速記文字より生まれた流形文字をフォントにしました。

流形文字をダウンロードして文章を作成出来ます。魅惑的な文字が4つの方式で表現出来ます。ご利用をお願い致します。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(8) シーザー:ノート 3

2011-10-31 11:33:43 | Weblog
    クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(8) シーザー:ノート 3

財務官としてシーザーはヒスパニア(Hispania.イベリア半島のスペイン・ポルトガル・アンドラ・ジブラルタルの領域の古名)に赴任して、この地でアレキサンダー大王の像を見た時、「自分はアレキサンダー大王の年齢と同じになったが、何もなし得ていない」といい、偉業達成の意気込みを見せている。その後、ローマに戻り、財務官の任期を終えたことで元老院の席を得た。
ローマに帰ったシーザーは宿敵であったスッラの孫にあたるポンペイアと結婚した。ポンペイアは裕福であったので、その財産を買収や陰謀などに使ったという。紀元前65年には上級按察官(古代ローマの政務官職の一つ・主に公共建築の管理、祭儀の管理を行なう)に就任してマリウスの戦勝碑の修復や多額の公費を使い公共事業や公共祭儀を行なった。
紀元前63年、シーザーは最高神祇官(古代ローマの国家の神官職で神官の長で神官団を監督し任期は終身で他の官職との兼任も可能・この職はアウグストゥスも就任して以降はローマ皇帝が兼ねるようになった)に立候補したが、多額の借財を抱えて、落選すれば国外退去をする覚悟であったが二人の対立候補を抑えて当選して晴れて公邸に住み身となった。
この年、ルキウス・セルギウス・カティリナー一味による国家転覆の陰謀が発覚した。この年の執政官であったキケロはカテリーナ一一味を断罪し陰謀者は処刑された。紀元前62年にシーザーはプラエトル(法務官)になったが、シーザーはクラッススと共に陰謀を裏で画策していたとも伝えられ、陰謀者の処刑には反対していた。シーザーがこの陰謀に関わっていたという審議の会議中に、シーザーは部下から手紙を受け取った。それを見たマルクス・ポルキウス・カト(小カト・キケロ派の元老院議員)は「その手紙は陰謀の証拠であるから見せろ」と迫った。シーザーは「これは大したものではない」と途惑う様子を見せたが、小カトは執拗に要求したので中身を見せると、それはセルウィア(小カトの異父姉)からの恋文だったという。「この女たらし!」と罵倒したが、これ以上シーザーを追及できなくなり、議場は大爆笑となり、シーザーへの疑いはうやむやになってしまった。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(7) シーザー:ノート 2

2011-10-17 10:22:33 | Weblog
    クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(7) シーザー:ノート 2

紀元前80年にスッラは終身独裁官を辞して前78年には死亡し、シーザーはローマに帰還した。ローマに帰ったシーザーは弁舌で一躍 有名になった。その頃、ローマでは属州統治において現地民への脅迫や搾取・収賄を行う者が多く、このような属州総督を次々に告発した。その中には前81年に執政官に選出されたグナエウス・コルネリウス・ドラベッラもいた。この頃、弁舌で知られていたキケロ(マルクス・トウッリウス・キケロ:弁舌家・政治家・国家論などの著作家・執政官)もシーザーの弁舌を賞賛したという。
シーザーはドラベッラの告発が不調に終わったことで復讐を恐れて紀元前75年にロードス島に逃がれてキケロの師で修辞学の権威として有名であったアッポロニウス・モロンに師事している。
エーゲ海からロードス島に渡る途中でシーザーはキリキアの海賊に捕らわれ身代金20タレントを要求されたが、シーザーは「20では安すぎる、50タレント要求しろ」と言いい「自分が戻ったらお前たちを磔にしてやるぞ」と言った。そして身代金が支払われて釈放されると海軍を招集して海賊を捕らえ、ベルガモンの獄につないだ。
その後、アシア属州総督に処刑を命ずるが、総督はこれを拒否して奴隷に売ろうとしたので、シーザーは海路を引き返して自分の命令で海賊を磔にした。
ローマに戻ると軍団司令官に選出されてクルスス・ホノルム(貴族階級者が最高の官位である執政官(コンスル)に就任するまでの名誉のコース)への道を歩み始めた。
前73年には、スパルタクスらによる第3次奴隷戦争が勃発している。この戦争で活躍したのがグナエウス・ポンペイウスやマルクス・リキニウス・クラッススらであったが、この戦争にシーザーの活躍した記録はない。前69年には財務官に就任する。叔母のマリウスの寡婦ユリアとシーザーの妻コルネリアも死亡した。
シーザーは叔母のユリアの追悼演説で「ユリウス氏族はアエネアス(トロイの王家につながる武将で後にローマ建国の祖となったといわれる)の息子アスカニウス(ローマ神話に登場する伝説の王)に由来し、したがって女神ウェヌスの子孫であり、また母方はアンクス・マルキウス(王政ローマ第4代の王)に連なる家柄であると述べている。

クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(6) シーザー:ノート 1

2011-10-01 09:17:29 | Weblog
   クレオパトラ7世 CleopatraⅦ(6) シーザー:ノート 1

ジュリアス・シーザー。Gaius Julius Caesar,ラテン語ではガイウス・ユリウス・カエサル。前100年~前44年3月15日。
ユリウス氏族カエサル家はローマの名門中の名門であり貴族(パトリキ)であった。
シーザーの父の名も同名で、父は後にアジア属州総監を勤めている。母はアウレリアといい、祖先には幾人もの執政官を輩出している。
父の死後、前83年、シーザーは神祇官(しんぎかん)を務めるがこの職務はパトリキ(貴族)のみに開放されており、パトリキと結婚する必要があったので、騎士階級の娘であるコッスティアと別れてコルネリウス氏族(古代ローマの有名氏族)のルキウス・コルネリウス・キンナの娘コルネリアと結婚した。(キンナ=民主派 マリウスの死後、前86・85・84年執政官に就任。スッラ討伐軍の編成の途中で事故死。)
前90年代から前80年代、ローマは戦乱に明け暮れていた。当時、元老院を中心とした寡頭政治を支持する閥族派(オプティマテス)と、民衆を基盤とする市民会の選挙政治を中心とする民主派(ポプラレス)の2つの政治勢力が対立していた。各派の中心人物は閥族派がルキウス・コルネリウス・スッラ、民主派がガイウス・マリウスであった。シーザーの叔母ユリアはマリウス家に嫁いでいたため、シーザーは民主派と目されていた。
両派は互いに相手を弾圧してローマの覇権を争っていた。マリウスが前86年に歿してから前83年にはスッラがローマに進軍し、民衆派を制圧して終身独裁官となり民主派を徹底して粛正した。シーザーも民衆派のキンナの婿であるので処刑のリストに載っていたが、政治活動をしたことのない18歳の若者であったことから、スッラの支持者や、ウェスタの坐女からも助命嘆願が相次ぎ、スッラもしかたなく同意した。しかし、代わりにキンナの娘、コルネリアとの離婚を命じたが、シーザーはそれを拒否して前81年に小アジア・アカエアへ亡命した。
亡命したシーザーはシキリア属州(イタリア共和国シチリア島・シシリー島)駐屯軍に籍を置きビテュニア遠征(小アジアの北西・ボスボラス海峡・黒海に面している・古代ビテュニア共和国)に派遣されてビテュニア王ニコメデス4世のもとに長期間 滞在したが、この時、王とカエサルは男色関係にあったのではないかという噂が流れたが、この噂は生涯ついてまわり、「ビュテュニアの女王」などと政敵からの攻撃材料にされたという。

いよいよ秋になりましたが、皆様 ご機嫌いかがでしょうか。
クレオパトラがシーザーに会うまえにはシーザーのことを勉強したとのことです。
それで、しばらくシーザー:ノートを開くことにいたしました。アシカラズ
流星文字もよろしく