麻布十番未知案内 BLOG編

麻布十番のこと、赤い靴の女の子「きみちゃん」と「きみちゃんのチャリティー」のこと(HP編 http://jin3.jp)

手術から3年、健康であるよろこびを・・・

2006年04月26日 | 店声仁語
★大腸のレントゲンフィルムの異常なふくらみを見て医師が口を切る前に「先生、これ癌ですか」と私の方から尋ねたのはちょうど3年前の今頃だった。「そこを執ればいいんでしょう」と他人事のように言う私に、医師は「かなり進行性の癌です。執ればいいんですが・・・」。連休は手術も出来ないだろうから、連休明けに入院して手術することに決め手続きをして帰ってきた。
 6時間あまりの手術、1ヶ月の入院、退院後も抗ガン剤を飲み、毎月血液検査や診断を受けてきた。一年に一度はCT、エコー、胃カメラ、腸の内視鏡検査等を受け、今回が三度目の検査だった。そして検査結果、予約の時間はとうに過ぎているのに名前が呼ばれない。後から来た人が先に呼ばれたりすると、もしかして最後に回され何か悪い結果でもあるのではと余計なことを考える。予約の時間から一時間も過ぎてやっと名前を呼ばれ診察室に入った。
 モニターには血液検査の数値が、デスクにはCTのフィルムが、カルテには胃と大腸の内視鏡の写真、エコーの写真が並べられている。「血液検査、異常ありませんね。CTも異常なしです。胃は軽い炎症がありますが大丈夫でしょう」。「大腸、これがつないだところです。きれいについているでしょう。今回はポリープもありませんでしたね」。「エコー、少し脂肪肝っぽいですが運動をしてください。毎日30分くらい歩くといい。胆のうに少し砂状のもの、胆石まではいっていませんから少し薬を出しておきましょう」。「薬、2ヶ月分出しましょう、今度から毎月でなくて二ヶ月毎でいいでしょう」。
 ほっとしました。本当にホッとしました。あまりうれしくてカルテをもらわずに帰りかけたくらいでした。会計を済ませ薬を待つ時間もなぜか口元がほころぶような感じで、足どりも軽く帰ってきました。手術から三年、まだ完全にクリアしたわけではありませんが、一年ごとにホッとする思いが大きくなってあらためて健康のよろこびを感じている今日この頃です。皆さんもお身体くれぐれもお気をつけ下さい。

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きみちゃんのチャリティー累計1000万円に!

2006年04月17日 | 赤い靴
★赤い靴の女の子「きみちゃん」のチャリティーユニセフへの寄付が累計1000万円になりました。赤い靴の女の子「きみちゃん」のチャリティーが始まって18年になります。平成元年2月28日、雨の降る火曜日でした。赤い靴の女の子「きみちゃん」の小さな像が彫刻家佐々木至さんの手でパティオ十番に建てられました。火曜日で定休のお店が多く人通りの少ない日でした。 うれしくて何度となく傘を差してきみちゃんを見に行きました。夕方、きみちゃんの足下に小銭が置かれているのに気がつきました。数えてみると18円。これがきみちゃんのチャリティーの始まりでした。あれから18年、4月17日今年も50万円をユニセフに送ることが出来ました。これまでのチャリティーの総額は、阪神大震災義捐金に70万円、スマトラ大震災・津波の義捐金として60万円を含め円、累計1000万円になりました。皆さまの温かいご支援に心からお礼申し上げます。
 野口雨情の童謡「赤い靴」のモデルだった「きみちゃん」は、実は横浜の波止場から船に乗れませんでした。不治の病のため麻布十番にあった孤児院に預けられ、明治44年9月9才の短い生涯を閉じています。きみちゃんのような不幸を繰り返さないように、母と子の愛の絆を願って創られた「きみちゃん」の像に託されたチャリティーは、世界の子どもたちのために毎年ユニセフに送られてきましたが、今春1000万円という大きな節目を迎えることが出来ました。1円5円10円という小さなお金の、しかしとてもきれいな貴重なお金の積み重ねが17年かかって達成できた大きな金額です。大勢の方々に知っていただきたい思いでいっぱいです。
 この1000万円で終わりではなく、これからも世界の子どもたちのために「きみちゃんのチャリティー」は続けていかなければならないと思っています。これからもよろしくご協力下さいますようお願い申し上げます。

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啄木忌と赤い靴の女の子「きみちゃん」

2006年04月13日 | 赤い靴
★今日4月13日は啄木忌。1912年4月13日にわずか26才でなくなった石川啄木は、麻布十番の赤い靴の女の子「きみちゃん」とも小さな縁を持っていることをご存知でしょうか。啄木は明治41年わずかな期間ですが小樽日報という新聞社に勤めています。そこに赤い靴の作詞者野口雨情ときみちゃんの義父鈴木志郎も勤めていたのです。
 鈴木志郎ときみちゃんの母かよは平民農場での開拓に失敗し、札幌にもどって北鳴新報という新聞社に入社、そこで野口雨情と知り合います。志郎と雨情は、同世代、子どもひとりという家族構成もあって親しくなり、一軒の家を借りて8円の家賃を分け合って共同生活を送ります。雨情はかよ夫妻から手放した娘きみちゃんの話しを聞き、後に童謡「赤い靴」が生まれるのです。その志郎と雨情は新しく旗揚げされた小樽日報に入社するのですが、そこで石川啄木が一緒だったというわけです。
 鈴木志郎と野口雨情、石川啄木の三人が一緒に勤めたのはわずかな期間ですが、啄木は「悲しき玩具」の中でこう歌っています。

   名は何と言いけむ。
   姓は鈴木なりき。
   今はどうして何処にゐるらむ。

 この鈴木が志郎のことです。石川啄木 1886年2月20日生まれ~1912年4月13日没。今年は啄木生誕120周年、そして今日が啄木忌です。人と人との縁の不思議をあらためて感じています。

赤い靴の女の子「きみちゃん」

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頑張れ~ 新人!

2006年04月10日 | 店声仁語
★4月、進学、就職で新しい環境に戸惑いながらも一歩を踏み出した人たちも多いことでしょう。介護士としてスタートした友人の娘さんMちゃん、小さいときからMちゃんと呼んでいましたが、もう22才ですからMさんですね。そのMさん、はじめて勤めたその日は帰ってくると
 「今日は七回もこの仕事やめようと思った」
と言ったそうです。やめようと思った回数が少しずつへって、一週間たったときにはじめて
 「今日は一度もやめようと思わなかった」
と笑顔で帰ってきたと友人が笑っていました。
介護という大切な仕事、立派に努めてもらいたいと幼い日のMちゃんを思いながら祈っています。


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