教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑩ 17世紀の敬虔主義運動とその流れにおける新しい歌 <2>

2005-04-29 16:00:25 | 講義
2. モラヴィア派に至る流れ

◆モラビア兄弟団には注目すべき二つの流れがある。一つは、1457年に組織されたヤン・フスの流れをくむボヘミヤ兄弟団(ユナタス・フラトゥルム)と、もう一つは、ドイツ敬虔主義運動の流れで、その中心はツィツェンドルフである。この二つの流れがヘルンフートにおいて合流し、復興モラヴィア兄弟団となった。
◆モラヴィア兄弟団の運動として呼ばれる特異なプロテスタントの宗教運動、その五百年のいばらの歴史の中には三本の大きな柱がある。

〔宗教改革前史における預言者的傾向〕

(1)ション・ウィクリフ(英国)
◆1330年頃イギリスに生まれる。オックスフォード大学の教授であったウィクリフは、ことに教皇制度を批判し、教会と教職の腐敗について攻撃し、霊的権威が失われていることについて厳しく追求した。1413年のローマ会議で、ウィクリフの教説は誤謬と不正確として異端とされ、聖ペテロ教会の前で、彼の著書すべてが焼却された。ウィクリフは新約聖書の英語版を翻訳した。彼の遺体は1427年、聖別された墓地から掘り出されて他に移された。

(2)ヤン・フス(プラハの殉教者1374 ~1415/写真はヤン・フス像)
◆ヤン・フスはチェコにあるプラハ大学の教授として働いているときに、ウィクリフの著作がプラハに持ち込まれた。それはフスの生涯を決定づけるものとなった。1412年、フスは免罪符の販売に対して公に反対の立場を表明する。これは、プラハの人々の教会や教皇に対するデモンストレーションを引き起こした。この混乱のなかフスはプラハを出て地方に下り、1414年までそこで説教を行った。フスが人々に向かって説いた内容は、「民はイエス=キリストの教えに背く君主に従う義務はなく、信者はキリストの教えに背くのであれば教皇にさえも従う義務はない」というものであった。また、フスは教会内における聖書の権威を力説し、説教を礼拝における重要な位置に引き上げた。1415年、コンスタンツ総会議で彼は裁判にかけられ、彼の見解を説明する機会も与えられないまま火刑を宣告され、処刑された。
◆1419年から17年間、フス戦争が続いた。こうした時代に1457年3月1日「ユニタス・フラトゥラム」、つまりひとつの宗教運動組織ができた。これはルターの宗教改革よりも60年も前に、世界最初のプロテスタント教会ができたことを物語っている。この運動が異色の信仰復興運動として最高潮に達するのは、18世紀に入ってからのことで、ヘルンフートを中心としたツィンツェンドルフの人とその事業による。

(3)ボヘミヤ兄弟団(ユニタス・プラトゥラム) ー (4) ドイツ敬虔主義運動

(5)モラヴィア兄弟団
◆ヘルンフートという共同体を形成 (脚注1)・・(1727年8月13日、この共同体はペンテコステ経験によって始まった。)( 脚注2)

〔ヘルンフートの生活の特徴〕

①<クワイア>という群組織(年齢別、性別、既婚、未婚の区別)によるキリスト教育の理想的形態によって様々な伝道活動を可能とした。
②賛美歌集を用いず、すべて暗唱して歌った。
③祈祷生活は、24人の兄弟と24人の姉妹によって、一人一時間を受け持ち、とりなしの連鎖祈祷を始めた。この祈りは実に百年近くも絶え間なく、続けられた。
④ヘルンフートの生活の一日は、夜明けの礼拝から始まり、賛美礼拝でその日が閉じられた。聖日にはいろいろな集会(早天祈祷会、種々の礼拝等)が持たれた。
⑤訓練された生活、労働とかつ祈り深い人々の集団であった。夜の11時から朝の4時までは睡眠の時間として残されたが、この時間さえ、夜警の人々は讃美歌を歌いながら時を告げ、とりなしの連鎖祈祷をする者たちは、受け持ちの時間にひざまずいて祈り続けた。
⑥多くの信徒伝道者による海外伝道がなされた。1732年、開拓宣教師を派遣するために教会は賛美礼拝による送別会を開いた。そして百曲以上の賛美歌が歌われた。そのあと、ツィンツェンドルフが按手し、祝福して旅立たせた。
⑦ツィンツェンドルフは貴族出身の才能に恵まれた強力な指導者であったため、一生涯反対者につきまとわれた。
⑧ツィンツェンドルフは詩才に恵まれ、二千以上の賛美歌を残したと言われている。ヘルンフートの賛美歌は1735年に出版されるが、これらの歌が後に追放されてアメリカへ移住する人々によって船の中で歌われ、その賛美歌ははからずもそこに乗り合わせていたウェスレー兄弟に大きな感化を与えることとなった。

◆この共同体はだいたい100人を単位として、その中から指導者を選ぶ。未婚の男女はそれぞれ共同生活を行っていた。基本的には自給自活の生活をし、薬や書籍の行商をし、さらに貿易をするといったライフスタイルであった。一日に三回集まって礼拝をし、日中は農作業や、手工業、印刷用の紙を作り、印刷し、出版する作業をして働いていた。


(脚注1)
◆ヘルンフートのヘルンとはドイツ語で主イエス・キリストというときの「主」という言葉である。一般には男の人を尊敬して呼ぶ、「様」とか「殿」とか「ご主人様」とか「殿下」とかいう類の名前である。フートは人の集まり、群れ、共同体を指す。従って、主イエス・キリストを信じる人たちの群れということになる。

(脚注2)
◆1722年、ツィンツェンドルフの領地にモラヴィアから逃れてきた兄弟団の群がヘルンフートと呼ばれる共同体を形成した。各地で迫害されていた敬虔派やアナバプテストもここに難を逃れてきたが、互いに自分の立場を主張し合うことが多く、問題が絶えなかった。1727年8月13日の聖餐式に一同は新しい聖霊の力を体験し、その結果として財産共同体が出発したのである。つまり、救い主への信仰と兄弟への愛が持ち物の共有という形で表されたのである。多くの差異にもかかわらず聖霊による一致に導かれたことは、共同体が理想主義的な人間の決心のみによって成立するものではないことを示している。