真我とはすべてに内在し、常に広大・自由・純粋で、無知な行動によって汚されることのないアートマンだ。その性質は、安らぎ・自由・光・広大さ・至福だ。心霊的存在は人生に降下し、転生の旅をし、経験を感じ、その上位の自由なアートマンに参加できるようになるまで、そうした経験によって成長する個別の存在だ。心霊的存在はハートセンターの裏の奥深くに隠されている。(一方)真我には特別な場所がない。それは偏在する。あなたの真我と、全ての存在の真我は同一だ。(Aurobindo 2012.106)

しかしシュリ・オーロビンドはまた、彼のヨーガ体系の中でこの英語の言葉は新しいが、フリダヤ グーヒャ、即ち「秘密のハート」という古い言葉の中に昔の前例があると念を押す。

古い哲学体系の中で心霊的存在はハートの中のプルシャ(秘密のハート)として語られたが、これは我々がハートセンターの裏にある心霊的存在として定義するものと非常に良く対応している。それはまた死ぬ時に肉体から抜け出して存続するものであるが、これもまた新たな人生を前世と結びつける為に体から去って戻ってくるものだとの教えと対応する。更に我々は、心霊的存在は我々の内なる神聖な部分だとしているが、ハートの中のプルシャも、ある文献では個人の性質を持つイシュヴァラ(至高神)として説明されている。(Aurobindo 2012.112)

それは内なる感情・生気体・肉体から構成される内なる存在の表層の動きによって覆われているため、普通理解できない。心霊的存在は、内なる神霊の影響よりも外側の力によって支配されているこれらの外部器官を通じて最も良くそれ自体を現わす。魂の道具として、内なる神として、その人間の性質に対する進化の影響は通常隠されている。その意図するところは、生命の神格化であり、その純粋さ故にその行動はこれらの内なる器官を変容させる。それは、ハートセンターの裏にある、神秘の光として知覚されるかもしれない。

心霊的存在は神と接触していて、神がより低次の性質に投影されたものであるから、我々の存在の光り輝いている部分だと言って良いかもしれない。心霊的存在はハートセンターの内部にあり、感情的な存在の裏の内深くにある。そこから、心霊的な影響に支配された時初めてこのことに気づく。(Aurobindo 2012.122-123)

自己を神に明け渡すと、エゴイズム即ちマインド・生気体・肉体を自分と同一視する習性は心霊的存在に置き換えられる。このエゴの視点の明け渡しが、後に見るように、インテグラル・ヨーガの修練の成果なのである。

心霊的存在に個性はあるが、エゴイズムはない。自身を神と統合させたとき、または完全に神に明け渡した時にエゴイズムは消える。エゴに取って代わるのは最も内なる心霊的存在だ。心霊的存在がエゴに取って代わるよう強くかつ明らかに現れるのは、神に対する愛と明け渡しを通してだ。

心霊的存在の影響、新たな進化の概念
 シュリ・オーロビンドは人間性の進化の役割(仕事)は、単に存在の霊的なレベルに到達するだけと言うことではなく、その先にある目標は「性格」を大胆かつ統合的に変容させることだと表明した。これは、光り輝く意識の力、即ちサット・チット・アーナンダ(実在・智慧・至福)の三位一体としてそれ自体を現わすが、その啓示は人類において超精神の自己肯定として達成されなければならない。我々が内なる心霊的存在に気づくようになるとき、この目標に向かい、それはシッディ(完成)を達成するサーダナ、修練を主導する。

心霊的存在は性格の中の魂で、それを通じて進化し、支援し、その影響に導かれた時には、人生のドラマの中で我々の役割を導いてくれると言える。シュリ・オーロビンドは、ギーターのような古い聖典の中で取り上げられたことのない新たな進化の概念だと告げる。

 心霊的存在は進化する、従ってそれは不変ではない。心霊的存在はとりわけ現象界で、個人のプラクリティを進化させ、進化の役割を演じる個人の魂だ。それが無知のプラクリティを叡智のプラクリティに変容できるまで、マインド・生気体・肉体の背後で心霊的存在として成長するのが、この神の火花だ。こうしたことはギーターには書かれていないが、ギーターに指摘(されていないとの理由)で、我々の知識を制限してはならない。

