昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね

2015-11-18 04:18:22 | 読書と映画
素晴らしい本に出会った。この前書きを筆者はこう言っている。
私は公立中学校に勤める一教師です。未来を担う中学生に日本の良さや日本に生まれた喜びを知ってもらおうと、道徳の授業で立派な日本人や日本の国柄の素晴らしさを教材化してきました。
今、文部科学省が「道徳の教科化」を進めております。その一助になればと、私の授業をご紹介します。各項目はすべて授業実践報告です。生徒の感想は部分抜粋ですが、誤字やひらがなを漢字に直した程度です。つたない表現ながらも中学生らしい素直で純粋な心が伝わります。合わせて生徒たちの道徳的変容も味わってください。




「一隅を照らした人」―今の日本人は知らないのに、外国の人に感謝され、尊敬されている・・・・・。
こんな人のオンパレードなのです。読めば、日本人の素晴らしさを再認識すると同時に、何故これらが語り続けられないのか、知らない日本人が多いのか(私も含めてですが)愕然とします。
これらの教育を実際に受けた中学生の反応も素晴らしい。

最初に掲載されている
「戦場の知事 島田叡~沖縄の島守」役割と責任 島田叡
のさわりだけ、ご紹介しましょう。
大東亜戦争末期、沖縄県知事として住民とともに奮闘した島田叡を散り上げ、「役割と責任」を考えさせている。
前知事が逃げてしまい、後任を引き受ける人物がいなかったため、昭和20年1月、神戸出身で当時大阪府に勤務していた島田に、「沖縄県知事になってほしい」との要請が来た。
間もなくアメリカの上陸が確実だったため、生きて帰ることは出来ない任務だったが、島田は即答で引き受けた。「誰かがどうしても行かなならんとなれば、断るわけにはいかん。死ぬのは恐いが、卑怯者といわれるのはもっと恐い」。そして拳銃と青酸カリを持って赴任した。二度と生きては帰らぬ決意を秘めての赴任だった。

島田知事は軍との協力に努め、遅れていた県民の疎開を推進し、その結果、約16万人の県民の命が救われたという。
アメリカ軍が上陸し、追い詰められ、「知事さんは県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて出られてもよいのではありませんか」と提案された時、島田知事は「一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね。沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう」とその責任感は全く衰えなかった。最期は、職員たちに別れを告げ、一人で壕に向かったという。
わずか5ヶ月足らずの在任だったが、「沖縄の島守」として多くの県民に慕われ、今も慰霊碑を訪れる人が絶えることはない。
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