岐阜県の「海津市歴史民俗資料館」にお邪魔して、幕末に関する講演を致しました。
立派な能舞台(の前)。
聴衆の皆さんは、50畳敷の畳に座られ、さらに後ろの椅子席もいっぱいで。
温かい雰囲気で、とってもお話ししやすくて、ありがたかったです。
(松永市長も最後までいらっしゃいました。歴史がとてもお好きだと伺いました)。
海津市は、高須藩のあった場所。
会津藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬ら、
幕末に大きな役割を果たした、いわゆる「高須四兄弟」を生んだ藩です。
他にも、「宝暦の治水」や「輪中」といった、
歴史と民俗の隠れた宝庫です。
歴史好きの方は、ぜひ、訪れてみてはいかがでしょうか。
準備をしてくださった資料館の水谷さんはじめ、
資料館のみなさん、
お越しくださったみなさんに、
心から感謝申し上げます。
立派な能舞台(の前)。
聴衆の皆さんは、50畳敷の畳に座られ、さらに後ろの椅子席もいっぱいで。
温かい雰囲気で、とってもお話ししやすくて、ありがたかったです。
(松永市長も最後までいらっしゃいました。歴史がとてもお好きだと伺いました)。
海津市は、高須藩のあった場所。
会津藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬ら、
幕末に大きな役割を果たした、いわゆる「高須四兄弟」を生んだ藩です。
他にも、「宝暦の治水」や「輪中」といった、
歴史と民俗の隠れた宝庫です。
歴史好きの方は、ぜひ、訪れてみてはいかがでしょうか。
準備をしてくださった資料館の水谷さんはじめ、
資料館のみなさん、
お越しくださったみなさんに、
心から感謝申し上げます。
1935年、ベルサイユ条約を無視(違反)し、徴兵制と再軍備開始。
1936年、ベルサイユ条約を無視(違反)し、ラインラント進駐。
1938年、オーストリア併合。
チェコスロヴァキアのズデーテン地方を割譲させる。
1939年、チェコスロヴァキア解体。
ポーランド侵略。
わずか四年の間に、ナチスドイツが、条約や話し合いを一方的に破棄したり無視をして、ヨーロッパに最悪の緊張感を与えた軌跡である。
ひるがえって、現代。
たとえば。
近所に、親子孫三代にわたってピストルや刀を振り回し、幼い子を誘拐しているとんでもない家・Kがあったとする。
で、警察があてにならなかった、とする。
近所は力を合わせて、「誘拐した子を返せ、刀やピストルを捨てろ」と説得する。
でもKは無視。
それどころか、近所との合意に違反して、武器の開発をやり、機関銃も自宅でつくりはじめた。時々試射までする。
で、仕方がないので、K家にモノを売ったりK家からなにかを買ったりしないことを、近所で申し合わせた。
隣のMさんは、その暴力的な家と親戚だったので、話し合いで解決しようとした。
しかし、これまでも何度もだまされてきたので、近所は誰も信用していない。
Mさんはそれでも話し合いに行き、合意を取り付けて大喜び。
しかし、中身を聞いて、近所はがっかり。
「話し合いの間は、機関銃の試射はしない」
だって。
機関銃は、持ち続けるんだ。
誘拐した子は、返さないんだ。
たぶん生活に困ったKは、親切なMさんからお金を援助してもらって、時間を稼ぐんだろうなぁ。
近所の誰も手出しできなくなるような強力な武器をつくって、脅せるようになるまで。
ナチスドイツのヒトラーは、本格的な侵略のための時間を稼いだとも言われている。
英仏は宥和政策によって、ドイツに、「ここまで許されるんだ。じゃあ、こっちをやっても平気だな」と、誤ったシグナルを送り続けた。
妥協すべき線と、譲ってはならない線を間違えるなと、歴史は教えている。
ちなみに、ドイツに大幅な妥協、誤ったシグナルを送って見せかけの平和をつくった英国のチェンバレンは、その直後は英雄となった。
が、ドイツに宣戦布告したのもチェンバレンであった。
やがて政権はチャーチルにかわり、英国の圧倒的不利な戦況下、病没した。
1936年、ベルサイユ条約を無視(違反)し、ラインラント進駐。
1938年、オーストリア併合。
チェコスロヴァキアのズデーテン地方を割譲させる。
1939年、チェコスロヴァキア解体。
ポーランド侵略。
わずか四年の間に、ナチスドイツが、条約や話し合いを一方的に破棄したり無視をして、ヨーロッパに最悪の緊張感を与えた軌跡である。
ひるがえって、現代。
たとえば。
近所に、親子孫三代にわたってピストルや刀を振り回し、幼い子を誘拐しているとんでもない家・Kがあったとする。
で、警察があてにならなかった、とする。
