ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

聖なる錬金術

2020-04-21 10:42:14 | スピリチュアル
シッダーンタに照らしたクンダリニーヨーガの聖なる錬金術

KYJ 2020 Spring

Bt M.G.Satchidananda


 私の師ヨーギラマイアはしばしば、ババジのクリヤーヨーガの目標は存在の五つの象限における完全な明け渡しであり、クンダリニープラーナヤーマの実践がそれを達成するための最も効果的な手段だと繰り返し話した。この教えは、ティルマンディラムを含むヨーガのシッダたちの文献を通じて繰り返し述べられている。しかしながら、その意味を秘儀に参入していない者に対して隠すため、つまりそれを誤って用いることがないよう、故意に隠喩で表現されている。ババジのクリヤーヨーガのイニシエーション受講者がその修練の重要性をより深く理解するための手助けとして、彼らの文献に対する広範な翻訳書と註釈書を出版した。シッダヨーガの究極の目標であるシッダーンタとして集合的に知られている彼らの教えに関する研究は、あなたのサーダナの問題を明らかにするだろう。

供犠の新たな意味
 ヨーガのルーツはヴェーダの供犠の火による儀式だ。それは神の祝福を招き寄せるため、寺院において世襲の僧侶によって今日まで行われている。しかしそれは、通常物質的な目的の為に行われる。ヨーガのシッダたちはそのような物質的な目的が我々の気持ちを究極の霊的目標からそらすべきではないということを、思い起こさせるよう努めた。

貴重な富を与え給う神を求めよ
それは悪をすべての他の富に変える
彼らが行う供犠がもたらすものは
計り知れない富、至福への憧れ

ティルマンディラム220

 このティルマンディラムの詩にDr.K.R.アルムガムは次のようなコメントを書いている。「ヴェーダと聖典の教えのエッセンスは一つの至高の存在を認識することと、魂によって神の恩寵を求めることだ。この教えは、人が霊性の意味を理解するようになるにつれ、神が表した貴重な富だ。しかし人はこの教えを無視し、物質的な富を求め、その欲望は人を輪廻に束縛する。悟った者は最高の至福をもたらすシヴァ神の恩寵という計り知れない富を求める。彼らの供犠はこの目的に献じられる。」 

 この目的のためシッダたちはクンダリニーヨーガを開発した。しかしながらそれが真の目的の為に学ばれ、利用されることを確実にするため、その実施法の詳細は個人的なイニシエーションの中で達人だけが分かち合い、書いたものは残さないことにした。しかしながら、彼らの詩の中で、それに関する記述はその形而上的な目的と効果を表現している。これらの詩はまた、神の恩寵を招く愛と献身という必要不可欠の要素も表現している。恩寵は、丁度錬金術が卑金属を金に変換するように、より高次で隠れた自然の法則を召喚することにより、下記に示す通り、通常制限されている人間の性質を変容させる。

 例えば、シッダ達が神即ち至高の存在に与えた名前であるシヴァは、彼らのインスピレーションの源泉でもあるが、ババジのクリヤーヨーガのイニシエーションを受けた者は、プラーナヤーマの修練の間、タミール語で来るを意味する「ヴァ」と、神の名である「シ」として繰り返すよう教えられる。このように繰り返すことは、(我々と神との)超越的な統合に対する最高の希求を神のもとに運ぶ。この希求の呼びかけに答えて、神の恩寵は、このプラーナヤーマの修練の間、ほどよい涼しさの降下として経験できる。

輝く炎、我らの比類なき神
最も深く我が内に住まう輝かしい炎
その炎の眼差しは七つの世界を上昇する
だがその神は涼しい炎、すべての供犠を導くもの
ティルマンディラム221

 ここでティルムラルは供犠を再定義する。我々自身や家族のために富を得ようと天界の諸神に対して供え物を儀式の火の中にくべるのではなく、クンダリニー・シャクティがすべてのチャクラに上昇するよう、内なる炎であるクンダリニーを上昇させなければならない。同様に、彼はヤグナ(供犠)を、ヨーガの内なる行為と再定義する。ティルマンディラムの337/338節を見よ。シッダの文献の中においてはどこでも、天界の諸神を称賛していない。石像や寺院の中でそれらを礼拝するのではなく、彼らはクンダリニーヨーガを内なる礼拝として理解するよう推奨している。

 ティルムラルは小さな利益と引き替えに行われる供犠は我々の視界を曇らせ、神の恩寵を求めるという真の目標を隠すことになると強調する。シヴァ神は宇宙を包みながらも超越し、至高の叡智で魂を満たす至高の炎だ。太陽と月は神の二つの眼に喩えられる。太陽は顕現されたものすべてのレベルであらゆるものを照らす至高の宇宙意識を現わす。月は個別化した意識を現わす。太陽は一つの永遠の意識だ。月は我々一人ひとりの内にある反射された意識、即ち目撃者だ。シヴァ神の第三の眼、供犠の炎は魂に輪廻転生の大洋を渡らせる至高の悟りを象徴している。その火が涼しいとき、神の恩寵は魂に降下する。