 心霊的存在は、創造された存在が進化するにつれて明らかになる成長していく魂の意識だ。最初のうち、魂はベールに覆われた本質的なものだが、全面に出てはいない。前面にあるのは、肉体・生命・マインドだけだ。進化の過程で、魂の意識はそれが前面に出てマインド・生命・肉体を完全に統御できるよう開発されるまで、創造された存在の中でますます進化していく。(Aurobindo 2012.118-119)

内なる存在、内なるマインド、内なる生気体、内なる肉体に対するその明らかな兆候がある。

愛・同情・親切心・バクティ・至福といったものは心霊的存在の性質だ。なぜなら心霊的存在は神の意識から作られていて、我々の内なる神聖な部分だからだ。しかし低次の部分は未だ心霊的存在の影響と統制の影響に従い、それを重んじるのに慣れていない、というのも人間の肉体と生気体は自分自身の為に行動するのに慣れていて、魂が何を望んでいるのかに関心がないからだ。それらが心霊的存在に関心をもち、従う時、それが回心だ。(彼らは)心霊的即ち神聖な性格を自身に身に付け始める。(Aurobindo 2012.122)

マインド・感情・感官の動きを単に目撃している真我、アートマンとは異なり、心霊的存在はそれらの動きに影響を及ぼすことができる。心霊的存在によって影響を受けるマインド・生気体・肉体それぞれの部分は、心霊的感情・心霊的生気体・心霊的肉体として引用されている。この影響は性格即ち各個人の進化の度合いに相応し得る。それは小さかったり大きかったり、弱かったり強かったり、覆われていて不活発だったり卓越して行動的だったりする。(Aurobindo 2012.108)

 これらの部分は、その限られた目的・性質・傾向に従うかもしれないし、心霊的存在の誘因と目的を、修正がある場合も無い場合でも、受容するかもしれない。

向上心・拒絶・明け渡し:インテグラル・ヨーガのメソッド
心霊的存在の発達について議論する前に、我々はまずインテグラル・ヨーガの修練を理解する必要がある。この章において私は、シュリ・オーロビンド国際教育センターの責任者で、私も2009年にインタビューしたことのある故J.K.ムカージーが著した「インテグラル・ヨーガの修練」から広範に引用する。この本の序文を書いたA.S.ダラール氏の言葉には、「この作品はシュリ・オーロビンドとマザーによって提起された通り、統合的な変容のためのヨーガの効率的な修練に関する総合的な論文だ。」とある。それは、彼らのまったく異なる文書に基づき、またムカージー氏自身の55年に亘る経験に照らして、彼らの修練方を初めて要約したものだ。

向上心について
 シュリ・オーロビンドとマザーのインテグラル・ヨーガは、これら二つの声明に要約することができる。(1)サーダカ(修行者)の側からは、着々と増していく熱心な向上心と、(2)神の側からは、サーダカの求めに応じて上方から下降する恩寵。しかし、この向上心とは何なのか? それは欲望とどこが違うのか? シュリ・オーロビンドは向上心を、「霊的な熱狂、魂の探究の絶頂と情熱・・・我々の存在の心霊的部分を通じて、善・純粋さ・美であるすべてに向かう我々の意識の上方へ向かう動き。」と定義する。マザーはそれを「新たで知られず、完全なるものに向かう内なる情熱・・・神の力・神の調和・神の愛に触れようとする憧れ・切望・・・内なる炎、光の要求・・・存在のすべてを捉える光り輝く情熱・・・純化に向けた意思、常に向上し続けようとする衝動」と説明する。(ムカージー 2003.42-43)

いかに向上心を開発するか? ムカージーはここに要約されている六つの段階の特徴を述べる。第一段階において向上心は人間的な性質の習慣に対する強い不満から始まる。あなたはある朝目を覚まし、わけも知らずに行動し、わけも知らずに物事を感じ、自分の意思に反した生き方をし、何も理解しないまま習慣・ルーティン・反発によって生活するような無意識的で無知な生き方をこれ以上続けたくないということに突然気付くかもしれない。もはやこれ以上そうしたことに満足できない。個人がこの不満にどのように対応するかは様々だ。大部分の者にとってそれは(単に)知るための必要性であり、それ以外の者にとってはその意味を見出すのに求められることを行う必要性だ。

 第二段階において求道者は、真理・愛・安らぎ・歓び・存在について探究することでこの虚ろな人間的な存在から逃れようと熱心に求める。これらはおそらくまだとても漠然としているが、求道者は現在のぞっとするような不完全な状態から自由になる方法を見出そうとして追い込まれる。

