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速記文字より生まれた流形文字をフォントにしました。

流形文字をダウンロードして文章を作成出来ます。魅惑的な文字が4つの方式で表現出来ます。ご利用をお願い致します。

甲骨文字はいつ生まれたのか

2010-09-11 12:56:05 | Weblog
       漢字の起源

   甲骨文字はいつ生まれたのか

漢字の起源は中国の殷に溯る。殷は20世紀初頭までは幻の王国であったが、史記によって殷王朝の歴史は記載されていた。
中国の夏商周年表プロジェクトによる歴史年代の研究結果によると夏王朝が開かれるのが紀元前2070頃。 夏が殷に変わる殷王朝が紀元前1600頃。盤庚(契より19代)が殷に遷都 紀元前1300年頃。殷が周に変わる 紀元前1046年。
殷は夏王朝を滅ぼして紀元前1600年頃から紀元前1046年まで続いたとされる。伝説では殷王朝の始祖は契(けい)で、夏の帝舜(しゅん)のとき治水の功績が認められて商を与えられて姓を賜った。史記では殷としているが甲骨文では殷の都を商または大邑商(邑=ゆう)としている。その後、契の子孫は代々夏王朝に仕えて契から湯まで14代の間に8回都を移したという。
商(商い)の由来は商が滅んで後、あちこち渡り歩いて物を売っている人を「あれは商人だ」と言ったことから生まれたという。
甲骨文字の発見は1899年で王い栄が持病のマラリアの治療薬として北京の薬屋で「龍骨」と呼ばれる骨に刻まれた文字を偶然に発見した。また文字学者 劉鍔(リュウガク)によっても発見された。史記には殷の帝の系譜が記載されているが、当時は架空のことと考えられていたが発見された甲骨とほぼ一致する帝の名前が確認されたことで実在性が疑いないものとなった。
発見された甲骨文字によってどの時代のものかが判る。調査の結果では第1期は27代(22代)の武丁の時代の甲骨が57%。第2期は祖庚・29代(23代)祖甲兄弟のが11%。第3期30代・31代(25代)が12%。第4期32代・33代(27代)8%。第5期34代・35代(30代)肘王時代が10%と断定している。
この調査によって甲骨文字は武丁によって甲骨文字が使用されたのだが、それは亀甲や牛骨などに記された占いの記録であった。王は国事を行なう時は必ず占いは王自らが行なった。占いは癸(みずのと)の日以後、10日間の吉凶を行なうものと、開戦や豊作、異常気象などを祈願するものとがある。甲羅の血や肉をとり除き、滑らかに磨いて、占いを刻む。その裏面に小さい穴を堀り熱した青銅製の棒を差し込むとしばらくして表側にト形のひび割れができる。占いの前辞に日付と貞人の名を記す。(占いを担当する神官を貞人という)命辞 占う内容(主文)。占辞 王の判断。験辞 実行の結果の順となる。亀甲の場合は中心線にそって肯定文と否定文を刻むことが多く、牛骨の場合は羅列しているのが多い。
占いは吉凶の2者択1であるが、凶兆が出ても再度、生贄を増やすなどをしたうえで吉兆が出るまで繰返された。占いの結果、どのようなことが起こったかが刻まれた。甲骨には朱が塗り込められて神と王の交信が神聖を示すものとされた。
発見された甲骨は15万枚といわれ、甲骨文字は4500字以上であり判別された文字は1500字、殷時代の天文から暦、政治、軍事、文化、医薬、社会風俗など多岐に亘っている。武丁の時代に突如として甲骨文字が現われたのであろうか。文字は絵文字から発展したというのが大方の見方であるが甲骨文字は余りにも完成し過ぎているという。

15 あおげば尊し

1 あおげば尊し わが師の恩 教えの庭にも はや幾年
  思えばいと疾し この年月 今こそ別れめ いざさらば
2 互いに睦みし日頃の恩 別るる後にも やよ忘るな
  身を立て名をあげやよ励めよ 今こそ別れめ いざさらば
3 朝夕なれにし学びの窓 蛍のともし火 つむ白雪
  忘るるまぞなきゆく年月 今こそ別れめ いざさらば
  (明治17年 小学唱歌集)