近所は力を合わせて、「誘拐した子を返せ、刀やピストルを捨てろ」と説得する。
でもKは無視。
それどころか、近所との合意に違反して、武器の開発をやり、機関銃も自宅でつくりはじめた。時々試射までする。
で、仕方がないので、K家にモノを売ったりK家からなにかを買ったりしないことを、近所で申し合わせた。
隣のMさんは、その暴力的な家と親戚だったので、話し合いで解決しようとした。
しかし、これまでも何度もだまされてきたので、近所は誰も信用していない。
Mさんはそれでも話し合いに行き、合意を取り付けて大喜び。
しかし、中身を聞いて、近所はがっかり。
「話し合いの間は、機関銃の試射はしない」
だって。
機関銃は、持ち続けるんだ。
誘拐した子は、返さないんだ。
たぶん生活に困ったKは、親切なMさんからお金を援助してもらって、時間を稼ぐんだろうなぁ。
近所の誰も手出しできなくなるような強力な武器をつくって、脅せるようになるまで。
ナチスドイツのヒトラーは、本格的な侵略のための時間を稼いだとも言われている。
英仏は宥和政策によって、ドイツに、「ここまで許されるんだ。じゃあ、こっちをやっても平気だな」と、誤ったシグナルを送り続けた。
妥協すべき線と、譲ってはならない線を間違えるなと、歴史は教えている。
ちなみに、ドイツに大幅な妥協、誤ったシグナルを送って見せかけの平和をつくった英国のチェンバレンは、その直後は英雄となった。
が、ドイツに宣戦布告したのもチェンバレンであった。
やがて政権はチャーチルにかわり、英国の圧倒的不利な戦況下、病没した。
9月29(金)、東京の東亜総研で講演を致します。
テーマは、『歴史失敗学のすすめ』~過去から何を学ぶべきか~。
ご興味のある方は、下記をご覧ください。
http://www.toasoken.asia/?page_id=1647
拙著「失敗の研究」をベースに、わかりやすくお話しいたします。
テーマは、『歴史失敗学のすすめ』~過去から何を学ぶべきか~。
ご興味のある方は、下記をご覧ください。
http://www.toasoken.asia/?page_id=1647
拙著「失敗の研究」をベースに、わかりやすくお話しいたします。
フィリピンと韓国。
アジアの二人の元首が、毎日のように新聞に出ている。
ドゥテルテ大統領と、韓国の朴槿恵大統領。
ふと、終戦後に行われたマニラ軍事法廷を、思い出した。
ドゥテルテ大統領は、ミンダナオ島のダバオ市長であったが、生まれたのはレイテ島のマアシン。
ミンダナオ島もレイテ島も、その周辺海域を含め、第二次世界大戦終盤、日米の大激戦地となった。
当時、そのフィリピン方面を統括していた山下奉文将軍は、戦後になってマニラ軍事法廷で裁かれ、絞首刑になった。
山下将軍処刑の現場に立ち会った牧師の片山弘二氏は、同じくマニラにて処刑された中で印象に残った人物の名を、手記に記している。
韓国出身の、洪思翊(こう・しよく)陸軍中将。
洪中将は、処刑執行を前にやや動揺していた片山氏に対し、
「片山君、何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真直ぐ神様のところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな」
洪中将は裁判中、自身に対する弁解は一切せず、部下に対する裁判の時のみ、証言をしている。
新聞を読みながら、こんなエピソードが、頭の隅をよぎった。
アジアの二人の元首が、毎日のように新聞に出ている。
ドゥテルテ大統領と、韓国の朴槿恵大統領。
ふと、終戦後に行われたマニラ軍事法廷を、思い出した。
ドゥテルテ大統領は、ミンダナオ島のダバオ市長であったが、生まれたのはレイテ島のマアシン。
ミンダナオ島もレイテ島も、その周辺海域を含め、第二次世界大戦終盤、日米の大激戦地となった。
当時、そのフィリピン方面を統括していた山下奉文将軍は、戦後になってマニラ軍事法廷で裁かれ、絞首刑になった。
山下将軍処刑の現場に立ち会った牧師の片山弘二氏は、同じくマニラにて処刑された中で印象に残った人物の名を、手記に記している。
韓国出身の、洪思翊(こう・しよく)陸軍中将。
洪中将は、処刑執行を前にやや動揺していた片山氏に対し、
「片山君、何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真直ぐ神様のところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな」
洪中将は裁判中、自身に対する弁解は一切せず、部下に対する裁判の時のみ、証言をしている。