 第三段階では、時間をおいて、求道者の弛まぬ努力により、神の恩寵は無知のベールに一時的に穴を開けることに応じ、人生の霊的な次元を経験する。その人の能力と性向(宗教心)に応じて、「光」を見、神の愛を感じ、あるいは神の至福・臨在・真理を経験する。それは人ごとに異なるかもしれないが、通常の生活で経験した他のすべては、その経験との比較において色褪せる。

 第四段階では、無知のベールの穴は塞がるかもしれない。従ってそのことを忘れたり、疑ったりしてはならず、むしろその記憶を鮮明に保ち、絶えず自身の向上心をそれが再び起こるように向けなければならない。

 第五段階でサーダカは、より高次の生活に対する興味が徐々に増し、以前のより低次の生活に対する執着が消えて行くことに気づく。これは内面的な感情や生気体での次元のみならず、友人・仕事・過去といった外面的な部分でも明らかになる。あらたな種類の憧れと決意がハートとマインドを満たすが、それは次のようなものだ。「神よ、私はあなたを、それもあなただけを欲します。あなたを通して、そしてあなたの為以外何も、誰をも欲しません。私のすべてはあなたのものであることを欲し、(こうした)意識に反するいかなるものも認めません。私のすべてをあなたに捧げます。私の意思ではなく、あなたの御心がなされますように。私はあなただけのものです。」

 第六段階で、向上心は強烈になるので、言葉と祈りは、声に出すものであれ心の中のものであれ、必要もなければ望まれることすらない。深遠な静寂の背景の中に、霊的な炎だけが着実に燃え上がっている。神の一部になり、神と統合し、完全な道具として神に仕えたいとの強烈な熱望が修行者の意識全体を包み込む。それは「愛と真理」・変容・至高の完成を求める偉大な渇望だ。(ムカージー 2003.45-46)

拒絶について
 より低次の人間的性質にまだ支配されている間、修行者は進歩に向かって個人的に努力しなければならない。この努力は、上記の向上心と拒絶、そして明け渡しの三つの実践から構成される。シッダたち、そして最近ではシュリ・オーロビンドが主張するには、ヨーガのサーダカはより低次の性質のすべての習慣的な動きを放棄しなければならない。これに含まれるのは、マインドの意見・好み・癖・解釈・空想、生命体の性質としての欲望・欲求・切望・熱情・利己主義・プライド・横柄さ・欲情・貪欲・嫉妬・羨望・真理に対する敵意、そして肉体的性質としての愚かさ・疑念・不信仰・優柔不断・頑固・吝嗇・怠惰・ものぐさ・そして変化に対する消極性だ。

最終目標は、人間の存在全体・意識・性質の全体的で神聖な変容だ。修行者を神の方向に専念させることのない、意識の中から生じるすべてのエゴ中心の衝動と動きは、この道においては障碍だ。シュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガを実践しようと望む者のサーダナは、人生の中の絶え間ない障碍物の流れに対する普段のやっかいな反応に対して(適切に)対応することを含んでいる。それらを特定し、取り除くことがヨギにとって拒絶のサーダナとなる。それは三つに分類され、それぞれに異なる対処法がある。障碍物の三つの分類は、過去・現在・未来だ。

 過去において既にサーダカが克服したタイプの障碍だが、怠惰なために今も出勝ちなものについて修行者は、(1)それが顔を出した瞬間、袖に付いたゴミのように摘み取る。(2)それについてくよくよ考えない。(3)できる限り注意を払わない。(4)それについて考えたとしても、無関心で平然としている。(ムカージー 2003.55)

 障碍の二番目のカテゴリーは現在のもので、しばしばサーダカの意識の中に現れ、時として意識がそれに制圧されてしまうことすらある。しかし誠実に努力することによってサーダカは意識の一部をその影響から解き放つ力を発見するだろう。この種の障碍を扱うため、サーダカは次の態度で臨むべきだ。
(1)衝動に抵抗するために意志の力を用いる。(2)それが生じたことを決して正当化せずに、むしろそれが現れたことに対するすべての内なる承認を撤回する。(3)限られた程度であったにせよ決して譲歩しない。(4)上昇する光の力のため、暗黒に導く傾向に立ち向かう英雄的な戦士のように振舞う。(5)自身の性質のこれらの弱さと衝動が破壊され、取り除かれるよう神に対し熱心に祈る。(ムカージー 2003.55-56)