清少納言のその後

2010-08-26 15:41:15 | Weblog


華やかな平安王朝をメモした清少納言(その6)

清少納言のその後

藤原棟世が摂津守(現在の大阪北中部と兵庫県南東部にあたる)を務めていたのは長保年間であったが、清少納言はこの地に身を寄せたのであろう。その後は棟世の別荘があった「月の輪」(現在の京都市左京区嵯峨清滝月の輪町あたりに住んでいたことが「公任集」によって知られる。宮廷から去った後も宮廷関係の女房らとつきあっていたのが和歌のやりとりで分かっている。道長の室 倫子に仕えた赤染衛門から
元輔が昔住みはべりける家のかたわらに清少納言が住みけるころ、雪いみじく降りて隔ての垣根も倒れければ、申しつかわしける。
 跡もなく雪ふるさとは荒れにけり いずれ昔の垣根なるらむ。
独り身になったころには亡き父の住んでいた所のかたわらにいたのでしょう。赤染衛門は栄花物語の著者とも言われており、中古三六歌仙でもある。小倉百人1首の中に「やすらわで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月をみしかな」がある。また和泉式部(いずみ)からは
 駒すらにすさめぬほどに老いぬれば 何のあやめも知られやはする
清少納言から
 すさめぬにねたさもねたし あやめ草 ひき返しても駒かえりなん
いまでは馬すらも食べてくれない枯れ草のように老いてしまった私には節句の菖蒲も分別のあやめも知られません。
 馬も食べてくれないとは癪にさわるわね、節句のための菖蒲のように若返りましょう。馬も引きかえして来ることでしょう。
和泉式部も三六歌仙で 小倉百人1首の中にある あらざらむ この世のほかの想い出に 今ひとたびの逢うこともがな がある。清少納言より14歳ほど年下である。彰子の女房として出仕している。紫式部日記では「恋文や和歌は素晴らしいが、素行は感心できない」と批評されている。数多くの恋愛をして恋歌を情熱的に歌っている。和泉式部日記は彼女の書いた作品とされている。
清少納言の晩年を伝える「古事談」がある。
清少納言が落ちぶれたのち、その家の前を殿上人が通りかかって、その家がすっかり壊れているのをみて「清少納言も落ちぶれたものだな」と話していたところ、清少納言が家の簾(すだれ)をあげて鬼のような尼姿で顔をだして「中国では駿馬(しゅんめ)の骨を買った人だっているよ」と言った。(馬を好んだ王が死馬の骨にも金を出したという故事による。また、源頼光が部下に清少納言の兄弟である致信を討たせたとき、同居していた清少納言を男法師と間違い一緒に殺されそうになった時、自分が女であることを知らせるため衣をまくって陰部を見せたという。
紫式部がはからずもいった、清少納言こそしたり顔でいみじうはべりける人・・・そのあだならぬ人のはて、いかでかはよくはべらむ。という予言は的中したのでしょうか。清少納言のたくましき生き様を世人は非難したのであろうか。宮中の女房は当時の女性の最高の就職先あった。華麗なる平安王朝の中で定子とそれを囲む宮中サロンの情景は清少納言によってメモされた。あたりはうすぐらくなり、文字も書けなくなり、筆もちびってしまいました。これだけを書き終えましょう。この草子は私が見、こころに思ったことをまさか人は見ることはあるまいと思ったのに。しかしこの草子が書かれたので平安王朝の輝きを今に知ることが出来たのである。感謝
平安朝時代の王朝の男女は数多くの恋愛をしてつかの間の青春を謳歌したようですね。人生30年から50年ぐらいだったのでしょうか。
小野小町をはじめ清少納言、紫式部、和泉式部などの宮廷女房にしてもその生涯の焦点は宮廷奉仕の時期のことしかわかっていなく、晩年のことか定かではない。
清少納言の生まれたのは康保三年頃(966)で死亡は万寿二年頃(1025)という。
墓所は徳島県鳴門市里浦町坂田 比丘尼の姿で阿波里浦に漂着して辱めをうけんとして自らの陰部をえぐり投げつけて姿をけし、尼塚という供養塔を建てたという。
香川県琴平金比羅神社大門 清塚という清少納言が夢に死亡地を示した「清少納言夢告げの碑」
京都市中京区新京極桜ノ町 誓願時において出家、往生を遂げたという。