新聞を読みながら、こんなエピソードが、頭の隅をよぎった。
先週、津川雅彦さんの勉強会に呼んでいただき、
講演をしてきました。
聴衆は俳優さん、女優さん、監督さんやプロデューサーの方、映像関係の学校に通う若者たち。
普段の講演とまったく違う雰囲気でした。
内容は、拙著『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』を基にしたもの。
大河ドラマなどで戦国武将を演じておられることもあって、興味をもっていただけたようです。
講演自体、楽しかったのですが、講演を終えてから俳優さんたちにいろいろなお話しをお聞きできました。
津川雅彦さんはご存知のように、「葵三代」で家康を演じられました。
津川さんは、
「家康は、実は短気な男」
と考え、それを表現をするために、家康の「爪を噛む」癖を利用したそうです。
頭にくると、爪を噛んで、嚙み切った爪を「プッ」、と吐き出す。
吐き出しそうになると、小姓が懐紙を広げて、それをうまく受け取る。
そういうシーン、たしかにあった。。。
また。
最近は喫煙シーンが極端に減ったそうですが、どうしても撮らなければならない時、煙草に火をつけるシーン、もしくは、煙草をもみ消すシーンだけを撮るようにお願いすることがある、と、でんでんさん。
せっかくの機会だからと思って、私がいつも時代劇を観ている時に心配していることをお尋ねしました。
「殺陣」をやっている時に、怪我をしないのか。。。
「アップで撮るときはジュラルミンだけど、殺陣の時はタケミツだから。それに、プロだしねぇ」
と、渡辺裕之さん。
「でも、素人が絡むと怪我することもあるんです」
と、秋野太作さん。
特に殴るシーンで、役者ではない出演者が、時々演技に熱が入りすぎて、本気で殴ってきたりするそうです。
「本当に殴るより、演技で殴った方が、ずっと迫力が出るんですよ」
さすが、プロ。
最後に感想を。
映像関係の学校に通う若者たちが、熱心に話を聞いてくれたことがとてもうれしかったです。
そして、津川雅彦さん。
津川さんは、政治的に保守系と見られていて、実際にもそういう主張をされています。
しかし、津川さん主催のこの会には、津川さんと政治的には反対側の人もいました。
たとえ意見は違っても、それを受け入れる度量と、意見は違っても、互いに人間として尊敬し合う清々しさ。
鬼のような演技もされる津川さんの、別れ際の優しい笑顔。
気持ちの良い、一夜でした。
講演をしてきました。
聴衆は俳優さん、女優さん、監督さんやプロデューサーの方、映像関係の学校に通う若者たち。
普段の講演とまったく違う雰囲気でした。
内容は、拙著『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』を基にしたもの。
大河ドラマなどで戦国武将を演じておられることもあって、興味をもっていただけたようです。
講演自体、楽しかったのですが、講演を終えてから俳優さんたちにいろいろなお話しをお聞きできました。
津川雅彦さんはご存知のように、「葵三代」で家康を演じられました。
津川さんは、
「家康は、実は短気な男」
と考え、それを表現をするために、家康の「爪を噛む」癖を利用したそうです。
頭にくると、爪を噛んで、嚙み切った爪を「プッ」、と吐き出す。
吐き出しそうになると、小姓が懐紙を広げて、それをうまく受け取る。
そういうシーン、たしかにあった。。。
また。
最近は喫煙シーンが極端に減ったそうですが、どうしても撮らなければならない時、煙草に火をつけるシーン、もしくは、煙草をもみ消すシーンだけを撮るようにお願いすることがある、と、でんでんさん。
せっかくの機会だからと思って、私がいつも時代劇を観ている時に心配していることをお尋ねしました。
「殺陣」をやっている時に、怪我をしないのか。。。
「アップで撮るときはジュラルミンだけど、殺陣の時はタケミツだから。それに、プロだしねぇ」
と、渡辺裕之さん。
「でも、素人が絡むと怪我することもあるんです」
と、秋野太作さん。
特に殴るシーンで、役者ではない出演者が、時々演技に熱が入りすぎて、本気で殴ってきたりするそうです。
「本当に殴るより、演技で殴った方が、ずっと迫力が出るんですよ」
さすが、プロ。
最後に感想を。
映像関係の学校に通う若者たちが、熱心に話を聞いてくれたことがとてもうれしかったです。
そして、津川雅彦さん。
津川さんは、政治的に保守系と見られていて、実際にもそういう主張をされています。
しかし、津川さん主催のこの会には、津川さんと政治的には反対側の人もいました。
