★「十番だより」11月号に寄稿しました。
DISCOVER JUBAN 麻布十番再発見 -20-
赤い靴の女の子「きみちゃん」 -3-
ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。
母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。しかし、意外な事実がわかったのです。きみちゃんは船に乗らなかったのです。
ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられたのです。薬石の効無く一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年(1911)9月15日の夜でした。
きみちゃんが亡くなった孤児院、それは、明治10年(1877)から大正12年(1923)まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院でした。今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地にあったこの孤児院は、女子の孤児を収容する孤女院として「麻布区史」にも書かれています。
3歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけました。熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう。温かい母の胸にすがりたかったでしょう。それもできないまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い9歳の生涯を閉じたのです。母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、ただ救いでした。
この街、麻布十番に眠ったきみちゃんを思うとき、赤い靴の女の子「きみちゃん」の心安らかなことを祈り、今、私たちの幸せを心からよろこび感謝しなければならないと思います。
母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託し、皆さまの幸せを祈って、平成元年2月28日(1989)麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。
きみちゃんのお話は、それで終わりませんでした。像が出来たその日の夕方、誰かがきみちゃんの足元に18円を置きました。それがチャリティーの始まりでした。この20年、きみちゃんの足元の貯金箱には1日として途絶えることなく幾らかのお金が入れられています。納涼まつりでは、きみちゃんの傍らにチャリティー広場が作られ、悪役俳優の山本昌平さん、女優の紅理子さん、作曲家の横山太郎さんたちが毎年このチャリティーを手伝い、子ども達へのチャリティーを呼びかけてきました。残念ながら16年間続いていたきみちゃんのチャリティーひろばは、2005年の納涼まつりからなくなりましが、子どもたちのための「赤い靴のチャリティー」は現在も続いています。多くの人々に支えられたチャリティーの輪は、20年間途絶えることなく続き、1円、5円、10円という小さな、けれどもとてもきれいな浄財の積み立ては、毎年世界の恵まれない子ども達のために全額ユニセフに寄付されています。今年3月までに子ども達のためにユニセフに寄付された浄財は総額 1116万円になります。阪神・淡路大震災の義捐金、スマトラ島沖地震の義捐金にも送られています。そして、今日も、途絶えることなく赤い靴のチャリティーは続いています。
明治35年(1902)生まれのきみちゃんですから、もし、今きみちゃんが生きていたら、もう107歳になっています。明治44年(1911)9月15日、9歳で亡くなったきみちゃんは、今も9歳のまま、私たちの心の中に生き続け、世界の恵まれない子ども達のために歩きつづけています。
あらためて「赤い靴の女の子きみちゃん」のお話とチャリティーについて書いてみました。世界の恵まれない子どもたちのために、どうか「赤い靴のチャリティー」にご協力下さいますようお願い致します。
(写真は 2007.11.23.小樽・運河公園にできたきみちゃんの像です。ナカムラ・アリ作 「赤い靴 親子像」 )
DISCOVER JUBAN 麻布十番再発見 -20-
赤い靴の女の子「きみちゃん」 -3-
ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。
母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。しかし、意外な事実がわかったのです。きみちゃんは船に乗らなかったのです。
ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられたのです。薬石の効無く一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年(1911)9月15日の夜でした。
きみちゃんが亡くなった孤児院、それは、明治10年(1877)から大正12年(1923)まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院でした。今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地にあったこの孤児院は、女子の孤児を収容する孤女院として「麻布区史」にも書かれています。
3歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけました。熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう。温かい母の胸にすがりたかったでしょう。それもできないまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い9歳の生涯を閉じたのです。母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、ただ救いでした。
この街、麻布十番に眠ったきみちゃんを思うとき、赤い靴の女の子「きみちゃん」の心安らかなことを祈り、今、私たちの幸せを心からよろこび感謝しなければならないと思います。
母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託し、皆さまの幸せを祈って、平成元年2月28日(1989)麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。
きみちゃんのお話は、それで終わりませんでした。像が出来たその日の夕方、誰かがきみちゃんの足元に18円を置きました。それがチャリティーの始まりでした。この20年、きみちゃんの足元の貯金箱には1日として途絶えることなく幾らかのお金が入れられています。納涼まつりでは、きみちゃんの傍らにチャリティー広場が作られ、悪役俳優の山本昌平さん、女優の紅理子さん、作曲家の横山太郎さんたちが毎年このチャリティーを手伝い、子ども達へのチャリティーを呼びかけてきました。残念ながら16年間続いていたきみちゃんのチャリティーひろばは、2005年の納涼まつりからなくなりましが、子どもたちのための「赤い靴のチャリティー」は現在も続いています。多くの人々に支えられたチャリティーの輪は、20年間途絶えることなく続き、1円、5円、10円という小さな、けれどもとてもきれいな浄財の積み立ては、毎年世界の恵まれない子ども達のために全額ユニセフに寄付されています。今年3月までに子ども達のためにユニセフに寄付された浄財は総額 1116万円になります。阪神・淡路大震災の義捐金、スマトラ島沖地震の義捐金にも送られています。そして、今日も、途絶えることなく赤い靴のチャリティーは続いています。
明治35年(1902)生まれのきみちゃんですから、もし、今きみちゃんが生きていたら、もう107歳になっています。明治44年(1911)9月15日、9歳で亡くなったきみちゃんは、今も9歳のまま、私たちの心の中に生き続け、世界の恵まれない子ども達のために歩きつづけています。
あらためて「赤い靴の女の子きみちゃん」のお話とチャリティーについて書いてみました。世界の恵まれない子どもたちのために、どうか「赤い靴のチャリティー」にご協力下さいますようお願い致します。
(写真は 2007.11.23.小樽・運河公園にできたきみちゃんの像です。ナカムラ・アリ作 「赤い靴 親子像」 )