   13  蛍の光

1 蛍の光 窓の雪 文よむ月日 重ねつつ いつしか年もすぎの戸を
  あけてぞ今朝は別れゆく
2 とまるも行くも限りとて かたみに思う ちよろずの 心のはしをひとことに
  さきくとばかり 歌うなり
3 筑紫のきわみ みちの奥 海山遠くへだつとも その真心はへだてなく
  ひとえにつくせ 国のため
4 千島のおくも おきなわも やしまのうちの まもりなり 
  いたらんくにに いさおしく つとめよ わがせ つつがなく

   14 案山子

1 山田の中の1本足の案山子 天気のよいのに みのかさつけて
  朝から晩までだだ立ち通し 歩けないのか山田の案山子
2 山田の中の一本足の案山子 弓矢でおどして力んでおれど
  山では烏がかあかと笑う 耳がないのか 山田の案山子


いよいよ夏のまっさかり、毎日あついですね、お元気ですか、こちらではもうツクツクボイシが鳴き始めました。夏の甲子園は沖縄の興南高校の優勝でしたね。それでは歌のおけいこで流星文字もしっかりね。

定子との別れと清少納言の旅立ち

2010-08-11 12:50:31 | Weblog
    華やかな平安王朝をメモした清少納言(その6)

  定子との別れと清少納言の旅立ち

人の世に栄枯盛衰があるように、桜の花が満開になりその美しさに見とれている間に、花びらはぱらぱらと散っていく。人の世もこれと同じであるが。運命は人それぞれに異なる。一条天皇の中宮 定子も父 道隆の死後、兄 伊周の凋落により長徳2年(996)5月に落飾(仏門に入ること)しているが長保元年(999)には皇子 敦康(あつやす)親王を出産(11月)、同月には道長の長女 彰子が入内して女御となっている。この彰子の家庭教師になるのが紫式部である。彰子を中宮と呼び、定子を皇后と称した(2后並立)。長保2年(1000)12月に定子は第2皇女 媄子内親王を出産したが翌日に崩御した。御年25歳、うら若きつかの間の生涯であった。栄花物語に定子の時世の歌が残されている。「よもすがら契りしことを忘れずは恋ひん涙の色ぞゆかしき」夜通し約束して下さった私への誓いのお言葉をお忘れでないならば、私のことを恋しく思い出してくださるでしょう、その涙の色を見たいのです。定子は自分の死を予感していたのでしょう。枕草子では定子は常に笑う人として描かれているが清少納言は人の悲しみや死を書いていない。中宮さまから頂いた草子に思いつくままに書いたこの枕草子を読んで人が面白かったと言われるのでびっくりしています。この枕草子が人に見られたことが残念です。と後悔している。
定子の死後、しばらくして宮仕えを辞した清少納言は地方長官であった藤原棟世(むねよ)のいる摂津国へ旅立って行った。その頃に結婚したのであろうか。棟世との間に娘を産んでいる。この娘は子馬命婦(こまのみょうぶ)の女房名で彰子のもとに出仕している。清少納言が定子のもとに出仕したのが正歴4年(993)、それから長保3年(1001)に辞去しているので宮仕えの期間は8年間であった。定子との思い出を胸にいだいて波乱に満ちた平安王朝から静かで地味な暮らしは彼女の心を癒してくれたことでしょう。枕草子は宮中から去ってのことには何も書かれなかった。

清少納言は才女でしたね、それにしても好きな男が次々に現れて去っていきました。人の目を引く美人だったのでしょうか。

赤城の子守唄

1  泣くな よしよし ねんねしな 山の鴉が 啼いたとて
 泣いちゃいけない ねんねしな なけば鴉が またさわぐ
2 坊や男だ ねんねしな 親がないとて 泣くものか
  お月さまさえ ただひとり 泣かずにいるから ねんねしな
3 にっこり笑ってねんねしな 山の土産は 何をやろ
  どうせやくざな 犬張り子 貰ってやるから ねんねしな