たとえ意見は違っても、それを受け入れる度量と、意見は違っても、互いに人間として尊敬し合う清々しさ。
鬼のような演技もされる津川さんの、別れ際の優しい笑顔。
気持ちの良い、一夜でした。
『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』のご紹介、その2、です。
第二章は「長宗我部元親と大日本帝国」。

長宗我部元親と大日本帝国には、いくつかの共通点があります。
たとえば、アジアの小国から列強の一角にまでなった日本と、四国の小領主から、四国の覇者になった点。
西南戦争から28年後に、日露戦争に勝利した日本。
家督相続かた25年後に、四国の覇者になった元親。
米英と、最初は友好関係にありながら対立する日本。
織田政権と、最初は友好関係にありながら対立する元親。
およそ国力5倍のアメリカと開戦した日本。
3倍の所領、圧倒的に経済の差があった秀吉と開戦した元親。

興味深い発言があります。
秀吉に攻め込まれた時、一宮城を守っていた谷忠澄は、
「国に兵粮乏しくして上方(秀吉方)と永く取合ふべき(合戦すべき)用意なし」
と言って、長宗我部元親に降伏を進言します。
昭和20年8月13日、ポツダム宣言受諾回答に関する閣議で、広瀬蔵相、石黒農相、小日山運輸相らは、
「国力判断から見て継戦不可能」
と、同じ趣旨の発言をします。
ではなぜ、元親は開戦に踏み切ったのか。
つづきは、本書にて。
第二章は「長宗我部元親と大日本帝国」。

長宗我部元親と大日本帝国には、いくつかの共通点があります。
たとえば、アジアの小国から列強の一角にまでなった日本と、四国の小領主から、四国の覇者になった点。
西南戦争から28年後に、日露戦争に勝利した日本。
家督相続かた25年後に、四国の覇者になった元親。
米英と、最初は友好関係にありながら対立する日本。
織田政権と、最初は友好関係にありながら対立する元親。
およそ国力5倍のアメリカと開戦した日本。
3倍の所領、圧倒的に経済の差があった秀吉と開戦した元親。

興味深い発言があります。
秀吉に攻め込まれた時、一宮城を守っていた谷忠澄は、
「国に兵粮乏しくして上方(秀吉方)と永く取合ふべき(合戦すべき)用意なし」
と言って、長宗我部元親に降伏を進言します。
昭和20年8月13日、ポツダム宣言受諾回答に関する閣議で、広瀬蔵相、石黒農相、小日山運輸相らは、
「国力判断から見て継戦不可能」
と、同じ趣旨の発言をします。
ではなぜ、元親は開戦に踏み切ったのか。
つづきは、本書にて。

新刊のご報告。
お待たせいたしました。
『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』(PHP文庫書下ろし)
発刊いたしました。

実は、最初の『戦国大名失敗の研究』を出した直後に、本作の依頼がありました。
その間、『幕末大名失敗の研究』を挟んで、ようやく完成。
今作のテーマは、「指導者と経営者」。
ある時代の、ある地域(領国)を経営した人物と、
その時代をつくり、日本全体にまで影響を及ぼした指導的人物の差はどこにあるのか。
伊達政宗、長宗我部元親、荒木村重、松永久秀、今川義元。
各々、スペインの独裁者・フランコ将軍や、大日本帝国、ヒトラーに対する各種反乱、第三次中東戦争などと比較をしながら、彼らが「群雄」で終わった理由をさぐりました。
歴史を眺めていると、
「なぜこの人が天下をとれなかったのか、政権を掌握できなかったのか」、
と疑問に思うことがよくあります。
伊達政宗はその好例で、
①政治家としての手腕
②軍の指揮官としての能力
③外交力
④人間としての器
いずれもすぐれていました。
権謀術数に長けた政宗でしたが、
敵に内応した家臣は鮎貝宗信のみで、
弟や母親との確執を含めても、戦国時代には珍しく安定政権を維持しました。
さらに。
政宗は伊達家の家督を継いでわずか五年余で、
伊達家史上最大の所領を得ます。
時に政宗、24歳。
そんな政宗が天下を掌握できなかった理由に、よく
「生まれるのが遅かった」説が多用されますが、
関ヶ原合戦時に、政宗はまだ34歳です。
徳川家康が豊臣秀頼に遠慮をし、正式な書類を出さずに恩賞としての領地を与えていた事実などから、関ヶ原合戦直後には、なお政治は流動的であったと見ることもできます。
その時に34歳という年齢は、若すぎず、また、老齢でもありませんでした。
このことを含め、「遅い誕生説」にはいくつかの疑問があります。
そのほかにも、地理的理由、周辺状況といった、政宗本人ではどうしようもない環境を、政宗が天を掌握できなかった理由に挙げられることが多く見られます。
