真夜中のカップらーめん

作家・政治史研究家、瀧澤中の雑感、新刊情報など。

「死に方」を考えよう

2011-06-28 00:31:04 | Weblog
人間は自身の存在に意味を求める生き物である。
なぜ自分は生きているのか、何のために進学し、何のために仕事をしているのか。

それは、死についても言える。
どうあがいても死が避けられない。
もし、死ぬことが決定事項だとすれば、
その死に方には意味が出てくる。

武士が切腹を「名誉な死に方」と考えたのは、
それが「武士」という存在を認めた死に方だったからである。

今、菅直人は「死に方」に迷っている。
なんとか、後世に残る手柄を立ててから辞めたい。
どうせ辞めさせられるのなら、辞める前に何か残したい。

武士と菅直人は、「死に方」にこだわる点で一致している。
しかし、武士は名誉を重んじ、菅直人は虚栄という私欲を追い求める。
求めるものが私欲か名誉かは、見苦しいか否かで判断がつく。

権力の座につく覚悟も準備もなくそこに座っ者が陥るのは、
権力行使に酔いしれて己を見失う、ということ。
己を見失った者ほど、「死に方」を知らない。

彼らは与えられた権力が臨時のもので、それは単に「託された」ということに気付かない。
口では「国民・住民が第一」と言いながら、国民のことよりも私欲が先に立つ。
なぜなら、彼らは権力を国民から「託された」のではなく、「自ら苦労して手に入れた」と確信しているからである。
しかも始末の悪いことに、議員になってから初めて行政や政治の勉強をする連中のいかに多いことか。
いま、内閣総理大臣を先頭に、この手の「政治屋」とすら呼べない劣悪な議員が例外ではなく散見できる。

そこで、問おう。
だれが悪いのか。
それは、私たち国民ではないのか。
劣悪な議員や詐欺政策に踊らされて投票した国民の責任を問わずして、
政治が良くなるわけがないではないか。

地方政治を含めて、私たちは私たちが選んだ者の「死に方」を考えねばならない。
それが、彼らを生みだした国民の責任である。

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