 心の奥深く隠された潜在的な弱点である内なる障害の第三のカテゴリーを如何に認識するのか?それが最初に現れた時、サーダカの存在の殆どすべてが異常に混乱し、興奮する。その障碍の根はとても深く、広がっているのでサーダカは、それが自身の存在の内在的で引き抜くことの出来ない部分だと感じ、これらの弱点が基本的に好ましくないものであることにまったく納得しない。それが現れるとサーダカは、あたかも嵐の中に居るように意識の明晰さを一時的に失う。サーダカの意識の大部分はまだこれらの現れて来る弱点に深く惑わされ、それらを現わすことで盲目的にその強烈な欲望を満たすことを望む。十分な準備が整わない内に、そうした弱点を自力で根絶しようとすることは向こう見ずだろう。それが外部に現れることを抑圧することは極めて危険であり、頑固にそれにしがみつくサーダカの性質の大部分との間で内なる葛藤に導く。爆発は避けられず、存在のバランスを損なうことになる。従って求道者はこうした手に負えない困難を出来る限り避けるべきであり、そうしたことが少しでも現れてしまうことを避けるべきだ。むしろこうした問題へのアプローチは、

(1)恐れたりそれと自分とを同一視したりすることなく、その問題や弱点を意識しておく。(2)注意深くその原因や源泉を探る。(3)自分の性質のどの部分が、この特定の弱点に対する情熱を密かに育み、僅かの招きで(自分を)混乱に中に放り込んでしまうのかを見つけ出す。(4)仮に自身の醜い面が曝け出されたとしても、上記の観察を通して冷静で静かな無執着を維持する。(5)大母神に対し、その恩寵が積極的に介在することで、これらの深く根差して困難な弱点がその有害性を断ち、容易に向き合って克服できるようにするため、その性質がまったく無害になることを真摯に祈り、サーダカはこの問題となっている弱点を根絶できるよう誠実な望みをハートの中に保ち続けなければならない。・・・そのような祈りと望みが、徹底した自己吟味と相まって、こうした手に負えない障碍を最初は二番目のカテゴリーの対処可能な障碍に変え、そして最終的には容易に切り離すことのできる過去の障碍へと前進的に変えるだろう。(ムカージー 2003.59-60)

次号に続く






神のヴィジョン

2019-08-09 10:40:59 | スピリチュアル

KYJ 2019 Summer
M.G.サッチダナンダ


 あなたは一瞬であれ、シヴァ神(以下、シヴァ)、あるいは(悟りを開いた)覚者の眼で世界を見ることができますか? あなたのマインドを神の視点で見続けるようにする高次の再訓練法がここにあります。それを繰り返すことで、あなたは一種の悟りを開いた状態の強力な記憶力、または「真理」の潜在印象を引き出すことでしょう。

 修練:眼を閉じ、次の瞬間、あなたの肉体が完全に空っぽであると想像しなさい。視覚化すべき何物もありません。単に内なる空間を凝視しなさい。
 再び眼を開けてこれを読み始めたとき、あなたが見るものまたは経験すること全てはあなたの気付きの内側で生じていることを認識しなさい。そして、それゆえ、全てはあなたの内にあり、あなたは全てです。「すべては私の中にある」との考えを認識しながら、あなたの気付きが外に向かってますます拡張するのにまかせなさい。
 「あなたが全ての内にあると認識する時、肉体への執着は消え、歓びと至福が湧き上がる」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 104節)
 見るもの、見られるもの、見る行為はあなたの内にあり、(そこから)全ての生活が始まると認識しなさい。
 「すべての存在の意識をあなた自身のものと感じなさい」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 107節)
 この認識に伴って真実の思いやりが生じます。これは単なる他人の経験に対する感情移入ではありません。あなた自身の気付きの中に他者が感じていることを感じるのです。それは記憶、言葉、表情とは関係なく、「私は存在する」(という認識)、純粋な存在感から湧き起こるのです。
 完全な実在、シヴァの無限の精妙さについて瞑想しなさい。あらゆる場所にあり、光り輝き、それ自身をあらゆるものに変容させることができ、全てを知り、あらゆる行為を行う無限の気付きについて考えなさい。創造し、維持し、破壊し、曖昧化し、顕す神の力について熟考しなさい。この五つの神に帰すべき力が、あなたのうちにも顕現していると熟考しなさい。
 「シヴァは偏在し、全能で、全知だ。汝はシヴァの属性を持つがゆえにシヴァと同類だ。自身の内の神性を認識せよ。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 109節)