筆者の見方は、やや違います。
そもそも伊達政宗の政治路線、政治手法に間違いはなかったのか。
秀吉に対するパフォーマンス(白装束や、金箔の十字架)が称賛されますが、本来は、こうしたパフォーマンスをしないでいいように行動するのが、あるべき政治ではないでしょうか。
つまり、選択肢を狭めないようにすること。
政宗は、狭められた選択肢の中で、「これだ!」と決め、実行する能力は高かったのですが、選択肢を多く持つことにあまり大きな関心がなかったのではないか、と思える事象がいくつもあります。
政治では、
選択肢を多く持つことが、とても重要だと思います。
追い詰められた末の決断は、あまり好結果が得られないことが多いからです。
筆者は、実力がありながら豊臣政権の中枢に入れなかった点など、
秀吉との関係性と、領土拡大の失敗、そして、遣欧使節の活用についての疑問を、
政宗の失敗の要因として記述しました。
第2章以下、次回またご紹介いたします。
お待たせいたしました。
『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』(PHP文庫書下ろし)
発刊いたしました。

実は、最初の『戦国大名失敗の研究』を出した直後に、本作の依頼がありました。
その間、『幕末大名失敗の研究』を挟んで、ようやく完成。
今作のテーマは、「指導者と経営者」。
ある時代の、ある地域(領国)を経営した人物と、
その時代をつくり、日本全体にまで影響を及ぼした指導的人物の差はどこにあるのか。
伊達政宗、長宗我部元親、荒木村重、松永久秀、今川義元。
各々、スペインの独裁者・フランコ将軍や、大日本帝国、ヒトラーに対する各種反乱、第三次中東戦争などと比較をしながら、彼らが「群雄」で終わった理由をさぐりました。
歴史を眺めていると、
「なぜこの人が天下をとれなかったのか、政権を掌握できなかったのか」、
と疑問に思うことがよくあります。
伊達政宗はその好例で、
①政治家としての手腕
②軍の指揮官としての能力
③外交力
④人間としての器
いずれもすぐれていました。
権謀術数に長けた政宗でしたが、
敵に内応した家臣は鮎貝宗信のみで、
弟や母親との確執を含めても、戦国時代には珍しく安定政権を維持しました。
さらに。
政宗は伊達家の家督を継いでわずか五年余で、
伊達家史上最大の所領を得ます。
時に政宗、24歳。
そんな政宗が天下を掌握できなかった理由に、よく
「生まれるのが遅かった」説が多用されますが、
関ヶ原合戦時に、政宗はまだ34歳です。
徳川家康が豊臣秀頼に遠慮をし、正式な書類を出さずに恩賞としての領地を与えていた事実などから、関ヶ原合戦直後には、なお政治は流動的であったと見ることもできます。
その時に34歳という年齢は、若すぎず、また、老齢でもありませんでした。
このことを含め、「遅い誕生説」にはいくつかの疑問があります。
そのほかにも、地理的理由、周辺状況といった、政宗本人ではどうしようもない環境を、政宗が天を掌握できなかった理由に挙げられることが多く見られます。
筆者の見方は、やや違います。
そもそも伊達政宗の政治路線、政治手法に間違いはなかったのか。
秀吉に対するパフォーマンス(白装束や、金箔の十字架)が称賛されますが、本来は、こうしたパフォーマンスをしないでいいように行動するのが、あるべき政治ではないでしょうか。
つまり、選択肢を狭めないようにすること。
政宗は、狭められた選択肢の中で、「これだ!」と決め、実行する能力は高かったのですが、選択肢を多く持つことにあまり大きな関心がなかったのではないか、と思える事象がいくつもあります。
政治では、
選択肢を多く持つことが、とても重要だと思います。
追い詰められた末の決断は、あまり好結果が得られないことが多いからです。
筆者は、実力がありながら豊臣政権の中枢に入れなかった点など、
秀吉との関係性と、領土拡大の失敗、そして、遣欧使節の活用についての疑問を、
政宗の失敗の要因として記述しました。
第2章以下、次回またご紹介いたします。
大変お待たせをいたしました!
『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』(PHP研究所)、
間もなく発売です。
書店には7月はじめに並ぶかと。
詳しい内容など、改めてお知らせいたします。
『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』(PHP研究所)、
間もなく発売です。
書店には7月はじめに並ぶかと。
詳しい内容など、改めてお知らせいたします。