 シッダーンタは四つの段階にある前進的な道を処方している。それは、①チャリヤ:奉仕、カルマヨーガ、②クリヤー:崇拝を行う行為、当初は外面的、次に内面的なもの、③ヨーガ:ヨーガの八支分を含むが、最終的にはクンダリニーヨーガ、④ジニャーナ:叡智、である。それぞれの段階は次の段階へと進むための予備段階だ。ババジのクリヤーヨーガの求道者として、我々は個人的な利益のためだけではなく、すべての人の利益の為にヨーガの修練を行うという誓約をする。これはバクティヨーガが求道者の愛と献身を育む助けとなる第二段階の準備となる。これによって第三段階においてヨーガのサーダナを継続するのに必要な恩寵・力・動機付けを得ることが可能となる。第三段階におけるクンダリニーの覚醒は、サマーディと第四段階での叡智獲得をもたらす。上記の四つの段階はまた、並行して行うことができる。

誤認による曖昧化の克服
 シッダ達によれば、シヴァは五つの機能、即ち創造・維持・破壊・曖昧化・恩寵を持つ。それらは魂が智慧において成長し、真の自己に対する無知・エゴイズム・錯覚を克服するのに必要な経験を与えることで、その成長を促進する。恩寵はこれら五つの機能すべての中で作用するが、我々が神に向き合って恩寵を求める時、それに直接触れる。これらはチダムバラム寺院の「踊るシヴァ神」即ちナタラージャの手と足に象徴されている。

 意識は我々のすべてのレベルに浸透しているが、それは魂の三つのマーラー即ち汚れによって隠されている。それらは、アーナヴァ・マーラーと呼ばれるエゴイズムと自身を本当の自己でないものと同一視することによる真の自己に対する無知、カルマ・マーラーと呼ばれる、我々の癖と性格、過去の想念・言葉・行為による結果、マーヤー・マーラーと呼ばれるマインドの錯覚だ。この曖昧化は、恐れや怒りといった感情の不安定、精神的・知的な興奮、欲望、肉体の不快感、そして集中力の欠如・情欲・怠惰といった他の障碍などを通じて現れる。

 このクンダリニーの儀式において、プラーナが制御されるとき、スシュムナー・ナーディ(気脈)の通路が開かれ、クンダリニーがその中を上昇し、クラウンチャクラより下の六つのチャクラを貫き、そこで至高の意識であるパラシヴァと融合する。

中央のナーディの上で 内と外を経験せよ
自我(アハンカーラ)の怒りを取り除き 至福の洪水を飲み干すべし
遮られることなき静寂と共に シヴァと全く一体となり
眠りなき眠りの至福を手にせよ
踊れ蛇よ リズミカルに リズミカルに

パーンヴァティ・シッダの詩116節「踊れ、蛇よ踊れ」から

 アハンカーラとは無知から生じるエゴイズムだ。
 
 シッダ達によると、上記でいうマーラー、即ち汚れからの解放の根っこは上方にある。シッダ・パーンヴァティの詩、「踊れ、蛇よ踊れ」113節の中で描写されている通り、上方に植えられた根を引き抜いてしまった者に再生はない。

 そしてバウルという歴史的なベンガル地方の神秘主義の吟遊詩人グループの詩は、次のように謳う。

その木の根は空に埋まっており
枝は地上にある

これがクンダリニーヨーガの成り立ちを説明している。内側と上方に対する働きかけがその主たる特徴だ。プラーナヤーマがその鍵だ、なぜならそれは、我々の下に向かう精液の流れを換えて上方に向かわせるからだ。ビンドゥ即ち性的な「種」のエネルギーは、頭の中と更にその上にある最高のチャクラに関係するオージャスとして知られる霊的なエネルギーに昇華される。昇華とは精錬或いは浄化を意味する。五感による注意の拡散から離れて内に向かうことは、マインドと生気体を鎮める。丁度滓(おり)が底に沈殿した時にコップに入った水が透明になるように、意識もマインドの動きから明確に離れる。静寂の中で我々は、「それ」即ち意識のエネルギー、つまり頭頂にあるシヴァシャクティと一体になる。

 根が頭上の空にある逆さの木は、我々人間の性質とその聖なる源との関係を示す隠喩だ。我々は神によって創造された。我々の根は神だ。至高の意識であるシヴァは、シャクティ即ち原初からの創造の力を通してすべてを現わす。意識とは、ある科学者たちが証拠を上げることもなく主張しているような脳の付帯現象ではない。意識がすべてを支えている。

