歴史は女によって創られる 2
平安朝の政治権力を掌握したのも女性であった。藤原兼次の次女である詮子(せんし)は円融天皇の女御であり一条天皇の生母であるが、次の関白の選任には自分の弟である道長をと強くせまったのである。また定子の方は兄 伊周をと訴えたのであるが、正式に内覧の宣旨が下ったのは道長であった。道長は右大臣に就任して内大臣である伊周を超えて、氏長者(うじちょうじゃ)となるが、これにおさまらない伊周側と道長側との死者を出す乱闘騒ぎや、陰陽師による道長の呪詛事件などが起こったりした。そして、この叔父と甥の争いは伊周側の思い違いと勇み足で決着がつくことになる。
それは伊周が故太政大臣藤原為光の三女で美人であったという寝殿の君のもとに通っていたが、その頃、花山院(元花山天皇)は四女のほうに通っていたのである。伊周は自分の女に手を出したと勘違いして弟の隆家をけしかけて花山院に矢を射かけたのである。その矢は花山院の袖を射抜いた。これにびっくり仰天、激怒した花山院は従者を伊周側にさしむけて、またもや大乱闘になってしまった。そのことと、病床の詮子の床下から呪詛の人形が出てきたり、呪詛の会をしているとの噂が流れて、伊周の仕業とされて遂に大宰府の大宰権師(だざいごんのそち)として左遷された。この頃に定子は入内7年目にして懐妊したのである。
やっぱり歴史は女によって創られる。うんうん! なるほど。それでは皆様、よいお年を 正月は流形文字で書き初めを!
平安朝の政治権力を掌握したのも女性であった。藤原兼次の次女である詮子(せんし)は円融天皇の女御であり一条天皇の生母であるが、次の関白の選任には自分の弟である道長をと強くせまったのである。また定子の方は兄 伊周をと訴えたのであるが、正式に内覧の宣旨が下ったのは道長であった。道長は右大臣に就任して内大臣である伊周を超えて、氏長者(うじちょうじゃ)となるが、これにおさまらない伊周側と道長側との死者を出す乱闘騒ぎや、陰陽師による道長の呪詛事件などが起こったりした。そして、この叔父と甥の争いは伊周側の思い違いと勇み足で決着がつくことになる。
それは伊周が故太政大臣藤原為光の三女で美人であったという寝殿の君のもとに通っていたが、その頃、花山院(元花山天皇)は四女のほうに通っていたのである。伊周は自分の女に手を出したと勘違いして弟の隆家をけしかけて花山院に矢を射かけたのである。その矢は花山院の袖を射抜いた。これにびっくり仰天、激怒した花山院は従者を伊周側にさしむけて、またもや大乱闘になってしまった。そのことと、病床の詮子の床下から呪詛の人形が出てきたり、呪詛の会をしているとの噂が流れて、伊周の仕業とされて遂に大宰府の大宰権師(だざいごんのそち)として左遷された。この頃に定子は入内7年目にして懐妊したのである。
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