真夜中のカップらーめん

作家・政治史研究家、瀧澤中の雑感、新刊情報など。

林子平と安保論議

2015-07-24 19:35:39 | Weblog
 徳川幕府後期から幕末にかけて、激しく議論が交わされたのは「国防」について、であった。
 そして徳川幕府は最初、国防を論ずることすら禁止した。

 たとえば、林子平の『海国兵談』。
「細かに思へば江戸の日本橋より唐(中国)、阿蘭陀(オランダ)まで境なしの水路也」 
 と述べたのは有名である。
 これを幕府は絶版とし、林子平は蟄居・版木没収という言論弾圧を受けた。

 意外と知られていないが、『海国兵談』は同じ徳川政権下で復刊することになる。
 嘉永4年(1851)のことである。
 『海国兵談』は寛政3年(1791)に全16巻の刊行を終えたから、60年の時を経てその見識が認められたことになる。

 『海国兵談』には経済の強化も触れられていて、
「世の中の人の、すまいやすき様に世話するを済世というなり」
 林は国が筋道を通すことを「経邦」、人々が食べていきやすいようにすることを「済世」とし、経済の意味とした。そうしなければ国は守れない。幕末に横行した「外国船など打ち払え」という無責任な国防論とは一線を画す。そういう意味でも、先進的な書物であった。

 また林は「長崎だけで対応して(長崎だけ守って)、他の地域を守らないとはどういう了見か」とも問う。
 どこかだけを部分的に守っても、それは国を守ることにはならない、というしごく真っ当な指摘である。

 日本という島国を守るとはどういうことか。「そもそも論」を基礎に、多岐にわたる記述が『海国兵談』の魅力であり、政権を怒らせた理由でもあった。
 
 発禁から60年経って同じ徳川政権下で復刊できた理由は、何であったろうか。
 嘉永2年あたりから、外国船が日本近海に頻繁に出没し、幕府としても「臭いものにフタ」ではいられなくなったのである。
 言い換えれば、「世界の出来事は日本と関係あるのだ」という危機感と国際感覚を、嘉永年間の日本が必要としていたのである。

 いや、嘉永年間には、目の前に現実を突きつけられたのだ。
 林子平が想像した状況が、幕末の日本に出現したのである。
 多くの識者が、「なぜ60年前にこれを葬り去ったのか」、と後悔をした。
 復刊は、遅すぎるくらいであった。

 林は、日本は海によって「隔てられている」のではなく、海によって「つながっている」、と論じた。
 普通、目の前の海を見て、海水によって世界諸国とつながっているとは思わない。それは寛政3年から200年以上経ったいまも、私たち日本人から抜けない感覚である。

 しかし、良かれ悪しかれ日本は世界とつながっている。林子平が悶絶する思いで書いたのは、「なぜ世界とつながっていることに、もっと注意を払わないのだ!」ということである。

 安保法制。
 そもそも国を守るとはどういう意味なのか、国の何を守るのか、どんな方法で守るのか。「そもそも論」を参議院に期待したい。
 中でも私個人は、日本が世界とつながっている「海水」はいったい何なのか、これからその「海水」をどんなものにするのか、という答えを、議論の中からすくい上げたい。

 細かな法律論、ケース別議論も大事だが、そもそも国を守ることの意味を与野党互いにぶつけ合ってほしい。
 そしてマスコミも、林子平がそうであったように、未来の日本を見据えた議論を起こすべきである。
 60年後、復刊され再読されるような主張を、期待したい。「60年前に準備しておけばよかった」、という後悔を伴わないことを祈って。