源氏物語と紫式部

2010-07-27 16:33:14 | Weblog
   華やかな平安王朝を物語る熟女たち
 
   源氏物語と紫式部

平安京では天皇家も貴族階級も男女関係については、源氏物語にも見られるように大らかな時代であったようで、天皇の子である光源氏が父天皇の中宮 藤壺と関係を結び藤壷に皇子が生まれ、その子は後の天皇 冷泉帝となるというのであるが、このような物語を紫式部が構想すること自体や、その物語が世間の批判をあびること無く逆に大歓迎され、それが時の天皇や貴族にもてはやされて作者は中宮 彰子の家庭教師に招かれるということになったのだが、今日ならば作品の発表さえはばまれ、このような物語自体が、現世に出現しないことになるのでしょう。紫式部はよき時代に恵まれて自分の思い通りの物語が書けたのでしょう。その頃の天皇家や貴族社会の男女関係のモラルはここに書かれているようなことが有り触れた事象だったと思われます。
藤式部は自らの経験をこの書に書きあげて心の浄化をしていったのでしょうか。それにしても男と女の人生はあまりにもかけ離れていたのですね。

背くらべ

1 柱のきずは おととしの 5月5日の背くらべ
  ちまち食べ食べ 兄さんが はかってくれた 背のたけ
  きのう くらべりゃ 何のこと やっと 羽織の紐のたけ
2 柱にもたれりゃ すぐ見える 遠いお山も背くらべ
  雲の上まで顔出して てんでに背伸び していても
  雪の帽子をぬいでさえ 1はやっぱり 富士の山


長かった梅雨もようやく過ぎましたが、日本全国で山崩れや、水害で被害を受けられ大変でした。皆様方にはお変わりありませんでしたか。
宮崎県での牛豚の口蹄疫もようやく防除終了です。7月27日に非常事態を全面解除しましたが、殺処分した牛豚は約29万頭にもなりましたが、ウイルスの恐ろしさを感じさせられたようです。国県、地域の反省が充分されることが必要です。初動対策に大きな問題があったと言われます。
日本人の平均寿命が発表されましたが、2009年の平均寿命は女性 86.44歳、男性 79.59歳。女性は25年連続世界1。男性は08年の4位から5位になったとのこと。これはうれしいニュースです。それでは流星文字も手書きで「手と頭の運動1.2.の3」大学生の方は流形文字で講義のメモは楽ちんです。
[流形文字フォントA]2.0もよろしくね。それではまた8月の夏の日に
「流形文字フォントA」2.0ここをクリック

「流形文字フォントA」2.0のお知らせ

2010-07-20 15:26:40 | Weblog
流形文字フォントA」2.0のお知らせ

「流形文字フォントA」について
皆様には流形文字フォントをご使用いただきありがとうございます。この度、「流形文字フォントA」2.0を出しました。これまでの「流形文字フォント」1.0からの改良は字形の改良、追加、絵文字などの流星文字の追加などを行なっております。
(1) 流形の長音記号、拗音記号の改良、流星文字の改良と追加
(2) 絵文字(象形文字)の追加はgooブログの2009年10・12月以降の「絵文字もどき」などの追加をいたしております。
(3)その他の記号の追加、と文字型の改良を行っております。
ダウンロードの詳細はこちらをクリックしてください。

ダウンロード(アンインストール)の改良について
ダウンロードについては外字リンカー(武蔵システム)を同梱しており、ダウンロードの改良でインストールの時間も少なくなります。アンインストールも簡単になっております。
仔細はこちらをクリックしてください。

