真夜中のカップらーめん

作家・政治史研究家、瀧澤中の雑感、新刊情報など。

怪我をしない幼稚園

2008-05-24 12:56:19 | Weblog
まだ幼児の頃、家の庭に転がっていた瓦のカケラで遊んでいて、足を切った。
瓦は、柔らかい黒曜石みたいなもので、砕けると切っ先が鋭利になる。
足の踝(くるぶし)部分ががスパッ、と割けて、すぐには血が出ず、白い肉のようなものが見えたのを今でも覚えている。

思うに、靴下も履かず草履を引っかけたまま土遊びに興じていたのだろう。
確か母はその傷を見て、「あらまぁ」と、大して驚いた風もなく平気な顔をしていた。顔面蒼白の幼児の気持ちなど一切構わず、黄色い粉を傷口にまぶして、上から包帯のようなものを巻き、「ハイ、おしまい」。

私は昭和40年生れだが、あの頃、子供は誰でもしょっちゅう怪我をしていた。
鉄棒から落ちた、ケンカをして気を失った、ドアに指をはさんで、あまりの痛みに吐いた、学校に持って行った鉛筆削り用ナイフで指先を切り付けた・・・。
全部、私が個人的に経験したことだが、同年代の人ならば、「ああ、それなら私も」、と、思い当たるのではないか。

先日、すごい幼稚園の話を聞いた。
出入り口はバリアフリー、ガラスは強化ガラスでまず割れる心配がない、ドアの蝶番(ちょうつがい)には布を張りめぐらせて指を挟めないようにしている、等々。
たぶん、もっと他にも工夫を凝らしているのだろう。
もしかしたら、鉄棒の床部分は全面マットが敷かれていたり、砂場の砂は抗菌仕様だったり(!?)。

武蔵野市長をやっていた土屋正忠さんに話を聞く機会があった。
土屋さんは、駅周辺の駐車禁止を徹底したり、農作業経験等を小学校で義務化するなど、全国の自治体が注目する行政を行なった名市長であった。
その土屋さんが、いまの日本の教育に足りないものは、という話の中で、
「日本は、『貧乏』という教師を失った」
と言われた。貧乏だから助け合った、貧乏だから工夫した、貧乏だから、そこから脱出しようと努力した・・・。

私は、当たり前だが、貧乏が無くなることは結構なことだと思う。
しかし、土屋さんが言おうとしたことは、過保護状態の中では人は育たない、ということであったろう。

怪我をしない幼稚園は、過剰サービスだ。世間全体がその幼稚園と同じシステム、同じ様式を取り入れているのならばよい。しかし、普通の家、商店、どこのドアだって不注意をすれば指を挟む。
教育者がしなければいけないことは、危険を回避するのではなく、自分で危険を回避させる力や、注意力を与えることではないのか。

でなければ、その幼稚園を卒園した子は、ガラス戸は激突しても割れない、敷居は跨がなくてもつまずかない、ドアには何の危険もない、と、思い込んでしまうかもしれない。その方が、よほど危険ではないか。

もっとも、こんなことは幼稚園や学校ではなく、家で教えるのが当たり前のような気はするが。














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一院制

2008-05-20 15:56:03 | Weblog
多くの識者が指摘する、「参議院不要論」。衆参国会議員ですら、本音ではいらない、という人がかなりいる。
ちなみに私は、現在のねじれ国会の遥か以前から、著作などで参議院不要を述べているので、自民党を応援するとかしないとか、そういう次元ではないことをお断りしておく。

まず、赤字だらけの国の財布は、とにかく増税でもしないかぎりもたない。
しかし、その前にやることがある。
民主党はしきりに「行政改革」を言っているが、それでも足りない。
そもそも、国会議員は痛みを感じているのか。

増税に反対はしない。
きちんと理由があって、納得できれば出そうではないか。
それには、国会議員の、せめて3分の1は削減してほしい。
まともに立法スタッフも雇えない議員が大勢いても、役に立たない。

参議院を無くして、浮いたお金で衆議院議員に立法スタッフを持たせ、官僚主導の国会から、議員立法による国会へと変えていくべきだ。

いま出ている「一院制」への現実的な移行方法は、参議院を衆議院の中に取り込んで、全員を「国会議員」とし、選挙ごとに定員を減らしていく、という手。
参議院議員たちが参議院の廃止に反対するのはよく理解できる。
だったら、「衆議院を無くして、参議院と一緒になろう」、と言えばよい。
(あまり意味はないか)。

ちなみに、政治学という学問上では、どのくらいの人口に対して、国会議員が何人いることがよいのか、という明確な理論は確立されていない。
日本の国会議員が半減して、政治が非効率化するとはとても思えないのだが・・・。



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糞桶(くそおけ)の話

2008-05-08 02:18:45 | Weblog
あの、薪を背負って本を読んでいる像でおなじみの二宮金次郎。
二宮金次郎は、飢餓に苦しむ農村を復興するなど、すぐれた行政官であった。
のみならず、独自の思想や哲学を持っており、金次郎を慕って色々な人が彼の元を訪れた。

ある時。金次郎のところに居候していた儒学者が酔っぱらって醜態をさらし、その儒学者の子弟が教えを乞うのをやめてしまった。儒学者は困って、金次郎に相談をした。
「たしかに私の失態は弁解できないが、私が教えているのは聖人の書物だ。私の行ないは聖人の教えと関係ない。なんとか説得して、再び私のもとで勉強するように言って下さい」

金次郎は、こう答えた。
「もし、米を炊いてその飯を糞桶(くそおけ)に入れたら、それでもあなたはその飯を食べますか? きれいな飯を糞桶に入れたにすぎないが、誰も食べないでしょう。
学問も同じです。いくら立派な聖人の教えでも、糞桶の口から発せられる言葉を誰が聞きますか?」

中国の指導者が日本に来た。
チベット弾圧当時の責任者でもある。
その当事者が、「ダライ・ラマと話し合う」「人権は守られている」等々と言ったところで、果たしてどれだけの人が信じるであろうか。
チベット亡命政府に対して、「まずは暴力をやめろ」と言っていたのには呆れてしまった。そのまま、その言葉をお返ししよう。

人は誰でも過ちを犯す。中国共産党の指導者も人間だから、過ちを犯す。
だから批判が大切なのだ。言論の自由が必要なのだ。「お前は間違っているぞ」と忠告してくれる者が必要なのだ。
過ちを謝罪し、良い政治を行なうために、そして暴力的な反抗を防ぐためにも、言論の自由が絶対に無ければならない。

二宮金次郎に諭されて、儒学者は反省をした。
立派な学問以前に、自分自身が立派な人間にならなければいけないと、悟ったのである。
欧米から、もちろんわが国からもチベット問題に対する批判が繰り広げられているこの事態を、どうか中国共産党指導部は受け入れてほしい。
自国のマスコミが「御用新聞」「御用テレビ」しかないのだから、せめて外国メディアの声に耳を傾けてほしい。

批判をする者は、あなた方の敵ではない。
冷静な批判には耳を傾けてこそ、評価が高まるということを知るべきである。
できれば、中国国内に中国共産党を叱る「二宮金次郎」がいてくれたらどれほど安心して付き合えることか、と、隣国の人間は切実に思うのである。

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