 クンダリニーヨーガの修練は、我々が自身を肉体とその生存・感情・欲望・創造力と同一視し、何よりも先ず生存・セックス・欲望に心を奪われている下位の心霊エネルギー・センター(チャクラ)から、愛・創造・洞察力・霊的光明を経験するより上位のチャクラにエネルギーを上昇させる。上位のチャクラが覚醒するまで、我々は完全に低次の心理的状態と自身を同一視している。プラーナヤーマに加え、上述したクリヤー・ハタ・ヨーガの18のポーズすべてをバンダ即ち筋肉の締め付けと共に練習することは、エネルギーを下位のチャクラから上位へと方向付ける。それに加えて、それらの修練は左右の気脈(ナーディ)、それぞれイダー(Ha)とピンガラ(Tha)のバランスを取る。この修練は中央のスシュムナーナーディを開く。

イダーカーラとピンガラの気脈を通し 適切に気息を流せ
相応の座法で座り 内なる気息を心地よく方向付けよ
三角のムーラダーラを経て 上方に昇らせよ
間違いなく神の御足を見るだろう それは時のない永遠
ティルマンディラム2173

三つのグナを根絶(こんぜつ)し ムーラダーラの気息を制御するもの
それを左右の気脈に交互に流す
時きたらば 定められた手法は不死をもたらす
主即ち天にまします存在の王によりて

ティルマンディラム615


 更には、それぞれのチャクラに対応するビージャ即ち種子の音節のマントラを唱えると、より低次のチャクラから高次のチャクラへとエネルギーを上昇させる結果をもたらす。それらは、対応している心理的な状態を活性化し、目覚めさせ、統合する。これは、意識はエネルギーに従い、エネルギーは意識に従うというタントラの基本的な原理を反映している。タントラとは、人間の物質的な次元と霊的次元の統合を目指す教義の体系を指す。

ラーヤヨーガ
 クンダリニーヨーガはラーヤヨーガの別名でもある。ラーヤとは溶融を意味する。人間の性質の肉体的・感情的・精神的・知的次元である、究極的には「それ」でないものと自身を同一視する誤ったエゴを溶かすということだ。それらはそれぞれ、古代の科学でいう五大元素即ち地水火風に対応する。これらは我々の、本当で永遠の霊的真我即ち五つ目の要素である空に対応する意識を曖昧化する。

 シッダが好んで使った神を表現する言葉、ヴェッタヴェリは、広大な光に満ちた空間を意味する。土を溶かすのに水が必要なように、水を蒸気に溶かすのに火が必要であり、火は燃えて風の中へ入り、風は無限の宇宙に溶け込み、我々の意識は上昇して拡張し、より高貴な存在の次元と同一化する。エゴイズム即ち我々が自身でないものと同一視する癖は意識を肉体の感覚、感情、心の空想や記憶、知的なアイデアの周囲に拘束し、それ以外のすべてを一時的に排除する。これは我々の生存や多くの限定された日々の仕事、人間関係には有効だ。しかしエゴが拡張された役割を引き受ける時、それは我々の苦悩の根本的な原因だ。

 ラーヤヨーガではエゴが誤って自己と同一視している肉体(地)を感情(水)へ、更に精神(火)へ、更に知性(風)へ、そして究極的には霊(空)へと溶け込ませる。24のタットヴァ即ち人間の性質の原理について瞑想することは、我々を真我実現と超越への戸口に運ぶ。24のタットヴァとは、上述の五大元素と、五つの感官(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)とその五つの器官、行動のための五つの器官、そして無意識・マインド・知性・エゴを指し、更には時間・欲望・カルマ・制限された知識と能力というマーヤー(錯覚)の仲介者が存在する。アーサナ(ポーズ)とバンダは肉体のエネルギーを昇華し、バクティヨーガ即ち献身行の実践は感情の座である生気体のエネルギーを昇華し、プラーナヤーマと瞑想は感情体のエネルギーを昇華し、マントラは知性体のエネルギーを昇華する。それらが総合的に作用してクンダリニーエネルギーが一番上のチャクラに上昇するとき、サマーディと呼ばれる認識作用の没入をもたらす。これが生じるにつれて恩寵の降下が促進され、内なるグルとして現れる。シュリ・オーロビンドは、これを心霊的存在と呼ぶ。それが前面に出るにつれ、それは前進的に我々を導き、変容させ、同時に我々の潜在的な能力と意識が顕れる。我々は神我実現を達成し、頭頂で自身をサット・チット・アーナンダ、即ち絶対的実在・絶対的意識・絶対的至福と同一視する。

 オーム・ナマ・シヴァヤは「犠牲の結果は至福なり」を意味する。換言すれば、あなたがすべてを明け渡す(諦める)とき、あなたはすべてを得る。霊的な道は、あなたが特別なことを何も経験せず、特別な人にもならないという準備ができた時に始まる。これは、あなたが一瞬一瞬を神への捧げものとすることだと覚えておきなさい。

以上