vectorの[流形文字フォントA]へ

HPダウンロードペジへ

史記の著者 司馬遷 2   

2010-07-14 13:21:09 | Weblog
       史記の著者 司馬遷 2
   
父 司馬談が亡くなってから3年目、遷は太史令に任ぜられた。38歳の時である。太初歴を定める天官の任に当たりながら父の遺言を果すために多くの資料を精査して大史公書の作成に着手したのは太初元年(前104)42歳の時であった。この時から6年後の天漢2年(前98)遷にとって悲惨な事件が起こったのである。それは遷が「任安への返書」の中に書かれている。ことは漢と匈奴との戦で征伐に向かった将軍 李陵が降伏した事件である。李陵は僅か5千の兵をひきつれ、8万の大軍に包囲されて連戦8日、援兵を乞うも至らず、矢つき刀は折れて、食う糧なく、兵の大半を失い、李陵は矢を受けて失神し、倒れているところを捉えられた。李陵は降伏して匈奴の王に仕えることになったのである。このことを聞いた武帝は激怒して、李陵の妻子やその1族をも捕らえて死罪を課せようとした。
司馬遷は同じ郎中(官僚見習い)の職であった李陵とその妻子を憐れむあまり、李陵を弁護する上申書を武帝に奉じた。このことで武帝の怒りを買い、天漢3年、獄舎につながれて、腐刑(宮刑・宦官)に処せられた。遷は悲憤、慨嘆して「これわが罪なるかな、これわが罪なるかな、わが身は壊れて世に用いられず」と詠嘆して自殺をも考えた。しかし、父との臨終の約束を思い太史公書を完成させることこそ、われに課せられた道であると自殺の思いを止るに至った。
元和元年(前96)に出獄が許されたて中書謁者令に任命された。これから史記の著作にまい進して6年、遂に太史公書は完成したのである。それは武帝征和2年(前91)遷は55歳、史記を書き始めてから14年目であった。
「任安への返書」は、任安が遷に出した手紙の返書である。任安は無実の罪で死刑の宣告を受けたのに対して同じ心中が理解されると思って出したとされる。
太史公書は「12本記を著し、10表、8書、30世家、70列伝を作る。凡そ130篇、52万6千5百字、太史公書と為す」太史公自著とあり、中国正史の首座として今日に燦然と耀いている。王権の正しき在りかたを説き悪業を聡し歴史を鏡に照らしたのである。太史公書は竹と木の簡策に漆で書かれており、迫害と逸失を防ぐために2部を作成し、1部は世間に知らせて、1部は深山に隠した。太史公の記す、「之を名山に蔵し、副は京師に在り。以って後世の聖人君子を俟(ま)つ」と。果せるかな、これを見るや武帝は怒り孝武本記などを損却させたし、巷にては之を読む者多くて、それゆえ亡失することにもなったのである。しかし、名山に隠したのがあったお陰で、今日に残ることになったという。蓋し、2077年前の遥か昔の書が今日に在ることが驚愕である、司馬遷の困苦と偉大なる功績に感謝し冥福を祈る。司馬遷の墓地は漢城市芝川鎮にあり生まれ故郷はこの近くの夏陽という。

   歌のおけいこ 10

     汽車

1 今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと 
  思う間もなくトンネルの闇を通って広野原
2 遠くに見えるは村の屋根 近くに見える町の軒 
  森や林や田や畑 後へ後へと飛んでいく
3 廻り燈籠の絵のように 変る景色のおもしろさ
  見とれて それとも知らぬ間に 早くも過ぎる 幾十里

長い梅雨ですね、まったく、いやになります。FIFAワールドカップ 残念でしたが、頑張りましたね。何事も一挙にはいきません。蛸坊主さんの予言8連勝にはびっくり、超能力でしたね。民主党、これもそんなにうまくはいきません。何事も臥薪嘗胆、(薪の上に寝て苦い肝を嘗める)。自民党も一息、みんなの党は国民の視線を集めましたね。それでは皆様、流星文字はしっかり勉強してね、臥寝賞耽! お元気で