あなたと同様、シヴァがあなたの内に住んでいることを認識しなさい。それが刻一刻あらゆるものになり、あらゆる場所、あらゆるものの内に、そしてすべてに浸透していると認識しなさい。今、存在と変化の自身の気付きに同調しなさい。エゴと肉体を超えて存在する「私」がシヴァです。私のマインドはその偉大なマインドと共にあります。私は「それ」です。私はシヴァです。
 「波が大洋から起こってはその中に消え行き、炎が火から燃え上がっては消え、太陽の光線が来ては去るように、宇宙に存在するすべては顕れては私の中に消え去る。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 110節)
 周囲を見渡しなさい。あなたの意識がすべてを感じ、見、聞き、触れ、嗅ぐのにまかせなさい。そのすべてはシヴァのようにあなたの内に湧き起こります。これまで、あなたのニューロンのプログラムはあたなと宇宙の分離を作り上げてきました。いつの日か、シャクティがスイッチを切り変え、分離した自己はフィクションであることをあなたに示します。あなたがその神の意識のユニークな表現として生きる間、それでも、あなたは無限の真我であり、それが創造するすべてはあなたの内にあります。
 「想念が一つの対象物に引き付けられたとき、このエネルギーを利用しなさい。その対象物を超え、そこであなたの想念をこの空っぽで光り輝く空間にとどめなさい。(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 129節)
 これは最初眼を閉じて行いなさい。それが感覚であれ、想念であれ、呼吸であれ、感情であれ、マインドが留まろうとするものから引き離しなさい。それらが消えて行くのに任せなさい。支援なしでマインドを留まらせ、それ自体が決して落ち着くことはなく、あちらこちらに動き回る単一のエネルギー体であることに気付きなさい。
 あなたのマインドを自由にしなさい。
 「バイラ―ヴァはあなたの輝く意識と共にある。バイラ―ヴァの歌を歌い、人はシヴァになる。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 130節)
 この最後の瞑想は、エネルギー、つまりあなたの経験するすべてのものを現わすシャクティへの集中を必然的に含みます。その素晴らしさはすべての源である絶対的な存在、意識、至福を経験することにあります。経験の内にあるエネルギーに集中し、その周囲にマインドが作り出す状況を手放すことで、経験する対象物すべては、シッダたちが“シヴァ・シャクティ”すなわち意識のエネルギーとして言及する悟りへの戸口となります。それを行なうことであなたは理解、歓び、感謝という形で恩寵を受け取ることができます。創造、維持、破壊、曖昧化、恩寵というシヴァ・シャクティの五つの機能は、全ての経験においてあなたの内で継続的に顕れています。例えば、あなたが自身の人生のドラマに没頭し、疑問を持ち、落胆し、怖れ、混乱を経験しているときに曖昧化が生じます。あなたがそれらを手放し、あるいは引き離すことを学んだ時、あるいはこの最後の節で推奨されたようにそれらの背後にあるエネルギーにただ集中するとき、恩寵はあなたの内に流れ込みます。

内なる気付きに対する九つの障碍
神のヴィジョンすなわち悟りの視点を開発するには、自身が何であるかだけでなく、何がその視点を維持することを妨げるのかを認識する必要があります。
ヨーガスートラの第1章30節で、パタンジャリは内なる気付きに対する九つの障碍があると説きます。
「病気、精神的不活発、疑念、不注意、怠惰、対象への耽溺、誤った知覚、確固とした基盤を確立できないこと、不安定、こうした意識の乱れが障害である。」
・病気には、身体的なものも精神的なものも含まれます。病気は、日々のストレスへ反応した結果です。
・精神的不活発は、エネルギーが不足し、気づきを維持できない時に生じます。エネルギーを浪費したり、疲労に陥ったりすることを避けなければなりません。
・疑念とは、物事を疑うマインドの傾向であり、答えを見つけようという思いがないと、努力を続けることに対して悲観的になってしまいます。
・不注意とは、注意の足りないこと、注意が散漫であること、習慣的な注意不足のことです。
・怠惰は、習慣の一つであり、熱意不足や落胆が原因で起こります。
・対象への耽溺は、欲望が助長される時よりも、欲望を手放せない時に起こります。
・誤った知覚とは、根元的な現実を見ないことです。
・確かな基盤を確立できないことは、忍耐や我慢強さが足りない時に起こります。
・不安定とは、修練に一貫性がないために、人生の浮き沈みの中で平静さを保てないこと、つまりつかの間の光景に入り込んでしまうことです。