史記の著者 司馬遷

2010-06-23 13:43:20 | Weblog
史記の著者 司馬遷
    
清少納言の和歌「よに逢坂の関はゆるさじ」で函谷関の故事が出ていますが、この逸話は司馬遷の書いた史記の中にあるもので「大史公書」と自序で名付けた。司馬遷が生きた時代は紀元前145年から前90年?56歳が最後の記述とされています。キリストが生まれる以前100年も前に膨大な歴史書を書いていることに驚きを襟じえません。
日本への伝来は正確にはわからないが、聖徳太子の「17箇条の憲法」にも史記が利用されたとの見解がある。奈良時代に「続日本記」の中で神護景雲2年(768年)日向国宮崎郡の大伴人益が目の赤い白亀を献上しており、その上奏文に史記の亀策列伝の「神亀は天下の宝なり」を引用している。平安時代には藤原佐世が奉勅して(889~897)日本国見在書目録に「史書80巻」と記載されている。
清少納言も史記を引用し紫式部は源氏物語に多くの詩文を引用している。徳川光圀は18歳の時、史記を読んで感動したという。後に光圀は「大日本史」を編纂することになった。日本に現存する最古の「史記」は南宋時代に出版されとされるもので1195~1201年刊行である。この本は妙心寺の僧侶 南北が所有していたが直江兼続に譲り、後に米沢藩「興譲館」に保管され、現在は国宝として国立歴史博物館に保管されている。

司馬遷の家は古から周の歴史を司る家柄であった。父の司馬談は漢の武帝に仕えていた頃、太史令に任ぜられていた。司馬遷が10歳の頃には古文を諳んじたとのことから天稟の才があったと言われる。20歳の頃には漢の地の殆どを巡り各地の民情や古来の伝説、史跡を尋ねて見聞を広めた。武帝は元封元年(前110年)封禅の儀式を行なったが、それに記録官である談が参列できなかった。談はこのことに落胆して病になり、帰って来た遷の手をにぎりしめて言った。「わが祖先は周室の太子で天官のことをつかさどっていた。今、天子が千載の皇統を継ぎ、泰山で封禅するのに、わしは論才の責を果すことができない。天下の史文を廃することになったのを懼れざるをえない。わしが無念と恥辱これにすぐるものはない。わしが死んだらお前はきっと太史になり、太史令に任ぜられよう。もし太史令となったならば、わが論著せんとして果さなかったこと必ず忘れるでないぞ」と言った。遷は涙を流して「不憫ではありますが、父祖の次第した旧聞を論述して、あえて欠くるところがないようにいたします」と答えた。これは遷が「太史公書」で書いていることです。

参考文献 史記 新釈漢文大系 38 
著者 吉田賢抗
       発行所 株式会社 明治書院


会津磐梯山
1 エンヤ 会津磐梯山は 宝の山よ 
笹に黄金がエーまたなり下がるよ
  *スッチョイ スッチョイ スッチョイナ
2 エンヤ 会津盆地の緑の夏よ 風もほがらかにエーまた鶴ケ城
  *
3 「おはら庄助さん、何で身上 つぶした。
  朝寝 朝酒 朝湯が大好きで、それで身上つぶした
  ハアもっともだ もっともだ」
4 エンヤ 東山から 日にちのたより 
  いかにゃなるまいエーまた顔見せに
  *

日本の空も毎日梅雨ですネ その後 おかわりありませんか、FIFAワールドカップ 日本は1勝1敗、さて次はどうなりますか。ここらで気合の入れどころ・
流星文字にも気合をいれてくださいね。それでは次はサンマータイムで。


清少納言と藤原実方

2010-06-12 16:19:28 | Weblog
    華やかな平安王朝をメモした清少納言(その5)