 パタンジャリはまた、第1章31節で、これらは次の四つを伴うと言います。それらは、身体の震え、呼吸の乱れ、抑鬱、落ち着きのなさです。 肉体及び精神的な乱れに伴うこうしたものによって、我々は、自分がいかに真我を見失ってしまったのかに気づくことができます。

 これらに続く節で、パタンジャリは、こうした障碍とその症状への対策として、マインドの平静さを養う12種類の異なる手段を助言しています。

社会的関係において真我実現を維持すること
 マインドの平静さを養う12種類の手段の中で、パタンジャリが社会的関係を含む対処策から説き起こしていることは注目に値します。人間として、我々は肉体的そして感情的な必要性から、社会的関係に依存するよう進化してきました。しかしそれはしばしば、苦悩と人間ドラマの最大の根源です。
 「幸せな人たちに対しては友好的な態度を、不幸せな人には思いやりを、徳の高い人には喜びを、不徳な人には平静さを養うことによって、意識は乱されることなく、落ち着きを保つ。」(YS I-33節)
 霊的な高みを目指さない場合でさえ、これらを行うことによって、どのような人の人生でも穏やかなものになります。マインドには、たびたび反対のことをする傾向があります。厳密な意味でこれらの態度はしばしば進化の途上にある人間的な性格と衝突するので、パタンジャリは五つの社会的制約(禁戒)に対する処方箋としてこれらについて詳述しています。
 「自制(禁戒)は非暴力、正直、不盗、貞操、欲張らないことである。」(YS II-30節)

 幸せな人に対する友好、善意:我々は幸せな人に対して嫉妬したり、妬んだりし、その人たちの粗(あら)を捜そうとすることがあるので、この態度を養うことが必要です。例えば、誰かが、自らの労働の結果を物質的な面で享受している時、我々は嫉妬するかもしれません。しかし嫉妬するのではなく、「彼らが繁栄し続けますように」と言った方がいいのです。
 苦しんでいる人に対する思いやり:自らの思考や行動で他者に対してできることがほんのわずかな時でさえ、思いやりを持つことによって、自分のマインドと感情が変容します。「悪いカルマの報いだ」などと言って他者を判断したりしないことです。
 徳の高い人に対する喜び:彼らを見習い、そうした人がいることを喜ぶこと。
 不徳な人に対する平静さ:こうした人に影響されないこと。判断を下さないこと。何かに苦しんでいるかもしれない人を軽蔑するのではなく、こういう人たちも愛すること。我々は他者の行いを判断することなく、他者を愛することができます。他者の行いを判断すると、その軽蔑している性質を自分の中で強めてしまうだけです。一般的に、我々は自分の中にあるものを他者の中に見て非難します。世の中は自分の内にあります。世の中を変えるためには、自分の思考を変えることです。他者の過失は大目に見ること。欠点について考えてはいけません。欠点について考えると、思考がその人に伝わり、欠点を強めてしまうだけです。
 これらの態度を養うことによって、マインドが浄化され、揺らがない落ち着きがもたらされます。

修練:次のことについて瞑想し、その態度を養うこと。幸せな人に対する友好、不幸な人に対する思いやり、徳の高い人に対する喜び、不徳な人に対する平静さ。これらの性質を養うために対人関係を用い、結果としてもたらされる落ち着きに気づくこと。

叡智、即ち完全な知識の達成について
 「礼拝は捧げもの(供物)中にではなく、ハートが二元的な想念から離れた至高の意識であるとの認識の内にある。完全な情熱の中でシヴァ・シャクティは真我の中に溶け込む。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 147節)

参考文献 
・「パタンジャリとシッダのクリヤー・ヨーガ・スートラ」by M.Govindan
・「反対の行動」by M.Govindan

植物性タンパク質の摂取で、あなたの健康と地球を守りなさい (Part2抄訳)

2019-07-18 12:42:42 | スピリチュアル
(Part2:KYJ 2019 Summer)