ある日のこと一条天皇と定子が寝んでいられる間、控えの間にいた清少納言や女房らが、うつらうつらしていて、朝方になってお二人が起きられてきたので、慌てて身支度をしていると、物陰から誰かが出てくるのに気づいた。見るとその方はなんと行成であった。「すっかり見ちゃったよ、君の寝顔を」と行成。「見ないという約束だったのに、あんまりだわ」そんなことがあった後は行成様が私の部屋に行ってこられたりするようになさいました」。清少納言の[逢坂の関]の和歌は行成によって皆にばらされた。清少納言はそれに対して「公表してくださってありがとう」といっている。行成の方の和歌は枕草子に書かれたことで世に残った。男女間の愛のやりとりなどを、おおっぴらに公開するということは、今日ではおよそ考えられないですが。その当時は、そうすることが当たり前の時代だったのですね。
行成(こうぜい)が大納言の頃に左近中将から陸奥守となった中流貴族の藤原実方(さねかた)は中古36歌仙の一人であるが、清少納言との仲を伝えるのが「後拾遺和歌集」にある。
清少納言、人には知らせで絶えぬ仲にて侍りけるに、ひさしう訪れはべらざりければ、よそよそにて物などいい侍りけり。女さし寄りて「忘れにけりな」と言いはべりければ、詠める  実方朝臣
(清少納言のことは人には言わないものの何時も思う仲でしたが、ひさしく訪れがありませんでしたので、何もない仲のようにしておりました。そうしていると女のほうからそっと寄ってきて「私のことを忘れておしまいになったのね」といいましたところで詠める 実方朝臣)
 忘れずよ また忘れずよ かわら屋の下焚く煙下むせびつつ
(あなたのことは忘れないよ、いつまでも忘れないよ。瓦を焼く小屋の下で、その煙にむせぶように、心の中でむせび泣きをしながら)
清少納言の返歌
 あしの屋の下焚く煙つれなくて絶えざりけるも何によりてぞ
清少納言は笑いの中に生きたと思われますが、はかない恋いを嘆いたのでしょう。
藤原実方は光源氏のモデルといわれている。美貌と風流、酔狂の貴公子であった。ある時。藤原行成と歌のことで腹を立て行成の冠を庭に投げた。これを見ていた天皇はその行いに怒り陸奥守として下降させた。4年の任期を間近にして笠島道祖神の前を通ると土地の人が祈願を勧めたが「下品な神を拝むことはない」といって通り過ぎようとすると、突然 馬が暴れて落馬した。その怪我で長徳4年にこの名取りの地で亡くなったと言われる。
枕草子で「まことにや、やがてはくだる」と言いたる人に、思いだにかからぬ山のさせもぐさ誰かいぶきのさとはつげしぞ」
(本当ですか、まもなく地方に下向するというのは と言ってきた人に、まったく思いかけてもいない地方の話を、いったい誰が言い出して、そうなのだとあなたに告げるのでしょう。)
実方朝臣集「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思いを」
(このように恋いしたっていますとすら言えないでいるのですから、あなたもご存じないでしょうね。さしも草のように燃えるわたしの思いを)小倉百人1首 色男の別れはつらかったのでしょう。波乱にみちた人生は終焉の地に向かいました。

牧場の朝
1 ただ1面に立ちこめた 牧場の朝の 霧の海
  ポプラ並木のうっすりと 黒い底から 勇ましく
  鐘が鳴るなる カンカンと
2 もう起き出した小舎小舎の あたりに高い 人の声
  霧に包まれあちこちに 動く羊の 幾群れの
  鈴が鳴る鳴る リンリンと
3 今さしのぼる 日の影との 夢からさめた 森や山
  赤い光に 染められた 遠い野末に 牧童の
  笛が鳴る鳴る ピーピーと

鳩山内閣もあっけなく終わり、管内閣の発足です。民主党の人気もまた上がりましたね。問題山積、さてどう取り組むか。知恵者はいるのか?。口蹄疫は?
「牧場の朝」をうたって流形文字もしっかり覚えましょう。

歌のおけいこー7

2010-05-24 16:29:05 | Weblog
あめふり

1 あめあめ ふれふれ 母さんが 
  じゃの目で おむかえ うれしいな
* ピチピチ チャプチャプ ランランラン
2 かけましょ かばんを 母さんの
  あとから 行こ行こ 鐘がなる  *くりかえす
3 あらあら あの子は ずぶぬれだ 
  柳の ねかたで 泣いている   *
4 母さん ぼくのを かしましょか
  君君 このかさ さしたまえ   *
5 ぼくなら いいんだ かあさんの
  おおきな じゃの目に いっていく *