菜食主義とヨーガのヤーマ(禁戒)
 菜食主義者になってそれを守ることは、非暴力、不盗、正直などヤーマとして知られるヨーギの倫理原則に対してあなたがコミットしていることの表明となります。菜食主義以外の食事をした場合、あなたは飼育場で育てられてされる何百万頭もの動物の苦悩に貢献することになります。Part1でも議論したように、未来の世代から、食肉業界が排出する過剰な温室効果ガスによって劣化された環境を奪い取ることを避ける助けにもなります。あなたが菜食主義者となることに対する抵抗を克服するのにも役立ち、菜食主義に関連する事実を友人や家族に伝えるとき、誠実さの証ともなります。

ヴィーガンとヴェジタリアンの為の最良のタンパク源
 Part1でも説明したように、ヴェジタリアン(以下、ヴェジ)やヴィーガンになるよう他人を説得し、自身それを守り続けるとき、十分なタンパク質を摂取できないことが気掛かりです。しかし多くの専門家は、周到に計画されたヴェジやヴィーガンの食事はあなたの必要なすべての栄養素を提供できるということに同意しています。そうは言っても、ある植物性の食事は、他の植物性の食事より特別に多くのタンパク質を含んでいます。そして高タンパクの食事は、筋力、満腹感、体重減少を促進します。

 最良の植物由来のタンパクの典型的な食事で、どの程度のタンパク質を取れるのでしょうか? 一回の食事量当たり、タンパク質を多く含有している14種類の食材を紹介しましよう。

1. セイタンは、小麦グルテンとしても知られていて、100g当たり約25gのタンパク質を含みます。このリストの中で、植物性タンパク質が最も豊富なものとなります。セイタンはまた、セレンの摂取源であるとともに、鉄分、カルシウム、硫黄を少量含みます。
2. 豆腐、テンペ、枝豆は全て大豆由来です。大豆は全タンパク質の摂取源と考えられています。これは、体に必要なすべての必要なアミノ酸を提供することを意味しています。これらはすべて鉄分、カルシウムと100g当たり10~19gのタンパク質を含みます。枝豆は葉酸、ビタミンK、食物繊維も豊富です。テンペはプロバオイティクス、ビタミンB、マグネシウム、硫黄などのミネラルを含有します。
3. 計量カップ(240cc)当たり18gのタンパク質を含むレンズ豆は、重要なタンパク質摂取源です。計量カップ一杯分で、一日当たりの推奨摂取量の半分に相当する食物繊維を含みます。レンズ豆の食物繊維は、健康な腸をつくる善玉菌の栄養素となることも認められました。心臓病、糖尿病、肥満、或る種のガンのリスクも低減させます。葉酸、鉄分、抗酸化物も豊富です。
4. ヒヨコ豆と多くの種類の豆。インゲン豆、黒豆、うずら豆と殆どの豆類のタンパク質含有量は高いです。ヒヨコ豆は高いタンパク質を含むもうひとつのマメ科植物です。それらは計量カップ当たり、約15gのタンパク質を含みます。それらも炭水化物、食物繊維、葉酸、硫黄、カリウム、マグネシウムと幾つかの有益な植物性複合体の大変優れた供給源です。そのうえ、豆類の豊富なダイエットはコレステロールを減らし、血糖値の制御を容易にし、血圧を低下させ、腹部の脂肪を減少することまで可能にすると複数の調査結果が示しています。
5. ニュートリショナルイーストは不活性化された出芽酵母の品種で、イエローパウダーなどの名称で販売されています。この完全な植物性タンパク源は1オンス(28g)当たり14gのタンパク質と7gの食物繊維を含みます。強化されたニュートリショナルイーストはまた、亜鉛、マグネシウム、銅、マグネシウム、ビタミンB12を含むビタミンB群の優れた供給源です。
6. グリーンピース。 副菜として出されるグリーンピースは計量カップ当たり9gのタンパク質を含み、その量はミルク一杯分のタンパク質よりも少し多いです。それ以上に、計量カップ分のグリーンピースは食物繊維の一日あたり摂取量の25パーセントを賄い、ビタミンA,C,K,チアミン、葉酸、マンガンの必要量を充たします。
7. スピルリナ。この青緑色の藻類は、紛れもない栄養素の実力派です。30mlで、鉄分とチアミンの必要摂取量の22パーセントと銅の42パーセントに加え、8gの完全なタンパク質を摂取できます。
8. アマランスとキヌアはしばしば古代の、グルテンを含まない穀物として引用されますが、他の穀物の粒のように草から生えるものではありません。このため、これらは技術的には疑似穀物と考えられています。それにも拘わらず、これらはより一般的な穀物に似た粉末に挽くことが可能です。アマランスとキヌアは計量カップあたり8~9gのタンパク質を含み、穀物と疑似穀物には稀な完全タンパク源となります。
9. オルガニック穀物及びマメ科植物の発芽全粒粉から作ったパンは、エゼキエルパンのように大豆とレンズ豆のみならず、小麦、キビ、大麦、スペルト小麦を含みます。二切れで約8gのタンパク質を含みますが、これは平均的なパンより多少高い水準です。 発芽した穀物とマメ科植物は、それらが含んでいる健康に良い滋養分を増加させ、滋養を妨げる物質を減少させます。加えて、発芽させると穀物のアミノ酸含有量を増加させるということが研究で明らかにされています。リジンは多くの植物のなかのアミノ酸を制限していますが、発芽させることはこのリジンの量を増加させます。これが、タンパク質全体の質を底上げするのです。
10. 豆乳。大豆から作られ、ビタミンとミネラル分を強化したミルクは、牛乳に対する立派な代用品です。計量カップ当たり7gのタンパク質を含むのみならず、カルシウム、ビタミンD、そして強化された場合ビタミンB12の優れた摂取源となります。
11. オート麦。計量カップ半分のオート麦は6gのタンパク質と4gの食物繊維を含みます。さらにこの量で、マグネシウム、亜鉛、硫黄、葉酸を十分に含んでいます。オート麦は完全なタンパク質とは見なされていませんが、通常消費されている米や小麦と比べ、上質なタンパクを含んでいます。
12. ワイルドライスは、黒米やバスマティーを含む他の長粒米の約1.5倍のタンパク質を含みます。白米とは異なり、ワイルドライスはふすまを取り除きません。ふすまは繊維とビタミン・ミネラル類を含むので、栄養素的な視点から優れています。
13. ナッツ、ナッツ由来のバター、それ以外の種及びその派生食品は優れたタンパク源です。1オンス(28g)で、その種類にもよりますが5-7gのタンパク質を含みます。ナッツと種はまた、カルシウム、マグネシウム、セレン、硫黄分、ビタミンEとBのほか,食物繊維と良性脂肪分の優れた摂取源です。それらは抗酸化物質も含んでいます。
14. タンパク質が豊富な果物と野菜。すべての果物と野菜はタンパク質を含みますが、通常僅(わず)かな量です。タンパク質を多く含む野菜は、ブロッコリー、ほうれん草、アスパラガス、アーティチョーク、ジャガイモ、サツマイモ、芽キャベツです。それらは計量カップあたり4~5gのタンパク質を含みます。厳密に言うと穀物ですが、スイートコーンも高タンパクの野菜です。新鮮な果物は一般的に野菜よりもタンパク質の含有量が低いです。最も多くのタンパク質を含むのは、グァヴァ、チェリモヤ、マルベリー、黒いちご、ネクタリン、バナナですが、量は2~4gです。

結論
 植物性の食生活は糖尿病、心臓病、癌を含む多くの病気を防ぐために必要であり、温室効果ガスの排出と地球温暖化による人類生存の危機を低減されるのに誰もが貢献できるたった一つの最も重要な解決策です。植物性の食事に踏み切ってそれを維持することに対する抵抗は、あなたの体重とライフスタイルに基づいて、何グラムのタンパク質を必要とし、それを供給する最良の植物は何かを知ることで克服することができます。
 春季号で議論したように、もしあなたが健康的な体重であれば、それ以上体重を増やさず、過度な運動もせず、0.8~1.3gのタンパク質摂取を目指すことが合理的な予測と言えるでしょう。これは平均的な男性にとって、一日当たり56~91g、平均的な女性にとって46~75gです。あなたの日々の食事で、最初の四つの種類を2計量カップ分、それに10番から14番(の食材)を少し摂取すれば、この量を食べることができるはずです。練習として日々のメニューを作成し、それがどの程度のタンパク質を含むのか前述の数値を参考にし、確認してみて下さい。
 菜食主義者になってそれを守ることは、非暴力、不盗、正直などヤーマとして知られるヨーギの倫理原則に対してあなたがコミットしていることの表明となります。