早いもので、5月も 後わずか、毎日が矢のように過ぎていきます。皆様方はいかがお過ごしでしょうか。濃い緑の中に真っ白なタイサンボクの花や、さつきが咲きはじめました。タイサンボクの花は直径25センチもありますよ。それに枇杷が黄色く熟しました。「これはうまい」すみません、送れなくて。最近 雨も多くなりましたね。
さて日本の近海、朝鮮半島では韓国軍艦への魚雷攻撃があり、まさに戦争の勃発になりかねません。政府は沖縄 普天間基地の移設を辺野古とする方針を出しましたね、沖縄県民はNOと云ってていますが。宮崎県川南町で発生した口てい疫は拡大の一途です。20万頭もの牛、豚が処分され、日本初のワクチン接種が行なわれています。ワクチン接種する頭数も20万頭になるようですが、これらの牛豚も処分されます。畜産農家も涙。牛、豚も泣いています。
静かな世の中のようですが、最近ではいろんな事件が次々に勃発しています。
どうして、何故、どうすれば?すべては人間のなせる業でしょうか。
それでは皆様、また6月に、/流形文字で日記を書こう!。

「函谷関」「孟嘗君」「鶏鳴狗盗」

2010-05-12 15:47:51 | Weblog
「函谷関」「孟嘗君」「鶏鳴狗盗」

中国の史記(司馬遷)の中に紀元前279年頃の孟嘗君(もうしょうくん)の話がある。父、田嬰(でんえい)は薛(せつ)の国主となっていた。40人ほどの子がいたが、その中に妾の子、田文(でんぶん)がいた。田嬰は多くの食客を屋敷に招きいれていたが、その世話を田文(孟嘗君)に任せていた。そうすると食客や、諸侯の間でも評判を呼び、田嬰は孟嘗君を跡継ぎにした。その食客は3000人ともなったという。
孟嘗君は斉(せい)の湣王(びんおう)の命で秦に行き宰相となったが奸言により捕らえられ殺されそうになった。
逃げ出す手段は秦の昭襄王(しょうじょう)の寵妃、幸姫(こうき)に会って策をめぐらすほかあるまい。早速 幸姫に面会して、助命を嘆願すると幸姫はその代わり孟嘗君の所有している狐白裘(こはくきゅう・狐の腋の白い毛で作った衣で狐万匹、値万金)がほしいという。「早速、届けます」。孟嘗君はそう返事をしたものの、狐白裘は昭襄王に献上していたのである。帰ってこの事を話すと食客の中に狗盗(泥棒)の上手がいて、すぐさま蔵に入って狐白裘を盗んで来た。狐白裘をもらった幸姫はすぐさま昭襄王に孟嘗君を釈放するよう進言して、どうにか出所することができた。
孟嘗君は馬で駆けて夜半に函谷関に着いたが、函谷関は鶏の声で関を開ける決りであった。食客の中に物真似のうまいのがいたので、その男に「コケコッコー」と鳴真似させると寝ていた鶏達は皆起きて「コケコッコー」と一斉に合唱してきた。関守は「まだ夜中のようだが?」と首を傾げていたが、規則であるので開門した。孟嘗君の一行は大急ぎで函谷関から脱出した。昭襄王は孟嘗君の逃走を知るや追っ手を向けたが、すでに函谷関から逃走したことを知ると追跡をやめた。斉に帰った孟嘗君は韓・魏の軍と連合して秦を討った。
孟嘗君に睨まれると大変なことになると、各国は畏れることになった。孟嘗君は利でなく、義をもって動く人であったことは、日本の戦国時代の上杉謙信と似てますね。直江兼続さんは愛ですね。
(函谷関=中国、河南省西部の南岸に位置する交通、軍事上の要地)

5月の連休 いかがでしたか。! それはヨカッタですね。鳩山さんも5月は普天間の天王山でしょうか、ここは知恵者の孟嘗君に託するとどうでしょう?。孟モウといえば宮崎県の牛の口蹄疫はまだまだ収まりませんね。お隣の韓国も軍艦の撃沈で大事件です。ギリシャも大変、万博どころではなくなりました。さて、あなたも事件記者、流星文字でガンバッテください。

   歌のおけいこー6



1 でた でた 月が まるい まるい まんまるい
  ぼんのような 月が
2 かくれた雲に くろいくろい まっくろい すみのような雲に
3 またでた月が まるいまるい まんまるい ぼんのような月が